埴土の郷 入田に潜にゅうだ(にゅうた:入田)‼︎
はい。今回は入田町に潜入しました‼︎
入田町はネタの宝庫であります。一つ一つの旧跡で数回投稿できるネタはたくさんありますが、ここはawa-otoko'sblog‼︎ 小出しせずに一挙公開といきたいと思います‼︎
まず入田町の説明。
「入田村史」によれば景行天皇の代の121年、阿波国など5ヵ国に分置された蝦夷の俘囚が、この地を「ニウタ」と呼んだことが地名の始まりである。アイヌ語で「ニウタ」は周囲を山で囲まれた田園を意味する。入田村は阿波国で最も早く拓けた場所で、矢野から内の御田にかけて存在する古墳群はこれを物語っている。入田町は大化の改新後には名方郡埴土郷の波爾井の里といわれた。「入田町」の地名はこれから転化したものといわれている。
最初は天石門別八倉比賣神社から。
駆け足で進みますよ‼︎ www
天石門別八倉比賣神社は入田村字矢野にあり。寛保神名帳に正一位杉尾大明神とあり。境内は五千三百七十三坪ありて境内社に二神あり。一は稲荷社にして倉稲魂命を祀り、一は道祖神にして猿田彦神社を祀る。
昔は国府町矢野も入田村内だったんですね。
ここで注目すべきは… 境内の猿田彦神社!! 八倉比賣神社については過去記事見てね。
あまり知られていませんが天石門別八倉比賣神社の境内社には猿田彦神社があるんです。
(天石門別八倉比賣神社境内の猿田彦祠)
奥之院に向かう石段沿いにある祠が猿田彦(祠)神社です。これ結構重要。憶えておいて下さい。
次に進みます。
入田城(府中殿遺跡)って知ってます?
入田村阿津真、笠木周辺に府中殿町という集落あり。其の昔は一の小城ありてその城下なるを以て府中殿町と附したるものならん。その城主は横田内勝太夫常宗ならんか。
横田内勝太夫常宗にして一家四人あり。粟飯原氏なり。当家は上家の別家 粟飯原弾正左衛門尉栓弼なり。三好郡賀茂村居城の時の姓を横田と改む。彼の地に横田の神社あり。無相天といふ。
でました。粟飯原氏ですよ。。。
しかも延喜式内社 三加茂の横田神社に関係が大アリですと。粟飯原氏が三加茂にも関係していることも改めて調査のメスを入れなければなりませんね。(次々出てきて追いつきません〜。)
はい。次、一宮神社!!
一宮神社の位置は入田村の部内なりき。元一宮神社は鬼籠野にありしを小笠原長宗、後醍醐天皇に仕えて大宮司たりし時、一宮に移せり。今、小杉博士(小杉椙邨)の説を挙げて一宮神社の神像を記さん。阿波国名東郡一宮村なる一宮神社は祭神、本国を経営し給いし大宜都比売命の神にして、大阿波姫神とも大阿波神とも称し奉ること御神典及び古書ともに明瞭を掲げ、伊豫国三島神社に縁由あり。伊古奈姫ノ命て言ふと傳へたり。
然るに本社に現存する祭神の御像をこまかに拝體せしことあり。大和国 多ノ神社に傳ふる木像の神像及び、和泉国 穴師神社に傳ふる同じ神躰など皆伯仲すべき頃をひにして、もとは着色ありしが大かた剥落に帰すれども、そこに今も色合いの存ずるは言ふに及ばず、御くしのあたりよりすべての御かたいた、殊勝に古色を呈したり。されど其多神社、穴師神社の神躰は皆笠像にますを、ひとりこの一宮神像は胡床にかかり給ひて、上襲のごときものをうちかけ、御腰ひもを結び給へるは未だ他の神躰には古きものに見なれざるなり。
伊豫三島神社に所縁があるらしいですね。
これまでに紹介した粟飯原家の伝承と相違いない内容です。ただし一宮社の御神躰は比較的新しい年代の作と鑑定されたみたいです。一宮神社神官の笠原氏所蔵の系図が◯◯にあるくらいですから、本来の御神体も何処かに移動されているのかもしれません。
ちなみに一宮城鎮守神 五柱の中に猿田彦が含まれていることを忘れてはいけません‼︎
次、天神社。
大字入田村天ノ原に祀る。祭神は天ノ目一個神にしてその由緒不詳なるも麻能等比古神社に比定。趣味ある資料ことを信ず。
今に当地を天満と謂ふは何か関係があるらしし。
