awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり。

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石井町諏訪には式内社阿波國名方郡 多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社が鎮座しております。

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御祭神は「建御名方命」です。こちらは過去に紹介させて頂きました。  

 改めて読んでみますと、建御名方神の説明より高志の沼河姫についての説明が主であって建御名方神の祭祀については内容が薄いように感じました。
最近、名方郡派生の阿部氏を阿波女氏(阿波女社祖系)として調査した後、ぐーたら氏より【高志国造氏族の阿閇氏を追え!!】との助言を頂きまして、調べてみればなるほど。とても重要な内容が浮かびあがったのでした。 

「阿府志」によれば高志国造の阿閇氏が名方郡諏訪に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った。
社殿には信濃諏訪郡南方刀美神社(現 諏訪大社)は、奈良時代宝亀10年(779年)、当社から移遷されたものだと伝承されている。つまり元諏訪なのである。

大宜都比売命(大粟姫尊)を祭祀していた阿部氏は阿閇氏に繋がり、阿閇氏は建御名方神も祭祀していた伝承が残されているのです。

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うっかり見落としていましたが大粟神社が鎮座するのは名西郡。本来は阿波国 名東郡名西郡の二郡は、一つの名方郡(なかたのこおり)であり、名方とは「建御 “名方” 命」という神名から取られたとてもありがたい地名であります。

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勿論、地名に神の名を採用するに至って全く所縁のない神を採用するはずはありませんので、ここでいう高志国造の阿閇氏は名方郡の阿部氏と太い繋がりがあると考えても良いのではないでしょうか。

 個人的には上山村(神山町)に居住している阿部氏、名西郡石井町に分布している阿部(阿閇)氏について別系統と捉えていましたが、

阿府志に曰く…

名西郡上浦村(浦方ト云)家有 当家元祖成務天皇朝 高志国造 阿閇臣祖屋主思命三世孫 市命 高志国造定賜 此地ノ郷名也。家始リ二千年ニ及フ「阿閇」ハ「阿部」也。今ハ「阿部」「阿倍」「安部」等同姓也。 

を見れば、同族として考えてまず問題はないでしょうね。
それでは前置き説明はこれぐらいにして話を進めてまいりましょう。 f:id:awa-otoko:20160910104957j:image

阿波国名方郡鎮座の「多祁御奈刀弥神社」社伝によれば、信濃諏訪郡の南方刀美神社は阿波の多祁御奈刀弥神社から、宝亀10年(779年)に移遷されたものとなっています。
諏訪大社は本来、信濃諏訪郡 南方刀美(みなかたとみ)神社という社名であったということ。

f:id:awa-otoko:20160909231355p:image諏訪大社神紋)


また、諏訪大社の神紋「穀(かじ)の木」については、阿波剣山地に自生し、その皮は「大嘗祭」に際し「阿波」から貢進される「木綿(ゆう)」の原料になっていること、長野県では穀の木は育ちにくい木であるということで、こちらも阿波国より移遷された伝承を後押しする事例でございます。
云々...

 

あれ?www 諏訪大社阿波国の繋がりについて既に詳しく調べられてる方がおられました。やはり阿波古代史研究のエース、野良根公さんでした。諏訪大社の元宮は徳島にあった!? ( 徳島県 ) - 空と風 - Yahoo!ブログ

かなり早い時期でこの内容に着目し、考察を交えながら提唱していた野良根公さんはやはり只者ではありません。。。
わたくし如きが考察を語るまでもなく、上記リンクより野良根公さんの説明を一読頂ければ今回テーマの背景が良く理解できることこのうえなしです。ぜひ読んでみてください。

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さて、建御名方神建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)に痛めつけられて名方郡諏訪に移動しました。このような伝説を残し、建御名方神を祭祀した阿閇氏達はどのような過程を経て信濃国諏訪まで辿りついたのでしょうか。。。
それを追うにあたり、建御名方神の伝承と酷似した伝承を持つ神、「伊勢津彦」なる神の存在も見逃せなくなってきたのであります。

伊勢の國の風土記云はく、伊勢と云ふは伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢都彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、昔、石もて城を造りて此に坐しき。ここに、阿倍志彦の神、來奪ひけれど、勝たずして還り却りき。因りて名と爲す。

