awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

剣山に伊射奈美神社だと⁉︎

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お久しぶり。(´∀`)/ awa-otokoです。

久しぶりに投稿したあげく題名にぶったまげた方もいらっしゃるかもしれませんが嘘ではございません。ぐーたら氏よりいただいた続阿波国風土記のデータを何気にみておりましたらはっきりと書いてあるではありませんか。(まぁこれをみてみろよ。)

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麻植郡ニ属ス木屋平山ノ奥ニ在リ 剱山ト称ス大劔小劔トテ二社アリ…

f:id:awa-otoko:20180902202154j:image(上部の墨書きはよく読めぬわ… )

まぁ、書き記してある場所なんですが「剣山ノ大劔小劔トテ… 」とありますので件の場所をピックアップしてみますと…

f:id:awa-otoko:20180902203418j:image(大劔神社 御塔石)

f:id:awa-otoko:20180902203802j:image(大劔神社

f:id:awa-otoko:20180902203846j:image(小劔神社 御神体の岩)
f:id:awa-otoko:20180902203851j:image(小劔神社
f:id:awa-otoko:20180902203848j:image(小劔神社横のアレがアルという穴www)

ちなみに小劔神社のすぐ横には古劔神社もあるのでこれも。

f:id:awa-otoko:20180902204117j:image(古劔神社 御神体の岩)

もし、剣山の大劔神社、小劔(古劔)に伊射奈美神社の元社があったなら…  

なぜ伊射奈美神社が剣山に存在したのか詳しい理由は古書には書かれていなかったのでわかりませんが、今元社とされる穴吹の十二神社と伊射奈美神社、美馬の伊射奈美神社では場所が平野に近すぎて後年に移遷された社であることは必至。

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現在剣山に祭祀されている神社や祠の一部の祭神は何か違和感がありますので後から差し替えられていることめ考えられます。そして伊射奈美神社だけではなく忌部神社の元社も剣山に存在したという説もございますし、阿波国式内社について剣山は何らかで関わりがあることはまず間違いとawa-otokoは考えているのでございます。

久しぶりでちょっと書いたら疲れたわ。今回はこれまで。

 

【おまけ】

ちなみに上に掲載した写真をみて何か気づかれた方はいませんかね???

 

 

 

 

どうやら大劔神社は♂岩(男根石)を。

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小劔、古劔神社は♀岩(女陰石)を模していることに間違いなさそうですな。

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参考として挙げますけど、なぜ天石門別八倉比賣神社の奥之院 五角形の塚の上に立つ御神体が「鶴亀(つるぎ)石」というかというと…

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f:id:awa-otoko:20180902212838j:image(鶴亀石)

 

f:id:awa-otoko:20180902212859j:image(剣山 御塔石)

どうですか。よく見るとカタチが似てるでしょ。

剣山をモチーフにしているなら♀石もあるはずなんだけどな。(たしか夫婦石なる岩が存在していたはず)それより掲載していいんかな。これ。(笑)

水の威霊 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

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佐那の大宮能賣神亦名天宇須賣命なり。八倉比賣なる御名を石屋戸を開きたること美(ほめ)たる意に説くこと甚だ違へり。宇須賣命は栲幡千千姫もとより同神に非ず。栲幡千千姫は阿波女神と同神、天手力男神天石門別神)の御女なり。故に天石門別稚姫神とも天石門別豊玉比賣とも申す。

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上記は佐那河内村の大宮神社が天鈿女を祭祀し、大粟山より出でし大宜都比売命とは同神でないことを指しているのではないでしょうか。

矢野村 杉尾明神(現 天石門別八倉比賣神社)は、稚日女尊(わかひるめ)、または豊(壹与:とよ)玉比賣命を祭祀していることを示しており、まずは当地に宇須賣命(稚日女尊)が先じて入り、のちに大日孁神(大宜都比売命:豊玉比賣神)が降臨したことが推測できます。

上記の内容でも複数の神名が併用されて、なかなかその存在を把握するのは難しいです。その他にも別の神名を使用して阿波の国魂神は伝承されていますので今回はその事例を紹介したいと思います。

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過去にも書きましたが、天石門別八倉比賣神社の社殿左側から阿波の国魂 大宜都比売命が国営をはじめた大粟山を遥拝する風習が残っています。(便宜上大粟山の遥拝とされていますが西龍王、東龍王山を確認していると考えます。)

