船戸の盡(はて)〜(一宮町 船盡神社)
一宮祠の東百八十歩 船渡神あり 或は以て船盡と為す
是なり三代実録貞観十四年十一月二十九日従五位を授く、旧事記云ふ島之石楠船神又の名は天島船神、大宜都比売命の兄弟也
船戸の神、即ち「岐(き)ノ神」についての解釈は難しく、時間的・空間的に拡散していくなかで信仰も広がりをみせ様々な神が習合しているため、これを簡略化して全てを同一と考えてはいけません。
・境界を示し、邪悪の進入を防ぐ神「来名戸祖神(くなとのさへのかみ)」
・川の舟航可能最上限地帯に祀られる「船戸神(天鳥船神)」
・薄い平石で「おかまご」を作り、丸い石を御神体とした蛭神「おふなたさん」
一宮の船盡宮については全ての条件を満たした背景を持ち合わせますが、特に川の舟航可能最上限地帯に祀られる船戸神の立地条件と「おふなたさん」の伝承が強い古社でございます。
一宮の船盡宮は神山町所在の七六七基ある岐神(ふなとのかみ)の元宮であり、袋小路状になった鮎喰川上流の各村(広野、阿川、鬼籠野、神領、左右内、下分、上分)に「船戸の神(おふなたさん)」が伝播したのであります。
(※ 大日寺 西の船盡比賣神社と歯の辻神社は船盡宮の遥拝所。船盡神社は三社あります。)
鎮座地は古代の岐
鮎喰川の船着場でありながら高天原と葦原中つ国を分ける関所として、まさしく塞として機能していたということです。船盡(ふなはて)、船渡(ふなと)・船戸(ふなと)と呼ばれる所以です。
猿田彦大神という賽の神
神代の昔、伊邪那美尊が亡くなり黄泉国に伊邪那岐尊が会いに行ったが懐かしい昔の妻ではなく黄泉醜女だった。
伊邪那岐尊は驚いて逃げたが、追ってくる黄泉醜女に杖を投げた。その杖が「久那斗神(くなとのかみ)」になり助かったという。
伊邪那岐尊が逃げきるには一宮町・入田町まで出てこなければならず、神山町から入田町の範囲で「久那斗神」の痕跡が残されていたのではないでしょうか。それが「岐ノ神」の御神威の一つである道祖神としての側面と習合したと考えられます。
「おふなたさん」は子沢山の蛭の神
おふなたさんは蛭神。「水蛭子(ひるこ)」出生からの因縁が残されていると考えてよいでしょう。
平安京での災禍の原因が遠く離れた阿波神の怒りと考える朝廷が言わずもがな阿波神の重要性を指しております。
当時に平安京に祭祀されていた岐ノ神は、
原初「阿波 船盡宮の神」であったということは間違いないでしょう。
その阿波神とは
阿波 国魂神 大宜都比売命の兄弟神
「島之石楠船神」 又の名を
「天島船神」…
ここまできたらさらに話が広がるので今回はここまで。
気が向いたら続くかも(しれない… 笑 )