awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波三好氏は住吉神社の祭官家

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阿波三好家は清和天皇からの出自で本姓は源氏である。阿波国との関わりは、小笠原長清承久の乱源頼朝に従い阿波の守護に補せられたことから始まる。三好家は名門小笠原氏(信濃源氏)の庶流とされ、鎌倉時代に阿波守護であった阿波小笠原氏の末裔であり、阿波三好郡を本拠にしたことより三好氏を称した。

f:id:awa-otoko:20170506012255j:image(勝瑞城趾 勝瑞義家の碑)

f:id:awa-otoko:20170506012326j:image(勝瑞義家っていう人の碑じゃねぇっすよ!細川氏と三好氏のことが記された碑です。)

阿波の守護に任命された小笠原長清。其の子 長経は土御門上皇を土佐より阿波へ迎えた。長経の子 長房は郡領平盛隆を滅ぼし、長房より長久、長義を経て義盛に至り王事に勤めて功名があり軍忠状を賜わり、暫くは南朝に仕え忠勤に励みますが南朝が不利になり、細川氏が室町幕府内でも勢力を拡大し強大化するとそれに服した。阿波では細川氏の庶流の一つである阿波細川家が代々守護を務めたが、三好氏はこの阿波細川家の被官として勢力を伸ばしたのである。

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f:id:awa-otoko:20170506012613j:image(勝瑞城趾 見性寺)

この三好家について興味深いのは住吉村 住吉神社の神官を務めていたこと。住吉神社は過去にも記載したように表筒男命中筒男命底筒男命神功皇后の四柱を祀り、正安二年七月摂津住吉の津守國房の奉祀する處として由来頗り、古し社寳に住吉幽考秘記があり、右大将 源頼朝の置く處と傳られたと傳わります。住吉神社は三好氏旺盛のとき、領主と神官を兼ねたる大社にして三好義賢に祠職たりき、現時の社司は其末流なりと記録されているのであります。 

f:id:awa-otoko:20170506014608j:image住吉神社

これまでの調査から解ってきたのは信濃から阿波に(戻って)きた小笠原一族は領地領域を拡大するのは勿論のこと、古代から祭祀されていた阿波の古代神の祭祀権を掌握することに注力したようです。(小笠原一族末流である一宮氏も同じ動きです。)勝瑞城から程近い神社は数々あれど、なぜ住吉神社の祭祀権を三好家が掌握したのかということです。源平合戦の折に義経が住吉神に武運を祈り、結果的に御利益があったので頼朝の指図なのかもしれません。詳しい経緯は住吉神社の社宝である「住吉幽考秘記」記載されているのかもしれないですね。

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さて、久しぶりに投稿してこれだけの内容では物足らないと思いますので、阿波で有名?な三好長治にクローズアップしてみたいと思います。上記にある三好義賢(実休)の長子でもあります。それでは資料を転記しましたのでどうぞ。

三好長治は阿波の屋形彦次郎と称す。父の三好義賢は主君である細川持隆の寵妾 小少将局と通じ、相謀て持隆を殺し細川氏に代わり軍国の政を専にするにあたり局を納れて室となし、名を大形殿殿改む。大形殿は三好義賢の子を産む。長治と存保と云う。長治、性暗愚にして酒色に溺れ政道に心を用いざるを以って大いに民望を失い一族郎等叛く者多く、三好家の衰頺基極に達するに至る。長治の臣 篠原自遁は寵を恃んで威力を弄び、密かに長治の生母大形殿と通じて聲色を恣にす、其姻戚篠原紫雲之れを坐視するに忽びす事に托して諷諫(ふうかん)し、自遁の毒舌に振れて上櫻城に退き自殺せる。茲に於いてか三好家の一族之を憤らざる者無く、大形殿の持隆に侍して生めりし掃部頭眞之を奉じ、細川家の遺臣と謀り功名心燃ゆるが如き一宮城主長門守成助を謀主とし総勢二千余騎先つ長治の近習篠原玄蕃亮を今切城に攻めて之を屑る。長治之を聞きて驚愕爲す處を知らず急使を土佐泊なる森志摩守に馳せ淡路へ渉る船を艤(ふなよそおい)せしめ、自からは暗夜に乗じて城を出で、約束の場所なる助任川に来りしに船誤りて佐古川に入りしため之を求めて得ず遂に天明に至り、止むなく別宮浦に出で土人を召して急ぎ淡路に渉るべき船を命ず、土人中叛いて敵に通ずるものあり、須曳にして大軍殺到す、長治漸く逃れて長原浦に走り漁家に潜みしも、追兵のもとむる處となり従臣と共に自殺す。年僅かに二十五歳天正五年三月二十八日なりき、村民之を憐れみ祠を建てて之を祀り若宮神社と号す。

