awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

野見宿禰から繋がる天神村の天満天神

 f:id:awa-otoko:20160702001149j:image

さて、少し前に落神の天神について触れました。

結論では邇邇芸命を祭祀しているのではないか?という事で締めた訳なんですが…
しかし、またタイムリーなことに天神村の天神社について別の見解を発見するに至ってしまいました。個人的には今回投稿する内容の方がアリなんではないかと考えていますが、何事も短略的に決めつけはよくありません。という訳でこれも一つの考察材料として閲覧頂ければと投稿することにしました。

 

f:id:awa-otoko:20160702001210j:image

f:id:awa-otoko:20160702003821j:image

土師とは土細工の人の名を云う。
土器、瓶などを作る人、この郷に住みたるによりてこの地を土師の郷と言いける也。菅家の祖、野見宿禰 土にて人形を作りて殉死に替えたり。帝これを賞賛し給いて土師の氏を給ふ。
其の子、大和國菅原に住み居所の名によりて姓を菅原と改めんと請いて勅免あり。古人の子、清公、清公の子、是善、菅を相極めん。清公、先に阿波守と成りて當国に来給うことあり。
彼土師の郷に住居し給う故に天神の社を建て是を祭るとならんか。其の後に社號、所の名に成らんか。

 

土師の郷とは名西郡石井町の4ヶ村をにあたると伝わります。桜間、土師、高足、埴土(天神)のことです。

上の引用にあるように菅原家の祖である野見宿禰が殉死の代わりに埴輪を用いることで土師の姓を賜わり、その裔が菅原古人、菅原清公へ繋がることになります。それではWikipediaから菅原家、野見宿禰の裔をご紹介致します。

 

 

f:id:awa-otoko:20160702001307j:image

菅原 古人(すがわら の ふるひと、天平勝寶2年(750年) )
弘仁10年1月10日(819年2月8日))は、奈良時代から平安時代にかけての貴族。氏姓は土師宿禰、のち菅原宿禰、菅原朝臣。阿波守・土師宇庭の子。官位は従五位下遠江介。秋篠安人を弟とする説もある。宝亀10年(779年)外従五位下天応元年(781年)6月従五位下に叙せられる。同月、古人・道長ら一族15名が居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これを許される。延暦9年12月(791年)には菅原朝臣の賜姓を受ける。延暦21年(802年遣唐使に随って唐に渡り、延暦24年(805年)帰国。学問に優れ文章博士・大学頭を歴任し、侍読を務めた。だが、学問以外には無頓着であったため、菅原家は朝廷からの援助を受けていたという。

 

 

f:id:awa-otoko:20160702001327j:image

菅原 清公(すがわら の きよきみ / きよとも、宝亀元年(770年) - 承和9年10月17日(842年11月26日))

平安時代初期の公家・文人遠江介・菅原古人の四男。官位は従三位左京大夫父・古人は高名な儒家であったが、家に財産がなかったことから、清公ら子息は窮乏し苦しんだという。清公は若い頃から経書と史書を学び、延暦3年(784年)詔により皇太子・早良親王に付き従い、延暦8年(789年)奉試に及第して文章生に補せられる。学業に優れて秀才に推挙され、延暦17年(798年)対策に及第して大学少允に任ぜられた。延暦21年(802年)遣唐判官に任ぜられ、近江権掾を兼ねる。延暦23年(804年)空海最澄らとともに唐に渡り、遣唐大使・藤原葛野麻呂とともに皇帝・徳宗に謁見し、その引き立てを得た。延暦24年(805年)帰国して従五位下・大学助に叙任される。(中略)孫の菅原道真が天神として祀られたことから、子の是善とともに天満宮に祀られている。

 

 

 f:id:awa-otoko:20160702001353j:image

菅原 是善(すがわら の これよし、弘仁3年(812年) - 元慶4年8月30日(880年10月11日))

