もう一つの羽落神社伝説(戦国時代編):東条関兵衛 栗栖の城
前回投稿した羽落神社のスピンオフになります。古代史関係から外れて戦国時代のお話になりますので、興味がない方はスルーしましょうwww
桑野駅の東方、小高い丘に羽落神社の飛地境内社として杉尾神社が鎮座しています。当地は万福寺(奥之院)跡であり、往時は本尊として木塚明神、東条関之兵衛(とうじょうかんべぇ)の像を祭祀していたそうです。
また、明治三十九年には成田不動尊の分霊を勧請して市を開き、不動尊市として多くの参拝で賑わっていたそうです。当地に万福寺が建立される以前は桑野城が築城され付近を統治していました。別名栗栖(くりす)城。(現在は遺構は残されていない。)
今から四百年の昔、甲斐武田氏の流れをくむ東条信綱は甲斐守を名乗り、天文年間に来住して桑野を領していました。信綱の跡を継いだ東条関之兵衛は「武道つよき者」と云われ、五ヶ村を領し巧く里を統治していたようです。
(本丸跡下鎮座 杉尾神社)
(本丸跡に繋がる路はかなりの急勾配)
天正の時、長曾我部元親は阿波侵攻の際に栗栖城を攻めましたが簡単には落ちず、元親は和睦に持ち込みます。自らの娘と東条関之兵衛の婚姻関係を結ぶことで剛の者、関兵衛を味方に誘い込んだのです。
同族となった関之兵衛は富岡の新開氏、木津の篠原氏を攻撃します。また、三好氏との中富川の戦いにも武功を収めました。後に木津城に移りましたが豊臣の四国征伐の際には潔く木津城を明け渡して栗栖城に戻りました。関之兵衛自身は土佐国幡多郡に移りましたが利用価値がなくなったことが理由なのか元親に殺されてしまいます。木津城明け渡しの際に羽柴勢を土佐に誘導した責任とも、関之兵衛の異心があったからとも伝えられています。
(左右の石門が残る山道)
(石垣跡?!)
資料では遺構なしとありましたが、城址の山中を散策してみるといろいろ見つけました。やはり古代の城を中世に拡大して利用している城が多いですね。城主であった東条一族は甲斐国に縁故があるとのことで、これは清和源氏新羅三郎義光を祖とするものであり、海正八幡神社の新羅三郎伝承に繋がるのではないでしょうか。
阿波で活躍した中世氏族から遡り、天皇家に繋がる源平藤橘の動向を調査するのも面白いですね。時間が許せばこのような視点からも並行して調査してみようと思っています。
それでは今回はこのへんで締めます。ネムタイノデ… ( ´_ゝ`)