awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

俺の屍を越えて行け(もうひとつの庚午事変)

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今回は番外編。明治三年に阿波国で勃発した内紛騒動 庚午事変にまつわるお話でございます。庚午事変については、日本法制史上で最後の切腹刑の処分が発せられたとして有名ですね。

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f:id:awa-otoko:20170610150640j:image眉山 大滝山峯薬師横にある庚午事変の石碑)

日本全国が勤皇と佐幕の二派に別れ、力と力の対決で揉めに揉めたあとに明治維新という新政府の変革が行われた。王政復古については矢継ぎ早に西洋の文化を取り入れるきっかけとなったが、江戸幕府下の武士・百姓・町人(士農工商)の別を廃止し、「四民平等」を謳ったことにより、権力の世界に安住していた武士たちは、これまでになく行き場のない不安と憤りを隠せないでいた。そのような状況から阿波国徳島藩)で勃発した内紛が庚午事変である。(庚午事変概要は下記に引用)

庚午事変

庚午事変(こうごじへん)は、明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。

徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が以前よりあった。幕末期、徳島側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣(蜂須賀家の家臣の家臣)である稲田家家臣が卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。

明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。また、その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町(現在の美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟であった。

政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調査した。少なくとも洲本では意図的に緊急の措置を怠った疑いがある。そのような事実が少しでもあれば、徳島藩知事であった蜂須賀茂韶を容赦なく知藩事職から罷免するつもりであった。

当時の日本は版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だった。政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で是非とも克服してゆかねばならなかった。だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。

結局、政府からの処分は、徳島側の主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首(後に蜂須賀茂韶の嘆願陳情により切腹になった)。これは日本法制史上、最後の切腹刑となった。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。知藩事の茂韶や参事らも謹慎処分を受け、藩自体の取り潰しはなかったものの、洲本を含む津名郡は翌明治4年(1871年)5月に兵庫県に編入されている。

稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれている。(wikipediaより)

さて、洲本ではすでに焼き討ちの火の手があがり、徳島でも一番討伐隊は脇町を攻撃。二番討伐隊も大挙進発しようとしていた。藩の重臣たちはこれを止めるべく説得したが、血気にはやる連中はこれを聞かずに押し出た結果となり、これを知った監察 下条勘兵衛重孟、弁事 牛田九郎尚徳は、蜂須賀茂韶 藩知事の留守中に大事を引起しては申し訳ないと馬を飛ばして後を追ったのである。

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f:id:awa-otoko:20170610153507j:image(石井町浦庄 願成寺)

ようやく名西郡石井町浦庄 願成寺近くで討伐隊に追い着くことができた。直ちに引き返すように諭したが興奮しきった藩士達は耳を貸さず、またもや押し進めようとした。

 

“どうやってもここで食い止めるべき… ”

 

意を決した勘兵衛と九郎は、「それほど行きたければ、われわれ両名の屍を越えて行け。」と願成寺の縁先で見事に立腹を切った。

これにはさすがに血気に盛っていた藩士たちも両名の心意気に圧倒されて引き揚げることとなり、事無きを得たのである。

f:id:awa-otoko:20170610153441j:image(願成寺横の五輪塔墓)

事件が落ち着き、関係者の処分がそれぞれ決まり、下条と牛田の両名は暴挙を阻止した功績により賞賜された。下条勘兵衛は徳島市瑞巌寺、牛田九郎は同本福寺に葬られ、そして両名が切腹した願成寺には両名の武士道を讃えた庚午記念碑が建てられたのである。

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f:id:awa-otoko:20170610154232j:image(願成寺 境内にある庚午記念碑)

当時の実見者による口傳によれば、一人の切腹は見事なものであったが、一人は難渋したとされる。牛田九郎が先に切腹し、「俺の屍を越えて行け。」といったのも、見事な切腹をしたのも九郎だったという話が遺族の記録にも残されており、当時の一般的な認識もそうだったようである。

 

はい。このようなドラマのような展開が、繰り広げられた場所が、時代を経て忘れ去られてしまうのはとても惜しいと思い、今回番外編として取り上げてみました。また気になった近世ものがあれば番外編やります。(・Д・)ヤルゼ!!