 伊勢津彦(いせつひこ)

伊勢津彦は、『伊勢国風土記逸文内に記述される国津神で風の神である。風土記逸文によれば、伊勢津彦命は大和の天津神に国土を渡すよう要求され、頑な断っていたものの、最終的に追われ、のちに天皇の詔りによって国津神の神名を取って伊勢国としたと記述される。逸文の一説では別の地名由来が記述されている。

逸文内一説の記述によれば、出雲の神(大国主命)の子である出雲建子命の別名が「伊勢津彦」であり、またの名を「櫛玉命」というと記しており、「伊勢」の由来についても、国号由来とは異なる記述が成されている。
それによれば、命は伊賀国穴石神社(現三重県阿山郡)に石をもって城(キ)を造っていたが、
阿倍志彦(アヘシヒコ)の神(『延喜式神名帳』内の伊賀国阿倍郡の敢国神=アヘノクニツカミと見られる)が城を奪いに来るも、勝てずして帰ったため、それに(石城=イシキ、またはイワキの音が訛って)由来して「伊勢」という名が生まれたと記す。(一部Wikipediaより引用)


伊勢の地名の由来・語源と建御名方神(タケミナカタ)の謎

以前からわたくしが興味深く読ませて頂いていたBlogさんでございます。(最近更新が滞っていてとても残念です… )こちらのBlogさんについても伊勢津彦建御名方神として考察されております。

しかも考察の締めには、"伊勢国 風土記逸文の伊勢の国号にあるストーリーは、建御名方神(=伊勢津彦)の拠点のあった"阿波の伊勢"で起きた出来事だと類推されます。現在の三重の伊勢は、後世に、「伊勢」が他から移された結果だと考えた方が良いと思います。" 

なんて書かれております。こちらも一読頂ければと思います。

という訳で、伊勢国風土記逸文の記すところについて、ここは阿波国に存在する伊勢として考えてみましょう。

それ伊勢の国は天御中主尊の十二世の孫、天日別命の平けしところなり。
神武天皇、天日別命に勅して「天つ方に国ありその国を平けよ。」との勅を奉けて東に入ること数百里、その里の神あり。名を伊勢津彦という。
天日別命は「汝の国を天孫に献上するや」といえば、伊勢津彦も答えて言う。「吾はこの国を治めて居住こと久し、命をば聞かじ」と。
天日別命は怒り、兵を発して、伊勢津彦を戮さんとす。
伊勢津彦は伏して畏み「わが国はことごとく天孫に奉りて吾はこの国におらじ」と申した。
天日別命は重ねて問うに「汝が去るときなにをもって験となさん」と。
それに答えて「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」と申した。
天日別命、兵を整えて窺いおりしに夜中に至るころ、大風四方に起こりて波を打ち揚げ日のごとく光り耀きて陸も海もともに明らかになり遂に波に乗りて東に去りき。
古語に「神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国なりというは蓋しこのいわれなり。天日別命、大和に還り天皇に、この由復命すれば大く歓びて「国は国神の名を取りて伊勢と号くべし」と詔り給う。

「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」そう告げて去った伊勢津彦はその後、信濃国水内郡へ遷ったとも伝わります。また、立ち退かせた天日鷲命は宇治山田付近の長であった大国玉命の娘 弥豆佐々良(みつささら)姫を妻としたと伊勢国 風土記逸文にあります。これが度会(わたらい)氏の祖先であり、度会氏はご存知、豊受神宮(外宮)の禰宜神官家であることは皆の知る通りでございます。

うぅぅ… 建御名方神伊勢津彦は同神と考えられるのですが、双方の伝承の時系列の違い、また取り巻く神々が今ひとつ頭の中でリンクしません。 

考えるに、、、阿波国伊勢で起こった 建御名方神伝承が、のちに伊勢地方に進出した阿閇氏において語られることによって時系列や神名を無視した伝承となって現在に至っているように思います。。。

 

建御名方神建御雷之男神の争い。
伊勢津彦と天日別命・神武天皇との争い。


この二つの争いを同じものとして考えてはいけないのかもしれません。


建御名方神伝承は諏訪大社ルーツ。

伊勢津彦伝承は伊勢神宮 外宮ルーツ。

 