f:id:awa-otoko:20170506015133j:image(三好家当主の墓)

阿波三好家は長治の自殺より後裔に至っては遂に知るところなしと伝えられているものの実際は存続しております。小笠原長清より長経、長房、長久、長義、頼清、頼長、頼慶、慶信、慶長、長輝、之長、元長、長慶、義賢、長治、義明、長清、義房、友時、光盛、十兵衛、義右衛門、源右衛門、四郎右衛門、彌三郎(四郎右衛門と改称)、増蔵、五藤太、友五郎…

やっぱり三好家を語るのであれば長慶あたりを阿波の伝説と絡ませれば面白いでしょうね。残念ながら長慶のネタの持ち合わせは滝寺くらいしか無いですね。また機会があれば武将ネタを書きたいと思います。

んー、阿波古代史ネタも貯まってきていることで、そろそろ古代史ネタに戻らないとね。

朧夜皇子が隠したもの

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阿南市日開野町に鎮座する皇子神社は全県下に霊験あらたかなる神々の社として多くの修験者から厚く信仰されています。

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創立年代は不詳。祭神は大己貴命。寛保神名帳には「日開野王子権現、別当石塚村正福寺」、阿波志に「王子祠日開野に在り」と見えます。資料が少ない日開野 皇子神社でありますが、古老の口伝や古文書により以下の伝承が残されております。

遠く八百五十年前の平安時代末期に崇徳院の第三皇子 朧夜の皇子がわずかな罪に問われ、その折遠流の憂き目にあわされた。近習一名、侍女一名、白馬一頭を従え、身のまわりの家具だけ持って阿波に向けてお発ちになり、途中紀伊渚の郡加田の浦にてしばらく休まれ後に阿波に入船した。

朧夜の皇子は日開野村の当山を皇子山と名付け、鳥居と社を建て「皇子大権現」と称してその在所を日開野・七見・中村とお呼びになった。
のちに皇子の舎人はニ宮権現と称し山下に社を設けられ、所持した船は七見村に納めて船戸神社と号した。主馬は馬頭大王と号して右ニ社祠に納め、馬具等は山上の三ヶ所に納められた。これより山上付近の塚は「諸人の踏み入れ申さぬ様注連をひき置き候」とあったそうである。

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はい。阿南市日開野に入ればその存在が嫌でも目に入る王子山。当時皇子山は浅瀬に浮かぶ島だったようです。(長国の沿岸部・小島は古代海人族の直轄地の可能性が高いのですが… 今回は崇徳院の皇子 朧夜皇子伝説で進めます。)

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「王子山古墳群」の標識に沿って王子山の山裾を南に回れば遊歩道が整備されており、山頂付近の古墳群まで行くことができます。おっとその前に、、、遊歩道の手前にはニ宮権現、または馬頭大王と考えられる祠たちがあります。こちらも見逃さず確認しましょう。

遊歩道まで急傾斜な階段を登れば6、7世紀に築造された古墳時代後期の古墳が3基を確認することができます。全て円墳だそうです。2号墳は上部が開き横穴式石室であることがわかります。(この山の規模ならまだまだ古墳は存在しそうに思いますが… )

f:id:awa-otoko:20170422205013j:image(掲示板、見にくくてすまぬ。)

f:id:awa-otoko:20170422205027j:image(二号墳)

f:id:awa-otoko:20170422205050j:image(一号墳)
さて、上記の引用から考えれば古墳三基は馬具等を納めたものとも考えられるのですが真偽の程はわかりません。現在確認されている三基の古墳のうち一号墳と三号墳は未盗掘で未調査と推測しますので、古墳を調査をすれば朧夜皇子所縁の古墳であるのかどうかはっきりするのでしょうが、状況を考えれば無理でしょう。そもそも確認されている古墳は円墳ですのでもっと古い年代に造成されたものかもしれません。(個人的にはそう考えてます。:現状の調査結果を否定するものではないですが。)