箸蔵寺に隠された「箸:はし」とは何なのか⁉︎

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はい。今回は三好の箸蔵寺。讃岐金毘羅さんとは深い深い関係にあって古より奥之院とされております。(結構距離が離れているのにね。)

ちなみにawa-otokoは大國主命少彦名命が伊豫国の道後温泉への行幸途中に立ち寄った場所の一つが箸蔵寺だと考えていましたが、調べて行くうちにどうもそれだけではないと感じるようになりました。

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以つて金毘羅奥の院と稱ふる所以を知るべし

登箸山後嶺四讃諸勝集于目下宛然可數也 新居水竹
只訝遊仙夢有蹤。雲山何首幾重々。渇來愛一升水。憩去偏宜七本松。縹緲江城睛日麗。依稀嶽廣瑞烟漂。分明縮地登臨宗。輕擧呤笻欲化龍。(一升水七本松皆嶺上地名)舟中望箸蔵寺 美馬太玄
山腹燈臺望初分。舟中指点挿天雲。高僧盡日清齋處。定是香烟一烓薫。 箸蔵谷 三宅舞村
邃寂晝猾冥。深渓杉檜靑。傅言藏箸處。山鬼鎖岩扃。

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當寺傳ふる處の古記録中空海の筆成りしと云ふものあり。其文を抄録す。
夫具明目者。善視隣至繊。有數術者。亦量蘇迷太洪。獨絶䅐離量者。其椎本地法身也歟。发有山。在阿之北境。起伏自不凡。似有含光者。躋則遇一神人。曰法之行也。地靈爲之羽翼。此山之靈。亦足以闘利生。須其顧悲願以賛我志。是我本地醫王佛之本誓也。余於是始知。神人之爲金毘羅神將云。

天長五年    空 海

箸蔵寺は天長五年に弘法大師が四国巡礼の際に箸蔵山で金毘羅神の御神託をお受けになり、御本尊を刻まれて奉安し当寺を開創されたと伝わります。

いつものことですが、空海が巡礼の際に立ち寄った箸蔵山で金毘羅神の御神託を受けたのではなく、意図的に当地を訪ねたのが本当のところでしょう。当山の何かを隠すため、または保護することを目的として寺を開基したのは明白です。

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此の箸蔵山の樹を伐ること山神殊に惜み給ふ、霊窟のあたりへさ人々行く事あたはず、この寺の住僧すらむかし行て未帰らず、神林の外なる此の寺の林樹を買てさへ伐取し人はもとより其の木を亦買せし先々まで神罰あり、故にそれを知りては薪炭にてもあれ人畏てかふ事を忌む。

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この箸蔵寺箸蔵山)、やたらとバチがあたる等の伝承を耳にします。その神罰を与える者の正体は神であったり、天狗であったり、また仏法僧と鳴く怪鳥だったり。よほど箸蔵山周辺に人が入ったらまずい物があったのでしょう。(神は金毘羅大権現。天狗は山伏、修験者の出入りがあったことを暗喩し、仏法僧の鳴き声は法螺貝の音か?)

ここ箸蔵寺金毘羅大権現 奥之院。やはり讃州 金毘羅神を中心として「何か」を蔵していたことはまず間違いないと思います。

讃州金毘羅神、例年十月御祭礼行啓終て陪従の人々へ御山接待所にて饗饌あり、喰ひ終ると椀も箸も其の儘さし置て下山するなり、十日十一日共に申刻過より上なる山門に竹垣を結て登山を禁す、さて如何なる故にや彼の喰捨て置きし箸を残りなく三好郡箸蔵山の岩倉へ其の夜中に山神の持運び納め給ふと云、或は除災の護衛にせんとて宿所へ持帰り、又は試に御山の石垣の間などへ蔵し置ても後日悉くこれなし、奇異なる事なり。

