この氣、何の氣? 屋嶋城(やしまのき): 序章
ここ最近讃岐の情報が多くなり、そろそろ「sanuki-otoko'sblog」にブログ名を変えたら?と言われそうな「awa-otoko」です。
今回も気にせず讃岐国「屋嶋城」にスポットを当てて進めたいと思います。
屋嶋城(やしまのき)とは?
「日本書紀」天智天皇六(667)年11月の条日本書紀「倭国に高安城、讃吉國山田郡に屋嶋城、対馬國に金田城を築く」という記述があり、その年に国の守りを固めた中大兄皇子は大津を遷都して翌年の正月に天智天皇として即位します。白村江の戦いに破れた中大兄皇子が唐・新羅の連合軍の侵攻に備えて築かせた古代山城の一つが讃岐国 屋島に存在した「屋嶋城」なのです。
屋島は標高約300㍍。台形のかたちをしたメサ呼ばれる溶岩台地。山頂部には平地が広がり南北の嶺に分かれています。古では海に囲まれた大きな島でした。
近年、古の記述しか残されていなかった屋嶋城は一部の石塁が確認されていたものの、その全貌が明らかになっていない謎の城とされていました。しかし平成10年に城門地区から石積みの一部が発見。それを皮切りに平成14年、ついに城門を発見し屋嶋城が明らかになりつつあります。
城門遺構は全長45メートル・高さ6メートルの石塁が立ち、城門は幅5.4メートル・奥行10メートル・入口の高さは2.5メートルの段差があります。
暗渠と排水口も設置され、城門の南側は内托式の城壁で高さ6メートル、城門の北側は夾築式の城壁になります。北端は断崖に接続された長さ10メートル・高さ5メートル・幅10メートルの石積みの規模を誇るものです。
屋島山上からは山下の様子が明確に把握でき、懸門(けんもん)構造の城門の存在も判明したことにより、造築にあたっては百済からの亡命者が関与したことが想定できるとのことです。近年稀にみる大発見ですね!
屋嶋城は瀬戸内海沿岸の安否を確認し、異常時には狼煙で倭の高安城へ連絡するための古代山城として築城されたものと考えます。
もちろんここでは阿波の倭城(わき)町の大滝山を高安城跡と想定しての説明です。
阿波脇町の大滝山からみて讃岐屋島はほぼ真北に位置し、大滝山からは屋島を一望することができます。
同じように屋島からも大滝山を確認することができました。先に記しているように古代屋島は海に囲まれた大きな島。さらに頂上部がメサ地勢で平らなことから大軍の兵を待機・収容することが可能でした。戦に際して堅固な要塞にもなり、攻めて良し、守っても良しの倭国に向けて攻撃の拠点になる要地だったのです。
屋島に屋嶋城が築かれた理由は、倭城が南に位置する大滝山に存在したからこそ。なのです!
とりあえずこれだけは解っておいて下さい。
その他に屋嶋城跡に鑑真が入山して屋島寺を開基していますが、どうも屋嶋城が築かれた理由にはもう一つ秘密がありそうなのです。
狸・狐 …
次回、ここらへんをご紹介できればと思います。
To be continued …