awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

日知りと月読み(その参:今鞍進士と斎社の行方)

f:id:awa-otoko:20170911212307j:image

前回は「月読み」とは天体学などに長けたシャーマンの名称、美郷村月野に存在した「月読命の宮」こと「斎社」について述べました。今回は「斎社」のその後について自説を含めながら進めたいと思います。

今鞍氏が居住していた美郷村月野では「鎌倉屋敷」と称する屋敷跡が残され、その南の平坦地には昭和初年まで「月読命」を祀る「斎社(いっきしゃ)が存在していました。

f:id:awa-otoko:20170911212511j:image(広幡八幡神社

f:id:awa-otoko:20170911212652j:image

「斎社」は、今鞍氏の末裔とともに月野集落より山麓に降り、現在は吉野川市美郷字栗木に鎮座する広幡八幡神社に合祀されています。

f:id:awa-otoko:20170911212542j:image

awa-otokoは当記事を書くために広幡八幡神社を参拝しましたが、社殿の迫力に圧倒されてしまいました。社殿は老朽化が進んでいますが、その姿がさらに凄みを増長させ、神社全体からのご神威(神々しさ)が強いこと、強いこと。(阿波の神社巡ら〜達に告ぐ。一度は参拝しておくべき神社だと思いますよ。)

f:id:awa-otoko:20170911212606j:image

広幡八幡神社は阿波忌部氏ゆかりの社。祭神は天日鷲命誉田別命・足仲彦命・息長足姫命・国常立命・月夜見命・大物主命。

f:id:awa-otoko:20170911213455j:image

後の時代に宇佐八幡宮の分霊を勧請していますので、八幡神に関わる祭神を除外すれば「天日鷲命」を主祭神として創建されたということでしょう。そして昭和初年に「斎社の「月夜見命」が合祀されて祭神に「月夜見命」が追加されたことになります。

f:id:awa-otoko:20170911213518j:image(境内摂社)

f:id:awa-otoko:20170911213541j:image(小さな祠たち)

ただ気になることがひとつ。由緒には「往古に月野にいた忌部氏人 今鞍進士の後裔が居住したのが当地であり、その祖神を祭祀したのが起源である。」とされています。

広幡八幡神社主祭神天日鷲命ということから、今鞍進士の祖神は天日鷲命であると安易に決めつけ過ぎていないでしょうか。今鞍進士が居住した月野には「月読命を祀る斎社」しか存在しなかったはずなので、厳密に言えば天日鷲命ではなく「斎社の月読命」が今鞍氏の祖神ではなかったのかと考えます。

さらに深読みすれば「斎社の月読命」は天日鷲命の職掌だけが一人歩きして祭祀されたもので、天日鷲命と「斎社 月読み」は同一人物同にして同神ではなかったのかと妄想が膨らみます。

f:id:awa-otoko:20170911221042j:image

f:id:awa-otoko:20170911221103j:image

その理由のひとつとして日本書紀「月読尊を以ちて蒼海原の潮の八百重を治らすべし。」の一行があり、月読命」を崇拝したことによって海人族の信仰も持ち合わせていることが判断できるからです。

これは天日鷲命黒潮に乗って安房を始めとした関東を開拓した業績と、天富命が祖国阿波に帰省したことを考慮すれば、月読命(素盞嗚尊)がなんとなくですがシンクロする部分が見えてくるのです。

麻植郡には月野をはじめ、大神宮山や忌部山、向麻山など月見神事が行われた場所が多数あります。これは暦日を計測して農耕のタイミングをはかることはもとより、潮の干潮の周期を見極めて海に出るタイミングをはかっていたことも考えられないでしょうか。

月野から麓へ、種野山から平野部に移動しながら拡大していった今鞍進士の末裔達、忌部氏族。それは天体の知識をもとに農業、航海術を身につけた技術集団でもありました。この技術集団が太古より日本の文化を形付けていったと言っても過言ではあはりません。今後もちょっと違う視点から阿波忌部氏を追ってみたいと考えています。

