海人 柿本人麻呂(里の蜑)
後鳥羽院文治三末年三月十八日 人麿影供の御会を行はせ給ふ、藤原信実時の妙手にて勅を奉(うけたま)はりて画きしとなむ、其の時此の里の海人に命せられ御料用の品物を捧げしとぞ、其の遺風にや今も此の浦人 海草、蛤の類を取りて他所に持出て売ありくなり、人丸神社あり、深きわけあることとて歌人の秘事なりとそ(燈火録)
うわぁ… すごく意味深なことを書いてます。
人丸神社が里浦にあることは深い訳がある… 歌人の秘事なり…
秘事とは人に教えない学問、芸事の奥義を指します。
ど素人の私が言うのも何ですが…
わかりやすく言いますと、歌の中に含まれた言葉が暗号になっており、読み解けばもともとの歌の意味とぜんぜん違う内容になるのでしょう。
例えば古今伝授のような秘伝があるのではないでしょうか。
さて、現在の鳴門 妙見山一帯の古地名は波佐戸(はさと)、東側の波佐戸の浦が現在の里浦になります。
この長邑の里浦が「日本書紀 卷十三 允恭紀」で有名な「海人の男狭磯(おさし)」の住んでいた「蜑(あま)屋敷」の所在地です。
阿波では素潜り専門の海人を「蜑(あま)」と独特の字で表します。
この「蜑屋敷」の傍に「蜑の男狭磯の墓」が今でも大切に祀られているんですね。
また、この「蜑屋敷」と「蜑の男狭磯の墓」のすぐ隣りの高台に「柿本人麻呂神社(人丸神社)」が鎮座しています。
なぜ柿本人麻呂が逞しい海人なのか…
柿本の姓は敏達天皇に賜わったとされていますが…
「柿下(本)姓」は阿波で唯一式内社で祀らている天皇である御真津比古天皇(孝昭天皇)の御子 天帶比古国押人命(孝安天皇)を直祖にする皇別の貴族であった。
天帶比古国押人命(孝安天皇)は室の阿岐津島に宮を定める生粋の海人族であり、長の大王とされる。
あとは柿本人麻呂の終焉の地の謎です。
全国の柿本神社の本社である島根県益田市高津町の社伝には、「祭神柿本人麻呂公は、孝昭天皇の皇子天足彦国押人の後胤小野氏族の分かれである柿本族が、石見国小野郷の地へ小野族の縁戚をたよって移住、小野の地に御生まれになりました。」とある。
鴨島で逝去したので、後に国司が勅命を奉じて、終焉地たる鴨島の地に社殿を建立したのが起源 …
近くに牛島(うしのしま)= 大人(うし)のしまがあり、重要な地域であったはず。
柿本人麻呂についても面白い内容があれば追記しようと思ってます。