讃州金毘羅神の奥之院ということで、地理的に瀬戸内海から遠ざけているように考えられます。

その他にも箸蔵寺の南東方向には天椅立(あまのはしだて)神社が鎮座し、こちらの神社の椅立(はしだて)も箸蔵寺の箸と関連があると考えます。

金毘羅神と空海がここまで隠した「箸(椅): はし」とはいったい何だったのでしょう。これを突き詰めるには、讃州金毘羅大権現の神事も調べる必要がありそうですね。

三好長治自刃の地、今 長原と呼ばるるなり。

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三好長治(みよし・ながはる)1553~1577

三好一族。三好義賢の子。十河存保の実兄。幼名は千鶴丸。通称は彦次郎。阿波守。阿波国勝瑞城主。母は阿波守護・細川持隆のもと側室で、大形殿とも小少将とも呼ばれた女性である。母母三好義賢と深い仲になり、天文22年(1553)に持隆が義賢に討たれたのちに義賢の妻となった。このため、長治は持隆の遺児・細川真之の異父同母弟という続柄である。
永禄5年(1562)3月、父・義賢の死によって家督を相続した。永禄7年(1564)に畿内統治の実権を握っていた三好氏惣領・三好長慶が没したのち、求心力の低下を憂えた三好三人衆松永久秀らは権力の復活を企図する将軍・足利義輝の排除を画策。三人衆らが義輝を殺害(室町御所の戦い)したのちの永禄9年(1566)、傀儡の将軍を立てるべく家宰の篠原長房の補佐を受けて足利義栄を奉じて上洛し、摂津国富田普門寺に入る。この義栄は永禄11年(1568)2月に将軍位に就くが、同年9月に病死。加えて尾張国織田信長が義輝の弟・義昭を奉じて入京したとの報を得ると、本貫地の阿波国に逃げた。
義賢の死後、母は篠原一族の篠原自遁との醜聞が阿波国に喧伝されていたが、それを長房より諌められた自遁の讒言を受けた長治は長房と反目するようになり、天正元年(1573)5月、異父兄の細川真之と共に長房を阿波国上桜で討った。
しかし阿波国を実質的に統治していた長房を誅殺したことで領国経営は安定を欠き、天正3年(1575)9月には長宗我部元親の侵攻を受けて海部城を奪われ、天正5年(1577)2月には大西城(別称を池田城)をも落とされた。
この間の天正4年(1576)には不仲となった細川真之が長宗我部氏に降り、その真之と天正5年3月に阿波国荒田野で戦って敗れ、別宮浦にて自害した。25歳。 

今回は三好長治についてです。昔から因縁、因果応報という言葉がありますが、これに沿う三好長治の伝承話をひとつ。おっと、、、その前に三好家因縁の始まりを語らなければいけません。三好長治という武将、複雑な因縁が絡まった生い立ちだったのです。

其の昔足利尊氏卿より細川頼春(阿波の細川家の祖なり、又今の肥後細川の祖)四国の管領職とす、其の後、文和の頃、京師四条大宮にて楠家と戦て敗死す、依て阿州板野郡萩原村高照院に帰葬る、今に其の石碑あり、其の子孫相続して同郡勝瑞村の館に住し給ひ、阿讃淡三州を旗下とせり、細川讃岐守持隆の時に至り、家臣三好筑前守入道海運の二男豊前守義賢(長慶の弟)権勢盛なりしに、持隆折節勝瑞の北なる龍音寺に入り給ひしに、細川殿に恨ありとて三好は上郡表の枝族等を催し、多勢にて不意に攻討ちしかば、持隆為方なく自殺し給ふ、時に天文二十一子年八月なり。
然るに持隆の側室小少将殿と云ふ京上﨟の腹に男子一人出生し(後に細川掃部頭直之と云、幼名六郎)勝瑞に住し給ひしを美婦なりければ、豊前守後には是を取て己が室とす、然れども主君を殺したる天罰を恐れしにや、豊前守は二十七歳にて法躰し実休と称す、此の小少将の腹に三好長治、同存保を誕生す、其の後年を経て泉州久米田の戦は未だ始まらざるに、大将実休陣取し牀机に掛り居たりしに、流矢来て実休の胸板を射通され死す、細川殿を殺せし十一年後なり(久米田陣は永禄五年三月也)是より前実休の弟安宅摂津守 夢中に細川殿の仇を報夢と見しとなり、是は重恩の君を殺したるには天罰の遅かりしなり…

