空海が関係する三つの寺(太龍寺、焼山寺、大滝寺)
あぁ… まためんどくさいテーマを選んでしまいました…


さぁ、ぐずぐず言わずいっきに江戸〜明治の文献から三つの寺を紹介していきます。
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太龍寺
舎心山 太龍寺は那賀郡賀茂。和食。水井。細野。中山。阿瀬比。の山々の頂に有り、此の六ヶ村より登るに近きは二十八町遠きは五十村なり、他の山に聯続せず、各方麓縈れり、弘法大師此の山上にて行法を修す南北の舎心其の所なりと、此の舎心の厳は千仭直立し厳下を望めば雲霧は腰を繞れり、今は岩上に小堂有り大師此の山にて落髪し給て後此の山を開く、山神を戒め従へ龍を追ひ悪鳥(大鷲也人を害する故殺之鷲敷村に遺跡ありといふ)を殺して一寺を建て「太龍寺」と号す
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焼山寺
名西郡左右村大粟山焼山寺は古きより名高き霊山なり、摩盧山 焼山寺と号し四国第二十番の霊場たり、山道は狭隘にして紆餘曲折嶮峻を極む、山の中腹に杖杉庵の古跡あり、登る事十餘丁にして漸く境内に達し、仁王門を入れば通夜堂あり。石階を登り茶堂を左に再び石階を拾ふ少許、多寳堂、大師堂、本堂、方丈、庫𥚃其他の建物一齊に展開し來りて、眼下一變氣象萬千、登山の疲労は此瞬間に於て痕を留めざるに至る、本堂の左側少許にして十二枝神社、熱田神社あり、境内の美観を添ゆ、役の行者を祀れる奥の院、蔵王権現に登攀すれば、其景更に雄大にして羽化登仙の思ひあり、当寺は弘法大師の再興にして虚空蔵菩薩を本尊として祀り其靈驗灼然なるを以て正中年間後醍醐天皇勅願の綸旨を賜はりし事あり、蜂須賀家亦歸依淺からず累代の勅願所として本堂を再建し巨鐘を鋳造せり。
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大滝(瀧)寺
美馬郡岩倉山村の西北大瀧山にあり、弘法大師の開基にかかり本尊は厄災消除の無量壽佛を大師親ら彫みたるものと傳へられる、坂道一里餘四望涯際なく、南は吉野川の平野及び中央山脈の高嶺に對し、北は讃岐を下瞰して遥かに播備の諸州を水天髣髴の際に望む、其風光の雄大なる盖し縣下罕に見る所、爰所に登らんとする者は東麓黒田、南麓上野、西麓井口の三道あり。いづれも嶮峻を極む。
とりあえず三つの寺は弘法大師が関係している寺ということはお判り頂けたでしょうか。
その他、興味深い共通点があるのです。
那賀郡加茂村 太龍寺は弘法大師の旧跡なりといへり、然るに美馬郡岩倉山に大滝寺とありて、是も弘法大師の旧跡のよしいへり疑はしきことなり、三教指帰には阿国大滝嶽に登とありて水に並ぶ字を書けり、那賀郡なる大龍寺は今龍字を書けり
又美馬郡岩倉山の大滝寺、昔は大龍寺と書きしと見へて、真言宗声明の書に声明書云あり、応永三年慈鏡といふ法師のかけるなり、その書中に有。
かかれば明徳のころ大龍寺といいひしは美馬郡なること疑いなし、されどもむかしも今も同じ寺号の寺も多くあることなれど、弘法大師旧跡の大龍寺 那賀美馬郡両郡にあるべきこととも思はれず、また声決書に大龍寺とかけるに、又、岩倉山には大滝寺といひ、三教指帰には大滝嶽と書けるに、今、那賀郡には大龍寺といへるいかなることならん考るところなし
ただし那賀郡なる大龍寺も古き寺とみへて、同村一宿寺のあたりにある町石の銘に、四十一丁、貞治六年三月三十一日施主道信と記したるは、大龍寺へのぼる町石なるべし、また捨心といふ所の橋の擬宝珠の銘に、長亨二戊申卯月日大龍寺明応十年二月吉日願主篠原之良施入」などあり
おのれこの擬宝珠灯籠の銘知らざる、さきに或人龍滝の文字はかたみに通はし用ひしなるべしといへるを、字書には龍は鱗蟲の之長滝は雨滝ー滝貌とあれば、もとより字義異なればいかで通はし用ふることあらむと、こともなげにいひしを、此の銘等を見れば通はし用ひしさまなり
さて明徳のころ那賀郡の大龍寺今時の如く堂舎も壮麗にて、弘法大師の旧跡顕然ならば岩倉山の方を大師弘法之霊跡古徳禅行甲地などはいかでかいはむ疑はしきことならずや、彼寺々には古き伝説もあるべく、又近き年ころ弘法大師年譜と云書も出来よしなれど、おのれいまだ見ざれば、ただ按ひよりし事を記しつるなり
また若きころ大龍寺縁起といふを見たれどもあらぬ偽書なりしと思ひつるを、其の真偽の論をも忘れたり思ひ出ししをり又書加ふべし
結果ははっきり出てないみたいですね。
両寺共に由緒ある寺でありますから。
由緒の記載も誤字で訳がわからなくなってますし、昔は徳の高そうな僧侶を見た場合は全て空海となってしまったのではないでしょうか。
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焼山寺
空海(弘法大師)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(水輪)の印を結びながら進むと、山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願するととうとう大蛇を岩窟の中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したという。
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太龍寺 (奥の院 黒滝寺)
寺伝によれば、延暦12年(793年)空海(弘法大師)が太龍ヶ嶽(現在の太龍寺)で修行中、神童(神龍の風景とも伝えられる)が現れ「那賀川上流にある黒滝山で大龍が暴れ、人々を苦しめている」と告げた。空海は那賀川を遡り、黒滝山を間近にしたところで一夜を明かした。ここで虚空蔵菩薩を刻み小堂を建てた。空海はこの地を祈祷名と名付け、後に木頭名と呼ばれるようになったと言われる。黒滝山上に登った空海は山上の湖に棲む大龍を前に十一面観音を刻み降伏退散の調伏を行った。これにより大龍は湖を出て竜王淵へ退散した。降伏した大龍は空海に「閼伽井の水」という泉を贈った。これが当寺の開創と伝えられている。
そうです。共通点は虚空蔵菩薩が双方とも本尊になっていること。
まず那賀郡に入ると那賀川は大きく深い蒼色をして龍の腹に見えること。
最後に窟の有無です。
太龍寺
太龍寺には舎心山南東に「地蔵の窟」「不動の窟」「龍の窟」(総じて太龍窟)なるものがあり、天明の頃より庵住の僧が窟の中を案内していたと伝わります。30年代には採石場となって破壊され現存していません。
これらはまさしく寺の広告塔、シンボル的なもので多くの信者獲得に必要であったための府会であると考えています。
という訳で、、、三つ神社に共通する内容ではありませんでしたが空海がこの三つの寺を創立または再建したのであれば共通点は多くなるはず?です。
よって断言はできませんが、、、
空海は寺の事とは別の案件でこの三つの寺の場所に訪れたのではないかのかと…(寺の開基と再建はその場所を調査、その場所に祀られた神をカモフラージュすることが目的だったとしたら… )

太龍寺は神武天皇が滞留、恵比須が拾われた場所。

大滝寺横の西照神社では月読命、田寸津姫命、田心姫命、市杵島姫命を祀る要所。

こちらの方が調べていくと面白いものが出てくるかもしれませんね。