awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波国の氏族あれこれ(阿府志)

前回の投稿で阿波国四家ノ大身について触れました。

阿波国大身四家の他にも阿波国には神裔の氏族も存在しますし、偉業を成し遂げた氏族もございます。今回は阿波国にまつわる氏族の説明が記載されている「阿府志二十八巻」の一部(複写)をご紹介致します。

掲載された内容からブログの投稿が氏族の数だけ投稿できそうな感じで勿体無いのですが、ここは太っ腹なawa-otokoが読書の皆様に感謝を込めて資料の共有をさせて致しましょうw(画像を貼るだけなのに恩着せがましいでしょ?!笑)

 

f:id:awa-otoko:20160821215907j:image

 f:id:awa-otoko:20160821212847j:image

f:id:awa-otoko:20160821213106j:image

f:id:awa-otoko:20160821213124j:image

f:id:awa-otoko:20160821213201j:image

f:id:awa-otoko:20160821213216j:image

f:id:awa-otoko:20160821213238j:image

f:id:awa-otoko:20160821215058j:image

f:id:awa-otoko:20160821213326j:image

f:id:awa-otoko:20160821213342j:image

f:id:awa-otoko:20160821213356j:image

f:id:awa-otoko:20160821213412j:image

f:id:awa-otoko:20160821213434j:image

f:id:awa-otoko:20160821213447j:image

f:id:awa-otoko:20160821213508j:image

もちろん阿波国出自氏族全てを網羅はできていませんので悪しからず。。。記載されている氏族の説明を見ると色々浮き出てくる内容もございます。また、個人的にはここは○○でしょっていう部分もございますが、それは後々別の投稿で書いていきたいと思います。それでは。

※文書掲載にあたり不都合な部分がございましたら即刻抹消致します。その際はご連絡ください。

白は城!阿波四家大身 大西氏とは!?

 f:id:awa-otoko:20160820212240j:image

白地城(はくちじょう)は四国の中央部の山間地に立地し、西の境目峠を越えると伊予国・北の猪ノ鼻峠を越えると讃岐国、東の吉野川を下ると徳島平野を中心とする阿波国の中心部、南に吉野川をさかのぼると土佐国と、四国の十字路といえる位置にあった。南北朝時代から戦国時代にかけては白地城を中心とした一帯は大西氏(おおにしし)が支配し、阿波の守護大名である細川氏、戦国時代にはその細川氏から実権を奪った三好氏に服属した。しかし、天正3年(1575年)に土佐を統一し、四国統一を狙う長宗我部元親がその地理的重要性に目をつけ、翌天正4年(1576年)攻略に成功、時の城主大西覚養は落ち延びた。『元親記』には元親の発言として“先づはこの大西さへ手に入り候へば阿讃伊予三ケ国の辻にて何方へ取り出づべくも自由なりと満足し給ひけり”とある。その後は長宗我部氏の四国征伐の拠点として使われ、天正13年(1584年)の豊臣秀吉の四国攻撃の際には逆に防衛拠点となった。戦役の後、廃城となった(地域の拠点としての役割は近くの大西城が持つこととなった)。(Wikipediaより)

f:id:awa-otoko:20160820174809j:image吉野川から白地城址を望む)

はい。今回は白地城址と大西氏についてです。
過去に「白(シロ)」は「城(シロ)」に通じると書きました。

「白」は「神を祀る人(神祇官)」を意味し、地名に「白」が入っている場合は、古に神の祭祀が行われていた土地であった可能性が高い。

古社などが鎮座している場所と同様で、山上や台地(高台)などが多く、大概は天災に影響を受けにくい場所が設定されていました。そして祭祀を行っていた場所であるため祭壇、石段、石垣等の整備が残っていることが多く、神聖な場所であり、安全であり、尚且つ建築物が残っているために建築コストを削減が可能。そのような場所に目を付けた時の権力者達は「白」に「城」を築いたのであります。

 

