awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波で相伝される宇豆売の舞

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鳴門の撫養(岡崎城)跡に鎮座する妙見神社に参拝した折、太々神楽を間近で見学することができました。今回は伝承を絡めながら紹介したいと思います。

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まずは鳴門妙見神社のご紹介から。

撫養に没した室町幕府10代将軍 足利義植が妙見尊星を勧請し社殿を造営したのが鳴門 妙見神社の起源とされています。

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その後には四宮加賀守が城を構えましたが天正十年に長曾我部元親に攻められ兵火にかかり敢えなく落城します。天正十三年には蜂須賀家政が阿波に入国し、当地に阿波九城とされる岡崎城を築きます。

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f:id:awa-otoko:20170406232727j:image(実は神社裏の石垣は築城時の石垣なのです。)

城番に益田内膳を置き守らせていましたが、寛永十五年、一国一城令により廃城となりました。後に城址に神社を鎮座させたのが現在の妙見神社なのです。

 

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さて、たまたま参拝した日が偶然にも太々神楽開催日でして、巫女さんにも「是非お入りください。」と誘われましたので間近で太々神楽を見学させていただいたのでございます。

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さて神楽、太々神楽とは何なんでしょう?
太々神楽は阿波の代表的な神楽であり、二月から四月にかけて徳島県東部を中心として多くの神社の春祭りに奉納されているそうです。

神楽
一般に、「かぐら」の語源は「神座」(かむくら・かみくら)が転じたとされる。神座は「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったとされる。古事記日本書紀の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。(Wikipediaより)

太々神楽は本来、伊勢神宮で行われた神楽をいい、神社の御師(おんし)たちが参拝者に代わって神楽を奏した「代神楽」の意味であると言われています。近世には御師たちが地方をまわって伊勢神宮のお祓いとし、御幣や御剣を振り悪魔退散・家内安全を祈願した祓の舞を「太神楽」と呼ばれました。徳島県下に伝承される太々神楽はこれらが起源になっているとされています。

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まず神前に大きな榊山を立てて、多くの金、銀の紙を榊の枝に結び、木綿(ゆう)、紙垂(しで)を懸けて、前に五色の御幣を立てます。神社総代や当屋が参列し、宮司大祓詞を奉上したあとに巫女が奏楽に合わせて榊山のまわりを舞ながら、銅(かね)拍子をすり合わせます。

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最初の舞は「宇豆売(うずめ)の舞」で、オカメの仮面をつけて宇豆売命に扮した巫女が大麻(おおぬさ)や鈴を鳴らして榊山を巡ります。この舞で神霊の発動を導きだすとされ、宮司祝詞をあげて祈念するのであります。

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次に「久米(くめ)舞」という御剣を曲芸風に振り回し、斬りはらう所作を繰り返し榊山を回る悪魔祓いの意味が強い舞が奉じられます。この「久米舞」では、実際に剣の刃を握って舞う「つかふり」という所作が存在するそうです。

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驚くことにこの所作を含めた神楽を奉仕できる巫女は徳島市内の宮崎、藤川の二家のみとされ、代々母娘伝承により貴重な神事芸能を守っています。太々神楽を奉納する神社が徳島県東部に集中しているのは限定された奉仕者との関係があるようです。

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残念ながら今回、久米舞は確認することができませでしたが、まだ春祭りが開催され太々神楽が奉納される神社があるかもしれません。そこで運が良ければ「久米舞」、「つかふり」が見学できるかもしれませんね。

という訳で、本来は伊勢神宮発祥とされている太々神楽ですが、阿波にこのような限定された神楽相伝家があることをみれば一概には伊勢神宮発祥とは言えなくなるのではないでしょうか。そもそも伊勢神宮の外宮は阿波から行ってますし… ね。(〃ω〃)

水都 徳島 : 渭水の役割

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徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部に位置する。吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城である。
渭山城・寺島城
この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けたとされ、または富田庄(のちの徳島)の地頭として来任した河野通純が1272年(文永9年)に築いたともされる。渭山の名についても、西から見た姿がイノシシに似るため猪山と呼んだという説もある。『城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される。
徳島城
戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年(天正10年)には土佐国長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。1585年(天正13年)、豊臣秀吉四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。(Wikipediaより)

概要を書くのが面倒だったので冒頭から引用文をコピペしましたw(でも、大事なので引用文はきちんと読んでネ!!)