これより幾年か過ぎ、青年に成長した三好長治は、主君筋で異父兄である細川掃部頭殿を退け、勝瑞の館と称して自らが細川家の跡を継いでいた。

f:id:awa-otoko:20170603214242j:image(長原 豊岡神社)

天正四年子の春、板野郡笹木野で鷹狩りをしていた長治は獲物が少なくとても苛立っていた。東の川向い茅原 (現在の松茂町長原)へ渡りたいが、近くに舟はなし。そんな時川向いに舟と農夫を見つけ、長治はその農夫に舟とともにこちらへ来いと呼び掛けさせた。しかし、距離が離れていたため農夫は殿の狩り障りがあると呼び掛けられたものと推し、草の中へ身を隠してしまった。これに長治は大いに怒り、侍に川を泳ぎ渡らせ舟を持ち寄らせ、長治自ら向かいの地に渡り、先ほど身を隠した農夫の探索を命じたのである。

多勢に無勢。農夫は呆気なく捕縛。恐怖のために震えながら「殿の狩りにお目障りになるやと思い、その場を掃けた次第でございます。」と、そやの理由を伝えたが、大いに怒る長治の心に届かず、近侍二名に農夫の両手を引き張らせ、自らの脇差しを抜いて農夫を大袈裟に斬り殺したのである。

f:id:awa-otoko:20170603215111j:image(長治自刃の地にある南無阿弥陀仏と彫られ石碑)

f:id:awa-otoko:20170603215353j:image(石碑裏)

 

その翌年 天正五年丑の春、長治は異父兄の掃部頭殿を陥れるため、秘密裏に勝瑞の館を出て仁宇谷へ向かっていた。長治の隙を窺って謀反を画策していた一宮長門守成祐(長治の叔母婿)と、伊沢越前守が長治の背後より攻めるという情報を入手した長治の軍勢は混乱して散り散りになってしまった。落ち残った近侍と長治は、渭山(現在の城山)まで引き帰り、淡路の安宅氏に匿って貰うことを計画する。土佐泊 森志摩守へ助任川まで舟を手配するように依頼した。

運悪く手配された舟は助任川に入るところを間違えて佐古川に入ってしまった。長治は是非なく陸行にて鳴門撫養まで赴く計画に練り直し、笹木野の東の洲を落ちていった。この時、舟衆の密告もあり、一宮と伊沢の大軍が押し寄せ、近士の姫田、佐渡、浜、隠岐は長治を護って討死した。農民の家で隠れていた長治であったが最早これまでと自害を決行したのである。長治はこのとき、辞世の句を残している。

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みよし野の 梢の雪と散る花を とや 人のいふらむ」。(三好長治:みよし ながはるの名を句に含めた粋な辞世の句である。死際にこんな余裕があれば逃げとおせたのではないかと考えるのは私だけか?!)

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奇しくも、この前年 天正四年三月廿八日は長治自らが脇差しを抜いて農夫を斬り殺している。翌天正五年の同月同日に同じ場所、農夫を斬り殺した脇差しで自らの腹を切ることになるとは、誰が予測できたであろうか。これを因縁と言わずして何と言うべきか。

長原の中程より北の松原の中に小さな祠を建てられ今も自害した長治の霊を慰めている。

それ故、長治(ながはる)自刃の地は、長原(ながはら)と呼ばれるようになったと云う。

ぜんぜん跡形ないぞ⁉︎ 阿波國國司廳趾‼︎(とその秘密)

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はい。今回は阿波国司庁跡の紹介です。題名にありますように、まったくもって国司庁跡とはわかりません。跡地はひと昔前から、一面田んぼに変わってしまっているからなのです。

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f:id:awa-otoko:20170601194714j:image国司庁跡に鎮座する天満宮

そんな阿波国司庁跡。現在では国府町や府中(こう)という地名が残り、国司庁跡近くの観音寺境内に鎮座する阿波国総社がその存在を物語っているだけとなってしまっています。

