awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

朝宮から大宮へ(名東の章)

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えーと、、、前回の記事より続きとなります。前回は麻植の章として牛島八幡神社が「苧(麻:お)宮→大宮(おおみや)」へ転訛した伝承を紹介しました。

お気付きの方がいらっしゃるかも知れませんが、今回は微妙に題名を変えてます。これは麻植の章で書いた内容とは根本的に違うからです。今回は転訛という簡単な内容ではございませんので、そこんところお間違えなく読んでいただければと思います。

それではさっそく本題に移りましょう。今回は名東郡鎮座の朝宮神社、大宮神社をメインに紹介していきます。

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f:id:awa-otoko:20170924125044j:image(朝宮神社)
佐那河内村には、天照大御神こと卑弥呼を連想させる朝宮神社が鎮座しております。祭神は全国でも珍しい瀬織津姫なんです。

瀬織津姫

瀬織津姫(せおりつひめ)は、神道大祓詞に登場する神である。瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。古事記日本書紀には記されていない神名である。
水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性である。

倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。(ウィキペディアより)

はい。朝宮神社の社名は「麻」からではなく、祭神の瀬織津姫という水の流れに特化した御神威から川の神ということが判断できます。昔は園瀬川の流れを利用して「八萬津」に様々な物資を園瀬川や支流の嵯峨川の流れを利用して移動させていたのでしょう。

佐那河内村から太古阿波の総合港のひとつである「八萬津」へ流れる… その終着点の形跡が八万町鎮座の朝宮神社と考えて間違いないでしょう。そうです。八万町にも朝宮神社が存在するのであります。f:id:awa-otoko:20170924202458j:image

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f:id:awa-otoko:20170924202522j:image(八万町の朝宮な。)

ここでは朝宮(佐那河内村)→朝宮(八万町)と同じ朝宮神社として移遷されていて社名の変化はありません。

f:id:awa-otoko:20170924202639j:image(倉庫の神紋からは麻宮から朝宮に転訛した可能性も… )

またawa-otokoの想定なのですが、物流を統治する場所として佐那河内村の朝宮には大宮神社を、八万町の朝宮には宅宮神社が充てられていたのではないかと考えています。

佐那河内村 大宮神社の社名については東隣りの朝宮神社からの社名転訛ではなく、大宮賣神(オオミヤノメ)こと天宇受女命(アメノウズメ)を祭祀していたことから起ったものではないかと考えています。

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f:id:awa-otoko:20170924131211j:image(大宮神社)

大宮賣神
オオミヤノメは、神道の神。『延喜式神名帳』と『古語拾遺』では大宮売神(おおみやのめのかみ)、伏見稲荷大社では大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)と表記する。宮殿の平安を守る女神である。
古事記』や『日本書紀』には記されないが、『古語拾遺』に太玉命の子として登場する。天岩戸から新殿に移った天照大神に侍女として仕えたとされ、内侍(女官)が善言美詞(麗しい言葉)を駆使して君臣の間を和らげるような働きをしたと記されている。

延喜式』の大殿祭(おおとのほがい)の祝詞においては、皇居に鎮座して親王や諸臣たちが過ちを犯すことなく心安らかに仕えられるよう見守る神であるとされている。
神祇官で祀られた天皇守護の八神のうちの一柱として、朝廷で重視された女神である。宮殿の人格化とも女官の神格化ともいわれ、上述したように君臣の間を取り持ち調和を図る神とされる。こうした性格から、旅館や百貨店など接客業の守護神として信仰されるほか、家内安全・家族和合の神ともされている。

伏見稲荷大社で祀られる稲荷三神(上社・中社・下社の神の総称)の一柱でもあり、主祭神のウカノミタマの配神として上社に祀られている。穀物神であるウカノミタマに仕える巫女を神格化したものともされる。こうした属性から平安京の官営市場の守護神として祀られた結果、商売繁盛の神としても信仰されるようになった。

また、江戸時代の国学者平田篤胤は『宮比神御伝記』で、伊勢神宮内宮に祀られる宮比神(みやびのかみ)は、オオミヤノメまたはアメノウズメ(芸能の女神)の別名であると説いている。祐徳稲荷神社や志和稲荷神社でもオオミヤノメをアメノウズメに当てており、技芸上達の神としている。