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さて、徳島市内で生活する方は皆んな知ってる徳島中央公園と城山。当地一帯は鎌倉時代に富田荘と呼ばれて桓武平氏を祖とする河野氏が支配していました。南北朝時代に入ると足利尊氏に仕えた細川頼之が治めて助任川と新町川の間の中洲上の小山であった当地に城を築きます。その後は細川氏の臣である森飛騨守高次が居城したと記録に残ります。

f:id:awa-otoko:20170401223649j:image(渭水見聞録をまとめた書だぜ☆)

f:id:awa-otoko:20170401223709j:image(この頁、中央より森飛騨守関係の文有り。)

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はい。出てきました。まずは森飛騨守から。

 切幡城・秋月城を治めた粟国造粟凡直氏族の森氏(秋月氏)は、一時期ですが渭水城(徳島城)にも居城していました。冨田庄を統治した水軍河野氏、そして後に阿波水軍となる森氏は、戦国時代に阿波国を治めた細川家・三好家の舟師として活躍した海の豪族でした。

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これらを考えても「渭水の城」は、徳島城を築城する以前から海に繋がる水路の要塞で海の豪族達の拠点だったことが明確で、「渭ノ山」に綿津見(海神)豊玉比賣命: 竜王祠が存在した理由はそこにあると考えています。 

猪山と呼ばれた城山本来の名とは「渭ノ山」でした。なぜなら「渭水」の流れこむ「渭ノ津」にある霊山だったからです。その内容を補強するものが、拙ブログに耳寄りなコメントを度々入れて戴いているEizo Iwasaさまの「渭水」についての情報発信でありました。

「渭水」とは本来、「鮎喰川」を指し、のちに徳島城下を流れる全ての川の総称となったのだそうです。下記に一部を引用させていただきます。

蜂須賀家政は、徳島の城下町を建設するに先立って、吉野川、鮎喰川、園瀬川の流路変更工事をした。鮎喰川は、本の名を「渭水」といって、かつては、この蓬庵堤を斜めに横切って、佐古川、田宮川、新町川、助任川、寺島川(徳島駅建設により消滅)につながって、直接、海にそそいでいたのである。「渭水」という名前をつけたのは、聖徳太子で、その人のお墓は、ここです、といって、タタリ谷常厳寺に案内された。(中略… )

おそらく、『阿波風土記』には、「鮎喰川、本名を渭水という」と書かれていたのだ。細川頼之も、風土記を読んで、渭水という言葉を使いはじめたのではないか?だけど、その出典を秘したので、細川頼之が命名したかのように誤解され、それが通説になってしまっているのですよ。『渭水聞見録』という徳島藩の史書がありますが、この本の著者、増田立軒も「渭水」とは徳島城下を流れるすべての川の総称であるという認識のもとに、その本のタイトルに「渭水」を使用していると思いますよ。(「ぐーたら気延日記」内「城山を大事にしよう」へのコメント再掲より一部抜粋)

このように佐那河内や神山まで八百万の神々が五穀の種を携えて遡上していた「渭水」の中洲である「渭津(いのつ)」。そこを拠点に選定した蜂須賀家政は、秀吉の許しを得て阿波国経営に乗り出します。

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家政の築城工事は城山上の本丸、二の丸、三の丸辺りの工事を手始めに、本丸を備えた山城と御殿が並ぶ山麓の平城で構成された城を築城。

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城郭と城下町の再構築では、北は吉野川、南は園瀬川を外郭とする大規模な城下町を形成しました。

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この徳島城下の再構成によって「渭水」の流れは大きく変化します。蓬庵堤造成や、支流を堀として流用したことで古代から最大に機能していた一宮・神山地区へ水路も変化したと言えるのです。

と、いう訳で長々と書いてしまいましたのでまとめますと、、、

「渭水」とはもともと「鮎喰川」であったが、「渭山城: 玉島」なる古代からの海人族(森氏など)の拠点地周辺の支流にも用いられた。そして綿津見(海神)豊玉比賣命だけではなく、渭水を利用し、船戸の神としての猿田彦大神大麻彦命)を板野郡、那珂郡遷座し、祭祀を移動させていったのも古代の海人族の流れをくむ森氏によるものではなかったかということなのです。

いもじ村の天目一箇命は治水技術も伝承させたのか?