今回のシリーズは天文学を身につけたシャーマン「月読み(月読命)」から忌部族と天日鷲命に迫ってみました。もともと文章をまとめるのが苦手なawa-otoko。理解しがたい内容だったかもしれませんがご容赦下さいませ。(実は忌部氏については勉強不足なのです。)

それでは怒涛の三連投稿はこれにて終わります。お付き合いありがとうございました。m(_ _)m

日知りと月読み(その弐:月野月読命の宮跡 斎社)

f:id:awa-otoko:20170909192418j:image

前回は日智子王神社から「日知り」についてでした。今回は「月読み」と「月読命」の相違点を中心に進めていきます。

阿波忌部氏を背景として種穂山や山崎忌部山などと関わりが深い美郷村美郷村は昔から木屋平村神山町鴨島町、川島町方面の要路となっていました。(木屋平の三木氏、松家氏、中枝の河村氏などの武将が前衛基地を置いていた場所ですね。)

f:id:awa-otoko:20170909192153j:image美郷村月野から望む)
そのような美郷村の在所のひとつである「月野」。当地は山の上にはめずらしく、五、六ヘクタールもの広い傾斜の緩やかな畑が広がっている場所なのです。そもそも「月野」という地名ですが、これは皆さんの予想通り?に月読命を祀っていたので付けられた地名だそうです。

月野の由来

ずっとずっとその昔、天の上に二つあったお月様のうち、ひとつが明るい光を放ちながら在所に下りてきた。月が下りたはずみからか、今まで山であった場所がちょうど円錐形にへこんで、なだらかな傾斜のかかる広い土地になってしまった。在所の人間は月が降臨したということで大変よろこび、その場所に立派なお宮を造り、月の神様である「月読命」を祀り、月が作ってくれた広い土地を「月野」と名付けた。それ以来、村は豊かになって月読命の祭祀は継続された。時は過ぎ、由来が忘れられた昭和の初年、「月読命の宮」は麓の広幡八幡神社に合祀された。お宮の跡は「中屋の窪」と呼ばれて社殿の石が残されている。

f:id:awa-otoko:20170909194848j:image

小さい隕石でも落ちたんでしょう。落下した隕石を神として祭祀した?または天体を観測していた当時のシャーマンである「月読み」を神として崇めて祭祀したのか?どちらにしても月に関わることから、三貴神に含まれる「月読命」として伝承されるに至ったのだと思います。

月読命(つくよみのみこと)

記紀古事記日本書紀)において、ツクヨミ伊弉諾尊伊邪那岐命・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。天照大神天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、須佐之男建速須佐之男命・たけはやすさのお)の兄神にあたる。

ツクヨミは、月の神とされている。しかしその神格については文献によって相違がある。古事記ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大神、鼻から生まれた須佐之男とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、日本書紀ではイザナギ伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。

この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている。

日本神話において、ツクヨミ古事記日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある。同様の構造は、高皇産霊尊高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。

ツクヨミの管掌は、古事記日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりはアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが挿入されたためではないかと考えられている。

ツクヨミスサノオとエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる。(Wikipediaより)

昔から夜空に二つの月があがるという伝承をよく耳にします。それが天文そのものの事象なのか、古代の貴人を月や太陽に例えた比喩なのかは正直よくわかりません。

f:id:awa-otoko:20170909192257j:image月読命の宮跡付近)

awa-otokoの考えですが、「月読命」という神様をひとつの時代、ひとりの神として認識してしまうと簡単に歴史の罠に嵌ってしまうと考えています。(月読命に限らず全ての神名に当てはまる。)

前回も記載したように「月読み(月読命)」とは、天文学、気象学に長けた、いわゆる古代のシャーマンのことを指していたのではないのかと考えられるのです。

f:id:awa-otoko:20170909201514j:image(粟国造粟飯原氏系図より)

