awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

滝の都 吉野宮(三野町 瀧寺)

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日本書紀では大海人皇子の后 高天原野比天皇(のちの持統天皇)が、たびたび吉野宮に訪れたことが記されています。

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吉野宮とは阿波での美野(よしの)。
現在では、美野が三野と変わり三野町となっております。
その三野(美野)町 加茂宮にある瀧寺が吉野宮の比定地と考えられております。


【吉野宮に幸しし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌(万葉集巻一ノ三六)】
やすみしし  わが大王の  聞(きこ)しめす  天の下に  
国はしも  さはにあれども  山川の  清き河内と  御心を  
吉野の国の  花散らふ  秋津の野辺に  宮柱  太しきませば
ももしきの  大宮人は  舟並(ふねなめ)て  朝川渡り
舟競ひ  夕川渡る  この川の  絶ゆることなく  この山の
いや高しらす  水激(たぎ)つ  滝のみやこは  見れど飽かぬかも

反歌(巻一ノ三七)】
見れど飽かぬ  吉野の川の  常滑(とこなめ)の  絶ゆることなく  またかへり見む

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三野町加茂宮の瀧寺付近は、県境の滝の奥から流れてきた水は阿讃山脈では数少ない名瀑、金剛の滝、竜頭の滝の二滝を下って扇状地を作っています。
人麻呂の歌で想像できるように、吉野の宮はこうした美しい景色の広がる加茂宮の丘陵地に造営されたのです。

歌の中で吉野宮は「滝のみやこ」と歌われており、これに対して比定地の瀧寺近隣では竜頭、金剛の滝が続き、「滝の奥」、「下の滝谷」の地名から吉野宮が滝の離宮を備えた「滝のみやこ」であった条件に一致します。

そしてもう一つ。都合三十一回も行幸した持統天皇の生母は「美濃津子娘(みののついらつめ)」と記されており、この地(美野郷)が生誕地であった可能性が高いのです。
それ故に夫の大海人皇子が頼って、挙兵し、壬申の乱に備えたのでしょう。

壬申の乱では美濃国司や三野王が登場しますが、「美濃」、「美濃田(みのだ)の渕」の地名が残る三好町が上流にあります。

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また、この吉野宮跡を聖地として残す理由からか空海が瀧寺を創建しております。

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このような背景から大海人皇子が挙兵し、のちの持統天皇が静養の地とした吉野宮は滝の都とも呼ばれ、大宮人が舟を並べ、舟遊びをした吉野川に面した美吉野(三好野)の地に造営されたと考えられるのであります。


【オマケ】

瀧寺にある三好長慶のお墓です。

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