awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

水の威霊 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

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佐那の大宮能賣神亦名天宇須賣命なり。八倉比賣なる御名を石屋戸を開きたること美(ほめ)たる意に説くこと甚だ違へり。宇須賣命は栲幡千千姫もとより同神に非ず。栲幡千千姫は阿波女神と同神、天手力男神天石門別神)の御女なり。故に天石門別稚姫神とも天石門別豊玉比賣とも申す。

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上記は佐那河内村の大宮神社が天鈿女を祭祀し、大粟山より出でし大宜都比売命とは同神でないことを指しているのではないでしょうか。

矢野村 杉尾明神(現 天石門別八倉比賣神社)は、稚日女尊(わかひるめ)、または豊(壹与:とよ)玉比賣命を祭祀していることを示しており、まずは当地に宇須賣命(稚日女尊)が先じて入り、のちに大日孁神(大宜都比売命:豊玉比賣神)が降臨したことが推測できます。

上記の内容でも複数の神名が併用されて、なかなかその存在を把握するのは難しいです。その他にも別の神名を使用して阿波の国魂神は伝承されていますので今回はその事例を紹介したいと思います。

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過去にも書きましたが、天石門別八倉比賣神社の社殿左側から阿波の国魂 大宜都比売命が国営をはじめた大粟山を遥拝する風習が残っています。(便宜上大粟山の遥拝とされていますが西龍王、東龍王山を確認していると考えます。)

これは古代に天石門別豊玉比賣命の拠点であった東龍王山・西龍王山と何らかのコンタクトを取っていた形跡と考えられ、現在では遥拝の所作として残っていると考えています。(西龍王山 建治寺には鮎喰川に船が行き来していた名残りで今も常夜塔が設置されている。)

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国府町矢野に鎮座する天石門別八倉比賣神社は、本来の天石門別八倉比賣神社ではありません。古に佐那縣より移遷された天石門別豊玉比賣神社なのです。ややこしいですが、八倉比賣神社の略記にヒントが隠されているように思います。

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天石門別八倉比賣神社略記
式内 正一位 八倉比賣神宮
御祭神 大日孁女命(別名天照大神
御神格 正一位延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和八年(八四一)八月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観十三 年(八七一)二月二十六日に従四位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 二年(一一八五)三月三日正一位となる。
御神紋 抱き柏
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を 削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」による までもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は海抜一一六米、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部 頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を 組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(海抜二一二米) 一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の 先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記さ れ、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示 していた。古代学者折口信夫天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、 余りにも知られていない。
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永二年三月(一七七三)の古文書の「気延山々頂よ り移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦三三 八年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永二年より 以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。

矢野神山 奉納古歌
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも 柿本人麿(萬葉集収録)

当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には 出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さ きの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入り くんだ湾の奥に当社は位置する。
天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然ではない。
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(一七三六―四一)まで 十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久二 年(一〇七〇)六月廿八日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」 として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないこ とが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。

矢野は古代において河に挟まれた岬であり、北に吉野川の(海城:あまぎ)、南には鮎喰川から続く八万津。(一宮町には海見:かいみの地名も残る。)吉野川を遡れば麻植、三加茂方面へ、鮎喰川を遡れば神山、木屋平方面へ、河口に出れば長ノ国へ。現在の国府町はまさに要所中の要所だった訳です。(だからこそ国府が置かれた。)

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古代の地をわかりやすくするためにわざと水位を13mに設定したフルードマップです。略記に記された地理状況まんまですね。矢野神山(赤丸)に注目。矢野神山頂上付近から南北を見渡せばすぐに不審船は確認できたのです。

これらの理由から阿波における天照大神水の女神に属した、もっとも威力ある神霊である、瀬織津姫撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき いつのみたま あまざかる ひうらつひめ のみこと)なのであります。

つまり大宜都比売命は、佐那河内から神山、国府町矢野周辺の水路さえも統括していた水の女神という側面も持ち合わせた神ということをお伝えしたかったのです。

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神瀬織津姫)、摂社からは天鈿女、猿田彦、手力男… これらの祭神から、佐那河内、入田方面から移遷された天石門別豊玉比賣神社に間違いないでしょうネ。

