吉良忌部大神宮の元地へ
吉良忌部大神宮の元地である清頭岡磐座遺跡に行ってきました。とりあえず吉良忌部神社に関連する過去記事も確認しこれまで背景を把握しておいて頂ければと思います。
吉良 忌部大神宮(御所神社)は式内・忌部神社の論社とされ名乗りをあげました。その他の忌部神社の比定社と長く論争を続け明治14年、美馬郡西端山吉良御所平を忌部社地と確定したことを山崎忌部神社氏子が反発。太政官はその妥協策として徳島市二軒屋町に社地を定める通達を出しました。明治14年に美馬郡西端山を旧社地として保存しました。
さて、そんな吉良忌部大神宮。古来からの忌部大神宮なのか?個人的な結論としては「シロ」だと考えておりました。
でもね…
往古より元地と呼ばれる御魂所、清頭岡磐座遺跡に赴き現地を確認したら、ちょっとだけ考えが変わりました。
それは今なお立派な神域を有している。早い段階で忌部族が入植したと考えられる遺跡だったからです。
ぶっちゃけ「元来の忌部大神宮」(忌部大神宮の原型になったものというべき)は「■山」だと考えておりました。(延喜式に記載された場所は別)
忌部族 移動のスタート地点を■山だと考えるならば、高越山の高越大権現、種穂権現、山崎忌部社、吉良御所神社も全て忌部神社(摂社)になります。特に吉良などは■山から近く、平野部に降りてくるまでの過程で一番先に落ち着くべき立地条件を備えていたのではないかと考えてしまったのです。
忌部族が各国に阿波の地名をコピーして定着しているように、元地の立地条件にリンクした場所に移動しているはず。平野部から見ると一番立派で標高も高い高越山に移すことは想定に難しくないことでしょう。
拙ブログで紹介した口伝、古文書からではルーツと考えられるのは佐那河内村・神山町神領の範囲でしょうか。
このように解釈する指標のカテゴリーが複数あります。延喜式神名帳に記載された忌部神社はどの段階でどの氏子筋から伝わったのか… 一番古い場所、一番栄えた場所、古文書に記された場所、各々地域により違いがあり、各々の利害関係により違いが生じることは今も昔も変わりません。
それが考証できないからこそ中世からの混乱が生じたのだと思います。
あかん。結局ふりだしに戻っちまった… (T . T)
まぁ、史料はこの段階になって色々出てきていますので、これからもゆっくり確認しながら考えてみようと思います。
さて、吉良忌部大神宮の元地である御魂所。(磐座遺跡)勿体ぶるつもりはありませんので写真を見て頂きましょう。
忌部族が好む立石。この磐座を模しているように感じるのは私だけでしょうか。
写真ではわかりませんが、磐座の目の前に誘導する自然石を利用した石段が設けられております。
磐座の前にはかなり広いスペースの平坦な場所がありました。山崎の黒岩、雀嶽遺跡にも見られた社殿を設置したスペースだと考えます。
場所は例によって詳細を掲載しません。吉良忌部大神宮まで登ればアクセスは比較的安易です。
興味がある方は確認してみては如何でしょうか。