これは古代に天石門別豊玉比賣命の拠点であった東龍王山・西龍王山と何らかのコンタクトを取っていた形跡と考えられ、現在では遥拝の所作として残っていると考えています。(西龍王山 建治寺には鮎喰川に船が行き来していた名残りで今も常夜塔が設置されている。)

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国府町矢野に鎮座する天石門別八倉比賣神社は、本来の天石門別八倉比賣神社ではありません。古に佐那縣より移遷された天石門別豊玉比賣神社なのです。ややこしいですが、八倉比賣神社の略記にヒントが隠されているように思います。

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天石門別八倉比賣神社略記
式内 正一位 八倉比賣神宮
御祭神 大日孁女命(別名天照大神
御神格 正一位延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和八年(八四一)八月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観十三 年(八七一)二月二十六日に従四位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 二年(一一八五)三月三日正一位となる。
御神紋 抱き柏
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を 削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」による までもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は海抜一一六米、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部 頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を 組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(海抜二一二米) 一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の 先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記さ れ、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示 していた。古代学者折口信夫天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、 余りにも知られていない。
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永二年三月(一七七三)の古文書の「気延山々頂よ り移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦三三 八年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永二年より 以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。

矢野神山 奉納古歌
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも 柿本人麿(萬葉集収録)

当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には 出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さ きの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入り くんだ湾の奥に当社は位置する。
天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然ではない。
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(一七三六―四一)まで 十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久二 年(一〇七〇)六月廿八日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」 として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないこ とが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。

矢野は古代において河に挟まれた岬であり、北に吉野川の(海城:あまぎ)、南には鮎喰川から続く八万津。(一宮町には海見:かいみの地名も残る。)吉野川を遡れば麻植、三加茂方面へ、鮎喰川を遡れば神山、木屋平方面へ、河口に出れば長ノ国へ。現在の国府町はまさに要所中の要所だった訳です。(だからこそ国府が置かれた。)

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古代の地をわかりやすくするためにわざと水位を13mに設定したフルードマップです。略記に記された地理状況まんまですね。矢野神山(赤丸)に注目。矢野神山頂上付近から南北を見渡せばすぐに不審船は確認できたのです。

これらの理由から阿波における天照大神水の女神に属した、もっとも威力ある神霊である、瀬織津姫撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき いつのみたま あまざかる ひうらつひめ のみこと)なのであります。

つまり大宜都比売命は、佐那河内から神山、国府町矢野周辺の水路さえも統括していた水の女神という側面も持ち合わせた神ということをお伝えしたかったのです。

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神瀬織津姫)、摂社からは天鈿女、猿田彦、手力男… これらの祭神から、佐那河内、入田方面から移遷された天石門別豊玉比賣神社に間違いないでしょうネ。

 

オマケ

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昔、この大泉神社 五角形の井戸から御神水を汲み、本殿の手水鉢を満たすのが習わしだったそう。

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ちなみに当社の御神紋 抱柏紋って草木を燃やしているようにも見えませんか。まさに火伏せの神としての側面も兼ね備えている訳ですね。

それではまた。(・∀・)

朝日さし夕日輝く二ツ森 黄金千両有明けの月

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吉本神社は川島町学の二ツ森に鎮座する旧村社である。祭神は天御中主神高皇産霊神神皇産霊神。その昔は「明現(みょうげん)」と称され、宝暦、天保、慶応に記された棟札はみな「明現社」と記録されている。明現とは北極星を神格化した妙見菩薩に因む社号であり、明治期に施行された神仏分離令によって地名から吉本神社と改称したのだという。

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その昔は吉本神社社殿の横に何千年とも生きたと思われる大きな楠の木があった。その枝は北の方向の児島までのび、朝日が差すと西の方向の岩津の渕までその影がとどき、夕日が差すとその影は川島の城山までとどいたと云われている。それが理由かはわからないが吉本神社の鎮座する二ツ森には以下の歌が残っている。