さてこの白地城址。昔から興味があったのですがなかなか現地に行く用事もなく、祖谷や土佐に出るまでの通過点でしかありませんでした。今回やっと現地に目的を持って赴いたのでした。

 

f:id:awa-otoko:20160820174718j:image

f:id:awa-otoko:20160820174755j:image(白地城址には観光施設が建築されております。)

 

まず白地城址はゆっくり確認するとして、麓に近い鳩峰山 八幡寺と白地八幡神社へ向かいました。

f:id:awa-otoko:20160820205415j:image

f:id:awa-otoko:20160820205426j:image(白地八幡神社

白地八幡神社の拝殿前には狛犬が設置されていません。(本殿には立派な狛犬ちゃんはいます!)狛犬代わりは大きな器です。また左隣に別社殿の八幡神社が鎮座しています!!(これが最大の謎w 笑)

 

f:id:awa-otoko:20160820174940j:image(鳩峰山 八幡寺境内)

f:id:awa-otoko:20160820174952j:image(八幡寺由緒)

八幡寺の由緒はかなり興味深いものですので引用しておきます。

 当山は人皇五十三代の淳和天皇御宇天長五年(828)弘法大師が開基と伝へ本尊厄除薬師如来を奉安し光明院瑠璃光院八幡坊報思寺と称し、殊に建武の頃(1335)伽藍は瓦にて葺かれ最も興盛を極め且つ亦旧白地城主領地は阿波美馬三好、讃岐豊田郡、伊予宇摩郡土佐長岡郡にして五万石を領す元武功徳明親録金川日記より大西公の菩提寺として名高し、阿波史の中に郷土史家七条文堂拓本帖中に白地郷光明山八幡坊報思寺と記し、其の銘に文明五庚己歳(1473)十一月吉日、報思寺大檀那大西出雲守 藤原之高と隠刻報思寺瓦は今尚史家研究資料として有名なり、偶々天正四年(1576)土佐守元親四国制覇に抗し難く寺運も城主と共に悲運に遭ふ、年だ不詳なるも本名山ん坊の地より城北の現地に移り鳩峰山報思隠八幡寺と改称して今日に到る、雨来法統相伝へ七十有余代仁龍上人鋳造の梵鐘の銘に依る千百余年の久しきに及ぶ然れ共開祖及び大檀越大西公の遺跡を偲ぶに由なく唯城主歴代の過去帳と大西出雲守元高公の尊牌のみが往時を物語る  当山第七十三世 滝下基憲書

白地といわれる当地であるからして、空海が当地で開基したのも頷けます。また、八幡寺の境内にはこんな祠も存在します。

f:id:awa-otoko:20160820191709j:image

f:id:awa-otoko:20160820191723j:image(稲荷と高野ですって。)

大宜都比売命繋がりなのか丹繋がりなのかは不明です。(たぶん丹でしょう… )

閑話休題。テーマから外れそうだったので戻します。 さて、文中にあるように大西氏は何故に広い領土を有することができたのでしょうか。

f:id:awa-otoko:20160820210203j:image

f:id:awa-otoko:20160820205733j:image

f:id:awa-otoko:20160820205742j:image

f:id:awa-otoko:20160820205750j:image(大西神社)

大西郷は四国中央部における大西姓の発祥地である。大西郷を本拠地にしていた有力者(近藤氏、小笠原氏、阿波忌部氏など諸説ある)が大西へと姓を改め、200年程の間に伊予国宇摩郡(現愛媛県四国中央市)、讃岐国豊田郡(現香川県観音寺市)、土佐国長岡郡(現高知県長岡郡)へと勢力を拡大して、勢力下にあった地域では善政を施した。(Wikipediaより)

大西は阿波国四家ノ大身と呼ばれた家柄でありました。

大西は當國四家ノ大身也。大西、有持、海部、一宮ヲ四家大身ト云。三好ハ別格也。

 

f:id:awa-otoko:20160820191140j:image阿波国四家大身の繋がり)

