大地震並夏雪事
そろそろ南海地震に備えておいた方がいいかもしれません。
「太平記」巻第三十六には地震と夏雪の記録が残されております。軍記物語ゆえに文学的、誇張的表現、あるいは不正確な記述も見られるが、阿波雪湊(由岐)の津波の存在は事実とされる… とのこと。恐ろしいですね。
正平地震(しょうへいじしん)は室町時代前期(南北朝時代)に発生した南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震である。この地震名の「正平」は南朝の元号から取ったものであり、北朝の元号である康安から取って康安地震(こうあんじしん)と呼称されることもある。(Wikipediaより)
同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたた敷動て、日々夜々に止時なし。
山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。
是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。七月二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。
又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るる共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。
記録されている内容をそのまま想像してみれば凄まじい内容です。由岐浦には大山如しの津波が到来し、一千七百戸の港集落を飲み込んだ。そして鳴門では満ちていた潮が一気に引いて、海中であった場所が陸地になったそう。鳴門の海が陸地になるほどの海水が長の国方面の沿岸部にまとまって津波で集中した訳ですね。
ぐーたら気延日記(重箱の隅)
お亀磯の伝説(追記):すいませ〜ん。いつも勝手に使わせて貰ってます〜。(;^_^A
倭の国(阿波)から大倭の国(大和)へ遷都した理由として「祟り」を挙げられる方が多いですが、その「祟り」こそがこのような天変地異や異常気象であったのかもしれません。
天災は忘れた頃にやってくる…
昨今の全国的にみらる異常気象から考えてみても、そろそろ大地震の備えは必要な時期にきているのかもしれませんね。皆さまご注意を。