古代の女神達を鎮めた川除大明神と龍王
(字が見えにくい〜。)
川除けとは堤防のことである。川除大神宮は龍蔵堤の守り神として祀られたものである。西から流れ来た吉野川とその支流、新宮川(現在の神宮入江川)はこの付近ではほぼ直角に流路を転じ、北流していた。このため徳島城下を洪水から守るため早くから堤防が築かれたが、吉野川の洪水を正面から受け止める堤防であったため、しばし決壊し、修理を繰り返した。川除大神宮は元文五年(千七百四十年)に芝原村西沢地区の人達が堤防の安全を願い建立したものである。県内で確認されている堤防の守護神としては一番古いものである。一般に川贄(かわにえ)さんと尊称されており、庄屋の身代わりとなった龍蔵の悲しい人柱伝説を伝えている。(川除大明神 石碑より)
国府町竜王団地の外れにぽつんと鎮座する川除大明神でございます。別名、川除大神宮や川贄さんとも呼ばれており、以前から大神宮の名が気になっていたので調べてみた訳ですが…
(見えにくい〜。)
【龍蔵人柱伝説】
当時、幾度築いても洪水のたびに流失を繰り返す堤防の復旧について庄屋を始めとする村の世話役達が集まって相談した。相談の結果、明朝芝原から第十に通じる街道を一番に通行する者を人柱にして新宮川の神に捧げることになった。庄屋は村人のために我が身を捨てて自らが人柱になることを決意していた。庄屋は自分が人柱に立つことを家人にのみ伝えて白装束を用意させてから床についた。その話し常々庄屋から世話になっていた龍蔵が聞いてしまった。龍蔵は日頃からのご恩を返すために庄屋の代わりに自分が人柱になろうと考え、庄屋より早く街道を通行して見事人柱の役目を受けたそうである。龍蔵が人柱となって造られた堤防は洪水になってもびくともせず、村人は龍蔵にとても感謝した。村人達は堤防の上に祠を建てて龍蔵をねんごろに祀り、完成した堤防を龍蔵堤と名付けて龍蔵の義挙を深く讃えたのである。
(龍王の板碑群)
龍蔵堤こと川除大明神の祠の横には「竜王の板碑群」。板碑は七基が現存し、南無阿弥陀仏のほか建武四年(1337)の銘が刻まれています。この背景を考慮すれば、龍蔵堤を造成する遙か昔から当地に古墳群(もしくは墓地群)が存在していたのではないでしょうか。
当地一帯は「竜王」の名がつく場所であり、豊玉龍王を祭祀する八大龍王神社により付けられたとされています。その他に別宮川(吉野川)へ流れ込む神宮入江川の氾濫伝説が数多く伝えられていることから、神宮入江川を暴れ狂う水龍に例えて付けられた地名であったのではないかとも考えられるのです。
(地図に昔の水流を書き足してみました。)
神宮入江川は、沼河比賣を祭祀する関の大神宮と豊玉比賣を祭祀する大神宮の二つの大神宮を中心にして流れる川でした。この大いなる二柱の女神達の神威(神宮入江川の氾濫のことね。)を鎮めるために川除大明神の他にも様々な結界や神を配置しているのがみてとれます。地図で確認すると神宮入江川(跡)の流れが急角度で曲がっていた場所にはそれぞれ神社を配置しているのが確認できるのです。
江戸時代に川除大明神として「龍蔵人柱伝説」が出来上がる以前に川除大明神と大神宮の原型は存在していたのではないでしょうか。というかその原型を利用して龍蔵堤が造成されたのではないかということです。
(竜王地区の八大龍王神社)
awa-otokoは竜王地区に鎮座する八大龍王神社は古の女神達の神威を鎮めようとした女神達とはまた別の神の所縁の場所ではないかと考えています。
そして先にも記したように人柱になった龍蔵が神格化されて川除大明神とになったのではなく、川除大明神はそれ以前に存在していた可能性が高いです。(龍蔵の名前の中に龍王の「龍」が含まれているのも何か意味があるのではないかと考えています。)
豊玉比賣の神宮から流れる水流と、沼河比賣の神宮から流れる水流が合流する地点に八大龍王神社が鎮座し、鬼門封じに「龍蔵」を祭祀したされる川除大神宮が鎮座している配置。その他に付近で祭祀されている天神も調べればさらに興味深い事柄が出てくる可能性が高いです。豊玉比賣とは違う別の龍王の存在が…
ではでは、長くなりそうなので今回はここまで。また何わかったら続編書きたいと思います。(≧∇≦)