大西氏は鎌倉時代荘官として京都より派遣されていた近藤氏が土着・改姓したものとされていますが、本当のところはわかっておりません。

上の写真、阿波四家大身の繋がりで考えると、、、

阿波大身四家のうち、三家が大宜都比売命に関わりがある氏族です。

 

・三好氏(小笠原氏)、一宮氏は粟国造家に入り、大宜都比売命宮司を司りました。

 

・有持氏は田口氏(櫻間氏)の末裔。田口大明神として大宜都比売命を祭祀していた経緯があります。

 

 ・海部氏は息長田別皇子の末裔。息長田別が国府大宜都比売命を勧請、のち海部郡に移動しました。

 

大西氏(近藤氏)にも、大宜都比売命に何らかの関わりがあったと推測してもいいのではないでしょうか。

かなり四家は血筋を意識しているように見えます。よって私の推測では大西氏は池田の白地にて、古より神を祭祀した氏族であったが故に阿波西部の最大勢力となり得たのではないかと考えています。

 

大西氏が土着した白地は四国にまたがる要所。また、聖なる山である箸蔵山などがあり空海伝承も残されています。既出ですが白地の山上には神が通った道(伝承)があります。こちらは箸蔵寺金比羅宮の奥の院に設定されていることから大己貴神少彦名神道後温泉まで行幸した道とも考えられます。

または大宜都比売命の伊予行幸の道とも考えられ、古代から大西氏は大宜都比売命が伊予に行幸する際に田口氏などと協力していたのかもしれません。

 

大西氏と白地。探せばまだまだ面白い情報が出てきそうです。かたちが固まれば改めてアップしま〜すw

安房千葉氏と阿波粟飯原氏にまつわる天女伝説

 f:id:awa-otoko:20160813203515j:image

昔、千葉(せんよう)の蓮の花の咲き誇る池田の池という美しい池があり、いつのころからか夜になるとそこに天女が舞い降りていた。松の枝に羽衣をかけ、蓮の花に見に来ていたのである。このことを時の城主であった平常将(たいらのつねまさ)が知るところとなり、彼はその天女を妻にしたいと思い、松の枝にかけられた羽衣を隠すよう家臣に命じた。
羽衣を隠された天女は天に帰ることができず、常将の妻となり、やがて立派な男の子を生んだ。この話は天皇に伝わり天皇はいたく感激した。さっそく常将を呼び出し、「これからは千葉の蓮にちなんで千葉(ちば)と名乗れ」と命じた。(千葉の天女伝説)

 

すいません。阿波こだわったawa-otokoが千葉の地名由来伝承を紹介してしまいましたw

まぁ、阿波も安房も"Awa(粟)"ということでご愛嬌www いやいや、、、とても関係が深いんです。


上の引用は千葉の地名、千葉氏の起こりが伝説として伝わったものです。過去に投稿した粟飯原氏関係のテーマの内容を確認してみてください。通説に沿えば名西郡神山町栗生野に居を置く粟飯原氏は千葉氏の末裔とされております。

f:id:awa-otoko:20160813203740j:image(粟生野 妙見宮参道)


しかし、ぐーたら気延日記(重箱の隅)のぐーたら氏や私、awa-otokoが掘り下げた古書からは、粟飯原氏は千葉平家の血統ではなく、千波足尼(ちはのすくね)の末葉であり、阿波国造家として大宜都比売命の神威をもとに古来より粟の国を収束していた氏族であったと記録されたものを基に紹介しております。

という訳で、何が言いたいかというと「阿波の粟飯原氏と安房の千葉氏には深い血の繋がりがある」のではないか、ということなのです。

 

天女は、天部に住むとされる女性のことで、天帝などに仕えているとされる女官の総称である。人間界においては容姿端麗であることを除けば人と大きく変わるところはなく、羽衣と呼ばれる衣服で空を飛ぶとされるが、この羽衣を奪われたばかりに空に帰れなくなり、地上の男性と婚姻する話(羽衣伝説)などが伝えられている。(Wikipediaより)