天ノ原(あまのはら)の地名は天満(てんま)と大原の合併名。天満は天満の南の山あいを鍛冶屋谷、古代の鍛冶神「天真図一神(あめのまのとつのかみ)またの名、麻能登比古神(まのとひこのかみ)を祀る古祠があり、「天」と「麻」より天満に転化したと伝わるとんでもなく凄い地名なのです‼︎
麻能等比古神社は猿田彦命を祀り無格社なれども、其由緒正しきものにや。下浦村の神職山口某の調査によれば、猿田彦神社の本社にして、官幣大社の社格ありとなし、先年社格上進の具申をなさんとせしが、不幸にして盗難に遭ひ、其資料は多く散失せりと雖も、今猶残部を保存す言ふ。神像は大古のものにして、其材料は木か、金か石か、土かは鑑定に苦む程なれども圖の如き神像にして、底面に麻能神社小工 小五郎作とあり。
猿田彦神社の本社。。。だって。
御神体は弥彦明神、即ち「大麻彦神社」と同じ物でしょう。そう考えれば富田鎮座の大麻彦神社に安置されているはず。(過去記事参照)
入田村をはじめ一宮村の範囲では「猿田彦」という神がしっかり定着されて祭祀伝承されていますが、神山町に入ると全く神名が耳にしません。猿田彦と大宜都比売命の領域は明確に分かれていることになります。ただし猿田彦は塞の神という側面も持ち合わせており、神山町で「オフナトさん: 蛭の神」として深くまで伝播しています。ちょっとこの部分が気になるところではあります。(なぜ猿田彦ではいけないのか?)
はい。次、春日神社。
祭神は天ノ兒屋根命、武甕槌命、武経主命を祀る。徳島市春日神社の舊跡なり。この祭神、中古の領主を按ずるに、或は藤原氏の一族の領したるものならん乎。
神山町の鬼籠野でも天ノ兒屋根命の鬼退治の伝承が残ります。同系氏族かもしれないですね。
そして、こちら春日神社は徳島市内の阿波総鎮守 春日神社として蜂須賀家政こと蓬庵公に移動させられました。建治寺と一緒に。(これも気になります)
はい。次。笠木神社。
其神號の由来に面白きものあり。上流地方の八幡社の鳥居が大水の時流れ来り、其笠が現今ある古宮に留まりしを以て、村民は、これ神が留まりませる処なりとして、其所に宮(祠)を立て祀りしかと、後現在の地に還し、舊の所を古宮と言ひて崇敬せりなりとかや。
上流地方の八幡社の鳥居とは神山町上分鎮座の宇佐八幡のことで間違いないでしょう。
鳥居の笠木が留まって付いた地名が笠木ってなんて安易な…
海見の辰ヶ山も当時から入田村内であったと思われ、辰ヶ山の祠の祭神も雲早山の神社から、宇佐八幡も雲早山からとルーツは同じです。こちらは粟飯原氏が関係しているのではないかと考えております。
(辰ヶ山山頂の祠とモニュメント)
徳島市にある八坂神社(瀧の祇園)は本来笠木神社内の八坂神社尚ほ富田八幡宮は仝しく本村の廣瀬にありたり仝市にある弥吉明神は本村矢那谷ノ明神跡より還さる。弥吉明神とは一宮城落城のとき弥吉なる人背負ひ逃れしにより此名あらはる。
要するに徳島と入田に神佛に関係深きは蓬庵公 瀧の薬師を徳島に迎へてより続々迎えられしものなりと。
笠木神社の境内社である八坂祠は徳島市春日神社上の八坂神社として移遷されております。すごいですねぇ。
その他、入田村の興味がわく地名をご紹介。
「月ノ宮(つきのみや)」
月谷と西の宮谷を合して「月ノ宮」と呼ぶ。
「内の御田(うちのみた)」
収穫したお米が良質で佐那河内の米と共に徳島藩の御料米として指定されたことから。
「海先(かいさき)」
海見と先代の合併名。「海見」(かいみ)」は辰ヶ山から海が見えたことから。
はい。急ぎ足で駆け抜けました。(笑)
ここ入田村の範囲には、背景を知っていれば楽しめる旧跡がいっぱいあります。個人的には現在の入田町周辺の伝承をかき集めて精査すれば、猿田彦の秘密、大麻比古神社が阿波一宮になった経緯が解けるのではないかと考えています。(あ、今回は絡めてないけど天石門別豊玉姫もね。)
主に入田に鎮座する神社関係から抽出した情報ですから、次回(があるとすれば)は寺も含めて紹介したら面白いかも。(しれない。いや、面白いですが… )
まだまだ昔の面影が残る埴土郷入田村。梅雨が明けたらぶらぶら散策など如何でしょうか。(間違いなく暑いやろうけどな。。。)