忌部本社の鎮座地はここだ!!
え~、過去に忌部神社の本社地をめぐって忌部系統の神社が「我、由緒ある本社地である。」と各々が名乗りを挙げて揉めに揉めた騒動が起きていたのはご存知でしょうか。
(知らない方は下の引用で確認してください〜。↓↓↓ )
『延喜式神名帳』に載せる「阿波国麻殖郡 忌部神社」は名神大社にも列していたが、中世以降、兵火などにより所在が不明となり、近世以降、複数の神社が式内・忌部神社を主張していたため、明治4年(1871年)に暫時「所在地不明」のまま国幣中社に列格し、翌5年に麻植郡山崎村(現 吉野川市山川町)の村社忌部神社を式内忌部神社に決定した。これに対して美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社(現 当社境外摂社御所神社)が式内忌部神社を主張し、翌々7年(1874年)に改めて山川町の忌部神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も論争が続いたため、同14年(1881年)に五所神社を式内忌部神社に変更したが、今度は山崎側が大いに反発し、結局太政官による妥協策として名東郡富田浦町(現 徳島市)に新たな社地を定めるという通達を出し、同18年(1885年)に眉山中腹の現在地を選定、そこに鎮座する郷社金刀比羅神社に仮遷座して五所神社を境外摂社とし、社殿竣工により同25年(1892年)5月15日に現在地に遷座した。(wikipediaより)
さらに忌部騒動について詳しい内容を知りたい方はこちら ↓↓↓
ご存知「ぐーたら気延日記(重箱の隅)」にて、ぐーたら氏が魂を削りながら書いた大作です。
http://goutara.blogspot.jp/2010/09/blog-post_17.html
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■以下は拙ブログの忌部社関係の過去記事。あまり参考にはならないかも…(苦笑)
それでは今回はどこにも出ていない(であろう)説を紹介いたします。未だその所在地が謎とされている「忌部神社」、即ち「忌部本社」の所在地情報を入手いたしました。
こちらは麻植郡と全く関係ない。いや寧ろ麻植の民と絶縁状態であった神山神領大粟宮氏子の口傳を纏められた書物が引用元になります。
これがなかなか面白い内容で 通説の内容と比べると殆ど間逆なのです。(笑)
通説では中川民部・式部の親子が悪者のように伝わっておりますが「これって本当なの?」「中川民部こそ忌部の古伝を守り通そうとしたんじゃないの?」と個人的にはちょっぴり考える節もありました。
また、今回提供する忌部本社の所在地情報も個人的には信用してもイイんじゃないの?と…
シンプルに考えたら「そりゃそうだ」と納得できる場所だからです。
前置きは置いといて兎に角読んで貰いましょうか。
それでは驚きの内容を原文と親切な現代語訳♡にてご紹介させて頂きます。
神代に天日鷲命が楮麻を撒いた故に種野山と呼ばれて、その麓との間には木綿麻川が流れる。その場所は楮田が訛化した川田村と云う。これまでの伝説を考えても「高越山は」天日鷲命が楮麻を撒いたと伝わる種野山の本拠地、麻植郡の根元地なのである。
高越山の麓にある種穂山は本来は種野山。勿論、種穂大権現は種野大権現で、これは楮麻を植えた天日鷲命の功徳を称えた神号である。忌部神社とされた種穂神社の伝承は誤ったまま伝わり、今に至るものである。種穂神社は神事の執行を目的とした分社であり、忌部本社は紛れもなく高越山に鎮座する高越大権現なのである。この結論の根拠に川田村と神領・一宮村の氏神からの争いごとで知る事ができるのである。
なんと、
「忌部本社は高越山 高越大権現」と断言しております。
そして「麻植郡の元地」とも!?