ここからは私の推測に入ります。

そもそも天女とは一般的に天上人(神)のこととされておりますが、考えるところ、神として祀られた人物の血族(末裔にあたる氏族)の女性を主として、それに仕える女官も含まれたのではないかと考えます。

全国津々浦々において現在まで伝承されている「天女伝説」でありますが、この例に違わず阿波国の起こりである神山町神領にも「天女伝説」は伝承されています。

f:id:awa-otoko:20160813201411j:image(弁財天女祠:塩水大明神)

昔、天女がこの地に現れて、「この地の守り神として祀れ。そうすれば人の家運長久と子孫繁栄を守ってやる。」と言い、天女は岩下から霊水を湧き出させた。この霊水は温湯として入浴すれば世の難症者を救うのに役立つと教えたのちに姿を消した。郷人達は、早速天女が発現させた霊水の岩上に石囲いの祠を造り、「塩水大明神」として祭祀した。この頃より当地は塩水と呼び、後に弁財天女神と改称し、今もなお塩井、塩本、大塩等の塩に因む姓の氏子が祭祀している。

 f:id:awa-otoko:20160813201346j:image

はい。こちら現在の神山温泉のことでございます。

「天女」こと「塩水大明神」の宣託から得られた温泉だったのですね。

また、上に記した「塩水大明神」と「大宜都比売命」が同じ女性の神であることから習合されたのか、上一宮大粟神社(祭神:大宜都比売命)と上角谷 八幡神社には、男神大宜都比売命のもとに通い、一夜を共にする夜這い祭りとも呼べる例祭が存在しているのでございます。

f:id:awa-otoko:20160813201631j:image

f:id:awa-otoko:20160813201716j:image(上角八幡神社

 

10月10日の秋の大祭(旧暦8月8日)には、上一宮大粟神社 大宜都比売命のもとに一晩だけ上角谷 八幡神社男神が泊まり、翌日に大宜都比売命男神八幡神社まで送り届ける神事が続けられている。

こちらは大宜都比売命(天女)と男神を別ち、年に一度の再会を許されることから七夕祭りの起こりではないかとも言われております。これに関連してからなのか、神山町では毎年七夕祭りを盛大に開催しております。 

そして、今回の最たるテーマである阿波の粟飯原氏と安房の千葉氏の交わりの部分ですが、千葉氏は古くから妙見信仰を深く信仰しており、同じく粟飯原氏は太祖である大宜都比売命をはじめ、祖先を妙見神社氏神として祭祀している。のでございます。

 

「千葉氏が妻にした天女は妙見様であった。」ということから、神山 栗生野住人 粟飯原氏(妙見様とされる大宜都比売命の末裔:千波足尼一族)の女性が安房に渡り、平姓を継承せずに「千波(ちは)」から「千葉(ちば)」になったのではないかという推測です。

 

あくまで私の推測の域なのですが、「千波(ちは)」から「千葉(ちば)」になったのであれば通説に何の手を加えることもありませんし、粟飯原氏にとっては両方とも名誉なことであると思います。

と、いう訳で粟の国魂 大宜都比売命。天女になって他国へ渡ったと考えられます。天女伝説は全国的に伝承されていますので、それを絡めて考えればとても面白い内容を発見できるのではないでしょうか。


オマケ。
今回と同じような状況下から丹後の天女伝説も発祥している可能性も否めません。なぜなら息長田別皇子が大宜都比売命の祭祀を国府(天石門別八倉比賣神社)に移し、皇子の末裔である海部氏が南に移動した場所が海部。海部には、、、、、

