勝占神社を囲む草創神社(三社)
「草創神社」について残されている文献や伝承はほとんど残されておりません。
さて、「草創神社」の前に中心となっている「勝占神社」について簡単な説明をしてみましょう。

確かにこの一帯は、年代も古い大規模な古墳が多く残されています。
このような古代史において重要な場所を囲む「三社の草創神社」は何を目的として建立されたのでしょうか。



各社、氏子の崇敬が厚く、管理が行き届いた立派な神社です。
特に八多町の「草創森神社」に関しては現在の敷地規模は非常に小さいものの、この神社のために作られた建造物が広周囲に確認できます。昔はかなり広い範囲の社領を所有していたことが分かります。
そしてこれらの神社についてわかっていることは、当初から草創神社と呼ばれていた訳ではなく、「惣蔵権現」と呼ばれていたこと。
また「草創神社」は徳島県に三社、長野県に一社しか存在せず、長野県では「草創(くさわけ)神社」と呼ばれているそう。
そちらの由緒を調査すれば阿波の情報が引き出せるかもしれませんね。
オマケ
さて、草創三社の中心となっている勝占神社ですが二つ気になっている点があります。
それは勝占神社の石灯籠に刻まれている「正一位 杉尾大明神」の文字と境内摂社にある「松熊神社」の存在です。

これでピンと来た人は阿波古代史通だと言っても良いでしょう。(笑)


そして摂社に「松熊神社」があるのです。
その他の共通点は双方とも一帯が「陵墓群」であるということでしょうか。

追記:
江戸中期の文献から「波津加志ノ(はづかしの)社」という題で書かれたものを見つけました。
方上(かたのかみ)村に二社あり、楽邦庵(らくほうあん)の嶺なる上のはづかしと云、東にあるを下のはづかしと申ていと古くより此のほとりの産神なり。
これは方上町と小松島市 前原町の「草創神社」を指しているものと考えます。
それではなぜ「草創森神社」が三社の中に組み込まれたのか、「草創森神社」と命名されるまでは何を祀る祠だったのか…
これから調べる必要がありそうですね。(^^)