平安時代前期の文人・公家。従三位・菅原清公の四男。官位は従三位・参議。当代随一の文人として、詩家の宗匠小野篁あるいは在朝の通儒春澄善縄・大江音人と親交があったという。上卿良吏・儒者詞人の多くを弟子としていた。俗世間の事柄に興味が薄く、世間を忘れたように風月を観賞して詩を吟じた。仏道を崇めて人々を慈しみ、孝行は天に至るほどで、殺生も好まなかった。臨終の際、初冬の梅の季節に自らの法要を営むことのみ一言し、他には何も語らなかったという。

 

 

f:id:awa-otoko:20160702001644p:image

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))

日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位太政大臣忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。


はい。全部読まなくてもいいです。参考程度で。(笑)

以上のことからわかる内容は、菅原家の祖は土師の姓を賜わった野見宿禰。そして野見宿禰は阿波の土師郷に居住していた可能性があること。(アンチ阿波説の人は野見宿禰は別の国に居住し、子孫が阿波に来て土師の郷を付けたと言うでしょうが… )


そして菅原清公は空海とも関わりがあります。一緒に唐に渡った船上で菅原家の野見宿禰について空海に語ったのかもしれません。空海は菅原一族の優秀さに惹かれ、祖である野見宿禰を万能の神である少彦名命に置き換えて京都五條天神として祭祀したのかもしれませんね。

 

野見宿禰から土師を賜わり、土師宿禰であった菅原古人の居住した地に依りて菅原の姓を賜わります。

今回の資料では阿波守であった清公の社を建てたとの内容です。

でも清公より…… やっぱり

と、いう訳で名西郡石井町天神の天神とは野見宿禰かもしれないということを明記して締めたいと思います。

 

なぜ土師の地名(の伝承)が残っているのか、菅原家から阿波守を輩出したのをかを紐解いていけば「野見宿禰、阿波居住説」が出てくるのではないでしょうか⁇

田口成良の粋な計らい

f:id:awa-otoko:20160627193306j:image

f:id:awa-otoko:20160627193325j:image

(源平屋島古戦場跡 那須与一が扇を射た岩)

 

阿佐家の先祖は門脇殿と呼ばれていた従二位中納言 平教盛の二男、従四位越後守 平国盛である。国盛は讃岐の屋島の浦(壇ノ浦)の戦いに敗れた後、阿波の祖谷に逃れて住んだ。
祖谷に逃れた平家に以下のような伝承が残されています。

三好郡山城谷粟山城主 田口(粟田)成良(阿波民部重能)は知盛始め諸武将と協議し、成良は源氏に降伏した風を装い、安徳天皇はじめ平家を一門が入水した如く見せかけ、同月二十八日成良自ら天皇を供奉して己が居城である山城谷に導き奉い、二カ月の間御滞在の後、剣山の麓(木屋平村、祖谷山村)に潜行した。

 

田口成良についておさらい】

寿永2年(1183年)7月の平氏都落ち後、四国に戻って讃岐を制圧する。屋島での内裏造営を行い、四国の武士を取りまとめた。一ノ谷の戦い屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦うが、屋島の戦いの前後、源義経率いる源氏方に伯父・田口良連、弟・桜庭良遠が捕縛・襲撃され、志度合戦では嫡子・田内教能が義経に投降したという。『平家物語』によれば、教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたとされる。(Wikipediaより) 

田口成良が四国に戻ったのは平家が都落ちした後。屋島で内裏を造営して場を整えてから安徳天皇を招き入れています。この時に最悪の事態を想定し安徳天皇と平家一門を剣山際麓に逃がすストーリーも画策したのではないでしょうか。もちろん武家の人なので、源氏との真っ向勝負を挑むことは大前提で進めていたでしょうが、源義経の大進撃は想定外のものであったようで最悪の事態での計画を選択するに至ったと思われます。


記録では田口成良は源氏方に裏切ったとありますが、源氏に寝返ったところで冷遇される対応は目に見えており、自らの命が惜しい訳ではなかったと考えます。東大寺の焼き討ち、鹿ヶ谷の陰謀でも清盛のために尽力した田口成良が裏切ることは考え難く、これが安徳天皇一行を逃がす為の時間稼ぎであったとしたら… (私はそう信じたい。)

 