勘のいい方はお気付きでしょうが、今回のテーマはあくまで千葉氏と粟飯原氏でございます。こちらについてはまたの機会にご紹介したいと思います。

祠は朽ちても魂朽ちず…(小笠原神社・重清城址)

f:id:awa-otoko:20160812234517j:image

f:id:awa-otoko:20160812234658j:image

重清村字城名にあり、小笠原豊後守長政此に據り剛勇にして屢次戦功あり、天正六年大西城主大西出雲守三好に背き長宗我部に降るに及び、其子白地城主大西角養、其弟七郎兵衛、久米刑馬亮をして誘殺せしむ、時偶正月に會す角養等饗を城中に受く、酒酣にして忽ち起て豊後守を刺し併せて其兒女を殺す、角養仍て自ら移て爰處に居る、同十年十河保大擧して来り攻るに及び、角養城を棄て豫州宇摩郡に逃れ後遂に害せらる、存保乃ち源重平をして之を守らしむと、今猶残壘遺礎等散点し牙域の所在また認むべし、盲井あり固頗る深かりしが落城の際重寶及び武器の類を投じて埋められたりと傳ふ、牙城の址より南二丁の處一小庵あり枯木庵と云ふ、是れ輙ち小笠原氏菩提寺の遺址なり、屢次回禄の災に罹りて傳記遺物等も傳はらず、近傍に五輪塔數基當時の記念として存するのみ、聞くならく重清村に小笠の姓を襲ふもの二十戸あり、何れも豊後守若くは一族の末葉と爲す、其祖正月に滅されたるより古来年頭に酒を用ゐざるを例としきと。

はい。小笠原氏の居城であった重清城址です。

f:id:awa-otoko:20160812234603j:image

f:id:awa-otoko:20160812234634j:image
鎌倉時代末期に小笠原長親が城を構えて以降、小笠原氏は代々当地を治めておりました。(もともと当地でいたという説もあり!)

上記引用文にあるように重清城は小笠原氏の重要な拠点であり、それを物語るように小笠原神社が城址に祭祀???されておりました。(近年、危なっかしいと噂されておりましたがとうとう朽ちて潰れてしまったようです。(泣))

f:id:awa-otoko:20160812234732j:image

f:id:awa-otoko:20160812234752j:image

f:id:awa-otoko:20160812234807j:image

f:id:awa-otoko:20160812234821j:image
さて、この重清城周辺には興味がそそられる場所がたくさんございます。さっそく紹介していきましょう。

 

 f:id:awa-otoko:20160812235918j:image

f:id:awa-otoko:20160813000005j:image(倭大國魂神社

まず、小笠原神社より東三百㍍に鎮座する倭大國魂神社。小笠原氏が城主の時には十貫の神田を寄附、「式内社として境域大なりしなるべし」と伝えられています。こちらの社は色んな観点からみて有名ですよね。

 

その他では妙見町。往古重清の竹内より西南の地には妙見祠がある故に呼ばれた地名です。昔は吉野川が重清の南側に接していたそうで「妙見松下に舟を繋ぎし… 」と伝わります。

f:id:awa-otoko:20160813003244j:image(最近、貞光九市が復活したみたい。)

また当地では妙見市・九市と称した行商物質を列し、盛んな市も催されたそうです。百年以上前にこの市の株を貞光に譲ったため、妙見市を外した九市を開いていたそうであります。

 

さて、古代においては麓のいたるところに古墳が存在する重清。往古から地域は小笠原氏が統括していたこと、また阿波国造家に養子に入った一族が存在することから神山神領からも様々なものが移動していたはず。

妙見祠…

神山 粟飯原氏の氏神は妙見宮にて祭祀されています。こちらは千葉氏が妙見菩薩を信仰したことから大宜都比売命が妙見宮に祭祀されたものでしょう。
また、小笠原氏の直轄地に倭大國魂神社の存在。こちらはもしかすると、原初に祀られた神は大宜都比売命ではなかったのか。などと考えてしまいます。(大国主命少彦名命が讃岐金比羅経由で伊豫に行幸した際に置き換えられてたのではないか?)
ちなみに現在の倭大國魂神社には、御神体として祀られていたはずの神像はございません。

f:id:awa-otoko:20160813000043j:image(倭大國魂神社拝殿)

f:id:awa-otoko:20160813000102j:image(棟札)

f:id:awa-otoko:20160813000151j:image御神体は小刀)

 