 

オマケ

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昔、この大泉神社 五角形の井戸から御神水を汲み、本殿の手水鉢を満たすのが習わしだったそう。

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ちなみに当社の御神紋 抱柏紋って草木を燃やしているようにも見えませんか。まさに火伏せの神としての側面も兼ね備えている訳ですね。

それではまた。(・∀・)

朝日さし夕日輝く二ツ森 黄金千両有明けの月

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吉本神社は川島町学の二ツ森に鎮座する旧村社である。祭神は天御中主神高皇産霊神神皇産霊神。その昔は「明現(みょうげん)」と称され、宝暦、天保、慶応に記された棟札はみな「明現社」と記録されている。明現とは北極星を神格化した妙見菩薩に因む社号であり、明治期に施行された神仏分離令によって地名から吉本神社と改称したのだという。

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その昔は吉本神社社殿の横に何千年とも生きたと思われる大きな楠の木があった。その枝は北の方向の児島までのび、朝日が差すと西の方向の岩津の渕までその影がとどき、夕日が差すとその影は川島の城山までとどいたと云われている。それが理由かはわからないが吉本神社の鎮座する二ツ森には以下の歌が残っている。

「朝日さし夕日輝く二ツ森 黄金千両有明けの月」。

「阿波志」に「工藤伊賀守墓、学村城址に在り、又石在り、高さ一丈余り、その像を彫る、天明中折る」とあり、「阿府志」には「学村に在リ、山地穴観音ノ入り口左ノ方ニアリ、工藤伊賀慶長五年ノ歌アリ、しねん(自然)なる石をしるしとかき置くも、死しての後のかたみともなれ、右歌ノ下ニ自画像ヲ図ス、此石天明年中崩損シテ今ナシ、跡ニ所ノ人小祠ヲ建テ祀レリ」とある。
これは本来学駅から東50mほどの線路南側にあった工藤伊賀守形見の碑のことで、いつの時代か二ツ森西麓に移され、碑に記されていた内容が摩耗してわからなくなり、上記の歌が刻まれていたという人の噂に尾鰭がついて拡散されたそうだ。工藤伊賀守の軍資金を埋めている噂が挙がり、その真偽を確かめようと碑の下を掘った人もいるらしい。二ツ森の上に鎮座していた吉本神社の御神木が埋蔵金に関係していると目星をつけられてのことであったのだろう。

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はい。二ツ森の埋蔵金伝説です。この二ツ森はあの有名⁈ な雀獄(浮島八幡宮の元地)の北側に位置します。awa-otokoは工藤伊賀守の軍資金が隠されているのではなく浮島八幡宮の御神宝が隠されているのではないと考えています。(大袈裟だが可能性としてはゼロではない。)

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吉本神社とは別に配置された北に位置する春日神社社殿、蛭子神社の地神塔。そもそも二ツ森とは北側の春日神社の森と南側の吉本神社の森、二つの森があることから「二ツ森」と呼ばれるようになったそう。吉本神社は雀獄を意識した配置で鎮座しており、春日神社鎮座地は紛れもなく古墳の上に鎮座しており、疎い人にも感じられる二ツ森の何とも言いがたい違和感。(少しおかしな雰囲気が漂っております。天神地祇の祭祀で張り巡らせた結界が狂ってきているのかもね。)何か隠されている感じが漂っておるのです。(´-`).。oO ワカンナイケドナ。

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当地も古代阿波では重要な地域でした。旧麻植郡内にはありますが、なぜか吉本神社は忌部祭祀が感じられません。(雀獄は意識していると考えられますが。)ということで興味が湧いた方はぜひ現地参拝にて特異な雰囲気を体験して頂けたらと思います。埋蔵金、もしくはもっといい物を見つけられるかもですよ。ではでは。(・∀・)

二体の本尊

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切幡寺には本尊が二体存在する。
一体は正面南を向いているもので、これは弘法大師作の千手観音像である。他の一体は本堂を北に廻って北面に鎮座してる。これは即身成仏した乙女の尊像であり、未だ開帳を許されたことがない秘仏と伝わる。寺号が得度山潅頂院切幡寺というのも以下の物語より生まれしものなのである。