【逃がされた安徳天皇と国盛のその後】
祖谷に入った国盛は大枝名主の喜多氏を討ってその屋敷に立てこもり、付近の住民を帰服させながら勢力を伸ばしていったといいます。その後、国盛は杉を植え自らの鉾を埋めて平家再興を祈願しました。しかし、その祈願虚しく承元二年(1208)に京に上ることなく祖谷の地で亡くなったのであります。

f:id:awa-otoko:20160627192905j:image

f:id:awa-otoko:20160627192842j:image

国盛には小次郎という嫡子ができ、小次郎は後に越後守氏盛と名乗りそのまま阿佐の庄に居住しました。

三代目は盛晴と名乗り同じく越後守を継承、四代目は家盛で紀伊守、五代目は盛辰で肥後守、六代目は盛鎮といい紀伊守、七代目は盛実で佐渡守であります。八代目は紀伊守を名乗り、天文年間(1532〜1554)に三加茂 金丸城の城主として三好筑前守之長に従っています。

 f:id:awa-otoko:20160627194007j:image

(金丸八幡神社の列石)

 

三好氏の隆盛に伴い、祖谷の盟主となり半田町や三加茂町の土地を拝領しました。祖谷の他の豪族と共に三好氏に従い、阿波や讃岐で転戦し、堺や京にまで攻め上がり、祖谷の軍団は阿波の軍勢の中でも強かったということであります。
初代国盛から三代目盛晴までは平家を名乗っていたが、四代目家盛の頃から阿波と土佐の国境に居住していたことにより、「阿(波)・(土)佐」氏「阿佐(あさ)氏」を姓とするようになったと伝わります。

 f:id:awa-otoko:20160627193008j:image

f:id:awa-otoko:20160627193035j:image

昨今、平家は剣山の麓で勢力を蓄えていた忌部氏を頼りに落ち延びていったという推測がなされています。この背景から考えて「阿佐(あさ)氏」は「麻(あさ)氏」ではなかったのかも推測してみましたが、これはちょっと当て付けただけなので考察するには厳しいかもしれません。(苦笑)


個人的には大粟山大宮司家でもあり、四国の大海賊であった一世一代の田口成良の粋な計らいによって、安徳天皇一行の御命を助け、自らの祖先が脈々と護ってきた皇祖発祥の地へ導いたのではなかったのでしょうか。

この田口成良の命を賭した導きにより、今もなお神山神領から木屋平村、祖谷山村の剣山系地域に平家の伝承が残されているのであります。

大粟山庄の祭官でもあった田口成良。亦の名を「粟田成良」と云う。のちに種野山を中心に国衙として栄えた阿波山岳武士は、剣山麓の祖谷、木屋平、旧麻植郡の強者揃いの衆であり、これらの衆(一族)は古代より大宜都比売命天日鷲命大麻比古神を祭祀した神々の末裔達。

大宜都比売命を祭祀した大宮司家 粟田成良の計らいから、種野山〜剣山周辺地域に土着した山岳武士達の協力を得られたのであります。ほんのひとときではありましたが、安徳天皇達は皇祖発祥の地を安住の地として得られたのはそのような背景があったからだと考えられないでしょうか。

 

【あとがき】

田口成良一族は、三好家の流れを汲む一宮長宗に滅ぼされるまで大宜都比売命を祭祀した祭官家として栄えたた一族でした。

昨今、粟飯原氏・大粟氏の古文書から埋もれていた歴史(阿波女社祖系)が表に出てきておりますが、一宮氏以前の田口(粟田)氏、それ以前の粟凡直一族に連なる歴史の流れが明確になっておりません。

今回、この状況を踏まえて田口成良に関連した歴史の断片をいろいろな観点から現在の歴史資料に結び付け、新たな発見のきっかけにならないかと実践してみました。もちろん解釈は人それぞれですから、また違う別の見解もあるかと思います。今は粟凡直一族の情報収集に行い、多くの考証資料を採取することが必要。今後も様々な側面から阿波の古代史に繋げて提唱していくと共に情報収集に重点を置いて進めたいと考えています。