このように阿閇氏と忌部氏、高志国造と阿波国造、建御名方神伊勢津彦)と天日鷲命(天日別命)。これを個々で洗いなおせば阿波国から諏訪大社伊勢神宮 外宮が遷座した秘密が必ず解けるはず。

今回は大社と神宮の秘密を一括りでまとめようと欲張り過ぎました。その結果、結論を突き詰めることができなかったのです。

とりあえず私も、「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」(遠くへ行きたい)心境です。。。

また改めて当テーマはリベンジします。

鬼籠野神社は中一宮大粟神社だったのか?

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中一宮大粟神社とは現在の神山町鬼籠野に鎮座している「鬼籠野神社」のことを指している。と、されております。

 

鬼籠野神社の祭神は大日霊尊・金山彦命・埴安姫命・カグツチ命・ククヌチ命・ミズハノメ命・国常立命の六柱。宝治二年(1248)八月八日神領村大粟神社の分霊を奉祀すると伝えられ、中一宮大明神と称し、神領村に在るを上一宮、名東郡に在るを下一宮と称する故、此の社を中一宮と称したのであろうと推測されています。

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これまで上一宮(大粟神社)、下一宮(一宮神社)については大宜都比売命のカテゴリーで多々ご紹介していますが、この鬼籠野神社についてはほぼ写真の掲載のみで詳しくは紹介しておりません。理由は…

「中一宮」という存在に疑問を感じていたからです。

【個人的に疑問を感じていた部分】


・中一宮と伝わる鬼籠野神社の社位置は上一宮大粟神社の鎮座地からに近過ぎる。


佐那河内村と神山村の境界付近に鎮座している。(当初は両村の塞の神の役割?)


大宜都比売命が祭祀されていないっぽい。(鬼籠野神社には大宜都比売命の気配が感じられない。現に主祭神は大日孁神。※注:あくまで個人的な感覚です。


・一宮神社の遥拝所(祠)は存在するが上一宮大粟神社の遥拝所はない。(一宮神社の遥拝所は後から造った可能性も…)


・鬼籠野村の伝承は様々な伝承が複合され、宗教・祭祀に関して絞り込みにくい。

 

その他にも気になるところは色々ありますが、大まかには上記の内容が気になっておりました。という訳で、古文書の記述から謎解きをしてみようと思います。

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上一宮大粟神社は一宮大明神の本社であり、昔一宮村は以西にて今の神領村を上一宮、鬼籠野村を中一宮、今の一宮村を下一宮として伝えている。阿川村二宮八幡宮にて大般若経の奥書に上一宮長法寺とあり、即ち長法寺廃寺の跡は今の神領村のことを指していた。神領村には長法寺といい小庵があり、廃寺に大なる本尊を安置していたと伝わる。
この上一宮、中一宮両村を合わして神領村といい、慶長御検地帳の記録には「鬼籠野は神領村の小名にて小路野と書せり」とある。其の後神領村と一宮村の境目が明確になり、一宮村赤坂名の上大人という地は鬼籠野村と一宮村両村の境にあたる。また弓折名(鬼籠野 一ノ坂)黒川名に椙尾大明神の社があった。これは「矢野村の椙尾大明神の氏地にて… 」、とあり、現在の天石門別八倉比賣神社の社領が及んでいたと推測される。
よって大粟姫尊の御神領は、神領・鬼籠野・上山左右内の範囲であったと考えられる。

 

はい。こちら大粟姫尊考証を現代訳した内容の一部です。管理人の私が疑問に感じる部分に関係する箇所を抜粋してみました。

 

・もともとは鬼籠野は小路野。神領村の一部だった。


・一宮村と神領村の境に位置する。(佐那河内村は記載なし)


・矢野村 椙尾大明神の社領(椙尾神社)が鬼籠野に鎮座。

 

そもそも同じ神領村だった鬼籠野神社の位置に中一宮を設定した意味を見出せません。祠は存在したのかもしれませんが、本来は遥拝所の役割だったのではないかと推測します。
また、神山神領村の古文書には麻植郡の記載はあっても真横に位置する佐那河内村についての記載はほとんど見られず、宗教・文化において何らかの隔たりがあったのではないかとも推測しています。

