awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

三日月・粟飯原家住宅に訪問

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鮎喰川上流の左岸の山裾にたつ粟飯原家住宅は、当主が15代目という旧家である三日月・粟飯原家を本家とする分家である。
本家は千葉上総介下総国千葉郡より観応2年(1351、北朝年号)阿波国に派遣され、栗生野に邸宅を構え粟飯原石見守千葉常胤と号し、上山谷、6ヶ村の大庄屋となり苗字帯刀を許されていた。
本家が上山に赴任後の12代目(通算28代目)胤宗の子又四郎が寛永15年(1638)、下人1人を召し連れ、現在地を居処とし別家後現在まで農業を営み江戸時代末期本家が一時衰微の際大庄屋の職務を代行したこともある。かつては家業のかたわら酒造、木材、製茶業などを兼営せしこともあり、明治維新後は代々村議、町議等の公職に選ばれた。(粟飯原家住宅(一棟)概要説明文より)
 
はい。以前にご紹介した大宜都比売命 六代孫にあたる多久理彦神の神陵「くりふの御墓」を神山町栗生野(くりふの)で探索しているとき、たまたま現地で見かけて場所を尋ねたおばあちゃんが粟飯原家住宅の方だったというお話。
 
何という偶然なのでしょうか。。。
 

 
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ここより会話形式でお楽しみください。
 
私:「おばあちゃん、こんにちは。この辺りに「くりふの御墓」っていう昔のお墓を探しているんですけど知りませんか?」
 
おばあちゃん:「粟飯原家のお墓は川向かいにある、あの茂みの中ですよ。」
 
私:「川向かいって栗生野の範囲なのかな?」
 
おばあちゃん:「栗生野じゃないですよ。」
 
私:「実は「くりふの御墓」は栗生野の旧家、粟飯原家の近くにあるはずなんです。ただのお墓が見たいあやしい者ではないですよw(笑)。
個人的に神山町郷土史を調べているんですが、粟飯原家の遠い祖先の古墳があると確認して調べに来たんですよ。神山町の歴史を調べるには大粟神社の神様と粟飯原家を調べなければ先へ進まないんですよ。」
 
おばあちゃん:「あぁ私、粟飯原家の者です。(笑)私の家は分家なんですけど。本家は妙見(神社)さんより東にある家ですが、今は神山町から出ています。うちが粟飯原家住宅を管理しているんですよ。」
 
私:「えええぇー。それは偶然ですねぇ。何か昔からお詣りとかしている場所とかないですかねぇ???」
 
おばあちゃん:「ああぁ、、、「みはか」だったらあそこにあるよ。」
 
私:「みはかぁ!!!、それですよ。よかったら場所を教えて下さいませんか?」
 
おばあちゃん:「畑の中に土を盛って石を積んで祭壇みたいにしているだけやどねぇ。。、粟飯原家の人間は昔から皆、みはかさん、みはかさんって呼んでます。ここだけの話、宝が埋まっていると聞かされているんですよ。ふふふ♡(笑)」
 
私:「ある意味、宝でしょうね。この栗生野の地名の由来がそのみはかさん(くりふの御墓)なんですから。それが見たいんですっ。」
 
多久理彦神(大宜都比売命 六代孫)
上山村下分栗宇野名に塚あり。 むかしより尊敬して「くりふのみはか」といふ。 多久理彦神の多を略して久理彦神の御墓といひしをよりなまりて「くりふの御墓」といひ地名を栗宇野となりし。
いつしか牛塚ともいひて諸人伝えるも厚くただの塚にはあらずまことの神陵なるべし。
 
注:「くりふの御墓」は御墓前の粟飯原さんが管理しています。私有地内にありますので無断進入をしないようにしましょう。
今回の「くりふの御墓」の進入と写真撮影は粟飯原さんから許可を得ているものです。
 
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かたち的には円墳でしょうか。直径5㍍あるかないかの大きさです。
 
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石積みも崩れかかっている部分が確認できる程の粗い積み方ですが、人の手が及んでいない、昔からの状態であることが伺えますね。
 
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掘ったら宝があるって言っていましたけど、本当に見つけたらとんでもないお宝でしょうね。「多久理比古」とか刻まれた遺物が掘りだされたとしたら… すごいことですねぇ。
 
おばあちゃん:「よかったら家の中も見ますか?」
 
私:「(遠慮して)外観から写真撮影させて頂ければそれで満足ですけどね。」
 
おばあちゃん:「パンフレットとかもあるし。まぁどうぞ、どうぞ。」
 
私:「それでは遠慮なくお邪魔致します。」
 
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おばあちゃん:「粟飯原家が祭祀する神社は妙見さんの他に真上の山にもありました。でも粟飯原の人が少なくなって宇佐八幡に合祀して貰ったらしいです。」
 
私:「あ、宇佐八幡の掛け軸ですね。それと立派な屏風!!!」
 
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おばあちゃん:「屏風は蔵に眠っていた物を再生しました。私はわからないけど、有名な歌人が滝(雨乞いの滝?)を観に来た時に案内したので即興で書いてくれたらしいです。」
 