不思議な亀(瓶)のつながり

 f:id:awa-otoko:20160702134744j:image

f:id:awa-otoko:20160702134801j:image

神山町下分の宇佐八幡の対岸には大石がある。現在は宇佐八幡に合祀されているが、かつて下分に大岩神社と呼ばれた社があった。この神社はもともと上分の奥屋敷で祭祀されていたが大水のために流出し、そのとき瓶に入れていた神器が漂着したのがこの石である。それからこの石はお瓶石と呼ばれ祭祀されるようになった。時が過ぎ、またもや大水のために御神体の入った瓶が流出した。今度は鳴門の撫養沖に漂流し、これを漁夫が拾って丁寧にお祀りして瓶浦神社となったという。

f:id:awa-otoko:20160702134647j:image

f:id:awa-otoko:20160702134711j:image

 

驚くべきは神山の奥屋敷 大岩神社から神領の宇佐八幡 お瓶石。そこから鳴門の瓶浦神社へ移動しているとは…

瓶大明神の御神体は三つのお瓶。そのうちの一つ以上の瓶が、神山町で祭祀されていた御神体を入れた瓶の可能性があります。

f:id:awa-otoko:20160625061816j:image

f:id:awa-otoko:20160625061830j:image

でも… 大事な御神体が大水で流されまくれば元宮の祭祀って継続できるのかちょっと疑問です。崇敬の元が無くなる訳ですから。(たぶん別の依り代を用意して魂ふりを行って御神体を作り継承してきたはず。です。)

流された以外に移動する理由として個人的には轟大明神のように決まった場所に行き来していたこともあったのではないかと考えてみました。

御瓶大明神も倭宿禰に所縁のある場所に行き来していて、その中継地点が鳴門の瓶浦神社だった考えればどうでしょう?鳴門亀浦港は淡路島経由の道の渡しとして利用されていたはずですから。(とある方から神山所縁の◯◯氏と倭宿禰氏族との繋がりを教えて頂きましたのでタイムリーに載せてみました。)

 f:id:awa-otoko:20160625061844j:image

f:id:awa-otoko:20160625061854j:image

さて、神山の宇佐八幡から派生したと伝える神社は様々な神に変化していきます。

・不動町の天佐自能和氣神社は高木の神こと高皇産霊。(刺肩別命も祭祀)

・入田町の笠木神社は豊雲の神。(推定) 

ちなみに今話題の粟飯原家 氏神である神社(妙見宮以外)も宇佐八幡に合祀されております。

その他にも勝浦町の朝立彦神社にある小嶽御瓶や、津田町 お瓶千軒の伝説で有名なお亀磯も関係があるかもしれませんね。やっぱり瓶は亀なんです。

f:id:awa-otoko:20160625105959j:image

(こちらは亀(瓶)の名称繋がりだけの安易な発想です。)

 

このように神山の宇佐八幡神社は原初神の伝承、海部系、八幡神阿波国魂神をも含めた、「神の総合商社」と呼んでもおかしくない神社ですね。

 

あと、山の奥に鎮座する古い神社に限って海に関係した伝承やヒントが隠されていることが多いのには驚きです。

f:id:awa-otoko:20160625112530j:image

古代でも作られた瓶は保存と収納に使用されるのはもちろんのこと、遠距離の移動に際しては瓶を舟にくくり付け水上での浮力の向上に使用されたり、舟上でのパーソナルスペース確保の理由から、舟外に出されて牽引して移動したことも考えられます。

この使用方法はある程度の水深が必要ですから海上のみ実施されたのだと思います。その様があたかも亀が泳いでいるように見えたので瓶は亀と呼ばれて伝承されているのではないでしょうか。

現代人の想像を遥かに凌ぐ古代人の行動力と移動範囲、知識はいつ調べても驚きが隠せません。 

興味がわいた方はぜひ宇佐八幡神社と御瓶岩を参拝してみてくださいね。

落神ノ天神は少彦名命なのか?

f:id:awa-otoko:20160622122834j:image

 