 

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気にかかるのは椙尾大明神の存在…

何故に矢野村 椙尾大明神の社域が鬼籠野に存在するのか。。。

鬼籠野神社の祭神が大宜都比売命(大粟姫尊)ではなく、大日孁神という部分でこちらが大きな意味を持っているのかもしれません。
一宮大明神が一宮氏によって下一宮に設定される以前に矢野村 椙尾大明神(現 天石門別八倉比賣神社)として存在しており、その前身は天石門別豊玉比賣神社であると以前に書きました。

 


さらにその元社は…
佐那河内村に鎮座する天岩戸別神社。

現在も阿波古代史を追う方の一部は天岩戸別神社が天石門別豊玉比賣神社の元社であるということに確信を持っている方は少なくなく、そしてそれを伝える佐那河内村の大宮神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)。間違いなく大宮賣、または大日孁神より祭神を変えられております。

 

 

それを継承した(または分祀した)のも矢野村 椙尾大明神こと天石門別八倉比賣神社。いや、鬼籠野村にある椙尾大明神は佐那河内村から直に分祀された社の可能性さえも考えられます。

 

椙尾大明神と鬼籠野神社の祭神が混同されている可能性があり、鬼籠野神社は佐那河内村分祀の天石門別豊玉比賣命ではなかったのか。。。


と、いう訳で長々と個人的見解を述べてしまいましたが、時代が下るに従って祭神の混同や伝承の受け間違いなどを経て、神山村の大宜都比売命祭祀と佐那河内村国府矢野村含む)の豊玉比賣祭祀が混同された状態のまま中一宮大粟神社として祭祀されたのではないでしょうか。

 

f:id:awa-otoko:20160904212552j:image(鬼籠野神社境内に残る一宮大明神の遥拝祠)

 

こればかりは昔の文献から証拠がでるまで確定することはできません。これからの岩戸開きに期待しながらawa-otokoの調査はさらに続くのであります。(笑)

粟国造一族所縁の神社を再興した阿波国絶大なる領主

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慶長の頃、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスが著した「フロイス日本史」において「阿波国絶大なる領主」「偉大にして強大な武士」と紹介された阿波の武将が存在した。

戦国時代に阿波の軍事政治に大きな活躍をした武将、篠原右京之進長房(幼名は孫四郎、晩年紫雲)であります。

f:id:awa-otoko:20160902223735j:image(篠原長房が築城した川島城)


長房は三好長慶の弟・三好実休の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐し阿波において三好家中をまとめあげました。才知優公平無私、薬師という智者を崇敬し諸事相談をなし、式目を以って訴訟を分ち、三好氏の分國法である新加制式二十二条の編纂にあたるなど能吏として知られます。このように長房の権威や権力は、三好三人衆をも凌駕し、彼らを動かすほどの立場にあったと伝えられております。

長房の評価は「三好家中の中でもっとも堅実で軍事・政治の両面に通じていた。このような非凡な才能からときにそれが諸臣たちのあいだで妬みをうけるほどっあった。」とあります。
妬みを受けるほどの才能はどこで培われたのか… 篠原氏の出自は多賀神宮神官家の生まれであり橘氏の系譜であったことからかもしれません。

篠原氏は四字の姓(源平藤橘)四氏の橘が親で近江の国篠原の里、多賀神宮宮司の二男に生れ候、三好喜運に仕え、その当時は宗半と申して荷持ちなどして阿波へ下り候時、肩にコブが高くてかたひらなどめす時は見苦しく候、宗半は僅かの奉公銀に召されつれ共、公事沙汰をきき候ては直ちに栽決し、両者は納得して不平なし、才知噸みに優れたり依って知行を一かど被遣候いて、特務を被命候…(昔阿波物語より)