その他にも引用文にもあるように当地では小笠原氏の末裔が小笠氏として生活を営んでいるようです。

一宮神社宮司家の小笠原氏は蜂須賀氏(家臣に同姓が存在したため)に遠慮して笠原に改名。こちらも後年に被らないように小笠に改名したのでしょうか。

ともあれ小笠原氏が頑なまでに保守した重清の地、隠された秘密がまだまだ存在してそうです。

存在を明らかにするには池田の白地に城を構えていた大西氏の存在も絡めなければならないのは必至。

近いうちに白地城、白地奥山の「神が通る道」なども紹介できればと思います。(現在未調査。誰か調べて。笑)

 

 

オマケ。

f:id:awa-otoko:20160813001155j:image

f:id:awa-otoko:20160813001209j:image

四百年以上前に作られた重清城の井戸。(注:貞子は出てきませんのであしからず。)

古代の祭祀場、天桁山(あめのけたやま)

 

f:id:awa-otoko:20160806230108j:image

東宮山と峯続きにある山、「天行山(あまぎょうさん)」。阿波古代史の入門書ともいえる書籍「道は阿波より始まる(その三)」には、以下のように記されています。

蜂須賀治世時代の諸文献では「天行山」ではなく「天桁山」「桁村」が地名として使われている所をみると、当然「天桁山(アメノケタヤマ)」が正しい地名と思われる。
東宮山」と「天桁山」と連なるこの峯が正に絵に描いたような建物の大屋根そっくりの形をしている。木屋平の地名もこれから起こったのであろう。また木屋平は「天小屋根命」「天日鷲命」の居住地であった。神代の重要な儀式は天空を支える天の元山の中心地「天桁山」で行われてきたのである。

f:id:awa-otoko:20160806230449j:image(左端が東宮山、右端が天桁山)

「道は阿波より始まる」の内容については興味深いところが盛りだくさんなのですが、個人的には「?!…」という部分が多く感じるところもあって最近は引用を控えていました。が、、、今回はネタ的にリンクして内容も興味があったので久しぶりに掲載させて貰いました。

という訳でさっさと話を進めますねw

桁(けた)

桁とは、柱の上に、棟木と平行方向に横に渡して、
建物の上からの荷重を支える部材のこと。

以上のことから「天桁山」とは天空を支える屋根の部分を表しております。また山の姿を表しただけではなく、当山にて政(まつりごと)や祭祀を行っていたことから、このような名前を付けたのかもしえませんね。

引用文中にある「天小屋根命」については、木屋平(こやだいら)の地名との関連性から引用した可能性が含まれることと、個人的には「天小屋根命藤原氏の捏造と考えている節もあって存在自体に違和感を感じているので今回は触れません。しかし、天日鷲命」の居住地という内容については「あるかもしれない」と思っています。
その理由としては、東宮山〜天桁山の北側と西側は旧麻植郡の領域であり、忌部氏の伝承が色濃く残されているから。そして忌部氏の末裔である三木家住宅から見えるこの特徴ある天を支える大屋根こと天桁山の姿を天日鷲命が確認したとすれば、何らかの興味を示さない訳がないのです。(たぶんw)

 

f:id:awa-otoko:20160806230739j:image
という訳で今回はこれを確認するために「天桁山」に登り、山中をくまなく自分の目で見てきました。

 f:id:awa-otoko:20160806230946j:image

 f:id:awa-otoko:20160806231155j:image

f:id:awa-otoko:20160806231208j:image

山頂付近には磐座と思われるたくさんの巨石と立石が存在し、谷もたくさんあり水が流れている。極めつけは天桁山自体が巨大な岩の塊であることから雨露をしのげる窟が至る場所にあります。この条件より天桁山の山頂付近については、古代人が生活を営んだ古代遺跡である可能性が高いのではないかと考えました。(専門家ではないので断言はできません… 逃w)

 f:id:awa-otoko:20160806231418j:image

f:id:awa-otoko:20160806231433j:image

f:id:awa-otoko:20160806231456j:image

f:id:awa-otoko:20160806231511j:image

という訳でこの「天桁山」、古代遺跡などとは全く云われてもいませんし、大々的に検証されているわけでもありません。しかし!!地元ではとても面白い伝承が残されているのであります・