名西郡石井町高川原に鎮座する「天満神社」でございます。

この神社は広大な敷地を所有した外観的にも立派な神社なのですが、ショッピングモールの背後に隠れてしまいった存在感が薄い神社なのであります。本来は「天神社」でした。その他にもいろいろと秘密がありそうな神社ですよ。

 

その前に、、、

実は同高川原地区で同じ社名の「天満神社」が存在しております。ちなみに昔から「落神(おちがみ)さん」と呼び親しまれております。

 

f:id:awa-otoko:20160622192021j:image

遥拝所であった天満神社(落神神社)

 

当初はこの二つの「天満神社」を社域を同じとした一つの社であると考えていましたが、地理的条件から先に紹介したショッピングモール裏の天満神社の遥拝所の役割だったようです。

 

それでは名西郡石井町高川原鎮座 「天満神社」の謎解きを進めていきましょう!

 

天満神社」と鳥居の扁額にも、マップにも記されておりますが、実は「天神社」の扁額が本殿の中に飾られております。

 

f:id:awa-otoko:20160622191419j:image

 f:id:awa-otoko:20160622190550j:image

 

阿波も各地に「天満神社、天神社」は多く存在していますが、古来からの祭神が菅原道真ではなく「天ノ神」が祀られているこが多いです。通説に従ったり、祭神が不明になれば「天ノ神」は菅原道真に置き換えられていたようです。

 

f:id:awa-otoko:20160623141811j:plain

高川原村に落神ノ天神といふあり。少彦名神を祭りなるべし。讃岐国大内郡伊勢木といふ処にも有。高皇産霊の指間(タニマ)より漏落(クキオチ)玉ふと伝え落神といふなるべし。京都五條天子といひて祭りしを以て少彦名命ならん。天神の御子なれば五條テンシといひ落神などいふなるよし。天満天神と遇い奉り混同(ニガウ)べし也。

 

さて、引用より名西郡石井町高川原鎮座 天満神社の祭神は高皇産霊から漏落ちた少彦名命と説明されています。また、京都五條の「五條天神」より勧請したとありますが本当にそうなんでしょうか?京都五條天神の情報も確認、確認。。。 

f:id:awa-otoko:20160622125421j:image

 

主祭神少彦名命当初は「天使の宮」「天使社」と称し、後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」へ改称された。社号の五條は、当社北側にある松原通がかつて五条通と呼ばれていたことに由来する。なお、社号の天神と菅原道真とは直接の関連はないが、境内社として筑紫天満宮があり、道真が祀られている。

社伝によれば、創建は延暦13年(794年)、平安京遷都の折、空海が勧請したとされる。病気退散のため社前に靭(ゆき)を掲げて祈願し、室町時代以降は疫神、医道の祖神とされた。また伝教・弘法の両大師もへの出発前、当社において無事帰国を祈願している。

義経記』では、一条堀川に住む陰陽師・鬼一法眼の謀略で源義経が北白川の印地大将・湛海と闘う場として当社が設定されており、また武蔵坊弁慶出生や義経・弁慶の出会いに深く関わる神社として登場する。

祇園社記』によれば、久寿年間(1154年 - 1156年)等の一時期には、祇園社(のちの八坂神社)の末社であったとされている(Wikipediaより)

 

引用の中に気になる内容が含まれておりました。

社号の天神と菅原道真とは直接の関連はない。

平安京遷都の折、空海が勧請した。

祇園社(のちの八坂神社)の末社と伝わる。

 

それでは名西郡石井町高川原村鎮座 天満神社に話を戻して考えてみます。

天満神社の境内に八坂神社が鎮座している。
京都と同じく牛頭天王の形跡あり。
f:id:awa-otoko:20160623061000j:image

 

天満神社」と「八坂神社」がペアで鎮座(マップの検索で「神社」とワードを入力しただけで小祠レベルの社は反映されていません。牛頭天王祠、天満祠が存在する可能性もあります。)f:id:awa-otoko:20160623053106j:image

石井町高川原の天満神社に関しては、八坂神社(牛頭天王)がなんらか関係しているように感じられます。牛頭天王御霊信仰の影響から起ったものでしから「怨霊」=「菅原道真天満神社(天神社)」となった可能性もあるのではないでしょうか。

