野見宿禰から繋がる天神村の天満天神
さて、少し前に落神の天神について触れました。
結論では邇邇芸命を祭祀しているのではないか?という事で締めた訳なんですが…
しかし、またタイムリーなことに天神村の天神社について別の見解を発見するに至ってしまいました。個人的には今回投稿する内容の方がアリなんではないかと考えていますが、何事も短略的に決めつけはよくありません。という訳でこれも一つの考察材料として閲覧頂ければと投稿することにしました。
土師とは土細工の人の名を云う。
土器、瓶などを作る人、この郷に住みたるによりてこの地を土師の郷と言いける也。菅家の祖、野見宿禰 土にて人形を作りて殉死に替えたり。帝これを賞賛し給いて土師の氏を給ふ。
其の子、大和國菅原に住み居所の名によりて姓を菅原と改めんと請いて勅免あり。古人の子、清公、清公の子、是善、菅を相極めん。清公、先に阿波守と成りて當国に来給うことあり。
彼土師の郷に住居し給う故に天神の社を建て是を祭るとならんか。其の後に社號、所の名に成らんか。
土師の郷とは名西郡石井町の4ヶ村をにあたると伝わります。桜間、土師、高足、埴土(天神)のことです。
上の引用にあるように菅原家の祖である野見宿禰が殉死の代わりに埴輪を用いることで土師の姓を賜わり、その裔が菅原古人、菅原清公へ繋がることになります。それではWikipediaから菅原家、野見宿禰の裔をご紹介致します。
菅原 古人(すがわら の ふるひと、天平勝寶2年(750年) )
弘仁10年1月10日(819年2月8日))は、奈良時代から平安時代にかけての貴族。氏姓は土師宿禰、のち菅原宿禰、菅原朝臣。阿波守・土師宇庭の子。官位は従五位下・遠江介。秋篠安人を弟とする説もある。宝亀10年(779年)外従五位下、天応元年(781年)6月従五位下に叙せられる。同月、古人・道長ら一族15名が居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これを許される。延暦9年12月(791年)には菅原朝臣の賜姓を受ける。延暦21年(802年)遣唐使に随って唐に渡り、延暦24年(805年)帰国。学問に優れ文章博士・大学頭を歴任し、侍読を務めた。だが、学問以外には無頓着であったため、菅原家は朝廷からの援助を受けていたという。
菅原 清公(すがわら の きよきみ / きよとも、宝亀元年(770年) - 承和9年10月17日(842年11月26日))
平安時代初期の公家・文人。遠江介・菅原古人の四男。官位は従三位・左京大夫。父・古人は高名な儒家であったが、家に財産がなかったことから、清公ら子息は窮乏し苦しんだという。清公は若い頃から経書と史書を学び、延暦3年(784年)詔により皇太子・早良親王に付き従い、延暦8年(789年)奉試に及第して文章生に補せられる。学業に優れて秀才に推挙され、延暦17年(798年)対策に及第して大学少允に任ぜられた。延暦21年(802年)遣唐判官に任ぜられ、近江権掾を兼ねる。延暦23年(804年)空海・最澄らとともに唐に渡り、遣唐大使・藤原葛野麻呂とともに皇帝・徳宗に謁見し、その引き立てを得た。延暦24年(805年)帰国して従五位下・大学助に叙任される。(中略)孫の菅原道真が天神として祀られたことから、子の是善とともに天満宮に祀られている。
菅原 是善(すがわら の これよし、弘仁3年(812年) - 元慶4年8月30日(880年10月11日))
平安時代前期の文人・公家。従三位・菅原清公の四男。官位は従三位・参議。当代随一の文人として、詩家の宗匠小野篁あるいは在朝の通儒春澄善縄・大江音人と親交があったという。上卿良吏・儒者詞人の多くを弟子としていた。俗世間の事柄に興味が薄く、世間を忘れたように風月を観賞して詩を吟じた。仏道を崇めて人々を慈しみ、孝行は天に至るほどで、殺生も好まなかった。臨終の際、初冬の梅の季節に自らの法要を営むことのみ一言し、他には何も語らなかったという。
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))
日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
はい。全部読まなくてもいいです。参考程度で。(笑)
以上のことからわかる内容は、菅原家の祖は土師の姓を賜わった野見宿禰。そして野見宿禰は阿波の土師郷に居住していた可能性があること。(アンチ阿波説の人は野見宿禰は別の国に居住し、子孫が阿波に来て土師の郷を付けたと言うでしょうが… )
そして菅原清公は空海とも関わりがあります。一緒に唐に渡った船上で菅原家の野見宿禰について空海に語ったのかもしれません。空海は菅原一族の優秀さに惹かれ、祖である野見宿禰を万能の神である少彦名命に置き換えて京都五條天神として祭祀したのかもしれませんね。
野見宿禰から土師を賜わり、土師宿禰であった菅原古人の居住した地に依りて菅原の姓を賜わります。
今回の資料では阿波守であった清公の社を建てたとの内容です。
でも清公より…… やっぱり
と、いう訳で名西郡石井町天神の天神とは「野見宿禰」かもしれないということを明記して締めたいと思います。
なぜ土師の地名(の伝承)が残っているのか、菅原家から阿波守を輩出したのをかを紐解いていけば「野見宿禰、阿波居住説」が出てくるのではないでしょうか⁇