awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

源 為朝伝説は中白人神社から(白人神社、中白人神社、戸白人神社)

徳島県美馬市穴吹町宮内に鎮座する白人神社。

祭神伊弉冉神、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、天照大神、豊秋津姫命、崇徳天皇、源 為朝侯。

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☝︎白人神社(宮内)

祭神の一柱である「源 為朝」について、白人神社には以下の伝承が伝わっています。

穴吹町 口山に座す「御崎大明神」は当山の総氏神と伝わる。この傍に「白人大明神」の社があった。
昔は瓦葺の拝殿があったが細川氏没後は朽ち果てて瓦のみを社内に積み置いた状態で放置されていたが、慶長の初、稲田修理亮が脇城に衛りについた際に城の瓦の補修を行い、その際には瓦が足らず、白人大明神の積んであった瓦を使用して補ったのであった。
その後、馬捕与吉郎という者に「白人大明神」が神憑り、「我は鎮西八郎為朝なり、修理亮我社をも修覆すべきにさはなくて却て瓦を押領し、不浄の所へ用る条無礼至極と嗔らせ給ふ」という神託が降る。
この神託に修理亮は深く懺悔し、自らが筆頭に「白人大明神」の本社拝殿、千木を高く建立したところ、また与吉郎が神憑り、「汝非儀を改め、早く宮居を再興し且朝暮尊敬することに満足せり、今より後汝が弓矢を守護すべし、されば十三年を経て天下又乱るべし、其の節汝が天が下に名を顕はすほどのことを与へむ」と神託が降りた。
その後も修理亮は厚く神威に帰依し、社殿の修理に努めた。
そして慶長十九年(1614)大阪冬の陣霊夢に現われた白兎の助言から大きな手柄を立てたと伝えられている。
はい。またまた伝承が交錯して変な方向に進んでいますね。
いろんな意味で有名な宮内の「白人神社」(これはまたいずれ説明します)はもともとは「源為朝」を御祭神として祀ってはいなかったと考えます。

私の予想ではここ。

同町拝村に鎮座する「中白人神社」であったのではないのかと。

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☝︎中白人神社と御崎神社(中野宮)

証拠に「中白人神社」の隣りに「御崎神社」の社名も扁額に入っているじゃないですか。

ちなみに穴吹町には「戸白人神社(拝村)」、「中白人神社(中野宮)」、「白人神社(宮内)」と白人神社が三社鎮座しています。

「戸白人神社」美馬市穴吹町拝村平間に鎮座。

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☝︎戸白人神社(拝村)
白人神社は徳島藩一番家老 稲田家の屋敷内にあった。慶長七年、稲田家の女中の夢枕に神さんが立ち、「我を祭ったら必ず幸福を与える」というお告げがあった。 
ところが、しばらくして洪水のため社は穴吹川の拝村へ流れ着いた。そして宮内へお連れしたところ神の怒りに触れ次々とたたりがあった。そこで拝村の地に社を建て「白人大明神」とした。
土地の人はここを「戸白人神社」としてお祀りした。稲田家は大阪冬の陣で蜂須賀家に従い手柄をたて、徳川家康から感状と大刀を褒美にもらった。その後現在地の宮内に社を建てて「白人大明神」として崇めた。 

地名は語る。ではないですが「戸白人神社」の鎮座地は「拝村」。「宮を拝んでいた場所」です。

そして「白人神社」の鎮座地は(宮内)。宮の領域内にある意味です。

そして「中白人神社」。鎮座地は「中野宮」。もうズバリ宮の名前ですよね。

これは私の予想なんですが「戸白人神社」は「稲田家屋敷跡」、「白人神社」は古代の○○○○を祀る神社がもともとあった場所に「戸白人大明神」と「中白人神社」後年に移遷した社。

この「源為朝」伝説が残る中心の神社は「中白人神社」であると考えます。

まぁ、断定は出来ませんが地名と伝説からこんな感じで予想するのも面白いじゃないですか。(笑)

立証できたら一番良いんですけどね。
地元の方で情報をお持ちの方が居たらご教示願いたいですね。案外、地元の口伝が一番正しいことが多いですから。