朧夜の皇子は王子山に何を隠したのでしょう?こちらは古い時代より修験者の出入りが激しかったことと、紀伊国渚の加田の浦がヒントなのでしょうか。海洋ルート的に「熊野」かもしれないですね〜。 

ともかく、なかなかこのような手の入っていない古墳群を間近で見ることはありませんので、興味がある方は見学してみることをお勧めします。もしかしたら朧夜皇子が隠蔽した「何か」を見つけることができるかもしれませんよ〜。今回はちょっとはっきりしない皇子伝説でした。(≧∇≦)

古代の女神達を鎮めた川除大明神と龍王

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f:id:awa-otoko:20170417225026j:image(字が見えにくい〜。)

川除けとは堤防のことである。川除大神宮は龍蔵堤の守り神として祀られたものである。西から流れ来た吉野川とその支流、新宮川(現在の神宮入江川)はこの付近ではほぼ直角に流路を転じ、北流していた。このため徳島城下を洪水から守るため早くから堤防が築かれたが、吉野川の洪水を正面から受け止める堤防であったため、しばし決壊し、修理を繰り返した。川除大神宮は元文五年(千七百四十年)に芝原村西沢地区の人達が堤防の安全を願い建立したものである。県内で確認されている堤防の守護神としては一番古いものである。一般に川贄(かわにえ)さんと尊称されており、庄屋の身代わりとなった龍蔵の悲しい人柱伝説を伝えている。(川除大明神 石碑より)

国府竜王団地の外れにぽつんと鎮座する川除大明神でございます。別名、川除大神宮や川贄さんとも呼ばれており、以前から大神宮の名が気になっていたので調べてみた訳ですが…

f:id:awa-otoko:20170417225047j:image(見えにくい〜。)

【龍蔵人柱伝説】

当時、幾度築いても洪水のたびに流失を繰り返す堤防の復旧について庄屋を始めとする村の世話役達が集まって相談した。相談の結果、明朝芝原から第十に通じる街道を一番に通行する者を人柱にして新宮川の神に捧げることになった。庄屋は村人のために我が身を捨てて自らが人柱になることを決意していた。庄屋は自分が人柱に立つことを家人にのみ伝えて白装束を用意させてから床についた。その話し常々庄屋から世話になっていた龍蔵が聞いてしまった。龍蔵は日頃からのご恩を返すために庄屋の代わりに自分が人柱になろうと考え、庄屋より早く街道を通行して見事人柱の役目を受けたそうである。龍蔵が人柱となって造られた堤防は洪水になってもびくともせず、村人は龍蔵にとても感謝した。村人達は堤防の上に祠を建てて龍蔵をねんごろに祀り、完成した堤防を龍蔵堤と名付けて龍蔵の義挙を深く讃えたのである。

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f:id:awa-otoko:20170417225131j:image(龍王の板碑群)

龍蔵堤こと川除大明神の祠の横には「竜王の板碑群」。板碑は七基が現存し、南無阿弥陀仏のほか建武四年(1337)の銘が刻まれています。この背景を考慮すれば、龍蔵堤を造成する遙か昔から当地に古墳群(もしくは墓地群)が存在していたのではないでしょうか。
当地一帯は「竜王」の名がつく場所であり、豊玉龍王を祭祀する八大龍王神社により付けられたとされています。その他に別宮川(吉野川)へ流れ込む神宮入江川の氾濫伝説が数多く伝えられていることから、神宮入江川を暴れ狂う水龍に例えて付けられた地名であったのではないかとも考えられるのです。

f:id:awa-otoko:20170417225239j:image(地図に昔の水流を書き足してみました。)
神宮入江川は、沼河比賣を祭祀する関の大神宮と豊玉比賣を祭祀する大神宮の二つの大神宮を中心にして流れる川でした。この大いなる二柱の女神達の神威(神宮入江川の氾濫のことね。)を鎮めるために川除大明神の他にも様々な結界や神を配置しているのがみてとれます。地図で確認すると神宮入江川(跡)の流れが急角度で曲がっていた場所にはそれぞれ神社を配置しているのが確認できるのです。