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今から千百七十数年前の師走の末、一人の雲水が四国を巡錫し阿波の切幡村にたどり着いた。山麓で機を織る音のする一軒の貧しい農家に立ち寄り報謝を乞うたところ、美しい乙女が出て来て、雲水の労をねぎらいながら精白した稗を三合程差し出した。雲水はそれから三日間同じ家に報謝に行ったが、行く度に機を織る手を止め、精白した粟、麦などを惜しげもなく差し出した。四日目に雲水はその乙女に、「いろいろと頂いた物を入れる袋を作りたいので布を少し分けて欲しい。」と頼むと、乙女はすぐに自分が織っている機の布を断ち雲水に捧げた。
雲水は若い乙女が信心深く無欲なのにいたく感動し、また乙女は気品があり何か由緒ありげに映ったのが気になって身の上を聞いた。「名はおきぬ。父は北面の武士 阿部某という者で無実の罪で投獄され獄死した。観音様を信仰していた母は落胆のあまり夫の後を追い、臨終の際におきぬに「観音様のお堂を建て信仰せよ。」が母の遺言であり、「私は千手観音を刻み衆生を済度するのが悲願なのでございます。」と涙ながらに雲水に話した。
この雲水こそ弘法大師であり、大師はこの乙女の殊勝な志と行為に深く感激し、一夜にして本堂を建立、一刀三礼の千手観音像を彫刻、更に乙女の願いのままに出家得度させ、秘密の潅頂を授けた。そうすると乙女は肉身のまま即身成仏し、千手観音の姿になったそうである。

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んー、、、周辺の地域伝承、この物語からは穀物の施しと機織り… 大宜都比売命が何となく匂いますなぁ…。ちなみに切幡寺の北西方向にはマニアには有名⁈ な市場町稲荷鎮座の稲荷神社もございます。さらに奥には「大月」の地名も… (Facebookで掲載したやつな。)

f:id:awa-otoko:20180521220545j:image市場町稲荷 稲荷神社)

はい。話を戻しますと秘仏となっている乙女の尊像は、「穀物の穂を携えている実は大宜都比売命の神像」だからこそ見せることができないのでは???などと勝手にawa-otokoは考えているのでございます。(ご存知の方もいると思いますが、大宜都比売命の本拠地⁈ である名西郡神山町神領、高根山悲願寺でも千手観音として伝えられているのですよ。大宜都比売命は。)

という訳で切幡寺の千手観音伝説、怪しいですよねぇ。切幡寺の所在地からして怪しいです。これはまた別の機会にご紹介できたらと思います。久しぶりに書いたら疲れたました。今回はこれでお終いにします。あとは切幡寺関連の写真を貼っておきまーす。(・∀・) シャシンヲハルノハラクダカラネ。

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f:id:awa-otoko:20180521220934j:image(奥之院 八祖大師)

f:id:awa-otoko:20180521220950j:image(そーっと覗いてみてごらん。)

f:id:awa-otoko:20180521221005j:image(そーっと覗いてみてごらん。)

八つの劔を統括する剣山 八劔神社

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はいどうも。awa-otokoです。なにかと忙しいので手短にいきますよ。(忙しいなら投稿するなよって⁈ )

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さて、最近少し思うところがあって剣山に登ってきました。

日本書記にはニニギが高天原から葦原中国へ降臨する際、アマテラスから三種の神器を賜り、天磐座から出発したことが記載されています。この天磐座は剣山山頂にある宝蔵石という説があるのはご存知でしょうか。(そんな宝蔵石については今回直接関係ありませんがちょっと言いたかっただけです。ハイ。)

その宝蔵石から大劍神社の傍らに聳える御神石(御塔石)の中間に位置する場所には、「八劔(はっけん)さん」。こと「八劔神社が古より祭祀されているのであります。

f:id:awa-otoko:20180430222627j:image(宝蔵石)

f:id:awa-otoko:20180430222653j:image(御塔石)