ちなみに天満神社の境内には諏訪祠、秋葉祠もございました。

f:id:awa-otoko:20160623052917j:image

f:id:awa-otoko:20160623052934j:image

はい。個人的な見解を申しますと、京都五條天神と共通した条件が多いので京都より勧請したのは間違いないと思われます。

ただ、一つの内容を除いては。。。

それは当地に少彦名命を祀る天神社と認識される以前は別の神を祀っていた可能性あるのです。名西郡石井町高川原鎮座 天満神社の氏子は「久米氏」です。

 

久米氏については、いつも安定感抜群の「ぐーたらおじさん」のブログから抜粋させて頂きました。http://goutara.blogspot.jp/2016/02/blog-post.html

調査によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。

一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずですが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっておりました。徳島県内では徳島市と石井町に集中しております。
さらに言えば、国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうです。
要は全国の久米姓の本拠地は石井近辺なのです。
ひとつ注意していただきたいのは、阿波の久米姓は古代大和朝廷で軍事的な役割を果たしていた久米部に由来する名字。『日本書紀』の天孫降臨では、大伴氏の遠祖にあたる天忍日命(アメノオシヒノミコト)が、大来目命(天久米命)を率いて瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を先導して天降ったとあり、大伴氏のもとで軍事的な役割を果たしていたことがわかる。であって、1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる閩人(現・福建省の中国人)の職能集団である「久米三十六姓」とは全く別であるところです。

 

以上のことから、阿波の久米氏は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天降った時に率いられていた

「大来目命(天久米命)」。

それから考えれば天満神社で祭祀されていた「天神」とは少彦名命ではなく、

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」。

ではないのかと...

 

あくまで想像の範囲でしかありませんが、空海瓊瓊杵尊を京都に持って行って分祠していたらとても面白いのですが。。。

という訳で妄想がこれ以上広がらないうちに終わりたいと思います。名西郡石井町高川原「天神社(天満神社)」。良い神社ですよ。ぜひ参拝してみてくださいね。

 

【ご連絡】

新しくブログのリンクを貼らせて頂きました「耶麻等國歴史研究所Blog」さんです。今回のテーマと関連している内容が詳しく記載されております。ぜひ閲覧ください。おすすめです!!


埴土の郷 入田に潜にゅうだ(にゅうた:入田)‼︎

 f:id:awa-otoko:20160617064930j:image

はい。今回は入田町に潜入しました‼︎ 

入田町はネタの宝庫であります。一つ一つの旧跡で数回投稿できるネタはたくさんありますが、ここはawa-otoko'sblog‼︎  小出しせずに一挙公開といきたいと思います‼︎

 

まず入田町の説明。

「入田村史」によれば景行天皇の代の121年、阿波国など5ヵ国に分置された蝦夷の俘囚が、この地を「ニウタ」と呼んだことが地名の始まりである。アイヌ語で「ニウタ」は周囲を山で囲まれた田園を意味する。入田村は阿波国で最も早く拓けた場所で、矢野から内の御田にかけて存在する古墳群はこれを物語っている。入田町は大化の改新後には名方郡埴土郷の波爾井の里といわれた。「入田町」の地名はこれから転化したものといわれている。

最初は天石門別八倉比賣神社から。
駆け足で進みますよ‼︎ www

 f:id:awa-otoko:20160617005048j:image

天石門別八倉比賣神社は入田村字矢野にあり。寛保神名帳正一位杉尾大明神とあり。境内は五千三百七十三坪ありて境内社に二神あり。一は稲荷社にして倉稲魂命を祀り、一は道祖神にして猿田彦神社を祀る。

昔は国府町矢野も入田村内だったんですね。

ここで注目すべきは… 境内の猿田彦神社!! 八倉比賣神社については過去記事見てね。

あまり知られていませんが天石門別八倉比賣神社の境内社には猿田彦神社があるんです。

f:id:awa-otoko:20160617010235j:image

(天石門別八倉比賣神社境内の猿田彦祠)

奥之院に向かう石段沿いにある祠が猿田彦(祠)神社です。これ結構重要。憶えておいて下さい。

 