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総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(= 合祀)神社のことである。総社宮、総神社、総社神社などとも呼ばれることがある。多くは令制国の範囲で集めたものを指すが、荘園や郡・郷・村などの地域内のものを集めたものもある。祭神の合祀だけでなく、神社そのものの統合である場合もある。日本の律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化されたものである。(wikipediaより)

そんな史跡としては地味な阿波国府跡ですが、実はまだまだ隠された秘密があるんです。まぁ急がず、秘密を知る前に阿波国司庁跡の情報を古い文献から調べてみましょう。

第三十六代孝徳の朝國政の大改革を行ひ給ひ、國造を廃して國司を置き、一國を數郡に分ち郡を小別して郷と為し各長あり、國の体面一變するに至れり、此時我か阿波國は上古の粟長の二國合して國名を阿波と更め、國司廳を國府に置き、國司は四年毎に京都より交代し来りて治む。

其著しき者は山田古嗣の處々に池溝(三好郡古池、阿波郡浦ノ池)を掘り旱魃の患を除き、菅原道真の祖父清公(名西郡に所領地あり今の天神是なり)の仁政を施したる等なり。

f:id:awa-otoko:20170601211224j:image(三好郡古池)

阿波志に云「國司廳は府中村にあり其扯田となる、又御所の池の址草茫々たるも村民敢て鋤犂を加へず」延喜式に云「阿波國上國和名抄云阿波國國府、在名東郡、本是名方郡也、行程上九日、下五日海路十一日」と往年府中村字城ノ内御所ノ池(國司廳の趾)にて建築物の礎石たりし煉石を發見したりと稱するも、未だ確定せざる者の如し。

f:id:awa-otoko:20170601211307j:image(国庫の鍵が納められていた大御和神社)

読みにくいですが内容は面白いことを書いていますね。(実際これらの内容で、ブログをアップしている訳ですけども。。。)では、後にとっておいた阿波国司庁跡の秘密ですね。(はい、はい、おぼえてますよ。( ´Д`)y━・~~)

それではawa-otokoがズバリ秘密を明かしましょう。

 

阿波国司庁跡は、、、

ヤマトタケルの皇子 息長田別皇子の居住地だった場所。なのです。

 

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息長田別皇子を祭祀した国府殿ノ神社

人皇十二代景行天皇の御子日本武尊其御子息長別命 阿波君に成給ふ 今の府中村の地を国府として住給と国営を執行し給ふ 長田別命住給ふなるが故に長田郡と云又𨍭め名方郡と書く 和名抄延喜式等名方郡と出後に別れて名東名西二郡と成 長田別命の社中村に在 国府殿神社是也

(過去にフェイスブックブログページで紹介済みなので、知っている人はいると思いますが。)

 

現在、国府町中村に鎮座する天満神社は、本来は息長田別皇子を祭祀する国府殿神社だったようです。いつの時代に変えられたのかは資料がなく、わかっていません。

長田皇子は阿波の君(あわのきみ)に就任してから当地の近くに海城(あまぎ)を造り、その峯続きの気延山に阿波国一宮(現 天石門別八倉比賣神社)をも遷座させて阿波の国営にあたりました。まさに国府殿(阿波の君)の神社が当地に存在していたのです。

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阿波古代史関係では、近くの大御和神社や天石門別八倉比賣神社とかがメジャーで、阿波国司庁はスルーしがちなんですが、awa-otokoはこの阿波國司廳趾こそ大穴なのではないかと考えている訳です。それは長田別皇子を追えば… ○○が解るからです。(○○は秘密です。(〃ω〃) )

 

この秘密についてはおいおい出していきますね。それではまた。ヽ(・∀・)

劔の山 不動明王スサノヲ伝説

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剣山の明神は、木屋平の龍光寺と祖谷の圓福寺両別當の相持ちにて社も大剣小剣の二に分れたり。村人は此神を安徳天皇の御剣なりと云傳ふれど、正しくは忌部神なるべし。さて此剣山の祭禮に山村の女子が白粉をよろほひて、其の上に紅を以つて額又頬に十の字を書く、これは未だ婚せざる標とす。又神事にあつかる婦女は、す字を書く。上古よりの習俗なるべし。其故を知らず。