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吉野川にかかる六条大橋北方の上流、高瀬潜水橋の近くに立派な神社が鎮座しています。天津彦根命御子神、天麻宇羅命(あまつまうらのみこと)、天之麻比止都禰命(あまのまひとつねのみこと)とも呼ばれ、天照皇大神が岩戸に隠れたときに刀斧・刀物・鉄鈬など造った鑄工祖神 天目一箇命(あめのひとつのみこと)を祭神とする天目一神社です。

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ここ天目一神社の周辺には古来から多くの鑄物師が生業として生活していました。名工と名高い六右衛門もこの地の人間ということです。

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いもじ村七右衛門知行場
阿部紋右衛門、多田三太夫、田村彌右衛門、東條清左衛門寛政九年十一月◇日御帳の為高瀬村へ御下渡に相成御座候、此地所は舊藩士宇野長治兵衛給地に相當其子孫村山安兵衛代中に被召上御蔵地と相成候、當地處明細は天目一神記録に在亦中輿の御吉例により、享和二戊年前形に倣ひ灯籠鑄直し奉献上、其砌鑄造人六右衛門への御嘉賞の御墨附奉頂戴、亦高瀬村の鑄造始めは天平年中との申傳、往古より鑄職業者天目一神社氏子本村に絶ず引続有之阿波國一圓最も第一農耕器の鍬の鋒鑄造営業者近時處々有之も天保年間迄は高瀬村の特産物に有之是即金物造りの祖神 天目一箇の御徳也。

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その他にもこのような伝承も残されています。

七十六代 近衛天皇の御宇仁平三年癸酉四月、御所の紫宸殿には毎夜となく化け物が現れて異様な鳴き声を発して人心を悩ますことが甚だしかった。帝から退治の命を受けた源三位頼政がこの化け物を射たとき、化け物が騒ぐ風で御殿の灯は殆ど消された。しかし天目一箇命を祖神と仰ぐ鑄物師が鋳造して奉献した灯篭の灯は消えなかったという。

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灯篭などを朝廷に度々献上し、畏くも数度に亘り御綸旨を拝受し、また、朝恩により鑄物師御許状をいただいたりしています。こうした由緒ある天目一神社を崇敬する鑄物師の村ということから、此処を鑄物師(いもじ)村と呼ばれて、高瀬鉾とその名を全国に知らしめていたのでありました。

はい。吉野町の神社をテーマにした投稿の際に少しだけ紹介しました天目一(あめいち)神社。引用にもあるように、かなり古い時代(天平年間以前)から天目一箇命を祖神とする鑄物師集落として全国的にも有名だったようです。

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また、この天目一神社には合祀された祠も境内石碑に記録されている内容をみると、天目一箇命主祭神とされているのは当たり前のことですが、火や金属を連想させる天目一箇命のほかに水の流れを意識させる蛭子神、船戸神が含まれているのがとても興味深い内容だと思います。(それより宮城神と金泉神ってどなた?國中神もいる。)

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鋳造に必要な材料、玉鋼を産みだすタタラ製鉄は六世紀以前に朝鮮から渡ってきたとされています。当社周辺の状況も調べてみると、製鉄技術・鋳造技術と一緒に牛頭天王も入ってきたのか、八坂社、天王社が鬼門方向へきれいに並んでいます。個人的には天目一神社を起点としてスサノオ牛頭天王)で鬼門封じが施されていることがとても気になっている状況です。

f:id:awa-otoko:20170330223204j:image(増水時には宮川内川と吉野川の水流が高志・高瀬に流れ込む)

スサノオの御神威によって霊的に高瀬・高志地域を護っている状況から、スサノオが高志のオロチ(吉野川の水流)を退治(治水)したことに繋げていいのかどうかはわかりませんが、神代より農耕機、武器等が生産された当地において天目一箇命が製鉄・鋳造技術と治水技術も同時に伝えた可能性があることは否定できないと考えます。

高瀬・高志地域の本当の産土神スサノオなのか、伝承通りのアメノマヒトツネ(天目一箇命)なのか、はたまた全く予想だにしない別の神なのか… 今は謎が深まっていくばかりです。こちらについてはまぁまぁ気になっているので高瀬・高志の周辺伝承や地名由来などをさらに広げてこの謎のヒントを探ってみたいと考えています。

新田大明神の居城 八つ石城址

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阿波西部の山間奥地を開墾した者は地方豪族や源平合戦南北朝争乱、応仁の乱等の落武者などであったと推察されています。