「朝日さし夕日輝く二ツ森 黄金千両有明けの月」。

「阿波志」に「工藤伊賀守墓、学村城址に在り、又石在り、高さ一丈余り、その像を彫る、天明中折る」とあり、「阿府志」には「学村に在リ、山地穴観音ノ入り口左ノ方ニアリ、工藤伊賀慶長五年ノ歌アリ、しねん(自然)なる石をしるしとかき置くも、死しての後のかたみともなれ、右歌ノ下ニ自画像ヲ図ス、此石天明年中崩損シテ今ナシ、跡ニ所ノ人小祠ヲ建テ祀レリ」とある。
これは本来学駅から東50mほどの線路南側にあった工藤伊賀守形見の碑のことで、いつの時代か二ツ森西麓に移され、碑に記されていた内容が摩耗してわからなくなり、上記の歌が刻まれていたという人の噂に尾鰭がついて拡散されたそうだ。工藤伊賀守の軍資金を埋めている噂が挙がり、その真偽を確かめようと碑の下を掘った人もいるらしい。二ツ森の上に鎮座していた吉本神社の御神木が埋蔵金に関係していると目星をつけられてのことであったのだろう。

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はい。二ツ森の埋蔵金伝説です。この二ツ森はあの有名⁈ な雀獄(浮島八幡宮の元地)の北側に位置します。awa-otokoは工藤伊賀守の軍資金が隠されているのではなく浮島八幡宮の御神宝が隠されているのではないと考えています。(大袈裟だが可能性としてはゼロではない。)

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吉本神社とは別に配置された北に位置する春日神社社殿、蛭子神社の地神塔。そもそも二ツ森とは北側の春日神社の森と南側の吉本神社の森、二つの森があることから「二ツ森」と呼ばれるようになったそう。吉本神社は雀獄を意識した配置で鎮座しており、春日神社鎮座地は紛れもなく古墳の上に鎮座しており、疎い人にも感じられる二ツ森の何とも言いがたい違和感。(少しおかしな雰囲気が漂っております。天神地祇の祭祀で張り巡らせた結界が狂ってきているのかもね。)何か隠されている感じが漂っておるのです。(´-`).。oO ワカンナイケドナ。

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当地も古代阿波では重要な地域でした。旧麻植郡内にはありますが、なぜか吉本神社は忌部祭祀が感じられません。(雀獄は意識していると考えられますが。)ということで興味が湧いた方はぜひ現地参拝にて特異な雰囲気を体験して頂けたらと思います。埋蔵金、もしくはもっといい物を見つけられるかもですよ。ではでは。(・∀・)

二体の本尊

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切幡寺には本尊が二体存在する。
一体は正面南を向いているもので、これは弘法大師作の千手観音像である。他の一体は本堂を北に廻って北面に鎮座してる。これは即身成仏した乙女の尊像であり、未だ開帳を許されたことがない秘仏と伝わる。寺号が得度山潅頂院切幡寺というのも以下の物語より生まれしものなのである。

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今から千百七十数年前の師走の末、一人の雲水が四国を巡錫し阿波の切幡村にたどり着いた。山麓で機を織る音のする一軒の貧しい農家に立ち寄り報謝を乞うたところ、美しい乙女が出て来て、雲水の労をねぎらいながら精白した稗を三合程差し出した。雲水はそれから三日間同じ家に報謝に行ったが、行く度に機を織る手を止め、精白した粟、麦などを惜しげもなく差し出した。四日目に雲水はその乙女に、「いろいろと頂いた物を入れる袋を作りたいので布を少し分けて欲しい。」と頼むと、乙女はすぐに自分が織っている機の布を断ち雲水に捧げた。
雲水は若い乙女が信心深く無欲なのにいたく感動し、また乙女は気品があり何か由緒ありげに映ったのが気になって身の上を聞いた。「名はおきぬ。父は北面の武士 阿部某という者で無実の罪で投獄され獄死した。観音様を信仰していた母は落胆のあまり夫の後を追い、臨終の際におきぬに「観音様のお堂を建て信仰せよ。」が母の遺言であり、「私は千手観音を刻み衆生を済度するのが悲願なのでございます。」と涙ながらに雲水に話した。
この雲水こそ弘法大師であり、大師はこの乙女の殊勝な志と行為に深く感激し、一夜にして本堂を建立、一刀三礼の千手観音像を彫刻、更に乙女の願いのままに出家得度させ、秘密の潅頂を授けた。そうすると乙女は肉身のまま即身成仏し、千手観音の姿になったそうである。

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んー、、、周辺の地域伝承、この物語からは穀物の施しと機織り… 大宜都比売命が何となく匂いますなぁ…。ちなみに切幡寺の北西方向にはマニアには有名⁈ な市場町稲荷鎮座の稲荷神社もございます。さらに奥には「大月」の地名も… (Facebookで掲載したやつな。)

f:id:awa-otoko:20180521220545j:image市場町稲荷 稲荷神社)

