御諸(ごしょ)の大墓宮と吹越大明神の謎
現存する處の一條五條七條の村名は、御所を設くるにつき京都の御所に倣ひて一條より七條まで定めし者の残れる傳なり。一條五條七條は大墓宮と傳ふ。
Facebookにて独り言として掲載した文ですが、実は続きがありました。「御所屋敷の南方にあり大墓宮は土御門天皇の御陵なりと傳ふ。」という続きが。
御所屋敷は御所村大字吉田にあり、御所神社は其の屋敷内に鎮座す。口碑傳ふる處によれば御所屋敷は土御門天皇行在所の遺址にして、當時天皇土佐より阿波国に還幸あり神御所に入らせられし風聞北條氏の耳に入り討手を差向けたれば、天皇は一旦宮河内谷に逃入り給ひしも、御運拙くして御生害あらせられしなりと云ひ、到る處古跡を存し又古文書を蔵するもの少なからず。されど宮河内谷に於て自殺せしは土御門天皇に非ずして、阿波在廳藤原師光第四子、紀成良の遂ふ所となり、宮河内谷に於て自殺したるを、後世誤り傳へて天皇と爲すに至りしなりとの説もあり。
はい。awa-otokoは以前も書いたように当地において土御門上皇が自殺したなどとは考えておりません。西光(藤原師光)の四男 広永が宮河内谷にて紀成良(田口成良)に追い詰められて遂に自殺した伝承の方がしっくりくると感じています。
そして御所屋敷の南方に存在していた大墓宮。こちらも土御門上皇の遺址として伝承されていますが、「吹越天王」の「天王」が「土御門天皇」の「天皇」と混同されてしまったのではないのかと考えています。
岩利大閑氏の 『道は阿波より始まる』 (その一) に記された一文を確認してみてください。
日靈女命により近代化された米作に加え、須佐之男命によって初めて鉄の生産が伝えられ、急速に阿波国は発展していきました。須佐之男命は大倭の真神原では阿波神社、岡山県玉野地方では八浜の快神社、諸国では八坂神社、祇園神社等で祀られますが、阿波一国のみで熔造皇(ヨウゾウノスメラ)神社と称されています。また伊太乃(いたの)郡 御諸(ごしょ)地方では、吹越(ふっこう)大明神とも称します…
御諸 大墓宮に対して吉野〜上板の一條、五條、七條の地名はひじょうに深い関係があるとのこと。当地周辺は、「続日本記」神護景雲元年3月(767)の条では、板野・名方・阿波等3郡の凡費を称する人々が、改めて粟凡直を名乗るように陳情して認められていたり、「三代実録」貞観4年9月の条「阿波国従五位下行明法博士粟冗直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」と記録が残ります。ご存知、粟国造粟凡直氏が幅を利かせていた地域なのです。
そして近頃あちこちで聞くようになった「田上郷戸籍」。こちらにも粟氏・凡直氏・粟凡直氏が圧倒的多数を占め、忌部や物部の古代有力氏族や、服部・錦部・秦・主村・漢人等の帰化系の氏族名が多数記載されております。
これらの内容から、当地御諸地方より板野地方にかけては古代より複雑な人口構成だったことがわかりますね。
今回は何を言いたいかと申しますと、御諸の地 吹越大明神や大墓宮は土御門上皇の遺址ではなく、何かの古代氏族の祖神の祭祀場所、または大王級の宮跡や陵墓が存在したのではないかということなのです。
ともかく古代からの多様な氏族構成により複雑に入り混じった伝承・信仰から当地の伝承は混同されてしまっているのです。
土御門上皇伝承も大きなヒントには違いありませんが、なぜ当地に吹越大明神(スサノオ)が古墳を御神体として崇拝されてきたのか?(椎ヶ丸古墳ことね。)
御諸山と吹越大明神を背後に控えた「大墓宮」とは本来誰の陵墓であったのかを調べる必要がありそうです。(飛蔵山 蔵王権現も関係してるかも。)
吹越大明神に雨乞い祈願を行っている記録が多いので、治水の神としての側面も持ち合わせている可能性もあり、調査の延長線上にヤマタノオロチ(高志の遠呂智な。)を退治したスサノオが誰なのかがわかるかも⁈ などの大きな企みを抱きながらいろいろ調べております。
ということで結論もでませんし、ウィークディなんでこのへんでおしまいにしたいと思います。こちらについては大きなヒントが出てきたらまた書きますので気を長〜くしてお待ちくださいませ。(=゚ω゚)ノ