awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

バンザイ板西城 栖養の里には何がある?!

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榮村古城にあり、藤原師光の六男、近藤六親家の築く處たり、源義經勝浦尼子浦に上陸するや親家東道となりて功あり、親家子なし乃ち赤澤兵庫守を養うて嗣と爲し、城を讓りて自らは勝浦郡新居見の山上に隠棲す、世に之を板西殿と稱す。宗定また子無く城廢す、後三好義賢の姪婿小笠原宗傳其統を承け、赤澤信濃守宗傳入道と稱し、天正十年八月二十八日にし負へれ中富川合戦の時戦死せしが、其子孫各處に散在し今に其裔を傅ふる者少からず、孰れも赤澤近藤等の姓を襲ふ。

徳島県板野郡板野町にあった板西城(ばんざいじょう)板野町指定史跡となってます。この近辺は散策すれば結構面白い場所なんです。なんとなく昔の雰囲気が残っていて当地の歴史を知っていればさらにシンクロすることができるでしょう。

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板西城は藤原師光(西光)の六男 近藤六親家が平安時代末期に築城し、後に赤沢氏の居城とした城。ちなみに板西城趾の看板にあるように築城した近藤六親家は源義経の道案内をしたのは有名。父、西光の屋敷にほど近い土成町 案内神社も近藤六親家に関係しており、祭神は猿田彦神または近藤六親家とされております。

話を板西城に戻します。勝瑞城の西の守りを固める重要な城であった板西城は天正10年(1582年)の中富川の戦い長宗我部元親の侵攻を受け、勝瑞城とともに落城。城主・赤沢信濃守宗伝も討死してしまうに至ります。

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板西城趾北側に鎮座する天満神社。当地ももちろん板西城内だった場所であり、詳細は天満神社の由緒に記載されてますので読んでみてください。(見にくいけど。)

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そして天満神社からさらに北上すれば犬伏城趾(犬伏諏訪神社)があります。撫養街道にそって南向きに地蔵堂が建っており、そこは「振袖地蔵」と呼ばれる地蔵がおさめられています。

天正10年(1583)四国制覇をめざした土佐の長曽我部元親が2万2千の兵を率いて、中富川をはさんで勝瑞城の十川氏と対戦した。板西城主の赤沢信濃守も一族、郎党を従えて元親の大軍と戦ったが、戦い利あらず討死。留守を守っていた奥方は逃げることの不能を悟り、姫をにがして自分は「松の木」という所で自害した。姫は犬伏の諏訪神社近くで捕えられ殺害された。土地の人は姫をかわいそうに思い、地蔵を建ててその霊を弔った。姫の名を「カヨ」といったので「カヨ地蔵」、その時に振袖を着ていたので「振袖地蔵」ともいう。

はい。姫を逃した奥方は「松の木」という場所で自害したとあります。こちらは板西城趾を南下した栖養(すがい)八幡神社が鎮座する場所になります。

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f:id:awa-otoko:20170126212356j:image(栖養八幡神社

八幡神社は榮村下庄にあり、闔村及び古城、西中富、唐園、犬伏、那東、大寺、中窪の八村共にこれを祀る、此地昔時栖養の里と稱し土御門天皇の行在所を置かれし所と傳ふ。社地より乾位へ半町程隔てて一林あり中に松の木宮と云へる小祠あり、土俗これを松の樹殿と唱ふ。

栖養八幡神社は赤澤氏が應永十年六月廿八日に石清水八幡から勧請したと記録が残るそうです。が、awa-otokoはちょいと違和感を感じています。奥方が自害した「松の木」とは松の樹殿。こちらは摂関家として創設された公家のひとつ藤原氏北家嫡流藤原忠通の次男・松殿基房が祖。家名の由来は京都に松殿と呼ばれる屋敷を構えたことによる「松殿家(まつどのけ)」に関係があるのではと考えています。

 f:id:awa-otoko:20170126212414j:image(松ノ樹殿)

そして当地、板野郡一帯は那珂登美(中臣)の地。近藤六親家も西光(藤原師光)が養子であるものの藤原氏の系譜を嗣ぎ、踏襲していたと考えるのです。(西光は麻植氏忌部大宮司の血を継承)

近藤六親家と土御門上皇の動向のリンク、そして藤原氏。まだまだ板野郡には深い謎が隠されているようです。