篠原氏は橘姓で、橘諸兄から八代目橘好古の子孝政が始親とされています。

神官家の出自という堅実且つ公平な性格が新加制式二十二条にも伺うことができます。

新加制式二十二条

1、神社を崇め寺塔を敬うべし
2、固く賄賂を禁止すること
3、旧境を改め相論を致すこと
4、仲間、狼籍科のこと
5、三度召文を給うと雖も参上せざる科のこと
6、犯論の時は証人を出すこと
7、道理なしと雖も指損ジナキ故謀訴を企てる輩贖者をかけらるべきこと
8、強窮二盗の罪科並に与頭同類のこと
9、失せ物見出すに随い本人に返すこと
10、罪人と号し事由を究めずして殺害せしむること
11、被官人罪科主人に懸るか否かのこと
12、譜代相伝えの被官人のこと
13、一季奉行のこと
14、地頭の為に百姓の田畠等押え置くこと
15、地頭に対し事由を遂げず猥りに名主変更の事
16、百姓恒例の年貢に増加せしむること
17、所領を子孫に譲与するのこと
18、父祖の譲状たりと雖も事に依り容赦あるべきこと
19、御恩を以て質物に入ること
20、党類を組んで互に盟誓せしむること
21、科人と号し追い来るとき他方より出合い殺害せしむること
22、被官人攻撃に及び其の科主人にかかるか否かのこと

裁判は長房の特意とする処であり、民の年山事分国の争い家臣所領の争事など諸事長房が式目を以て訴訟に公平を期し、私事なく諸人不羨、阿波、讃岐、淡路三国よく治めたとのことであります。

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さて、篠原長房を語るにあたり避けて通れない戦いがございます。長房の最後を決めた上桜城の戦いであります。

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f:id:awa-otoko:20160902224240j:image(上桜城址

上桜城の戦いと篠原氏滅亡

ここに小少将という人物がいる。『三好記』によると小少将は絶世の美女と評されている。小少将は細川持隆の側室であったが、持隆の生存時より三好実休と不倫の関係にあり、後に実休の妻となり三好長治、十河存保の2子をもうけた。長房が阿波に帰国した前後より、小少将は三好氏を支えていた篠原自遁と相通じあう仲となり、長房を疎んじるようになった。政務を正し小少将の不倫を諌めたため怒りをかったと言われている。長房はこのような状況にうんざりしたのか、上桜城に引き籠るようになった。しかしこの事が逆に裏切り、反撃にでると思われたのか、長治は長房討伐の兵をあげることとなる。

元亀4年(1573年)5月、長房は長治・真之により居城の上桜城を攻撃され、抗戦の後7月に自害した(上桜城の戦い)。 篠原実長(自遁)の讒言のためという。ただし、同年4月に十河存保が堺で織田信長と接触しており、柴田勝家にあてて、「十河より河内国若江城攻撃の後援要請を受けたことを通知、河内国若江城を即時攻略すれば十河に三好義継知行分の河内半国と摂津国欠郡を約束し、もし一度の攻撃で陥落しなくても攻略に成功すれば河内半国を与えると約したので、急ぎ出陣するように」という信長の指示が出されている。これと連動して、対織田戦を主導してきた長房が阿波三好家から排除されたとの見方もある。(但し和泉岸和田城主・松浦氏の松浦孫八郎は十河一存の実子であり、先の書状の十河某は、十河存保とは別の畿内勢力の可能性もある)(Wikipediaより)

はい。 あまりに篠原自遁・小少将が卑怯で、三好長治がダメダメ過ぎ。これにより阿波国は破滅の道を進むことに。。。

三好家家臣の中でもっとも堅実で、信頼を置くべき篠原紫雲(長房)を討ったことにより、赤沢宗伝を始めとする三好氏家臣達は三好長治に愛想を尽かしました。これより阿波国内の情勢は混乱を極めたことは言うまでもありません。

このお国騒動に乗じて長宗我部元親阿波国の西部、南部より進入。阿波国内に破壊のかぎりをつくしたのは皆の知るところであります。

篠原長房こと紫雲が讒言で討たれなければ三好長治を巧みに補佐し、安定した阿波国になっていたのかも知れませんね。

 

さて、今回の本題はここから。

篠原長房(紫雲)を語るにあたり、余りに知らない人が多いことで前置きが長くなってしまいました。。。やっと概要を入力したので、awa-otoko目線から進めさせて頂きます。

 