興奮覚めやまぬ間に…
実は私は種穂神社には参拝したことがないのです。
ココはすえドンさんのブログから♪♪♪
◆ヤマハセローと種穂神社♪
◆高越山と「高越神社」♪
◆高越神社と「奥の院」♪
はい。これですえドンさんも巻き込みました。ニヤ(・∀・)ニヤ
高越山はイザナミの神陵ばかりと考えていたので忌部本社ではノーマークとなってしまってました。
神領村・一宮村の民は高越山へは参拝せず、川田村の民とは縁組を決して行わない。同じように川田村からも大粟神社、一宮神社には参拝せず、縁組も行わないというしきたりがある。これは古くから両家に存在するしきたりで、しきたりを破ると神罰が降ると言い聞かされていたそうである。この争いごとから高越大権現が忌部神社の総本山であるという事実を垣間見ることができるのである。その理由とは大宜都比売命こと粟神と対等にわたりあえることが可能な神は、往時に数々の社が存在した中でも兄の麻神 天日鷲命こと忌部神しか考えられないのである。
この争論の発端を考えてみれば双方とも氏神の信仰心が強いことが理由に挙げられる。大粟神社の氏子は自らが粟凡直一族の誇りが強く、一族の祖である八倉比賣命(大宜都比売命)の祭祀が中心で八倉比賣命以外の祭祀は必要なしと考えていた。高越大権現の氏子も朝臣の末裔である誇りを持ち、忌部神のみを祭祀すれば良しと同じように考えていたようである。お互いにこのような立ち振る舞いのために自ずと確執が生じ相対するようになっていったのである。
偖高越山ヘ忌部本社 種穂ノ社ハ神事執行発許ノヒ便ニ設ケ置キタル社ノ證ハ両社諸事ノ関係ニテ知ラルルケリ 其ハ高越山大権現ニ古来本家早雲氏仕ヘ奉来レルモ本社ナルニ依リテ也 亦種穂ノ社ニ其末家ナル中川氏仕奉リ来レルハ神事執行発祥ノ便ニ設置タル社故エ末家ヲ以神勤到サセシナリ 亦大嘗會ノ年種穂ノ社司中川氏ヨリ麻殻貢調奉来リシモ誠ハ本家早雲氏勤ム可キ事本末ノ間柄ニテ牟久敷代勤セシノミ其ハ種穂ノ社忌部本社ナラハ早雲氏自分神勤シテ末家柄ニ務メサス可キ道理無ニテ知ル可シ
高越山には忌部本社を構え、麓の種穂神社は神事執行の利便性から置かれた社であることは(当時)周知の事であった。本社の高越山大権現には忌部本家とされる早雲家が神官として奉仕し、分社の種穂神社には忌部から末家とする中川家が奉仕していた。
こちらでは早雲氏に非があるように書かれていますね。間逆の見解も面白いですねー。真偽の程は不明ですけど。。。
忌部神社とは高越大権現(本社)、奥之大権現(奥之院の神)、種穂社(分社)の三社が合わさって忌部神社として成り立つとされている。文献には天皇直属の配下の城は京都から五十一里離れた阿波国の麻植郡城山にありと記載され、これは高越寺周辺の集落を指している。また続日本紀には連の姓を賜わった忌部越麿は早雲家の祖にあたるとされ、同じ時期に宿禰の姓を賜わった忌部須美等(すみとも)は同じ村の住友家であり、三つ木村の三木家も含めて、早雲・住友・三木は忌部の三名家と記録されているのである。
忌部神社とは高越大権現、奥之大権現、種穂社を併せて成り立つとは初めての情報です。これも面白いですねー。
また、早雲氏に非があるように記載しているものの忌部三名家として認める情報を記載している大粟宮の氏子は、様々な虚偽の説に惑わされず冷静に且つ中立的に意見で述べていると好感を持ちました。
忌部本社で忌部本家である早雲家が自らの立場を理解して神職に従事しなかったので、山崎の社、貞光の社が虚偽の説を作り上げて各々が忌部神社であると名乗りを挙げることになる。その中の山崎日吉大明神も忌部神に属する神であるが間違いなく分社であった。この分社の虚偽に野口年長、池辺真榛が騙されたのは笑止千万である。その他にも神社改正を携わった役人までもが虚偽の説にまんまと騙され、遂には美馬郡貞光 吉良に鎮座する御所神社が明治八年二月十二日国幣中社 忌部神社として認定されることになるのである。吉良御所神社は美馬郡鎮座であるのに麻植郡鎮座の忌部神社に定められるのはおかしなこと。この選択も間違いである。
まぁ、野口年長や池辺真榛も様々な虚偽を含む口伝に翻弄され、決め手は黒岩の磐座をみて結論に至ってしまったかもしれないですね。(もっと複雑な状況にあったっ思いますが。)
それ以前に各氏子達の圧力とかお上の考えに逆らえない部分もあったとか無かったとか。。。(笑えなぃ… )
ともかくこれまでの忌部神社の情報を整理し、組み立て直す必要がありそうですね。まずは高越山の洗い直し。種穂社もね。
その次は忌部三名家の活動範囲を考慮すれば剣山も避けて通れません。原初、天日鷲命の活動拠点は剣山、次に高越山のラインもありそうですね。
とりあえず情報は挙げましたから後は先輩方の見解を待つとしましょう。