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八つ石城はそれら山岳武士が立て籠もった城でありました。頂上の周囲を三段にきった横掘と攻撃軍が横に連絡できないように造られた縦掘が現在も残っていて、当時は掘の中に逆茂木が植えられていたと推測できます。

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祖谷の山を中心に篭った南朝方の武士は、ふだんは城の後方から尾根づたいに連絡、集落で農業を営んでいたようです。いざ戦いという時には婦女子をウバダマリに退避させて当地で陣を敷き、決死の戦いに臨んだのでしょう。

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さて、八つ石城の城主は誰でどのような戦いがあったのかは歴史の中に埋れて定かではありませんが、里人の伝承では新田義貞の弟 脇屋義助の長子である脇屋義治が城主であったと伝えられています。

楠木正成新田義貞の死によって南朝方の勢力は弱まっていた。四国の南朝方に加勢するため興国元年(1340)四月三日、脇屋義助(義貞の弟)が四国の大将として伊予へ遣わされた。
義貞の子義宗、義助の子義治ならびに弟義広も出羽国から伊予川之江城へ入った。ところが、義助は伊予へ入ってわずか二十日足らずで亡くなってしまった。これを知った北朝方の阿波守護細川頼春が阿波、讃岐、淡路の大軍を率いて池田の小笠原義盛を味方に引き入れ、川之江城を攻め滅ぼした。
天授元年(1375)のころ、脇屋義治は父義助が大将軍であった四国地方に向かい、父が伊予で病死した事を知ったので阿波の当地に潜入した。義治は三好市井内谷(いうちだに)の地福寺へ入り、祖谷の南朝方の助けを得ようとしたか、やがて祖谷の徳善治部、菅生大炊助(すげおいおおいのすけ)、西山民部、落合左衛門尉(おちあいさえもんのじょう)らと連絡がつき、自分は八石城を築いてここに籠った。そのうち菅生大炊助、西山民部が北朝に味方し、やがて八石城も落城。義治はかろうじて身一つで阿波郡日開谷山(あわごおりひがいだにやま)へ逃がれたという。義治は日開谷山に潜んでいたが、やがてここも危なくなり貞光の山中へ逃げ込んだという。
応永二十六年(1419)七月十四日没。菖蒲野(しょうぶの)へ葬むられたが、後に新田大明神と言い伝えられるようになった。

義治は山岳武士と力を合わせて八ツ石城を築き、最後まで南朝のために戦ったと伝えられている。八ツ石城は南北朝時代の山城で、河内の千早城を見倣った城ともいわれ、県下で最も代表的な山城跡なのである。

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このような義治城主説の真偽は明確にする方法はありません。ただ、三好郡を中心にして新田一族を祀った新田神社が三七社以上、墓所は数十個所残されており、その場所にはそれぞれ義宗、義治が来たと伝う口碑伝説が付随しているのであります。

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四国に入った事が正史に見えるのは、義治の父 脇屋義助のみでありますが、悲惨な末路を遂げた新田一族の霊を慰めるために宮方に属した山岳武士が、望みを託した脇屋義治こと新田大明神を奉祀し、伝承伝えたものであったのかもしれません。

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今回テーマに挙げた南北朝時代の阿波山岳武士の動向はひじょうに重要なもの。源氏と平家、北朝南朝の武士の動きは古代氏族の流れを汲んだ武士達の痕跡そのものであり、繰り広げた戦いや活動拠点はは城址、または神社として残されています。

多くの武将がそうであったように所縁がない場所に突然拠点を置いたりしません。新田氏は純潔な源氏の血を引いた氏族であり、小笠原源氏が池田・三好に拠点を置いたように新田氏も何らかの目的から阿波に入国した可能性が高かったのではないでしょうか。中世の武士達から古代氏族の流れを掴む。今後も進めていきたいと考えています。

 

オマケ

八つ石城には脇屋(新田)義治伝説のほかにも面白い伝説が残っています。それは犬神伝説です。

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この八つ石城は出城との連絡に犬を使っていました。本城では出城で飯をもらえ。出城では本城で飯をもらえ。ということで、この忠犬は両城の中間で死んでしまったといいます。現在は犬神様として祀られているらしいですが、これは八つ石城の苦闘を偲ばせる口碑であった可能性があります。平地が北朝、山地が南朝勢力範囲に入っていた状況から平地と山地との連絡方法を示していることが考えられるのです。