理由として、様々な地域、様々な場所、条件の相違があるにかかわらず「月読命」は伝承されており、古代より月(天体)の観測を行う場所には「月」をキーワードとした地名、そしてお月見神事が伝承されているからです。(月読みという職業が存在していたということです。)

例えば、過去記事にある粟國造家 粟飯原氏の祖先にも「月読命(月夜見命)」が存在します。これは粟飯原氏の祖先の中に天文学や気象などの知識を有して一族を率いた人物が存在したからではないでしょうか。まぁざっくり言えば、集落ひとつに「月読み(月読命)」が一人以上いてもおかしくなかったのかもしれません。

なのでイザナギの禊祓いから出現した三貴神の「月読命」は、今回の「月読み」とは全く別の神でなかったのではないかと考えるのです。(子孫や同じ血族の可能性はあるかもしれない。)

おっと、、、熱くなってしまいました。 次回に続く月野のおはなしに戻しましょう。

 

f:id:awa-otoko:20170909204123j:image

実はそんな月野。中世にお城があったのですよ。

月野名の平坦な畑地内に今鞍屋敷の地称あり。「斎社(いっきしゃ)」と呼ばるる小祠ある地、今鞍氏の旧跡と伝えられる。

月野には月野城と呼ばれた山城がありました。時代は鎌倉時代末期から南北朝時代ですね。城主は今鞍刑部左衛門長正です。

おっと今鞍氏。(聞いたことがあるでしょう。忌部氏です。今は後◯田氏ですね。)

忌部氏の氏族今鞍進士、東山中央南部月野名に住み、今鞍の地名を称す。上部に鎌倉邸跡同氏の拠所なり。(木屋平 三木家文書より)

今回はここまで。

次回は今鞍進士の子孫とともに移動した「月読命の宮こと斎社」についてです。乞うご期待。(*゚∀゚*)

日知りと月読み(その壱:日智子王神社)

f:id:awa-otoko:20170909172658j:image

種穂忌部神社の摂社に「日智子(ひちこ)王神社」がございます。種穂山登山道にこんな看板があるのはご存知でしょうか。(登山道幅は狭いし車を駐車する場所も限られるので、よほどマニアな人でないとこちらの大神宮を参拝する人はいないのではないかと思います。)

f:id:awa-otoko:20170909172901j:image

さて、日智子王神社の「ひちこ」。なかなか耳にしないワードですよね。付け焼き刃ですが調べた内容を説明しますと、当社の祭神は天津彦彦火瓊々杵尊(あまつひこひこひににぎのみこと)。それを背景に置いて考えられる意味は「日継(ひつぎ)の皇子」とのことです。(種穂山から吉野川対岸に「柩(ひつぎ)神社ってあったよな〜。意味深… )

f:id:awa-otoko:20170909173010j:image(日智子王神社な。)

そして鎮座地が「日知利子(ひしりこ)」という地名であることから、あて字で「聖(ひじり)」という尊い意味を含めながらも「日知り(ひしり)」を意味しているのではないかということです。

f:id:awa-otoko:20170909173122j:image(摂社にしては結構、立派ですぜ。)

 

「日知り」って何なんだ⁈

 

そんな声が聞こえてきそうなので説明しますと、古代では天の運行を知り、山間部では農業、沿岸部では海行の指示を与える祭祀者「月読み」が存在しました。

ここは山間部。農業を統治し指導する者は太陽の運行を知り、穀物の種を扱う祭祀者が存在し、それが「日知り」ではないのかということなのです。(海人族は潮の満干を知る月読みがポピュラーですが、山間部では日、月、星の知識に長けた祭祀者により穀物の種類を取り扱う「日知り」とされたのではないかということです。)

f:id:awa-otoko:20170909173331j:image(板碑もあったし、ここ古墳だろうね。)

f:id:awa-otoko:20170909173736j:image(種穂山 遥拝所)

f:id:awa-otoko:20170909173937j:image(種穂忌部神社

f:id:awa-otoko:20170909173957j:image(種穂山から望む)