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実は… 鎌倉時代の初期に小笠原氏、鎌倉時代末期に田口氏(一宮氏)に勧請されたと伝わる神山 宇佐八幡神社。その後荒廃していた社殿を永正四年(1507)に再興したのは今回の主役である篠原長房なのであります。

篠原長房が隠居した上桜城は長房が自らの戦の経験をもとに造成された出城であり、戦に有利になる立地条件を大前提に造成されたのもさることながら、峯つづきに浮島八幡神社の元社が存在した雀獄、麓全面に善入寺島などが存在します。忌部祭祀が主である環境であることは言うまでもありません。

にもかかわらず、、、忌部神には目もくれず粟国造一族縁故の宇佐八幡神社を再興した経緯から、正史には出てきていない大きな氏族間の繋がりを感じずにはいられません。

やはり、鎌倉、南北朝室町時代にかけて阿波国内で氏族間で大きな動き(入れ替わり)があったことは確実なようです。

その他にも焼山寺から大粟山領を跨ぐ道(遍路ころがし)を作った空海の動向も見逃せません。

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どうやら神代からの古跡の実証は記録だけで簡単に証明できるものではなく、各時代に隠されたパズルのピースを探し一個ずつはめ込まないと全貌は明らかにならないようです。

今回の篠原長房は橘氏とのことですが、阿波には小笠原氏(源氏)系譜の篠原氏も存在することから繋がりはあるのかも知れません。

さて、そろそろ次は本命中の本命、◯◯氏にクローズアップ!?かな。(笑)

三日月と女(大宜都比売命の神裔)

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三日月家は大宜都比売命の神裔にして其先國造を勤む暦應四年國造宗成の代に至り一宮城主長門守成助の元祖 小笠原宮内大輔長宗の為に祭官新録の地を掠奪せられ祖神に奉仕することは能はずして退轉し相傳の職祿を失ひ上山地頭と爲るり
粟飯原家系圖に曰く大宜都比売命に粟飯を炊き神供と爲せしより粟飯原の氏を冐せりと、其三日月と稱する起因は大祖月読尊に繋る傳説にして三日月家仝族のものは古来より兎狩りと爲し又兎肉と食することを禁制せり、
仝家は代々男子生れ其血統連綿として繼承し斷續することなし家主と爲るべきものには必ず身體に三日月形の痕跡ありと謂ふ即ち之三日月家と稱する所以にして其名籍甚せる名門たり
蜂須賀家入國の際は政所たるの家格なりしに其後組頭となり累世其職を襲き大守に忠勤と盡 し御目見へと爲り郷高取となれり。

三日月家と呼ばれた粟飯原氏でございます。
最近、拙ブログにも検索サイトから「粟飯原氏」「三日月家」などのキーワードで訪れ閲覧して頂くことが多く、管理人としても大宜都比売命の真っ当なる神裔として粟飯原家をピックアップしてきました。

しかし!!神代の昔より大宜都比売命をサポートしてきた氏族は、粟飯原家・一宮(小笠原)家だけではございません。

f:id:awa-otoko:20160831232214j:image(一宮城主を祀る若宮社)

f:id:awa-otoko:20160831233713j:image(粟飯原家祖神を祀る妙見社)


もちろん大宜都比売命を追うにあたって粟飯原氏の歴史を調査することは避けて通れませんが、同じくらい重要な位置する氏族が存在します。

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f:id:awa-otoko:20160831232244j:image上一宮大粟神社

上一宮大粟神社の神官である阿部氏の系譜。

阿部氏は神代より大宜都比売命を奉仕してきた神裔なのでございます。

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f:id:awa-otoko:20160831232307j:image上一宮大粟神社 一ノ鳥居とニノ鳥居)

 

阿部氏は大粟姫尊(大宜都比売命)が八柱の随神を連れ、丹生ヶ山の御馬原に降臨してからの側近中の側近であり、現在でいう執事の役割を担っていました。

f:id:awa-otoko:20160831232336j:image大宜都比売命降臨の地に佇む御馬石)

 

本来、大粟山周辺で仙事に携わっていた阿部氏は、大粟姫尊が降臨した際に山中で居合わせた際に姫たちに食べ物を提供し、そのまま大粟姫尊に仕えたと伝えられています。

阿部氏 大粟姫尊神裔にて神代より大御食主となりて仕奉しなるべし(大粟姫尊考証より)