八劍神社は現在祭祀は滞っているものの、祠自体はかろうじて存在しています。噂では祠の中に納めてある御霊(御神体)もそのままだとか。

さぁ、ここまで書いたら剣山マニアが気になるのは当たり前。さっそく紹介しましょう。

f:id:awa-otoko:20180430223146j:image(八劔神社

八劍さんの祠自体は普通の祠。その背後には…

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奥を埋められた窟があります。かの有名な高根氏が掘ったという穴のひとつでしょうか。いや、、、自然の窟を利用しているようにも見えます。

ちなみにこの穴の他にも付近にはいろいろ穴らしきものが確認できます。(たぶんそれらが高根氏が掘った穴なのでしょう。)

この窟については間接的ではありますが八劔さんの祠の真後ろに位置することから八劍神社は窟そのものを祭祀していのが理屈に適っていると私は考えます。

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さて、ここからが本題。

実のところ宝蔵石以外の石(磐座)を剣(つるぎ)と称し、古より意図して隠されている ”とある何か ” を示す指標として八劔神社は作られているようです。もちろん御塔石、さらには鶴石、亀石も” 剣(つるぎ ) “ のひとつとして見立てられており、その大小の八つの剣(磐座)を束ねる重要なポイントが “八劔神社 と考えるべきなのです。(大剣神社の御塔石は大きい剣だから大剣なのですよ。あら単純。)

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上にも記したように今までの剣山伝説では、鶴石と亀石で鶴亀山(つるきさん)。また安徳帝が御剣を宝蔵石の下へ奉納した所以から剣山(つるぎさん)。また御塔石を天に聳える剣(あめのむらくも剣)に見立てたことから剣山(つるぎさん)。とされているのが定説でした。

しかし、「宝蔵石に関係する磐座は、全て劔(つるぎ)」なのです。さまざまな劔の磐座があるが故に ” 剣山 (つるぎのやま)" と呼ばれたのです。生け花固定用のあの道具も山形に剣がいっぱいついているから ”剣山(けんざん)”って呼ぶでしょ。

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そんな剱の山を登った空海不動明王を、役行者蔵王権現として、”とある何か” を封印守護しているのは言うまでもございません。

ということで、これ以上余計なことを書いちゃうと当地を荒らす輩が出てきては困るのでこれくらいにしておきます。

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自然を畏怖せず、興味本位や手柄目当てで当地を荒らす人間は手痛い報いを受けますよ。くれぐれもご注意を。

ではまたね。(・∀・)

高越寺の歴代住職達

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さて、今回は高越山の高越神社とともに鎮座する高越寺の歴代住職の略歴についてちょっとずつですが触れたいと思います。但し自分用の備忘録としての記録なので気の利いたことは書いてないので悪しからず。(情報がない住職も含まれるけど文句は無しでお願いします。)(´Д` ) あぅあぅぁー。

 

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第一世 役小角
役小角は七世紀後半から八世紀頃の呪術宗教者。葛城山に住したが、その弟子韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に讒(ざん)せられ、文武三年(699)に伊豆に配流された。その後、鬼神を使役し葛城山と金峯山に橋を架けたなどの伝説が作られている。現在でも高越寺の本尊は蔵王権現である。蔵王権現の像は、頭に三鈷をいただき、三眼・青黒色の忿怒像で、左手は劔印で腰にあて、右手を空中にあげた形である。(awa-otoko的には蔵王権現は石立山(剣山のことな。)の不動明王スサノオ)をはじめとした古の神々を集合体として神つ山(高越山)に祭祀したのではないかと考えています。)

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第二世 真暁
生没年不詳。「当山先師過去名簿」には十禅師(宮中の内道場に奉仕した十人の僧)とあり、これより弘法大師の弟子である真暁のことであるとされる。高越寺蔵「御遺告」には承和ニ年(835)三月十五日入唐求法沙門空海上件を遺告す。承る法師等の中に真暁が含まれている。