ちなみに式内社 麻能等比古神社から天石門別八倉比賣神社の摂社である松熊社は船戸神として移遷されています。

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f:id:awa-otoko:20170924171140j:image(松熊神社)

上の写真にあるように麻能等比古神社から船戸神として手力男命と天宇受女命が移動しているのです。

麻能等比古神社は「名方津」に流れ込む鮎喰川経由を司った社であり、「八萬津」を司る佐那河内村の大宮神社とも関わりが大にあったと考えて差し支えないでしょう。

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f:id:awa-otoko:20170924195744j:image(宅宮神社)

なので、、、、「八萬津」を司った宅宮神社の祭神は、、、

船戸神として、また稲荷神として変化していった「天鈿女命 」ではなかったのかと考えたりしている訳で…

あ、妄想はこれくらいにして大宮についてそろそろまとめましょうか。

•麻宮から転訛して大宮となった。

•大きな規模の神社の名称を大宮とした。

•祭神の御神名(大宮賣命)を採用して大宮とした。

 (以上の他にも「大宮神社」の由来がありましたら情報をお寄せくださいませ。)

awa-otokoも、もう少しだけ阿波 大宮神社の調査続けてみようと思います。

あ、そうそう。面白い場所に立派な大宮神社が鎮座しているのですよ。一応目をつけているのでもし続きを書くならソコかな。それではまた。

麻宮から大宮へ(麻植の章)

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吉野川市鴨島町牛島には天日鷲命主祭神とする「牛島八幡神社」が祀られています。

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当社は古い時代の創建で、神山町阿川の二宮八幡神社大般若経 嘉慶二年(1388年)の奥書に牛島八幡と記されており、室町時代には既に存在していたと考えられます。また牛島八幡は「大宮八幡宮」とも称され忌部神社の候補社の一つにも挙げられていた社なのであります。

郷社八幡神社 往古麻宮と称し、後大宮と公称す。麻植神を祭りし大社なりと云ふ。同村小字神の壇に小祠あり、忌部神を祀る。(麻植郡郷土誌より)

牛島(うしのしま)は「苧師ノ島(おしのしま)」。

神代に麻をはじめとした種々の物を作り始めた神(天日鷲命)の裔が住んでいる村と伝承されていました。(神裔が居住する村として「大人(うし)の島」という美称で起こった地名という説もあり。)

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本来は「苧(麻)宮(おみや)」でありましたが、

「苧(麻):おみや」が転訛して「おおみや(大宮)」と称するようになったとされているのです。

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はい。麻植郡牛島八幡神社の伝承を挙げました。この内容は結構ポピュラーで知ってる人は多いと思います。

実は転訛による神社名称の変化に関して、この牛島八幡神社の事例に限定することなく、他の地域にも同じような事例があると考えているawa-otokoでございます。

他の地域の事例をイッキに紹介しようと考えましたが、収まりきらないことは明白。長文入力に疲れるのも理由(それが一番の理由な。)でやめました。

ということで、今回はプロローグ的なもの。(ちょっと内容的に物足りないかもしれませんが。。。)

気が向いたら他の地域の事例も挙げて関連記事を投稿しよと考えています。(気が向かなかったら書きませんので悪しからず。題名から(麻植の章)が消えていたら「あ、書くのやめたな。」と察して下さいな。笑笑笑)

それではまた。( ´∀`)

神殺しの舞台は焼山寺なのか?

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天正三年五月一八日「宵ヨリ箒星出ル、其光如日月、同夜月無隈ニ大麻山ヨリ大船二艘虚空ヲ渡リ、焼山寺ノ嶺ニ掛リテ消ヌ」

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“1575年の5月18日のことである。宵にホウキ星(彗星)が見えた。それは日や月の光と同じような明るさだった。その夜は月は無く、北東の隅に見える大麻山から二艘の船が空を渡ってきて焼山寺山に到達して消えた。”

これは三好家成立記に記された三好長治の不吉を暗示した文でありますが、なぜかawa-otokoはこの文に引っかかりを感じるのです。以前から焼山寺に関して違和感を感じていた内容はこれ。(下記引用)

