awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

日本一の五百羅漢(地蔵寺 奥之院 羅漢堂)

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板野郡矢武村にあり。別当寺は庄厳院 地蔵寺
当寺は弘法大師の遺跡にして一本寺なり。此山に往古より羅漢原とてありける。
去る宝暦の頃より願主ありて檀信を十方にもとめ、日あらずして広大の精舎を創建せり。此辺に筆塚とて古跡あり。
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(阿波名所図会より)

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(現在の羅漢堂)
 
地蔵寺は、四国八十八箇所 第五番の霊場として弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅願により空海弘法大師)が自ら1寸8分(約5.5cm)の勝軍地蔵菩薩を刻み、本尊として開創したと伝えられています。

嵯峨・淳和・仁明の3代の天皇の帰依が篤く、熊野権現の導師であった函上人が、権現の霊木に2尺7寸(約80cm)の延命地蔵尊を刻み、大師が刻んだ地蔵菩薩を胎内に納め、また、本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚く、当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ちました。

しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏により再建されたのです。

およそ千二百年の昔より法灯連綿として受け継がれてきた真言宗の古刹であり、奥之院には日本一の規模を誇る「五百羅漢」を有し、荘厳なさまを展開しております。

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はい。まず「羅漢とはなんぞや」という事で、簡単に説明しますと「羅漢」とは、お釈迦さまの弟子であり、仏道修行して阿羅漢果という人間として最高の位を得た人のこと。その姿は喜怒哀楽の表情を浮かべた人間味溢れる仏様なのであります。
 
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奥之院である羅漢堂は地蔵寺本堂の北側に位置し、コの字型をした木造建築。
しかも高さ四尺の釈尊は全て木造で回廊を埋め尽くした等身大の五百羅漢が安置された珍しいもの。
安永4年(1775年)、実聞•実名という兄弟の僧によって諸国を行脚した際に得られた浄財で作られました。
残念なことに1915年(大正4年)の火災で焼失、その後1922年(大正11年)に再建したのが現在の堂になります。
 
説明長過ぎですね。
ではでは、さっそく入ってみましょう。
 
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どうですか。コの字回廊びっしり羅漢。全て等身大。こっち見てます。(笑)
 
特に回廊の最後に鎮座している「空海像」は圧巻で、写真では判りにくいですが推定4〜5㍍ほどあります。
確かに日本一の規模ですね。
 
ちょっと不思議に感じるのは、長宗我部元親に焼き討ちされる以前も、現在の規模で造営されていた経緯があり、阿波以外に讃岐、伊予まで末社が存在したこと。
実は地蔵寺近辺には阿波古代史上、調査不可欠な寺社仏閣が揃っております。
例えば岡上寺社、亀山寺社、中臣大鳥神社など。集約して言えば、大宜都比売命天皇の御陵、古代氏族(那賀登美)の痕跡が残っております。
 
まぁ、これはまたの機会に語るとして、地蔵寺の羅漢堂 五百羅漢は案外、阿波でも知られていないスポットです。
気になる方は是非足を運んでみて下さいね。