御諸(ごしょ)の大墓宮と吹越大明神の謎

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現存する處の一條五條七條の村名は、御所を設くるにつき京都の御所に倣ひて一條より七條まで定めし者の残れる傳なり。一條五條七條は大墓宮と傳ふ。

Facebookにて独り言として掲載した文ですが、実は続きがありました。「御所屋敷の南方にあり大墓宮は土御門天皇の御陵なりと傳ふ。」という続きが。

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御所屋敷は御所村大字吉田にあり、御所神社は其の屋敷内に鎮座す。口碑傳ふる處によれば御所屋敷は土御門天皇行在所の遺址にして、當時天皇土佐より阿波国に還幸あり神御所に入らせられし風聞北條氏の耳に入り討手を差向けたれば、天皇は一旦宮河内谷に逃入り給ひしも、御運拙くして御生害あらせられしなりと云ひ、到る處古跡を存し又古文書を蔵するもの少なからず。されど宮河内谷に於て自殺せしは土御門天皇に非ずして、阿波在廳藤原師光第四子、紀成良の遂ふ所となり、宮河内谷に於て自殺したるを、後世誤り傳へて天皇と爲すに至りしなりとの説もあり。

はい。awa-otokoは以前も書いたように当地において土御門上皇が自殺したなどとは考えておりません。西光(藤原師光)の四男 広永が宮河内谷にて紀成良(田口成良)に追い詰められて遂に自殺した伝承の方がしっくりくると感じています。 

そして御所屋敷の南方に存在していた大墓宮。こちらも土御門上皇の遺址として伝承されていますが、「吹越天王」の「天王」が「土御門天皇」の「天皇」と混同されてしまったのではないのかと考えています。

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岩利大閑氏の 『道は阿波より始まる』 (その一) に記された一文を確認してみてください。

日靈女命により近代化された米作に加え、須佐之男命によって初めて鉄の生産が伝えられ、急速に阿波国は発展していきました。須佐之男命は大倭の真神原では阿波神社岡山県玉野地方では八浜の快神社、諸国では八坂神社、祇園神社等で祀られますが、阿波一国のみで熔造皇(ヨウゾウノスメラ)神社と称されています。また伊太乃(いたの)郡 御諸(ごしょ)地方では、吹越(ふっこう)大明神とも称します…

御諸 大墓宮に対して吉野〜上板の一條、五條、七條の地名はひじょうに深い関係があるとのこと。当地周辺は、「続日本記」神護景雲元年3月(767)の条では、板野・名方・阿波等3郡の凡費を称する人々が、改めて粟凡直を名乗るように陳情して認められていたり、「三代実録」貞観4年9月の条「阿波国従五位下行明法博士粟冗直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」と記録が残ります。ご存知、粟国造粟凡直氏が幅を利かせていた地域なのです。

そして近頃あちこちで聞くようになった「田上郷戸籍」。こちらにも粟氏・凡直氏・粟凡直氏が圧倒的多数を占め、忌部や物部の古代有力氏族や、服部・錦部・秦・主村・漢人等の帰化系の氏族名が多数記載されております。

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これらの内容から、当地御諸地方より板野地方にかけては古代より複雑な人口構成だったことがわかりますね。

今回は何を言いたいかと申しますと、御諸の地 吹越大明神や大墓宮は土御門上皇の遺址ではなく、何かの古代氏族の祖神の祭祀場所、または大王級の宮跡や陵墓が存在したのではないかということなのです。

ともかく古代からの多様な氏族構成により複雑に入り混じった伝承・信仰から当地の伝承は混同されてしまっているのです。

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土御門上皇伝承も大きなヒントには違いありませんが、なぜ当地に吹越大明神(スサノオ)が古墳を御神体として崇拝されてきたのか?(椎ヶ丸古墳ことね。)

御諸山と吹越大明神を背後に控えた「大墓宮」とは本来誰の陵墓であったのかを調べる必要がありそうです。(飛蔵山 蔵王権現も関係してるかも。)

吹越大明神に雨乞い祈願を行っている記録が多いので、治水の神としての側面も持ち合わせている可能性もあり、調査の延長線上にヤマタノオロチ(高志の遠呂智な。)を退治したスサノオが誰なのかがわかるかも⁈ などの大きな企みを抱きながらいろいろ調べております。

ということで結論もでませんし、ウィークディなんでこのへんでおしまいにしたいと思います。こちらについては大きなヒントが出てきたらまた書きますので気を長〜くしてお待ちくださいませ。(=゚ω゚)ノ