江戸時代に川除大明神として「龍蔵人柱伝説」が出来上がる以前に川除大明神と大神宮の原型は存在していたのではないでしょうか。というかその原型を利用して龍蔵堤が造成されたのではないかということです。

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f:id:awa-otoko:20170417232744j:image竜王地区の八大龍王神社)

awa-otokoは竜王地区に鎮座する八大龍王神社は古の女神達の神威を鎮めようとした女神達とはまた別の神の所縁の場所ではないかと考えています。

そして先にも記したように人柱になった龍蔵が神格化されて川除大明神とになったのではなく、川除大明神はそれ以前に存在していた可能性が高いです。(龍蔵の名前の中に龍王の「龍」が含まれているのも何か意味があるのではないかと考えています。)

豊玉比賣の神宮から流れる水流と、沼河比賣の神宮から流れる水流が合流する地点に八大龍王神社が鎮座し、鬼門封じに「龍蔵」を祭祀したされる川除大神宮が鎮座している配置。その他に付近で祭祀されている天神も調べればさらに興味深い事柄が出てくる可能性が高いです。豊玉比賣とは違う別の龍王の存在が…

ではでは、長くなりそうなので今回はここまで。また何わかったら続編書きたいと思います。(≧∇≦)

灰燼に帰した童学寺(本尊以外の伝承物はどうなった!?)

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2017年3月25日午後5時30分頃、庫裏(住居兼台所)が火元とみられる火災が発生した。本堂及び庫裏などの建物が全焼したが御本尊の木造薬師如来像は運び出されて無事だった。

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f:id:awa-otoko:20170415181650j:image(3/25 火災の様子)

はい。火災の記憶が新しい童学寺でございます。あの火災からどうなっているのか気になって状況を確認してまいりました。その前に過去記事をどうぞ。

童学寺の寺伝によれば、弘法大師ゆかりの寺として有名ですが、そもそも弘法大師が生きた時代よりさらに前に存在した寺なのだそうです。中国から仏教が伝来した時代、"律の寺"として唐招提寺と同じころ建設されたと伝わります。

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その伝承について裏書きするかの如く、寺に隣接する「石井廃寺跡」は奈良白鳳時代の様式であり、そこから出土した古瓦などの考古資料はその時代のものと判断されています。

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また、童学寺に遺存された文化財は本堂に藤原時代に製作された薬師如来像、その脇侍とされる日光菩薩像、持国天多聞天の像などが存在していたそうです。さらにはこれらの仏像よりさらに時代が遡るとされる阿弥陀如来も存在していたそうです。

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このように阿波における藤原時代の仏像の宝庫だったのが童学寺なのです。そしてこれら現存していた文化財から考えられるのは、石井廃寺が藤原時代まで続いた後、童学寺がそれらを引き継いだということなんです。 

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さて、、、皆さまがご存知の通り童学寺は火災で全焼したということなのですが、上記に記載した文化財の全てが救済されたとは報道されておりません。(本尊のみ持ち出しで救済されたそうですが… )また、火災の原因も詳しくは報道されてなくて、awa-otokoは釈然としないというか、なぜか胸中にモヤモヤが残っているのですね。(釈然としない部分は心中に隠しておきますけど。。。)

この部分を確認したくて現地に確認しに行ったのですが、本堂周辺は立ち入り禁止でロープを張られて確認することが出来ませんでした。(立ち入り禁止区域に進入して撮影するとか不謹慎なことはしてませんよ。)しかし、こんな状況でも寺の催事は行っているようでしたし、寄付の瓦なんかもあったり、大型観光バスなんか来て参拝客を運んでいるのですね。まずは復興することが先決なのでしょうが、先にすることがあるのではないのか?とか考えてしまうのは私だけなのでしょうか。

ともあれ、文化財や引き継がれたものが無事であることを祈るのみです。なんせ阿波国 白鳳時代からの宝庫なのですからね。ん〜、何だかなぁ。書いてて後味悪いわぁ。。。まだまだ書きたいけど、ここらで止めておきます。 (-_-) …。

