粟國造家が通った祭礼の道
久しぶりの更新です。ついつい更新を伸ばしていたら大晦日になってしまいましたwww
さて、年末の休暇を利用して粟國造家が大粟山まで通った「粟國造家の祭礼の道(←勝手に名付けたw)」を歩いてきました。2016年の最後はこの大宜都比売命と粟國造家に関連する内容を挙げて締めたいと思います。
スタート地点の粟國造家の本館(跡)は下分上山村栗生野に存在しました。粟飯原氏の氏神である妙見宮東側の本家跡が粟國造家本館跡ですね。こちらは明治期に粟生野名 國造屋敷ノ跡の古傳として記録されています。
(栗生野 粟國造本館跡)
(栗生野 妙見宮・天神宮)
(栗生野からみた高根山)
くどいようですが粟國造家が大宜都比売命の祭礼を執行う際には、粟國造本館から大粟山の天辺ヶ丸(上一宮大粟神社)まで通ったと伝承されています。
地図で確認すれば近く感じるのですが、歩けば1時間くらい必要な距離です。栗生野から中継ポイントの腰ノ宮まで行くまでに大宜都比売命の伴神を祀る谷皇子権現、野間妙見社、若宮社の付近を通過することになります。
(野間 妙見宮)
調査当初は伴神旧跡の配置位置は祭礼の際に移動する経路(中継地)と考えていました。が、実際に歩くと主要道との高低差が激しく、自分の感覚に置き換えれば正直面倒くさいと感じる道程でした。立ち寄りすることで主要道から外れ、地味に距離と時間が経過するので神祇の際に利用する経路通過点ではなく、砦や城として利用された可能性が高いと考えました。
これらのように伴神の宮の位置関係からいろいろ考えると、延長線上に大宜都比売命の活動範囲を二つのエリアに分けて考えることができます。
一つは高根山〜栗生野エリア。もう一つは大粟山の上角・神領エリアです。
読む気にさせて申し訳ないですが、この内容は話せば長くなるのでまたの機会に語るとします。
元の話を戻します。
栗生野から大粟山までは距離としては一里余り。途中の大埜地 腰ノ宮で休憩を入れてから大粟山に向かうことが通例となっていたようです。
(腰ノ宮からみた大粟山)
(腰ノ宮横の鮎喰川)
腰ノ宮とは休憩所より名付けられたものでしょう。腰を下ろす、または川を越す(腰:こし)の「こし」も兼ねているのかもしれません。
当地は見てわかるように簡易な渡し(船?)が設けられていた場所の可能性もあります。川を何らかの方法で渡る前に、とりあえず休憩しようと思うのは必然的なように思います。
(腰ノ宮神社)
(腰ノ宮神社 本殿)
腰ノ宮は葛倉宮を合祀し、「えびす(事代主神者粟國造粟凡直等之祖)」伝承も残していることは過去にも記載した通りです。
当地には大宜都比売命の腰掛け石も存在するとか、しないとかで真偽は定かではありません。(腰掛け石はどの石なのかわかりませんでした。) もしかすれば大宜都比売命が降臨した場所なのかもしれないですね。
(腰掛け石?)
(謎の立岩)
(腰ノ宮境内)
腰ノ宮より鮎喰川南岸沿いを行き、鮎喰川と南北につながる上角名の御装束谷より大宜都比売命が御鎮座する大粟山へ向かいます。
装束谷とは現在の上角谷のこと。大粟山の東に位置し、國造家が神祗の際に装束を身につけて國造家へ通行した唯一の通行路が設けられた小さな谷です。
この國造家が立ち寄り装束を身につけた場所がのちに大通寺良蔵院とされ、さらには神宮寺になったと考えています。
「阿波国(後)風土記」にも上角名國造館伝承が記されているようですが、たぶんこの装束谷に存在した粟國造家所縁の館のことを指しているのでしょう。
装束を身につけた國造は大粟山の頂上 天辺ヶ丸へ向かいます。こちらも予想ですが往古は現在の参道は使用しなかったと考えています。
(弐の鳥居)
(参道)
(参道)
なぜなら大粟神社は現在の社地に鎮座しておらず、頂上に存在していたからです。そして頂上 天辺ヶ丸の祠は東向きに設置してあることから、大粟山の東側に参道が存在したはずなのです。
(頂上の祠)
(天辺ヶ丸)
天辺ヶ丸に参拝した人はご存知かもしれませんが、神山温泉側にくだる広い道があります。道に従って降れば装束谷と古祓場に行き着く道です。こちらが古代の参道だったのではないかとawa-otokoは推理しているのでございます。
(古祓場)
やはり実際の場所を実際に調査すれば古文書の読み下しからの推理や推測だけでは出てこないものが出てきます。
(天辺ヶ丸より栗生野集落を望む)
天辺ヶ丸から見える栗生野集落を眺めるだけでも古代粟國造家の気持ちが流れ込んでくるようです。
と、言う訳で粟國造家が通った祭礼の道を以って2016年最後の投稿としたいと思います。
来年は、「もっと簡単。さらにディープに。」をモットーに阿波の情報を提供できればと考えています。それではあと数時間ですが、よい年末をお過ごしください。(*´ω`*)