第三世 如願
生没年不詳。情報なし。


第四世 慶瞬
高越寺蔵大般若経第九巻、第三○四巻の破損を明徳三年(1392)に慶瞬が修造した記事が残る。中ノ郷にある板碑に「権大僧都 慶瞬」との刻付がある。


第五世 乗澄
中ノ郷(中禅寺)の石碑に第五代 乗澄の名あり。中ノ郷中禅寺付近には大瀧さんとお越っあんが喧嘩して、大瀧さんから投げた石があるが、これは修験者同士の争いを物語っていると思われる。(大瀧山は阿波真言修験の拠点で吉野川を挟んだ忌部修験の拠点であった高越山と対峙している。)


第六世 清誉
生没年不詳。情報なし。


第七世 密厳
生没年不詳。情報なし。


第八世 清円
生没年不詳。穀谷に墓碑あり。


第九世 一常
蜂須賀家政の帰依を受けて高越寺を再興す。和泉国槙尾山寺の僧。中興の祖。中ノ郷 板碑に「中興開山市乗僧正」の記入あり。


第十世 宥範
生没年不詳。情報なし。

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第十一世 宥専
〜正保三年(1646)二月十七日没
寛永十七年(1640)高越権現の神楽銭問題で川田八幡神社 早雲神主との争いあり。


第十二世 宥盛
〜万治元年(1658)六月十日没
実の中興の祖。高越寺と川田八幡神社の争いが再び起こり、裁判では早雲神主が高越大権現から除外されたことになっている。高越寺と川田八幡神社がきびしく対立した裏には、高越寺が神社を支配する別当職を所持していたためであろうと推測されている。実の中興の祖といわれるのは川田八幡神社との争いを有利にし、大坊の土地等を譲り受け寺勢の伸張に尽力したことによる。

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第十三世 宥尊
〜寛文六年(1666)四月四日没
死没の前年に「摩尼珠山高越寺私記」で高越寺の歴史を著す。


第十四世 宥保
正保四年(1647)〜天和三年(1683)
此師始めて生年あり。短命であった。
川田八幡神社別当は高越寺であるにもかかわらず、日假遷宮を神主が行なったため高越寺が藩に不都合を訴え、神主・庄屋が高越寺に詫びたという記録が残っている。

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第十五世 宥海
〜元禄八年(1695)四月二十一日没
此師の時、高越寺火災あり。元禄三年(1690)元旦の晩四ツ時に付火にて悉く炎焼… と住友家記録で付火を報じている。


第十六世 宥証
享保十五年(1730)六月十四日没
宥証師は徳島城下勢見の観音寺の僧、龍厳の弟子。「阿州摩尼珠山高越寺記」を著し、諸堂の再建と共に高越寺の尊厳を其歴史によって示した。徳島城下徳島庵で病死。


第十七世 保道
宝暦四年(1754)三月十二日没
宥証上人は遺言で末弟子海寛を推したが他弟子達は正戒を希望した。藩は容れるところにならず高越寺は無住職となったが。一ケ年後に勢見山観音寺より保道が第十七世として着任した。
無住職時に高越寺を守ったのは両川田村の民であり、高越山上へ十人、山下へ十人百姓が留守をし、責任者として五人組が一人宛あたり、高越寺へは明王院住職が神仏に勤めた。


第十八世 快受
〜明和六年(1769)八月十四日没
此師の時、高越寺本尊を勢見山観音寺にて出開張を行なった。また川田八幡神社にあった大般若経六百巻の欠巻を庄屋の責任で補充し、これを高越寺へ返し、早雲神主による川田八幡神社祭礼には高越寺を支配せず、早雲神主の自由に任せす契約が成立した。


第十九世 快広
〜寛政元年(1789)六月四日没
第十八世 快受上人が明和六年(1769)に没しているにより、此和尚は二十年の在位と思われる。事績不詳。

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第二十世 快任
宝暦九年(1759)〜文政二年(1819)五月七日没
快任師は第十九世 快広の弟弟子。この師の時、旱多く雨乞い祈祷を執り行った。「日中勤めに神前に相向い候処、神前の下、長さ四尺ばかりの金色の蛇出現し、すなわち龍王の垂跡と存じ知り、(略)其夜七つ時より大雨降り終日止まず、感涙肝に銘じ… 」雨乞い祈祷は大成功を収めたようである。