はい。話を戻しますと秘仏となっている乙女の尊像は、「穀物の穂を携えている実は大宜都比売命の神像」だからこそ見せることができないのでは???などと勝手にawa-otokoは考えているのでございます。(ご存知の方もいると思いますが、大宜都比売命の本拠地⁈ である名西郡神山町神領、高根山悲願寺でも千手観音として伝えられているのですよ。大宜都比売命は。)

という訳で切幡寺の千手観音伝説、怪しいですよねぇ。切幡寺の所在地からして怪しいです。これはまた別の機会にご紹介できたらと思います。久しぶりに書いたら疲れたました。今回はこれでお終いにします。あとは切幡寺関連の写真を貼っておきまーす。(・∀・) シャシンヲハルノハラクダカラネ。

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f:id:awa-otoko:20180521220934j:image(奥之院 八祖大師)

f:id:awa-otoko:20180521220950j:image(そーっと覗いてみてごらん。)

f:id:awa-otoko:20180521221005j:image(そーっと覗いてみてごらん。)

八つの劔を統括する剣山 八劔神社

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はいどうも。awa-otokoです。なにかと忙しいので手短にいきますよ。(忙しいなら投稿するなよって⁈ )

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さて、最近少し思うところがあって剣山に登ってきました。

日本書記にはニニギが高天原から葦原中国へ降臨する際、アマテラスから三種の神器を賜り、天磐座から出発したことが記載されています。この天磐座は剣山山頂にある宝蔵石という説があるのはご存知でしょうか。(そんな宝蔵石については今回直接関係ありませんがちょっと言いたかっただけです。ハイ。)

その宝蔵石から大劍神社の傍らに聳える御神石(御塔石)の中間に位置する場所には、「八劔(はっけん)さん」。こと「八劔神社が古より祭祀されているのであります。

f:id:awa-otoko:20180430222627j:image(宝蔵石)

f:id:awa-otoko:20180430222653j:image(御塔石)

八劍神社は現在祭祀は滞っているものの、祠自体はかろうじて存在しています。噂では祠の中に納めてある御霊(御神体)もそのままだとか。

さぁ、ここまで書いたら剣山マニアが気になるのは当たり前。さっそく紹介しましょう。

f:id:awa-otoko:20180430223146j:image(八劔神社

八劍さんの祠自体は普通の祠。その背後には…

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奥を埋められた窟があります。かの有名な高根氏が掘ったという穴のひとつでしょうか。いや、、、自然の窟を利用しているようにも見えます。

ちなみにこの穴の他にも付近にはいろいろ穴らしきものが確認できます。(たぶんそれらが高根氏が掘った穴なのでしょう。)

この窟については間接的ではありますが八劔さんの祠の真後ろに位置することから八劍神社は窟そのものを祭祀していのが理屈に適っていると私は考えます。

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さて、ここからが本題。

実のところ宝蔵石以外の石(磐座)を剣(つるぎ)と称し、古より意図して隠されている ”とある何か ” を示す指標として八劔神社は作られているようです。もちろん御塔石、さらには鶴石、亀石も” 剣(つるぎ ) “ のひとつとして見立てられており、その大小の八つの剣(磐座)を束ねる重要なポイントが “八劔神社 と考えるべきなのです。(大剣神社の御塔石は大きい剣だから大剣なのですよ。あら単純。)

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上にも記したように今までの剣山伝説では、鶴石と亀石で鶴亀山(つるきさん)。また安徳帝が御剣を宝蔵石の下へ奉納した所以から剣山(つるぎさん)。また御塔石を天に聳える剣(あめのむらくも剣)に見立てたことから剣山(つるぎさん)。とされているのが定説でした。

しかし、「宝蔵石に関係する磐座は、全て劔(つるぎ)」なのです。さまざまな劔の磐座があるが故に ” 剣山 (つるぎのやま)" と呼ばれたのです。生け花固定用のあの道具も山形に剣がいっぱいついているから ”剣山(けんざん)”って呼ぶでしょ。

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そんな剱の山を登った空海不動明王を、役行者蔵王権現として、”とある何か” を封印守護しているのは言うまでもございません。

ということで、これ以上余計なことを書いちゃうと当地を荒らす輩が出てきては困るのでこれくらいにしておきます。

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自然を畏怖せず、興味本位や手柄目当てで当地を荒らす人間は手痛い報いを受けますよ。くれぐれもご注意を。

ではまたね。(・∀・)