保食神月夜見尊
日本書紀においては、同様の説話が神産みの第十一の一書に月夜見尊月読命・つくよみ)と保食神(うけもち)の話として出てくる。

天照大神ツクヨミに、葦原中国にいるウケモチという神を見てくるよう命じた。ツクヨミウケモチの所へ行くと、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは汚らわしいと怒り、ウケモチを斬ってしまった。それを聞いたアマテラスは怒り、もうツクヨミとは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。

アマテラスがウケモチの所に天熊人(あめのくまひと)を遣すと、ウケモチは死んでいた。保食神の亡骸の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ると、アマテラスは喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。(Wikipediaより)

はい。有名な日本書紀に記された月夜見尊の神殺しですね。(古事記では須佐之男命)大宜都比売命を殺した内容です。焼山寺はこの説話に関係している場所ではないのかとawa-otokoは密かに調査をしていた次第であります。そこで冒頭の文言。記録された時代は中世ですが、ソースは遡って存在したのではないかと考えたのです。

f:id:awa-otoko:20170917214850p:image(月野の月読命の祠に近い。焼山寺の真北に位置)

でも、馬鹿正直に焼山寺大宜都比売命は殺されたとは考えてないです。ちょうどこの付近は天日鷲命の領域である旧麻植郡大宜都比売命の領域である神山の境界にあたることから、農業における進め方(考え方)で揉めたエリアであると考えるのです。

 

本来、焼山とあるように焼畑農業を主に採用していた(と思われる)大宜都比売命

f:id:awa-otoko:20170917222628j:image(蛇封じの岩)

空海が来山した折、大蛇が火を吹き山を焼いて山中の人々を困惑させていたので虚空蔵求聞持法で大蛇を岩に閉じ込めたというのは焼畑農業をしていた説話なのではないでしょうか。

焼畑農業(やきはたのうぎょう)/ 焼畑農法(やきはたのうほう)は、主として熱帯から温帯にかけての多雨地域で伝統的に行われている農業形態である。通常耕耘・施肥を行わず、1年から数年間耕作した後、数年以上の休閑期間をもうけ植生遷移を促す点が特徴である。英語では移動農耕 (shifting culitivation) という語が使われ、火入れをすることは必ずしも強調されない(実際、湿潤熱帯の各地では火入れを伴わない焼畑農耕も見られる)。英語圏の研究においては、短期の耕作と長期の休閑が繰り返され循環することをもって焼畑が定義されることが多い。(Wikipediaより) 

そして月読命月夜見尊: 天日鷲命)による天体運行による季節の移り変わりを測ることが必要だった農耕。

f:id:awa-otoko:20170917223118j:image(龍王窟:またの名を求聞持窟)

空海が虚空蔵求聞持法を会得し、虚空蔵菩薩真言を唱えているときに空から明星(金星)が近づいて口の中に飛び込むという体験は、天体運行の把握と気候の変化を体得した逸話なのではないでしょうか。

農耕(のうこう)

農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。そして政治と経済、ついには国家の誕生へと至る事となる。

さらに作物の管理や分配のための計算、気候の変化と農作業の日程を知るための暦法天文学)、農地管理のための測量などが必要となり、これらが数学の基礎となった。(Wikipediaより)

大きな違いがあると思いませんか?どちらの農法を選択するか苦悩と葛藤の連続だったでしょう。

高越山(高越大権現)と大粟山(一宮大明神)の氏子が仲が悪かったのはこれを引きづっているからではないのか…

そのような太古の伝承が月夜見尊による大宜都比売命の神殺しの逸話としされているとしたら… そして空海もそれに一役かっているとしたら… 面白いですよね。

今回はちょっとしたawa-otokoの妄想でした。こんなこじつけのお話はまだまだいっぱいあるのでまた書きたいと思います。あ、冒頭の引用はあまり関係なかったのは指摘してはいけない… それでは。(≧∇≦)

日知りと月読み(その参:今鞍進士と斎社の行方)

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前回は「月読み」とは天体学などに長けたシャーマンの名称、美郷村月野に存在した「月読命の宮」こと「斎社」について述べました。今回は「斎社」のその後について自説を含めながら進めたいと思います。

今鞍氏が居住していた美郷村月野では「鎌倉屋敷」と称する屋敷跡が残され、その南の平坦地には昭和初年まで「月読命」を祀る「斎社(いっきしゃ)が存在していました。

f:id:awa-otoko:20170911212511j:image(広幡八幡神社

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「斎社」は、今鞍氏の末裔とともに月野集落より山麓に降り、現在は吉野川市美郷字栗木に鎮座する広幡八幡神社に合祀されています。