この「日智子王神社」が鎮座するの種穂山。その種穂の由来とは、麻・穀・五穀の種だけでなく、棚田の「種田」を扱ったものとも考えられていることから、まさに種穂山に鎮座するのが相応しい「日智子王神社」なのです。

今回はめずらしくシリーズにします。なので短め。次回に続く。なのです。(*゚∀゚*)

忌部伝承 二種の神器

f:id:awa-otoko:20170903222010j:image

ヤマト王権が確立してから宮廷祭祀を司った忌部氏と中臣氏。忌部氏は主に祭祀具の製造や調達、管理を行いながら宮殿の祈祷も中臣氏と共に担っていたのは皆さまもご存知の通りです。日本書紀には中臣連の遠祖 天児屋命、忌部の遠祖 太玉命、相与に致其祈祷す。」とあり、天照大御神を天の岩戸から引き出すために祈祷したと記されています。

f:id:awa-otoko:20170903222118j:image一宇 天の岩戸神社)

f:id:awa-otoko:20170903225251j:image


古語拾遺では、太玉命をして捧げ持ち称賛さしむ。亦、天児屋命をして相副に祈祷らしむ。」「太玉命天児屋命、共に其の祈祷を致す。」とあり、忌部氏と中臣氏とは同等で同格の地位を以って宮廷祭祀を行っていた経緯が記されているのです。
さて、ここ最近で再度浮上してきた貞光の忌部大神宮伝承。どうも友内山には中臣氏が、隣の御所平には忌部氏が祭祀されていたことが俄かに解ってきました。今回は御所平に鎮座していたと伝承される忌部大神宮こと御所神社の御神宝に迫ってみましょう。

f:id:awa-otoko:20170903222410p:image

f:id:awa-otoko:20170903222454p:image

f:id:awa-otoko:20170903222521p:image(御鏡と天目一箇神 お手製の御長刀とある。)


天皇天皇であるための神璽(みしるし)としての「三種の神器」は有名です。八咫の鏡、草薙剣八尺瓊勾玉ですね。

しかし忌部氏には「二種の神器説」が存在し、延喜式 大殿祭の祝詞には、「天つ璽の剣・鏡を捧げ持ちたまひて… 」、「凡そ践祚の日には、中臣、天神の寿詞奏せよ。忌部、神璽の鏡・剣上れ。」とあり、古語拾遺には八咫鏡草薙剣の二種の神宝を以て、皇孫に授け賜ひて、永に天爾(所謂神爾の剣・鏡是なり。)と為たまふ。矛・玉は自に従ふ。」とあり、即位の神璽は鏡と剣の二種であること、矛と玉はその二種の神器に従属することが明確に記されています。
また、「斎部(忌部)氏をして石凝姥神が裔・天目一箇神が裔の二氏を率いて、更に鏡を鋳、剣を造らしめて、護の御璽と為す。是、今践祚す日に、献る神璽の鏡・剣なり。」とあるのです。

まさしく、御所平鎮座 御所神社こと忌部大神宮の御神宝は忌部大明神の御神像と御鏡、そして天目一箇神 お手製の御長刀なのです。(刀は長曾我部元親侵攻より180年を経て石塚より出現とある。)

f:id:awa-otoko:20170903223701j:image

御鏡は吉良の住人 繁蔵(しげぞう)所持!?

f:id:awa-otoko:20170903224056j:image(ネット上の画像をお借りしました。)

 

面白くなってきました。貞光の忌部関係はさらに調査を続けたいと思います。

 

