鷲の大山権現 明朝の鐘(宍喰町 大山神社)
(鷲の紋章は鷲住王を表す)
(宍喰町 大山神社)
(大山神社 社殿内)
(大山神社境内 神馬)
まず、鷲住王は履仲紀に「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見える人物であります。
履中天皇は太姫郎姫・高鶴郎姫の姉妹を召して、後宮に入れて嬪とした。この二人の嬪は常に「悲しい。わが兄王は何処に行ってしまったのだろう」と嘆いていた。天皇はその嘆きを聞いて「お前は何を嘆いているのだ」と尋ねると、「私の兄鷲住王は力が強く身軽で、ひとり高く大きな家を飛び越えて行ってしまった。それから幾日も経つのに會って話こともできません。それで嘆いているのです」と答えた。天皇はその力が強いことを喜んで呼んだがやって來なかった。また重ねて使いを出して呼んでも、猶もやって來ることはなく、常に住吉邑に居た。これ以後呼ぶことはなかった。
住吉邑から飛び出した鷲住王とその家来たちは大里海岸付近に住みついて漁業に従事していたが、やがてその後裔たちは海部川下流の平野を開拓して農業を行うようになった。平安時代から鎌倉時代にかけて、北の日輪庄と南の宍咋庄という二つの荘園にはさまれた地域の開発領主として武士化していったと伝わります。
(大山神社 由緒書)
はじめに鷲住王を祀っているのは大山神社と書きましたが、その大山神社こと大山権現を古い文献の記載から紹介しましょう。
宍喰村 大字鹽深にあり、南海治亂記に曰、鷲住王と親交ありし人々王の讃岐へ趣きたる後其徳を慕ひて祠を設け祀る、また阿波志には脚喰別の族を祭るなるべしとあり、二者其いづれか可なるを知らさるも、寛政八辰年舊藩主より取調を仰付けられし際の覺書にはかの如く記すなるべし
(前略)當村 大山権現の往古は十二社こと申候由承傳へ候へども只今一社にて御座候尤も往古は村抦も宜敷家數も多く御座候由申只今にては小笠生茂申候右別當大瀧山藤野坊と申候て十二坊の本坊にて御座候由申傳(中略)社人の義は往古は數人有之旨申傳
一、権現様御神躰御長七寸束帯の姿一躰但土にて作立候様に相見へ申候其外神躰數御座候へ共皆々相損相分り不申候其内御面像四つ御座候右土にて相作候様相見申候尤も右社度々出火有之相損申候並に社内丸石一つ往古より有之旨申傳今以て社内に御座候
一、権現社地より北に當り六丁程相隔て祓川と申川有之上古参拝人此處にて垢離を取りし由に候並に八丁程相隔鳥居坂と申す坂有之大なる鳥居有之しと申尚山麓に神子屋敷と申所有之候
一、権現の神前に古鐘一つ有之候(普通の半鐘にて周囲の彫刻に草花及天女の遊行せる圖あり)鐘名かの如し
明昌七年丙辰四月日鑄成金鐘一重六十七斤徳興寺懸桃晉勸旦那同共一心聖躬萬歲上棟梁戶長金仁鳯副棟梁延甫慶讚陳蕃孝
一、往古より大なる倒木有之年數相知不申今にも神木として祭り居申候
一、古人の云傳へによれば永正年間天文頃迄此の如し申候
鐘路明昌とあるは金章宗の年号なれば本邦のものに非ず、其高さ一尺三寸古雅掬すべきものあり、天明三年火災の為龍鈕を欠きしは惜むべし
東京府豊多摩郡淀橋町久米某の有に帰し、東京上野博物場に出陳しありと、天保九戌年十月の記録によれば、藩主より御紋付雪隠二張及び鰐口と取換へたる旨記しあり
舊藩の頃西の丸に吊りありしと、當祠永正天文の頃猶規模宏壮にして、僧房十二あり各一祠を掌り、藤坊これが魁たりしも爾來廢頺日久しく、今は寒村の一小祠として人の知る者稀なり。
大山神社にあった明昌7年銘の古鐘は、朝鮮の金の6代目章宗時代のもの。
この鐘は和寇によってもたらされたとの説が残ります。
(明朝の鐘)
(明朝の鐘 由緒書)
このように海洋民族出身の鷲住王の後裔達は倭寇として海を行き来し、他国の鐘を持ち帰ってこの大山権現に祀ったのであります。
(蜂須賀の紋を入れた瓦なども残されております)
(往古から残る倒木)
(長い長い参道の入口)
(一の鳥居)
(二の鳥居)
(鷲住王が祀られた神殿)
なかなかネットでの情報が少ない大山権現ですが自動車でのアクセスは簡単。
ぜひ実際に赴いて参道、境内、社殿を確認して海人族発祥の地と言っても過言ではないこの場所を伝承を背景に堪能してみて下さいね。
きっとインスピレーションが湧くこと請け合いです。