f:id:awa-otoko:20160806231605j:image

木屋平村大北、天行院大師庵の手前、南三百米の参道の上に巨大な金剛石がある。此処から真下に向けて、コリトリ川まで六十度に近い急斜面に有名な一夜建立の石段がある。
段の数四八八段。幅三米、長さ百八十米。使用してある石の数一、二八八個という。
このおびただしい量の石材を使った大工事を進めるに当たっては、先ず大木を切り払って株や根っこを取り除き、岩を砕いて整地しなければならない。しかも大量の石材を所々八方から運んで来なければならないし、現場は六十度に近い城壁のような急坂である。この難工事は、百人いても一カ月はかかったであろう。不思議なことに石段の建設はいつの年代に、誰が造ったのか見た者も聞いた者もなく、全く謎とされている。
大昔のこと、大北集落の人達がこの石段を発見した時、近郷近在ではこの工事に加わった者はなく、話に聞いている者も居なかった。それよりのち、誰言うとなくこの石段を「天行山の一夜建立の石段」と呼ぶようになった。
この石段は、現在は利用されていないが、昭和の初めごろは、まだ参拝者が登っていた。また、コリトリ川とは、小さい谷を言い、日照り続きの時には水が枯れて流れていない。明治のころには、この谷べりに通夜堂があって、コリトリ川の水で体を清めて一夜建立の石段を登り、大師様を参拝していた。(木屋平の昔話より)

f:id:awa-otoko:20160806231642j:image

今まで聖域と呼ばれる阿波の山に入りましたが、これ程立派で素晴らしい石段は見たことがありません。そして引用した文中にもあるように、城壁のような急坂に長い距離、大規模な工事が必要なことは現物を確認すれば尚更想像に難しくありません。

 

確認したところでは江戸時代あたりの仕事内容ではなく、さらに古い時代に造られたと思われる石段と考えられます。中世に造られたとしても古代遺跡跡を改造して城として使用したのではないでしょうか。(東宮山と峯続きだし。)例えば敵が攻めて来た際に攻撃し易く、攻撃した際にはダメージが大きい、攻める側からしたら突破口を見出せない急斜面で足場の悪い条件を敢えて造ったのではないでしょうか。そこまで手間隙かけて造設したのは、特に重要なエリアが存在したということでしょう。
また、コリトリ川が設けられていたということは、特に神威が強い場所であったことが窺え、古代では出入りする人間が限定された祭祀場であったと推測できる場所なのです。(城とは白に繋がり、白は祭祀場を指します。古代の祭祀場跡に城を造設した多い。)

 

f:id:awa-otoko:20160806232231j:image

f:id:awa-otoko:20160806232243j:image
こちらついては空海による伝説が主になっており、剣山系の山々を巡回した空海が、自らの道場を作る目的で入山した可能性はとても高いです。現に天桁山(天行山)は、焼山寺奥の院に設定されているからです。(焼山寺は大粟族を、この天桁山は忌部族に関連する何かの目的で寺を創設していたとしたら… )


現状、古代遺跡についても空海の目的についても断言できるものはありませんが、阿波における「天桁山」の存在は、古代にとても重要とされた場所には間違いありません。

 

剣山はスサノオ信仰が不動明王に置き換えられ、忌部祭祀色が濃くなったもの。 

この天桁山は、天日鷲命が剣山信仰になぞらえられていた場所であった。後世に空海伝説に置き換えられたため伝承が途絶えてしまったのではないでしょうか。時として空海伝説が本来の伝承を覆い隠してしまっている事例は多々ある。)

 

そもそも、一夜建立の石段は「建設はいつの年代に、誰が造ったのか見た者も聞いた者もなく、全く謎とされている。」とあるように全てが謎なのです。名西・旧麻植・美馬をまたぐこのエリアは、阿波古代史を追うことではとても重要。ということで今後もこの天桁山については調査を継続して行きたいと考えています。