阿波の南方から深い深い山中を抜け、疲労困憊だった大宜都比売命達に食べ物を提供した阿部氏の暖かい人柄に惚れたのか、当地(大粟山)に根を下ろし開拓するにあたり地理条件に詳しい側近を欲していたのか解る術はありませんが、主従関係が成立したのは何かしら双方に利があることであったのでしょう。

大粟姫尊考証では

「阿波女神社、此神の氏人を阿波女氏と伝えしを以て古くより阿部氏と得る」と記されております。

この内容からは

「阿波女(あわめ)氏 = 阿部(あべ)氏」という内容を指しているほか考えられません。

 大宜都比売命の祭祀権を粟凡直一族から奪った一宮(小笠原)氏は大宜都比売命神領を上一宮(大粟神社)、(中一宮:鬼籠野神社)、下一宮(一宮神社)に別けた際に本元である上一宮に大宜都比売命祭祀の全てを知る阿波女氏こと阿部氏を置き、現在まで祭祀を継承させたのではないでしょうか。

f:id:awa-otoko:20160831233513j:image(天辺ヶ丸に鎮座する上一宮大粟神社の元社)

f:id:awa-otoko:20160831233525j:image(天辺ヶ丸から望む栗生野)

現在、阿波女社祖系の系譜(系図)は出てきたものの、阿波女社を司った「阿波女氏」の記録や情報は一切出てきておりません。

 

 


大粟姫尊考証でいう「阿波女(あわめ)氏 = 阿部(あべ)氏」が真の内容であれば現在、上一宮大粟神社の神官が阿部氏であるという状況にも説明が付くのです。
まだまだ阿部氏が阿波女社祖系宮主家であるという証拠は足りません。まだまだ気にかかる部分もありますので調査は継続していきたいと思います。。。

あ、粟飯原氏もね。(笑)

犬伏左近と犬伏城。主人赤沢信濃守も全部調べてしまえ!!

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犬伏塚穴
松坂村犬伏諏訪神社の裏に當り雑樹欝然たる丘陵あり、其西邊に塚穴あり、南に向ひ北に延ぶ、入口廣く中程は稍狭くなりて、室の隔てらしく奥の室又廣し、其室の極まる處一坪有餘の青石を建てて土の崩落を防げり、内部両側は總て天然石の方形なるものにて築き、其の間隙は石片或は小石を以て塞げり、又天井は驚くべき大石を用ひ、廣さ疂一枚より三枚敷に至り、僅四枚にて奥行三間半程を覆へり、長さ四間余幅一間許ありて四尺乃至七尺ありしが、現時無殘に破壊し去りたるは惜むべし。

という訳で犬伏の諏訪神社、塚穴跡に行ってまいりました。

f:id:awa-otoko:20160827232347j:image(犬伏諏訪神社

f:id:awa-otoko:20160827232413j:image(犬伏城跡地に祀られた地神塔)


この犬伏塚穴には岡上神社の塚穴同様に貸し椀伝説が残されています。また、この丘の上に家を建てると凶事があるとかでこの一区画だけ取り残されているとのこと。所謂「くせ地」として伝承されている訳ですね。

f:id:awa-otoko:20160827232427j:image(犬伏塚穴跡)

この犬伏諏訪神社と塚穴跡がある一帯は犬伏城跡でもあります。(こちらは城は白で逆ですが。)犬伏城主は犬伏左近。以前に拙ブログで投稿した「大富彦神社」の御祭神でもあります。 


ここらの内容はかなりマイナーなので、専門に調査している方しか知らないと思いますが犬伏左近には赤沢信濃相伝と言う主人が存在しました。

f:id:awa-otoko:20160827235628p:image(赤沢信濃相伝像)

赤沢信濃守は犬伏左近を含めた赤沢家十二衆という組織を統括し、信濃守自身も三好家のため尽力を注いでいたのであります。

 

赤沢家十二衆と板野郡の城

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板西城主: 赤沢信濃相伝
板西城三人衆: 赤沢出羽守、坂上備前守、安芸飛騨守
大寺城主: 大寺松太輔
西分城主: 新開右近
矢武城主: 赤沢美濃守
七条城主: 七条孫四郎
椎ノ本城主: 板東紀伊
下庄: 阿部采女正(うねめのかみ)
高輪城主: 高輪出羽守
新居城主: 赤沢鹿之丞
犬伏城主: 犬伏左近

こちらの城の配置を見るところ、三好氏の居城である勝瑞城を守護するにしてはかなり西側を強固にしている感が伺えます。(長宗我部侵攻を意識したた配置?)