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awa-otokoは当記事を書くために広幡八幡神社を参拝しましたが、社殿の迫力に圧倒されてしまいました。社殿は老朽化が進んでいますが、その姿がさらに凄みを増長させ、神社全体からのご神威(神々しさ)が強いこと、強いこと。(阿波の神社巡ら〜達に告ぐ。一度は参拝しておくべき神社だと思いますよ。)

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広幡八幡神社は阿波忌部氏ゆかりの社。祭神は天日鷲命誉田別命・足仲彦命・息長足姫命・国常立命・月夜見命・大物主命。

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後の時代に宇佐八幡宮の分霊を勧請していますので、八幡神に関わる祭神を除外すれば「天日鷲命」を主祭神として創建されたということでしょう。そして昭和初年に「斎社の「月夜見命」が合祀されて祭神に「月夜見命」が追加されたことになります。

f:id:awa-otoko:20170911213518j:image(境内摂社)

f:id:awa-otoko:20170911213541j:image(小さな祠たち)

ただ気になることがひとつ。由緒には「往古に月野にいた忌部氏人 今鞍進士の後裔が居住したのが当地であり、その祖神を祭祀したのが起源である。」とされています。

広幡八幡神社主祭神天日鷲命ということから、今鞍進士の祖神は天日鷲命であると安易に決めつけ過ぎていないでしょうか。今鞍進士が居住した月野には「月読命を祀る斎社」しか存在しなかったはずなので、厳密に言えば天日鷲命ではなく「斎社の月読命」が今鞍氏の祖神ではなかったのかと考えます。

さらに深読みすれば「斎社の月読命」は天日鷲命の職掌だけが一人歩きして祭祀されたもので、天日鷲命と「斎社 月読み」は同一人物同にして同神ではなかったのかと妄想が膨らみます。

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その理由のひとつとして日本書紀「月読尊を以ちて蒼海原の潮の八百重を治らすべし。」の一行があり、月読命」を崇拝したことによって海人族の信仰も持ち合わせていることが判断できるからです。

これは天日鷲命黒潮に乗って安房を始めとした関東を開拓した業績と、天富命が祖国阿波に帰省したことを考慮すれば、月読命(素盞嗚尊)がなんとなくですがシンクロする部分が見えてくるのです。

麻植郡には月野をはじめ、大神宮山や忌部山、向麻山など月見神事が行われた場所が多数あります。これは暦日を計測して農耕のタイミングをはかることはもとより、潮の干潮の周期を見極めて海に出るタイミングをはかっていたことも考えられないでしょうか。

月野から麓へ、種野山から平野部に移動しながら拡大していった今鞍進士の末裔達、忌部氏族。それは天体の知識をもとに農業、航海術を身につけた技術集団でもありました。この技術集団が太古より日本の文化を形付けていったと言っても過言ではあはりません。今後もちょっと違う視点から阿波忌部氏を追ってみたいと考えています。

今回のシリーズは天文学を身につけたシャーマン「月読み(月読命)」から忌部族と天日鷲命に迫ってみました。もともと文章をまとめるのが苦手なawa-otoko。理解しがたい内容だったかもしれませんがご容赦下さいませ。(実は忌部氏については勉強不足なのです。)

それでは怒涛の三連投稿はこれにて終わります。お付き合いありがとうございました。m(_ _)m

日知りと月読み(その弐:月野月読命の宮跡 斎社)

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前回は日智子王神社から「日知り」についてでした。今回は「月読み」と「月読命」の相違点を中心に進めていきます。

阿波忌部氏を背景として種穂山や山崎忌部山などと関わりが深い美郷村美郷村は昔から木屋平村神山町鴨島町、川島町方面の要路となっていました。(木屋平の三木氏、松家氏、中枝の河村氏などの武将が前衛基地を置いていた場所ですね。)

f:id:awa-otoko:20170909192153j:image美郷村月野から望む)
そのような美郷村の在所のひとつである「月野」。当地は山の上にはめずらしく、五、六ヘクタールもの広い傾斜の緩やかな畑が広がっている場所なのです。そもそも「月野」という地名ですが、これは皆さんの予想通り?に月読命を祀っていたので付けられた地名だそうです。