第二十一世 快純
〜天保七年(1836)十月二十五日没
此師、業績不詳。


第二十二世 快典
〜文政十年(1827)八月十三日没
此師の業績は不明であったが、第二十三世宥光師の時代の記録により判明。文政十一年高越寺が川田八幡宮別当職を指引くことに決定したが、約束書取りかわさぬ内に快典は死没。


第二十三世 宥光
〜天保七年(1836)七月二日没
美馬郡脇町大滝寺出身、同町最明寺へ転住し五年勤めたのちに文政十年に高越寺へ赴任。穀谷の里寺を伊澤村の願成寺に売却し山上で住した。

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第二十四世 宥真
文化四年(1807)〜明治六年(1873)六月没
此度御修復之儀御建立所ニ被仰付候運御代々様御判物之写、同御寄附の品々、其他何不寄御由緒、寺領下置候運、寺旧記写、伝来之品々書上帳(一冊の書名)、嘉永二酉二月ヨリ郡役一条諸被仰付御書写等の高越寺の歴史を残す。


第二十五世 良岩
〜明治二年(1869)二月二日没
阿波郡秋月村光福寺良融三従弟。安政六年(1859)十二月に高越寺に赴任。堂宇建立のため寄付を藩内全郡に及ぼす。高越寺記録を著す。


第二十六世 龍快
文政五年(1822)〜明治二年(1869)四月十日没
覚書を残す。諸堂再建のため所轄の山林から用材伐採の願出。建築費捻出のため操人形芝居実施の願出。


第二十七世 快剛
生没年不詳。美馬郡木屋平村に墓あり。
明治元年(1868)神仏分離令が出て、両部神道を奉じる高越寺は、山林没収・五十石の禄返上、神社と寺院の分離という大変動を受けた。先代が明治二年(1869)四月に没したので快剛師が全てを背負うことになった。神仏取分け(神仏分離令)により蔵王権現を高越寺へ引き、天日鷲命の社は早雲神主に渡した。五十石を徳島藩に返上し、十石を交付された。快剛師はわずかニカ年の短い任期であった。


第二十八世 良俊
嘉永四年(1851)〜明治十四年(1907)二月十六日没
神仏分離後の高越寺を新しい方向へ出発させた。穀谷にあった里寺を願成寺に売却し、其の跡地に堂を建てて観音菩薩を安置。登拝できぬ老人婦女子のためを図った。


第二十九世 良範
明治二十年(1887)〜昭和十九年(1944)七月十三日没
千住良俊が山門の建立をなした後を受け、鐘楼の新築をなした。

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第三十世 智純
明治三十四(1901)十二月九日生〜昭和五十七年(1982)七月十四日没
昭和十四年(1939)一月十八日高越寺に火災が起こる。川田町警防団が一里十八町の急坂を駆け上ったが寺の一反半(15アール)が焼け落ちていた。智純師は本堂、客殿、庫𥚃、休憩所、修行大師像、錫杖塔、心経塔を建造した。

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第三十一世 茂昭
昭和十五年(1940)二月二十日〜平成二年(1990)一月十七日没
先代智純師と共に高越寺の復興に努力したが平成二年五十歳で逝去された。護摩堂、休憩所の改築、駐車場の新設、給水施設の設置をされた。また書籍「高越山」を編集した。


第三十二世 茂洋
昭和十五年(1970)十二月二十一日〜平成二十六年(2014)十二月六日没
茂洋師の没については記憶に新しいところであり、関係者の気持ちを汲んでここでの記載は伏せさせていただきます。

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第三十三世 浩円
情報なし(奥の院 蔵王権現の鳥居扁額を書いている人?だよね。たぶん。)


このように高越寺・高越神社は、役小角が忌部大神宮の奥宮である石立山(剣山)より古の神々を勧請して開いた「神つ山(こうつのやま)」であり、約千三百年以上より脈々と続いている聖跡なのであります。三十三世に渡り幾多の困難を乗り越えながら伝わっている聖跡 高越山。阿波では是非一度は参拝するべき場所のひとつですよ。興味ある方は是非どうぞ。(・∀・)