 

あと重要なところでは、赤沢信濃は本来「小笠原相伝」という名であって小笠原家に強い所縁があった方ということですね。(後述)

f:id:awa-otoko:20160827233358j:image(愛染院内 赤沢信濃守廳廟)

f:id:awa-otoko:20160827233417j:image(わらじの紐が外れたのが赤沢信濃守 死の要因)

f:id:awa-otoko:20160827233427j:image(現在では脚の神)

赤沢氏
赤沢氏は小笠原氏の庶家であり信濃を本拠としていたが、延徳3年(1491年)に一族の赤沢朝経が室町幕府管領細川政元に外様の内衆として仕え、その養子・長経も阿波細川家の細川澄元に仕えた。赤沢宗伝は長経の子孫、又はその名跡を継いだと思われるがはっきりとしない。また、弘治元年(1555年)には、赤沢本家の赤沢経智、経智の子・長勝、貞経も甲斐の武田氏に信濃を追われ、信濃守護の小笠原長時と共に小笠原庶家の三好長慶を頼り上洛している。

赤沢信濃相伝
年(1562年)3月、久米田の戦いにおいて実休が戦死すると、上桜城主の篠原長房、木津城主の篠原自遁と共に出家し、その後、実休の子・三好長治を重臣として補佐した。

元亀4年(1573年)5月、篠原長房が主君・三好長治、十河存保(長治の実弟)、阿波守護・細川真之(長治の異父兄)により上桜城を攻められ自害する(上桜城の戦い)。この時、長房と親交が厚かった宗伝の板西城も攻められている。その後、宗伝は『紫雲(篠原長房)の討伐は以っての外だ。忠節な武士を討つ事によって三好の天下も終末が近い。』と嘆き、板西城を捨て3年間高野山へ引篭ったと伝わる。天正4年(1576年)、三好長治も細川真之と争い戦死し、十河存保が三好長治の跡を継いだ。

天正10年(1582年)9月、宗伝は、長宗我部元親が三好存保(十河存保)の勝瑞城を攻めた中富川の戦いにおいて、一族郎党を率い三好方として奮戦したが討ち死にした。四国八十八箇所霊場、第三番札所、金泉寺奥の院の愛染院 (板野町)に廟が祀られている。(Wikipediaより)

という訳で今回は何を伝えたいかというと、

中世では板野郡も三好郡同様に大宜都比売命に所縁が強い小笠原家系統に統治されていたのではないのかということなのです。

 

古代の話になりますが、地続きの板東では葛城系統が統治していました。地理的に深く入り込んだ湾を形成されていたことから那賀(長)の海人族が入り、氏族が混合されたことも考えられるでしょう。(板野郡:板東と板西の境目では富(臣)が含まれている姓が多いこと多いことw )

当地では上記の葛城や登美の存在は薄いことから、鎌倉・南北朝時代の騒乱期に統治氏族の大きな入れ替わりがあった事が想定できます。

 

空海が京に持って帰った稲荷大福神(一宮大明神・葦稲葉神・岡上の神による三神混合の神)。そのうちの二神である「葦稲葉神」、「岡上の神」は板野郡板西に鎮座しています。こちらの二社も当時の統治者が祭官となって奉仕していたと考えても良いのではないでしょうか。

勿論、赤沢信濃相伝と犬伏氏も二社の祭祀について何らかの情報を得ていたことは疑いないものであることから、御方達も調査する必要があると思います。

いたるところの山裾に古墳が造成され、古代と中世の氏族の交わりが見出せない板野郡板西。今回はちょっとしたヒントを見つけたのかなとか考えています。