次に進みます。

入田城(府中殿遺跡)って知ってます?

f:id:awa-otoko:20160617004522j:image

入田村阿津真、笠木周辺に府中殿町という集落あり。其の昔は一の小城ありてその城下なるを以て府中殿町と附したるものならん。その城主は横田内勝太夫常宗ならんか。
横田内勝太夫常宗にして一家四人あり。粟飯原氏なり。当家は上家の別家 粟飯原弾正左衛門尉栓弼なり。三好郡賀茂村居城の時の姓を横田と改む。彼の地に横田の神社あり。無相天といふ。 

でました。粟飯原氏ですよ。。。
しかも延喜式内社 三加茂の横田神社に関係が大アリですと。粟飯原氏が三加茂にも関係していることも改めて調査のメスを入れなければなりませんね。(次々出てきて追いつきません〜。)

 

はい。次、一宮神社!!

f:id:awa-otoko:20160617005153j:image

一宮神社の位置は入田村の部内なりき。元一宮神社は鬼籠野にありしを小笠原長宗、後醍醐天皇に仕えて大宮司たりし時、一宮に移せり。今、小杉博士(小杉椙邨)の説を挙げて一宮神社の神像を記さん。阿波国名東郡一宮村なる一宮神社は祭神、本国を経営し給いし大宜都比売命の神にして、大阿波姫神とも大阿波神とも称し奉ること御神典及び古書ともに明瞭を掲げ、伊豫国三島神社に縁由あり。伊古奈姫ノ命て言ふと傳へたり。

然るに本社に現存する祭神の御像をこまかに拝體せしことあり。大和国 多ノ神社に傳ふる木像の神像及び、和泉国 穴師神社に傳ふる同じ神躰など皆伯仲すべき頃をひにして、もとは着色ありしが大かた剥落に帰すれども、そこに今も色合いの存ずるは言ふに及ばず、御くしのあたりよりすべての御かたいた、殊勝に古色を呈したり。されど其多神社、穴師神社の神躰は皆笠像にますを、ひとりこの一宮神像は胡床にかかり給ひて、上襲のごときものをうちかけ、御腰ひもを結び給へるは未だ他の神躰には古きものに見なれざるなり。

伊豫三島神社に所縁があるらしいですね。

これまでに紹介した粟飯原家の伝承と相違いない内容です。ただし一宮社の御神躰は比較的新しい年代の作と鑑定されたみたいです。一宮神社神官の笠原氏所蔵の系図が◯◯にあるくらいですから、本来の御神体も何処かに移動されているのかもしれません。

ちなみに一宮城鎮守神 五柱の中に猿田彦が含まれていることを忘れてはいけません‼︎

 

次、天神社。

 f:id:awa-otoko:20160617070218j:image

大字入田村天ノ原に祀る。祭神は天ノ目一個神にしてその由緒不詳なるも麻能等比古神社に比定。趣味ある資料ことを信ず。
今に当地を天満と謂ふは何か関係があるらしし。

天ノ原(あまのはら)の地名は天満(てんま)と大原の合併名。天満は天満の南の山あいを鍛冶屋谷、古代の鍛冶神「天真図一神(あめのまのとつのかみ)またの名、麻能登比古神(まのとひこのかみ)を祀る古祠があり、「天」と「麻」より天満に転化したと伝わるとんでもなく凄い地名なのです‼︎

 

 f:id:awa-otoko:20160617070240j:image

麻能等比古神社は猿田彦命を祀り無格社なれども、其由緒正しきものにや。下浦村の神職山口某の調査によれば、猿田彦神社本社にして、官幣大社の社格ありとなし、先年社格上進の具申をなさんとせしが、不幸にして盗難に遭ひ、其資料は多く散失せりと雖も、今猶残部を保存す言ふ。神像は大古のものにして、其材料は木か、金か石か、土かは鑑定に苦む程なれども圖の如き神像にして、底面に麻能神社小工 小五郎作とあり。 

猿田彦神社の本社。。。だって。

御神体は弥彦明神、即ち「大麻彦神社」と同じ物でしょう。そう考えれば富田鎮座の大麻彦神社に安置されているはず。(過去記事参照)

入田村をはじめ一宮村の範囲では「猿田彦」という神がしっかり定着されて祭祀伝承されていますが、神山町に入ると全く神名が耳にしません。猿田彦大宜都比売命の領域は明確に分かれていることになります。ただし猿田彦塞の神という側面も持ち合わせており、神山町で「オフナトさん: 蛭の神」として深くまで伝播しています。ちょっとこの部分が気になるところではあります。(なぜ猿田彦ではいけないのか?)