神が去った阿波を統治した氏族

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はい。Facebookのブログ投稿にてちょっとだけ告知したモザイク半分の謎の書。それは阿波国古城諸将記」でございました。こちら元亀四年に記されたもので題名の通りに阿波の古城とそれを治めた城主を説明している書なんですね。

阿波国開主太玉命也 忌部主祖也 櫛明玉命也 天村雲命也(伊勢神主上神ナリ)此二神阿波麻植ニ鎮座ス 後東国ニ移住(安房国忌部社是也)其後武内宿禰領阿波云云

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前書きの前書き。これを見て後の記録を確認してくださいという重要な説明です。当書では阿波国の祖神を天太玉命とし、天村雲命・櫛明玉命の忌部神が他国へ移動してからは武内宿禰が阿波を治めたと記録しています。Facebookではここまで出しましたがモザイクを外したものを用意したので続きを解読してみましょう。

神武天皇から八代目にあたる孝元天皇の後胤、武内宿禰仁徳天皇の御代まで生き(三百十六歳)、高良大明神となられた。

もちろん人間がそんな長生きする訳はなく、武内宿禰の名を同族が世襲していったという解釈でよろしいとかと思います。

さらに武内宿禰の後胤、阿波真人広純は天智天皇の御宇の人。その十二代孫 阿波助国風は朱雀天皇の人。そして阿波助国風の子が桜間文治行直。さらに行直の十代孫には桜間外記太夫良連。良連は跡取りに恵まれなかったために甥の良遠を養子に迎える。その人が桜間助良遠。

ややこしいけどついてきて下さいね… 

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良遠の兄には阿波民部太夫成良。成良の子、成直(一説には教能)。そこからの系譜も脈々と続いて桜間助良遠の後胤が宗家となり後醍醐天皇の御宇までを記録されている。

成良の記録からは田口姓を名乗ったのは誤伝で本来は粟田姓であったと云われています。桜間の名は地名を採用したものでしょう。この成良から千波足尼との関わりを見いだしたかったのですが残念ながらこの書では関連付けすることができませんでした。

書には小笠原氏、細川氏の説明が続きますが、明らかに前書きの主軸は武内宿禰の後胤であるように感じます。当書の前書きからは武士が力をつけてくる平安時代末期までは阿波は武内宿禰の系譜を中心に統治されたようです。そして鎌倉、南北朝時代源平藤橘の系譜が入り混じって本格的に氏族同士で混迷を極めていったのではないでしょうか。

以下の頁から阿波の古城と城主の説明に移ります。前書きほどのインパクトはないですが、時折「おっ!」っと唸る内容が記載されてい箇所も含まれています。

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この頁からは各城と城主の知行、出身氏族の説明が記載されています。全体的に源氏(小笠原・三好・甲斐源氏含む)が多いのは平氏の落人狩り、監視を目的で阿波に入ってきた武将の系譜が多かったのだと考えます。やはり何かと有利だったのは源氏の血筋であり、勢力拡大に向けて系譜仮冒した武将が多かったのではなかったかと考えます。

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一宮氏は三千貫の知行。かなり飛び出してます!

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佐那河内城主は古代氏族 蘇我氏の系譜!

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終わりに。

当書には古代阿波で活躍した氏族が間違いなく含まれています。一つは一宮氏。この氏族は一般的に小笠原氏源氏の支流で説明されていますが、本来は大粟山で大宜都比売命を祭祀を継承してきた古代氏族でしょう。(粟国造粟凡直氏族に養子に入ったのが一宮氏。)

そして武内宿禰の系譜は田口氏。武内宿禰の後胤は桂浦(勝浦郡)に居城を構えていたことが有名ですが、実は大粟山 上一宮大明神は田口大明神として一時的に祭祀されていた時期もあります。また神山神領 長満寺付近は田口成良の居城でもありました。

今回テーマとして挙げた武内宿禰の系譜としての田口氏、そして以前から提唱している粟国造粟凡直・千波足尼から田口氏との繋がりを解明することで新しい見解が得られると確信しています。見通しの悪い案件ですがこれからも継続調査してみたいと思います。