倭迹迹日百襲姫命は第二の大宜都比売命であり卑弥呼であったのか?
阿波古代史ブログの重鎮 ぐーたらさんがやっと重い腰を上げて大宜都比売命について書きだしました。
ぐーたら気延日記(重箱の隅):http://goutara.blogspot.jp/?m=1
大宜都比売命の解明はぐーたらさんに任せて、こちらはいろいろ手を広げていきます。
大宜都比売命ノ御子神葦稲葉ノ神ノ㘴ス地ハ板野郡ト云フ。残地ニ古名残リテ阿波郡ト云フ…
では「阿波郡・阿波町(現在の阿波市)」の名義は何から名付けられたのか???
当然同じ理由からのものでしょうが、なぜ粟国魂神を祀る名方両郡以外に「アワ」の語韻が含まれた地名が存在するのでしょうか???
これを踏まえて一つの仮想をたててみました。
粟国魂神こと大宜都比売命が粟を植え国を営んだのが粟国です。
それを理想として新たに設営された地域が「阿波郡(阿波町)」ではなかったのか…
第二の粟国に「第二の大宜都比売命」が存在していたとしたら…
倭迹迹日百襲姫命は本来箸墓古墳に埋葬されていると言われておりますが、阿波では一部の方によって阿波の箸供養に殯宮が存在すると考えられています。
倭迹迹日百襲姫命は国府町の黒田で幼少期を過ごし、箸供養からほど近い奈良坂より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動してその類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されているのです。
まず阿讃山脈を越えて留まった地域が水主神社付近と考えます。これは過去記事を参照して頂ければと思います。
水主神社から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある鱸懸神社。
鎮座地は水主神社の旧宮跡だったと伝わり、「海の守護神につき南海の旅行者は必ず拝謁する。俗名を首途神(かどでのかみ)という」とあります。
鱸懸神社を少し北上すれば袖掛神社。
倭迹迹日百襲姫命が安堵の浦に着いたとき、暑かったので着物の袖を引きちぎって枝に掛けたと伝わる場所です。個人的にはこの場所から瀬戸内海に出て小豆島や伊予三島など移動していた岐(港)の拠点であったと考えます。
そして西へ移動して高松市内に鎮座する船山神社。
船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わります。当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所です。
野良根公さんのブログ「空と風」から「船岡山」関連記事のリンクを(勝手に!)貼らせて貰います。
野良根公さんの考察・考証からもわかるように倭迹迹日百襲姫命から他の神も、阿波国に大きな繋がりがあることがわかりますね。(どれを見てもスキがない考察で参考になります。)
倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)(別名 吉備津彦命(きびつひこのみこと))・猿田彦大神・天隠山命(あめのかぐやまのみこと)・天五田根命(あめのいたねのみこと)を祭神とし、これを「田村大神」と総称します。
また、神社付近には倭迹迹日百襲姫命の旧跡が残されております。
花泉(はなのゐ):境内西側、百襲姫命が御手を洗った泉。
袂井(たもとゐ):境内東側、百襲姫命が熱病に罹った時、侍女が袂を浸して水を奉った井戸。
休石:神社東方三丁、百襲姫命、休息の石。
天降:神社南方二十丁、旧御旅所で、田村大神が示顕された場所。
最後に。
阿波の一宮神社の社家、大宮司家を世襲した一宮長宗の流れを汲む一宮氏(分家)が水主神社の宮司として祭祀を行っていた時期がありました。この部分についても大宜都比売命と倭迹迹日百襲姫命に何らかの繋がりがあったのではなかったのかと考えております。
讃岐では倭迹迹日百襲姫命、阿波では天石門別豊玉比賣命(壹与)だったなら… なんて考えればとても面白いんですけどねぇ。。。