 

はい。次、春日神社

f:id:awa-otoko:20160617005928j:image

祭神は天ノ兒屋根命、武甕槌命、武経主命を祀る。徳島市春日神社の舊跡なり。この祭神、中古の領主を按ずるに、或は藤原氏の一族の領したるものならん乎。

神山町の鬼籠野でも天ノ兒屋根命の鬼退治の伝承が残ります。同系氏族かもしれないですね。

そして、こちら春日神社徳島市内の阿波総鎮守 春日神社として蜂須賀家政こと蓬庵公に移動させられました。建治寺と一緒に。(これも気になります)

 

はい。次。笠木神社。

 f:id:awa-otoko:20160617070417j:image

f:id:awa-otoko:20160617070448j:image

其神號の由来に面白きものあり。上流地方の八幡社の鳥居が大水の時流れ来り、其笠が現今ある古宮に留まりしを以て、村民は、これ神が留まりませる処なりとして、其所に宮(祠)を立て祀りしかと、後現在の地に還し、舊の所を古宮と言ひて崇敬せりなりとかや。

上流地方の八幡社の鳥居とは神山町上分鎮座の宇佐八幡のことで間違いないでしょう。

鳥居の笠木が留まって付いた地名が笠木ってなんて安易な… 

 

海見の辰ヶ山も当時から入田村内であったと思われ、辰ヶ山の祠の祭神も雲早山の神社から、宇佐八幡も雲早山からとルーツは同じです。こちらは粟飯原氏が関係しているのではないかと考えております。

f:id:awa-otoko:20160617070522j:image

f:id:awa-otoko:20160617070603j:image

(辰ヶ山山頂の祠とモニュメント)

 

 f:id:awa-otoko:20160617070448j:image

徳島市にある八坂神社(瀧の祇園)は本来笠木神社内の八坂神社尚ほ富田八幡宮は仝しく本村の廣瀬にありたり仝市にある弥吉明神は本村矢那谷ノ明神跡より還さる。弥吉明神とは一宮城落城のとき弥吉なる人背負ひ逃れしにより此名あらはる。
要するに徳島と入田に神佛に関係深きは蓬庵公 瀧の薬師を徳島に迎へてより続々迎えられしものなりと。

笠木神社の境内社である八坂祠は徳島市春日神社上の八坂神社として移遷されております。すごいですねぇ。


その他、入田村の興味がわく地名をご紹介。

 

「月ノ宮(つきのみや)」

月谷と西の宮谷を合して「月ノ宮」と呼ぶ。


「内の御田(うちのみた)」

収穫したお米が良質で佐那河内の米と共に徳島藩の御料米として指定されたことから。


「海先(かいさき)」

海見と先代の合併名。「海見」(かいみ)」は辰ヶ山から海が見えたことから。

 

はい。急ぎ足で駆け抜けました。(笑)

ここ入田村の範囲には、背景を知っていれば楽しめる旧跡がいっぱいあります。個人的には現在の入田町周辺の伝承をかき集めて精査すれば、猿田彦の秘密、大麻比古神社が阿波一宮になった経緯が解けるのではないかと考えています。(あ、今回は絡めてないけど天石門別豊玉姫もね。)

主に入田に鎮座する神社関係から抽出した情報ですから、次回(があるとすれば)は寺も含めて紹介したら面白いかも。(しれない。いや、面白いですが… )

まだまだ昔の面影が残る埴土郷入田村。梅雨が明けたらぶらぶら散策など如何でしょうか。(間違いなく暑いやろうけどな。。。)