最後にちょっとだけ。

友内山と御所平は中臣氏、忌部氏が同等同格で祭祀されていたと考えます。ということは… 

 

f:id:awa-otoko:20170903224651j:image(友内神社)

f:id:awa-otoko:20170903224718j:image藤原氏祖神御霊の祠)

f:id:awa-otoko:20170903224807j:image

 

f:id:awa-otoko:20170903224839j:image(御所神社)

f:id:awa-otoko:20170903224906j:image(御所平 御魂所)

 

続きに乞うご期待。

探せ‼︎ 剣山にある弘法大師が刻んだ法華経一字一石の塚

f:id:awa-otoko:20170821000120j:image

はい。今回はひっぱり過ぎが否めない剣山大権現縁起から。

f:id:awa-otoko:20170821000450j:image(剣山大権現縁起の下書き)

f:id:awa-otoko:20170821000514j:image(全部は掲載しませんぜ。)

昔、安徳帝行在の砌陣営に用ひ給ひし事あり故に藤の池陣屋とも云ふなりと参詣者必ず此に宿す… と伝わる藤ノ池 龍光寺から一ノ森、剣山への参道は確認していましたが、時間が作れたので垢離取から藤ノ池 龍光寺までの旧剣山大権現への参道を調査してきました。

f:id:awa-otoko:20170821001006j:image

岩石峨々として樹木蕃生す、岩下に深淵あり不動明王を安置す猶登ること十八町にして漸やく山脚に達す、垢離取川あり長さ十五間の鞘穚を架す、岩上に不動の尊像あり瀬登り不動と云ふ、また役の行者の像あり、之より十八町の坂路殊に嶮峻を極め樹木また蓊鬱たり久利伽羅坂と云ふ。

f:id:awa-otoko:20170821062207j:image(鞘橋跡地)

f:id:awa-otoko:20170821001200j:image(鞘橋の瀬登り不動からスタート)

f:id:awa-otoko:20170821001324j:image倶利伽羅坂がきぶいのなんの… )
柴折行者経塚等あり、大師自ら築きし處の法華経一字一石の塚なりと傳ふ。

f:id:awa-otoko:20170821001618j:image

はい。上にある芝折行者塚は確認していないのですが、awa-otokoが考えた芝折行者塚はたぶんこの場所。(違ってたらすまぬ。)ちょうど一般の塚サイズの岩が乱立し、その中心に大きな岩(磐座)が構成されている場所です。

f:id:awa-otoko:20170821001947j:image(大きな岩に不動明王を刻んでるのわかる?)

f:id:awa-otoko:20170821002148j:image

f:id:awa-otoko:20170821002255j:image(これな!: 不動明王がいつ刻まれたかは不明)

倶利伽羅坂を登った際に疲れただけかもしれませんが、現場へ着くなり独特な雰囲気にのまれてアタマがグラグラになりました。(磁場が乱れてる感じかな。)詰めの甘いawa-otokoですから、空海が刻んだとされる法華経の一字一石を調べてくるのを忘れてしまいました。一字でも確認できれば凄い発見ですよ~。(この業界、手柄が欲しい人で溢れてるみたいだからこのネタはくれてやるよ。)さぁ探せ探せ~。www(ちなみに一ノ森近辺にも経塚の森があるのでそちらも否めないのは秘密です。)

 

f:id:awa-otoko:20170821005407j:image

あと、冒頭に挙げた剣を掲げた空海の石像。これ、awa-otokoは非常に重要サインだと考えています。龍光寺には剣を持った空海、剣を持った不動明王役行者(剣を携えていない。)がいたるところに配置されています。これ、ちょっとわざとらしい配置なんですよ。まあ剣山の広大な範囲の中からアークの所在や形跡を探すのよりは、よっぽど取り掛かりやすいのではないでしょうか。

龍光寺は四国は四十八か所の総元(ゼロ番札所?)と云われております。この剣山から本来の四国八十八か所の意味を導き出せれば。。。面白いですよね。という訳でちょっとお話は逸れましたが法華経一字一石の塚、ほんとに探してみる価値はあると思いますよ。それではまた~。