隠された羽津明神と飯裹大明神の秘密
三好町昼間の天椅立神社は歴史が古く昼間全体の氏神であります。阿波志によれば、もともとは羽津明神という名で呼ばれた延喜式内社と記録されております。
貞治三年(1368)、雲辺寺の鰐口の銘には「阿波国田井荘、羽津宮… 」とあり、南北朝時代には羽津宮と呼ばれていたこともわかります。
(立法寺の基礎石)
さらに慶長十一年(1606)の棟札には僧、禰宜十人、政所外百二名の名を連ねて「庄内安穏」と記録されていたようです。宮内と呼ばれる地域差全体が境内とされ現在地南100㍍の水田の中に大きな二つの鳥居の沓石が並んでいたとも伝承されています。
(昔から地域的に吉野川氾濫に悩まされていたようで、大水が出た際は周囲が海のようになっていたようです。つまり大水が引いた後は豊かな土壌が約束されたということです。)
以上のことから田井の荘 羽津宮は如何に隆盛を誇っていたか判断できるでしょう。
羽津明神は明治期に当社神主、近藤忠直により式内社であると提唱され、明治三年に正式に天椅立神社として定められ現在に至るのであります。
さて、羽津明神こと天椅立神社の由緒、創建は不明。祭神は伊奘諾尊と伊弉冉尊の二柱。御祭神が伊弉冉尊と伊弉冉尊。国生みの神ですね。とても格式高い神様で結構なことなんですが、私はいつの時代かわかりませんが、祭神がすり替われっていると考えるのです。その理由は(知っている人も多いと思いますが)こちら。
対岸の井川町に伊弉冉尊を祀る神社があり、同日に祭りが行われる。井川町鎮座の神社が姉神なので、神輿とだんじりを早くだす習慣が戦前まで存在していた。
はい。井川町鎮座の神社とは、飯裹(いつつみ)神社のことでございます。飯裹神社の由緒を確認下さいませ。
井川の野津後の山上に飯裹神社は鎮座する。
神社の由緒によれば、享禄四年(1531)正月、高島というところに桑の大樹があり、毎晩灯明をあげたように光って見えた。土地の人が不思議に思って尋ねていくと、握り飯五個を包んだものが大樹の下にあった。これが光っているのかと持ち帰り、現在の神社の場所に祀って「飯包大明神」と呼ばれるようになったと伝えられる。
そもそも飯裹とは、【包み飯・裹み飯】から引用されたもの。
【包み飯・裹み飯】
強飯こわめしを木の葉などに包んだもの。古代、儀式などの際、下級の参加者に給した。
社名からも判断できるように飯・稲が見え隠れしているように感じます。しかも桑というキーワードも隠されております。そして極めつけは祭神。
飯裹神社の祭神は、「稲倉魂神」、「保食神」、「埴山姫命」、「大己貴命」、「少彦名命」。(ぜんぜん伊弉冉尊じゃねェ〜〜(笑))
もろに「大宜都比売命」なんですねぇ。
そして飯裹神社にも天椅立神社と関連する伝承が残されています。
昼間村のひょうたん島に毎年虫がついて困っていた。そんな時占い師がきていうには、もともと天椅立神社の祭神と飯裹神社の祭神埴山姫命とは仲睦まじい神である。それを昼間の神様と野津後の神様を日を違えて祭るので神様が怒っている。以後、日を同じにして御幸の時間も同じにした方が良いと告げた。村人はこれに従い、その後は飯裹神社の神輿がでれば、天椅立神社の神輿も遅れてはいけないと出すようにした。それ以来昼間あたりの虫害はなくなったそうである。
天椅立神社の伝承と飯裹神社の伝承を照合してみれば多少ですが相違がみられます。
天椅立神社は男神、飯裹神社の祭神は埴山姫とされています。飯裹大明神は羽津明神の姉神ではなかったかのか?でもそうであれば天椅立神社本来の羽津明神とは何者なのか???
積羽八重事代主神の「積羽(つみは)」が逆転して「羽津(はつ)」に。
またぐーたらさんの後追いになりますが、「天津羽羽神」の「(天)津羽(つは)(羽)」が逆転して「羽津(はつ」に転訛したのだと考えます。天津羽羽神とは大宜都比売命と同神とされている神。
という訳でここからさらに私の想定に入ります。
古来より三好郡を治めていた小笠原源氏。小笠原氏が神山 神領の粟国造家を(滅ぼしたか穏やかに介入したかは不明であるが)神官家に入ったことは既出であります。
当然ながら、これを機会に神山と三好郡との行き来は盛んになって祭祀も移動されたはずなのです。
この時に大宜都比売命と積羽八重事代主神の祭祀を小笠原氏と粟飯原氏(千葉氏)が三好郡に分祀したとしたら???
その他にも神領から伊予三島への行幸の際に古来より小笠原氏が協力していた可能性も考えられ… (神山と三好(伊予三島)の行き来の際に、ちょうど中間に位置する麻植郡忌部が嫌悪感を示し、一宮大明神氏子と仲違いしたことも考えられたり… )
また、これらの一族、祭祀の移動裏付けるように粟飯原氏が三好郡加茂村に移動し、横田氏に改名して祖神を祭祀したのが「横田神社」という記録もございます。
と、いう訳で、
天椅立神社こと羽津明神とは「積羽八重事代主神」。
阿波が粟たる所以であるこの伝承、
味鉏高日子根命は阿波女神ノ御夫にて粟国造粟直凡等之父神也。名東・名西・板野・阿波・勝浦・那賀・海部等七郡本来の人種は皆、此神の氏子なれば何れの人も詣来りて此神石を拝すべし。
こちらに麻植郡が含まれず美馬(三好)郡が含まれていないのは羽津明神と飯裹大明神の秘密が解かれていなかったからかもしれませんね。
あ、最後に。
飯裹大明神が羽津明神の姉とされたのは飯裹大明神から分祀された可能性があること。
羽津明神、飯裹大明神に夫婦として積羽八重事代主神・大宜都比売命が二柱として祭祀されていた可能性も大です。言わずもがな二柱が伊奘諾尊・伊弉冉尊に置き換えられたことも書いておきますね。
最後の最後。。。
飯裹大明神、倭大國魂神社の神紋と同じだぜ。これで全部繋がるのではないかい?!