私:「やはり蔵とかにはまだまだ眠っている物があるんですか?」
 
おばあちゃん:「昔は刀を32〜33振り所有していたそうです。戦時中に2振りを残して取り上げられたらしいです。畳の下、天井裏など隈なく探されて持っていかれたと聞いてます。」
 
私:「ああ… 勿体ないですね。それが残っていれば、この家のように重文、もしかしたら国宝!とかもあり得たかもしれないですね。」
 
おばあちゃん:「昔は蔵とかも見学可能にしていたんですけど今は控えているんですよ。」
 
私:「その方が良いですね。悪い人もいますから。」
 
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私:「あれ?、大嘗祭で粟を献上したんですね。とても名誉なことですね。」
 
おばあちゃん:「たかだか5合の粟でしたが有り難いことです。」
 
おばあちゃん:「あ、そうそう。棟札とか古い本とかあるけど見ますか?私は読めないんで、何を書いてあるかわからないんですけど…。」
 
私:「多少ですが、くずし字は読めるので確認させてください。達筆だったら難しいですけどね〜。(苦笑)」
 
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かなり分厚い綴りで千葉常胤からの系譜を細かく記録されたものです。ゆっくり読みたかったですが、時間的に無理そうに思ったので写真を二、三枚撮影して返却しました。
 
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棟札の記録は寛永年間ですから少なくとも300年前のものになります。江戸幕府が開かれてからちょっと過ぎたあたりですね。物持ちの良さに驚きが隠せません。黒ずみは煤(すす)ではないそう。300年経過するとこんな感じになるんですね。
 
私:「じつは私、粟飯原さんにご縁があるみたいなんですよ。」
 
おばあちゃん:「???」
 
私:「神領の奥、上角谷にあると伝わる御馬石を探している時も、別の粟飯原さんに助言を頂きまして無事に探す事ができたんです。」
 

 
おばあちゃん:「えぇ、そうなんですか。。。ところでその○△□石(御馬石の指している)って高根の岩のことですか?」
 
私:「違いますよ。昔に白桃(しらもも)とか御馬原って呼ばれた場所で高根ではないですよ。」
 
あ、思い出した。)「それって高根山の笑子石のことでしょ。アジシキタカヒコネという神様の顔が岩に刻まれたものですよね。」
 
おばあちゃん:「そうそう。ここから見えるんですよ。昔に私の祖父が教えてくれました。その頃は山の木を刈っていたので鮮明に神様の姿が見えたんですが今は見えにくいですね。私の目もぼやけてますから。」
 
私:「その岩に刻まれた神様も粟飯原家の祖先が刻んだようですよ。粟飯原家から(本当は粟国造本館と言いたかったが)ハッキリと見えるように刻まれたらしいです。家の外に出て神様の位置を教えて貰えますか?」
 
おばあちゃん:「いいですよ。」
(外に出て)「あの茶色い桜?がある横に顔がありますよ。」
 
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私:(一瞬でわかったので)「わかります。わかります。」
 
私は不動明王のように立像で刻まれているように見えました。顔ははっきりしています。(写真はスマホ撮影なのでたぶん判別がつかないと思います。すいません。。。)
 
岩肩彦(大宜都比売命 十四代孫)
神領村の人面嶽といふ処あり。 数十丈の大巖を人面のかたちにきざみたり。 目鼻口眉其あさやかに上作なるる見る内に語を問ふのと思ふどおりにて春のうららこのなる日にてみると笑ふめんにみえ、天上自然のわざと思へとも必神作又は上代の作なるへし 是等の作者にて岩肩彦と名を伝えし。
味鉏高日子根命ハ阿波女神ノ御夫ニテ粟国造粟直凡等之父神也。名東・名西・板野・阿波・勝浦・那賀・海部等七郡本来ノ人種ハ皆、此神ノ氏子ナレハ何レノ人モ詣テ来リテ此神石ヲ拝スヘシ。
 
その後も神山の昔話とか色々なお話をおばあちゃんから伺い、丁寧にお礼を述べて粟飯原家住宅をあとにしました。
おばあちゃんが言うには私が死んだら蔵の中の物も焼くしかないですよ。管理する人が居ないですから…と。
昔のしきたりや祭祀を知る村の人間が少なくなってきている。残念ですが、今の若い人にはあまり興味がないようです。と仰っていたのがとても印象に残っています。
 
現在神山は様々な観点から注目されつつあり、県外の方の誘致を率先して優遇しているようです。ですが昔からの由緒正しい血筋を絶やすことなく、古跡や伝承を重んじることが疎かになってはいけないと個人的には思います。
生活水準の向上と文化の保持は相反するもの。難しいですけどね。
 
鉄の橋が本州より四国に繋がった今、いつ大宜都比売命が神山の地に帰ってきてもいいような環境、相応しい場所としておいて欲しいと思うのは、当事者以外の私が考えるエゴなんでしょうね。
 
何はともあれ、導かれるままに進んだらとても有意義な時間が過ごせました。
栗生野(くりふの)」。
とても興味深い場所でした。まだまだ調査すれば出てきそうですよ。