まだまだ謎が多い剣山。山津波が発生する以前は表参道であった垢離取より藤の池 龍光寺に続く剣山の古道を登山してきました。今回は阿波名勝案内に記された内容に沿って説明したいと思います。

阿波第一の峻嶺にして海抜六千四百五十二尺あり、本郡木屋平及び美馬郡東祖谷山両村に跨る、山嶺剣祠あり素戔嗚命を祀り四方篤信の徒少なからず、日本の名山霊區として人口に瞺炙す、山麓木屋平龍光寺(當山本寺)より登らむには、木屋平川に沿うて進むべく、五十餘町にして一の行場あり鬼淵と云ふ

f:id:awa-otoko:20170530231909j:image木屋平川沿い、川上に鎮座する妙見神社

f:id:awa-otoko:20170530232047j:image(行場であった魔鬼淵。槙渕神社)

岩石峨々として樹木蕃生す、岩下に深淵あり不動明王を安置す猶登ること十八町にして漸やく山脚に達す、垢離取川あり長さ十五間の鞘穚を架す、岩上に不動の尊像あり瀬登り不動と云ふ、また役の行者の像あり、之より十八町の坂路殊に嶮峻を極め樹木また蓊鬱たり久利伽羅坂と云ふ

f:id:awa-otoko:20170530232428j:image(垢離取川 元禊場)

f:id:awa-otoko:20170530232512j:image(垢離取橋)

f:id:awa-otoko:20170530232838j:image(垢離橋下)

f:id:awa-otoko:20170530233043j:image(瀬上り不動尊。役の行者尊像は流されて現在は無し)

柴折行者経塚等あり、大師自ら築きし處の法華経一字一石の塚なりと傳ふ、猶二町を登りて一の原あり案内休場と云ふ、爰所にて参詣人を揃へ本山を拝す、これより五町にして藤の池に達す古りたる木立の中宏壯なる堂宇あり剣山の前神は是なり、昔安徳帝行在の砌陣営に用ひ給ひし事あり故に藤の池陣屋とも云ふなりと、参詣者必ず此に宿す

f:id:awa-otoko:20170530233402j:image(藤の池 龍光寺:陣屋)

f:id:awa-otoko:20170530233637j:image(龍光寺正面)

f:id:awa-otoko:20170530233756j:image(龍光寺側面)

f:id:awa-otoko:20170530233537j:image(剱山本宮剱神社富士ノ池本社)

これより熊笹の生茂れる嶮道一里餘を上りて一の森に達し、更に半里を登つて二の森を超え平家の馬場に達す、平斜の地見渡す限り根笹一面に生茂り恰 も青氈を布けるが如く、之よりお花畠に達するまでの間に立てる樹木は、烈風のために凡て其の半面枝なく奇観限り無し

f:id:awa-otoko:20170531082808j:image熊笹が生茂る登山道)

f:id:awa-otoko:20170530234240j:image(一の森頂上)

f:id:awa-otoko:20170530234326j:image(一の森神社:ヒュッテ横鎮座)

f:id:awa-otoko:20170530234426j:image(阿波名勝案内に云われる平家の馬場。だと思う。)

f:id:awa-otoko:20170530234527j:image(二の森神社)

お花畑は剣山の頂上にあり畸形の躑蠋を以て満たされ、春時花發するの時紅白の美花、根笹の間に点綴して其美言ふ可がらず、之を過れば巨石あり高さ五丈寶藏亭と曰ふ四望曠濶群峯下にあり培塿の如し

f:id:awa-otoko:20170530234704j:image(剣山頂上)

f:id:awa-otoko:20170530234801j:image(剣山本宮)

f:id:awa-otoko:20170530234837j:image(寶藏石)

f:id:awa-otoko:20170530234940j:image(寶藏亭から観る木屋平集落)