月野の由来

ずっとずっとその昔、天の上に二つあったお月様のうち、ひとつが明るい光を放ちながら在所に下りてきた。月が下りたはずみからか、今まで山であった場所がちょうど円錐形にへこんで、なだらかな傾斜のかかる広い土地になってしまった。在所の人間は月が降臨したということで大変よろこび、その場所に立派なお宮を造り、月の神様である「月読命」を祀り、月が作ってくれた広い土地を「月野」と名付けた。それ以来、村は豊かになって月読命の祭祀は継続された。時は過ぎ、由来が忘れられた昭和の初年、「月読命の宮」は麓の広幡八幡神社に合祀された。お宮の跡は「中屋の窪」と呼ばれて社殿の石が残されている。

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小さい隕石でも落ちたんでしょう。落下した隕石を神として祭祀した?または天体を観測していた当時のシャーマンである「月読み」を神として崇めて祭祀したのか?どちらにしても月に関わることから、三貴神に含まれる「月読命」として伝承されるに至ったのだと思います。

月読命(つくよみのみこと)

記紀古事記日本書紀)において、ツクヨミ伊弉諾尊伊邪那岐命・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。天照大神天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、須佐之男建速須佐之男命・たけはやすさのお)の兄神にあたる。

ツクヨミは、月の神とされている。しかしその神格については文献によって相違がある。古事記ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大神、鼻から生まれた須佐之男とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、日本書紀ではイザナギ伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。

この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている。

日本神話において、ツクヨミ古事記日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある。同様の構造は、高皇産霊尊高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。

ツクヨミの管掌は、古事記日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりはアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが挿入されたためではないかと考えられている。

ツクヨミスサノオとエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる。(Wikipediaより)

昔から夜空に二つの月があがるという伝承をよく耳にします。それが天文そのものの事象なのか、古代の貴人を月や太陽に例えた比喩なのかは正直よくわかりません。

f:id:awa-otoko:20170909192257j:image月読命の宮跡付近)

awa-otokoの考えですが、「月読命」という神様をひとつの時代、ひとりの神として認識してしまうと簡単に歴史の罠に嵌ってしまうと考えています。(月読命に限らず全ての神名に当てはまる。)

前回も記載したように「月読み(月読命)」とは、天文学、気象学に長けた、いわゆる古代のシャーマンのことを指していたのではないのかと考えられるのです。

f:id:awa-otoko:20170909201514j:image(粟国造粟飯原氏系図より)

理由として、様々な地域、様々な場所、条件の相違があるにかかわらず「月読命」は伝承されており、古代より月(天体)の観測を行う場所には「月」をキーワードとした地名、そしてお月見神事が伝承されているからです。(月読みという職業が存在していたということです。)

例えば、過去記事にある粟國造家 粟飯原氏の祖先にも「月読命(月夜見命)」が存在します。これは粟飯原氏の祖先の中に天文学や気象などの知識を有して一族を率いた人物が存在したからではないでしょうか。まぁざっくり言えば、集落ひとつに「月読み(月読命)」が一人以上いてもおかしくなかったのかもしれません。

なのでイザナギの禊祓いから出現した三貴神の「月読命」は、今回の「月読み」とは全く別の神でなかったのではないかと考えるのです。(子孫や同じ血族の可能性はあるかもしれない。)

おっと、、、熱くなってしまいました。 次回に続く月野のおはなしに戻しましょう。

 

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実はそんな月野。中世にお城があったのですよ。

月野名の平坦な畑地内に今鞍屋敷の地称あり。「斎社(いっきしゃ)」と呼ばるる小祠ある地、今鞍氏の旧跡と伝えられる。

月野には月野城と呼ばれた山城がありました。時代は鎌倉時代末期から南北朝時代ですね。城主は今鞍刑部左衛門長正です。

おっと今鞍氏。(聞いたことがあるでしょう。忌部氏です。今は後◯田氏ですね。)

忌部氏の氏族今鞍進士、東山中央南部月野名に住み、今鞍の地名を称す。上部に鎌倉邸跡同氏の拠所なり。(木屋平 三木家文書より)

今回はここまで。

次回は今鞍進士の子孫とともに移動した「月読命の宮こと斎社」についてです。乞うご期待。(*゚∀゚*)