小屋の内裏と草なぎの剣(木屋平村 正八幡神社、新八幡神社)
木屋平村 森遠名に鎮座す正八幡(森遠八幡)神社は應神天皇、仁徳天皇を祀る。祠中偃月刀及び古冑を蔵し、阿部宗任の所持せし由来を傳ふ、又金昌描く處の歌仙圖及び大般若経を蔵すと。
正八幡神社はもともと森遠城址であり、平宗本此に據り、松家越前守と称し或は大浦と称す、また小松内府の裔たりと傳ふ、正平中南朝に奉侍す、天正中澁谷安太夫に従つて賊を丹生山に討ち功あり、五十石を賜ひ世々里正となる、全村松家家は實に其後裔たりと傳へ古文書を蔵す。
(森遠 正八幡神社鳥居)
源平の合戦の折、いち早く讃岐から落ちのびた安徳天皇は仮の御所とする内裏を木屋平村 森遠集落の中央部の台地に建てられました。(現在の森遠八幡神社境内一帯がその場所となります。)当時は大浦山と呼ばれ、その森遠には左近衛太夫 伊賀守 平知経は安徳天皇を奉じて居住に至ります。
(森遠 正八幡神社)
地頭の大浦氏も忠誠を誓い、阿部、天田などの武者が守護にあたって台地に仮の御所を造って天皇の御座所とし、「小屋の内裏」と名付けたのです。
(森遠 正八幡神社 立石群)
知経と安徳天皇が草なぎの剣を奉じて森遠へ落ちてくるよりも半年前、西の祖谷山にはすでに同年一月の屋島の合戦で敗れた平国盛一行が落ちて住みついており、知経は祖谷山の国盛らと連絡をとり、剣山周辺の山岳武士と同盟を結んで源氏方の追討軍を一歩も近づけず、安徳天皇と三種の神器の一つ草なぎの剣を死守したのです。
思えば神代の昔、スサノオミコトが十握剣(とつかのつるぎ)でヤマタノオロチを退治し、その胴体から取り出した天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が、ヤマトタケルノミコトの危機を救ってより、草なぎの剣と呼ばれて三種の神器の一つとなった宝物。
安徳天皇と草なぎ剣を血眼で探している後鳥羽と源氏の情報を得た知経は、有事に備えて小屋の内裏を城塞に拡張して森遠城とし、自らは小屋の内裏の「小屋」と平家の「平」を取って小屋平(こやだいら)と姓を変え、小屋平 伊賀守知経と名乗り戦いに備えました。
(森遠 成願寺)
以後代々にわたり木屋平を氏とし、当主は家祖である知経の「知」を継承、戦国時代末期 蜂須賀より「松家(まつか)」の姓を賜わるまでこれを続けたのであります。
(現在も森遠八幡神社の背後にある松家宗家は「御屋敷」と呼ばれている)
(森遠 正八幡神社境内)
結局平家一門は安徳天皇を奉じ再び京に上ることは叶わず、小屋の内裏や祖谷山の栗枝渡で御安息される間に奉持されていた三種の神器の一つ、草なぎの剣を石立山(剣山)の頂上の大岩の下に納めて、再び平家の世になることを祈願したと伝わります。
それより以後、この大岩は宝蔵石と呼ばれるようになり、石立山を改めて剣山と命名した話は有名であります。
その他にも生前に安徳天皇は木屋平の下名、八幡の住民に「朕の身に万一の事があれば、骨と所持品はこの地で祀るように。」と命じており、天皇が崩御されたと聞いた代表者は数人を連れて祖谷山へ忍び入り、夜陰にまぎれて栗枝渡八幡神社から天皇の遺骨と鏡や刀剣などの遺品を持ち帰り、天皇の遺骨と遺品は新八幡神社に安置されたという伝承も残されております。
なのですが…
、、、剣と伝わるのみで鉄で造られたものではなかったかもしれません、、、。
なぜなら… 杖であったかもしれないからです。
古代イスラエルの「三種の神器」である
- 十戒の石版
- マナの壺
- アロンの杖
こちらは古より日本に代々伝わる
- 八咫の鏡
- 八尺瓊の勾玉
- 草なぎの剣
に対応する可能性も多分に含まれるからです。
ただ、アロンの杖であった場合はそう簡単には納めないでしょう。これは安徳天皇が崩御するまで厳重に管理し、所持していたと考え、そして杖であるならば武器として徴収されていることもないと思われます。運が良ければ現代にも残されている可能性もあると思います。(個人的には木屋平の正八幡(森遠)、新八幡(八幡)の神社 御神体があやしい… と考えています)
(新八幡神社境内)
特に新八幡神社は境内の形と社殿の向きに違和感が感じられ、神の祭祀の理由だけで建てられたとは考えられません。
いやはや、妄想は尽きませんが木屋平村も伝承を調べると面白いですねー。
また木屋平編、またやります。