これより不動の獄、覗瀧、三十五社、蟻の徑、小剣神社、見合石刀掛松等を徑て剣神社に達す、乃ち仰いて神石の突兀として天空を摩するを見、伏して御敷水の混々として盡きざるを瞰めば、何物か天来の神秘下りて我に莅むあり

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f:id:awa-otoko:20170530235259j:image(不動の岩屋 不動明王

f:id:awa-otoko:20170530235419j:image(覗瀧:現在のお鎖場。たぶん。)

f:id:awa-otoko:20170530235536j:image(お鎖場)

f:id:awa-otoko:20170530235659j:image(行場 鶴の舞)

f:id:awa-otoko:20170530235810j:image(両劍神社)

f:id:awa-otoko:20170530235939j:image(両劍神社内)

f:id:awa-otoko:20170531000106j:image(両劍神社御神体前)

f:id:awa-otoko:20170531000212j:image(両劍神社御神体祭祀場)

f:id:awa-otoko:20170531000316j:image(三十五社)

f:id:awa-otoko:20170531000409j:image(刀掛けの松)

肅然として襟を正し懼然として惰容を改めしむ、傳へ云ふ神石其形に似たるを以つて山名に名くと、又曰祠中神刀を祀る因て名くと、この他氷の橋、苔の岩屋、安徳帝の遊戯し給ひしと云ふなるお花畑(前に記せるものと異り)西島の穴禅定等奇絶壮絶を極めざる無し

f:id:awa-otoko:20170531000932j:image(大劍神社)

f:id:awa-otoko:20170531000711j:image(神石正面)

f:id:awa-otoko:20170531000630j:image(御敷水:御神水

f:id:awa-otoko:20170531001033j:image(神石側面)

小剣祠は數十丈の巨巌の下にあり、巌上嶮崚久しく立つ可からずと雖も眺望曠潤にして山海の勝を一眸の下に蔟む、當山は春秋雪を戴くを以つて夏季ならでは登山に堪へず、毎年七月中旬を以て剣社は祭典、龍光寺は法會を執行す

 f:id:awa-otoko:20170531002800j:image(藤の池 龍光寺 不動明王像)

はい。頂上から麓まで表立ちしないように不動明王が中心として祭祀されているように感じます。忌部祭祀や安徳帝をはじめとする平家伝説も途中から入ってきたものと考えられ、やはり原初の剣山信仰は宝剣の神石から。そしてその根底には不動明王ことスサノヲ信仰があったと考えられます。

f:id:awa-otoko:20170531010838j:image(藤の池 龍光寺境内)

以前に投稿した剣山大権現縁起の内容と被りますが、聖徳太子行基菩薩、役の行者、空海など歴史上の大人物が剣山に登拝していることが何より神威が大きかったことが伺えます。

とりあえず既出の情報を説明しても面白くないので片道一時間半かけて表参道を駆け上がった古道の状況をみて貰いましょう。

f:id:awa-otoko:20170531004438j:image(参道の巨石)

f:id:awa-otoko:20170531004604j:image(一定間隔で石門(巨石)が設置)

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f:id:awa-otoko:20170531004314j:image(一の森近くの磐座群)

f:id:awa-otoko:20170531004343j:image(磐座群の中にある陰石)

藤の池 龍光寺から剣山頂上に続く昔の表参道は、古代の祭祀跡と考えられる場所が点在しており、awa-otokoが確認した状況では手付かずの場所がたくさんあるように見えました。古代神スサノヲ(不動明王)の祭祀を継承させた行基弘法大師、役の行者。それらの古代から脈々と受け継がれ、修験者や山伏が歩いてこの藤の池の表参道を歩いていたのです。逆に見の越から剣山頂上までの昔の裏参道はかなり人の手が入っており、昔の風景を偲ぶのは難しいかと思います。藤の池の表参道を歩くのにはちょっとした脚力が必要ですが、日本史において活躍した者達が登拝に利用したスサノヲ信仰の路をゆっくりと歩いてみるのも良いと思いますよ。

さて、これからはこの剣山に祭祀されていたスサノヲが、どの素戔嗚命だったのか。また別の御名について調べていきたいと考えています。(答えがないのはわかっているんですけどね。( ;∀;) )