木屋平 森遠の成願寺で!?
梅雨がやっと明けましたね。これからもっと気温が上がって暑くなりそうなので、今回はちょっと涼しくなるお話を含めながら進めたいと思います。
成願寺の庵主、南与利蔵の話によると、成願寺の無縁仏のある草地には、沢山の五輪塔の頭部がある。二〜三十個はあるという話だが、それは五輪塔の空、風輪にあたる重さ五〜六粁のものである。昔、五輪塔の宝塔部分だけをすえて墓とする、略式の方法ではなかったかという説もある。それでは、どんな事件でここに沢山の墓があるのだろう。森遠城は百米上方にある。山岳武士として活躍した南北の朝時代に、三ッ木の三木重村らと共に出征して、他郷の地で戦死した木屋平家の勇士達の首塚なのか?。
あるいは蜂須賀入国の砌。これに反抗した木屋平上野介の家来達の墓だろうか?。南北朝の末期の、森遠合戦で討ち死にした木屋平家の勇士達なのか?。今はこれらを裏付けるすべもない。(木屋平の昔話より)
さて、引用した内容を知らずにわたくし、awa-otokoは成願寺裏の草むらに失礼してしまったのです。
目に留まった「休石」の文字。とても気になるではありませんか。(苦笑)
ぞわぞわ…
ん、ちょっとヤバい雰囲気やなぁ… さっさと草むらから出よ…
休石と思わしき岩を撮影し、そそくさと草むらから出ました。(あとから調べてみたら「休石」、その土地の所有者の名前だったかもしれない。(笑))
そんな草むらは昔、無縁仏を祀った五輪塔がゴロゴロとあったとか。たった今知りました。(うわぁ…)
寺社仏閣巡りをしていますと、多々そんなことはあるので特に気にすることなく成願寺の結界(鳥居)をくぐって境内に入ります。
その時またもや、、、
ぞわぞわ…
境内の空気は冷たく、どことなく重たい感覚に感じましたが、特に禍々しい気配ではなかったことから特に気にすることもなく成願寺の真裏を調べていました。
「○△□… (ごにょごにょ)」
「ん!?(私)」
「○△□…(ごにょごにょ)」
「え!?(私)」
「○△□○△□……(なんたらかんたら) 」
低い男性の声ではっきりとお経を唱える声が聞こえたのです。(何と唱えたかは文字で再現できず。)驚いて正面に廻って本堂の内部を確認しましたが、中には誰も居る訳ではなく無人。
あとから現地の知人に話をすると、成願寺は常に関係者が祭祀をしていてお経を唱えているとのこと。しかし、前の扉が開いていなかったことを伝えると知人も「え!?」っと驚き、「うわぁ…」と言うとそれ以上何も語らず。(余計に怖いわ… )
成願寺の裏で静かに眠っていた何者からの気分を害してしまったのでしょうか。明らかにお経を唱えている声だったので、私がズカズカと境内に踏み込み塚をくまなく調査していたので目障りだったのかもしれません。
聞こえたのがお経というのが気になったので、真摯な気持ちで私の失礼を詫びてから、速やかに成願寺を後にしました。
という訳で(どんな?笑)、ちょっと涼しくなる体験をしながら確認した結果がこちら。
大小様々なお墓、塚石の中にひときわ刻まれた文字が目立つお墓。
「瓊 早雲家祖先霊祭御墓」
こちら早雲、岩雲、村雲、飛雲、花雲。忌部五雲として伝えられる神官家のひとつ、早雲家の墓であろう古いお墓です。
そして墓の正面には「お剣さん」と呼ばれる立派な立石。忌部の祭祀跡には必ず存在する立石、「お剣さん」は忌部祭祀の発祥地と考えられる剣山の遥拝所であったと伝えられています。
耳元でお経を唱えられながら先々、忌部神官家である早雲家のルーツは木屋平と証明できる証拠(になるかもしれないもの)を見つけてしまいました。
もともと木屋平は旧麻植郡であったことから、中世国衙として活動が盛んであった美郷の種野山、山川の種穂山方面へ、忌部祭祀と共に移動していったのかもしれません。
今回の説、あくまで個人的な想定ですので取り扱いにご注意すると共に、やみくもに神聖な場所や静かに霊が眠る場所に立ち入らないように気をつけましょう。
最後に。
絶対にひやかし気分で現地に行かないように!!これを見ている良い子のみんな、約束だぞ!!