読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

鈴ヶ峰に空海が祀ったのは本当に聖観音だったのか?

f:id:awa-otoko:20170513195031j:image

f:id:awa-otoko:20170513195130j:image聖観音像が見つかった岩屋)

阿波の南、海部郡宍喰町鈴ヶ峰円通寺の観音様伝説はご存知でしょうか。

慶安三年の頃、櫛川村(旧川西村大字櫛川、鈴ヶ峰北側ふもと)に五良兵衛という猟師がいた。毎日各所の山を駆け巡って獲物を狩る腕利きの猟師として名を知られた男だった。ある夜に鈴ヶ峰に登り、西敷居の奥でイノシシのヌタ待ちをしていたが、待てどくらせど一向にイノシシが出てくる気配がない。諦めて帰り支度を取り掛かったとき、西の方角からけたたましい犬の鳴き声が聞こえた。どうもイノシシを追う鳴き声とは様子が違う。五良兵衛は違和感をおぼえ、声の方へ密林をかき分けて登ると犬の鳴き声と交じって鈴の鳴る音が聞こえた。さては錯覚かと耳をすますとリン、リン、リンと確かに鈴を鳴らす音が聞こえたのであった。鈴の音に引き寄せられるままに進むと、薄暗い岩屋の中に七寸八分、聖観音の金銅像が鎮座していた。どこからともなく、「我、海神のみ子なり。蒼海より湧き出で、深山に菩薩となりて化現す。我、この峰に齋き祀らば、鬼畜の済度、善願如意の成就疑いなく、長く浦人達を守護とせん。夢疑うなかれ。」と聞こえた。五良兵衛はあまりのありがたさに信心肝に銘じ、髪を剃って仏門に入り、法妙と号した。そこたまたま性公という旅僧が現れ、諸所方々を勧化して三間四面の堂宇を建立した。長年に渡り荒廃していた弘法大師の開山にかかる円通寺は、性公上人と、五良兵衛改め法妙上人の努力により再建され、鈴ヶ峰の観音堂として今に伝わっている。

f:id:awa-otoko:20170513195647j:image(岩屋内部)

f:id:awa-otoko:20170513195829j:image

f:id:awa-otoko:20170513195844j:image

f:id:awa-otoko:20170513195906j:image

f:id:awa-otoko:20170513195941j:image

f:id:awa-otoko:20170513200002j:image

縁起によれば鈴ヶ峰 円通寺弘法大師 空海の開山であり、海抜三百㍍の険しい山で要害の地でした。長曾我部元親の阿波侵攻の際にも幾たびか戦場となり、弘法大師開山後、霊場も戦禍のために被壊の運命にあい、五百余年に至る歳月を本尊 聖観音だけが岩屋に残っていたものと解されています。

f:id:awa-otoko:20170513200032j:image円通寺跡)

f:id:awa-otoko:20170513200056j:image

f:id:awa-otoko:20170513200117j:image

f:id:awa-otoko:20170513200247j:image

円通寺には檀家はなく宍喰はもとより海南、海部、土佐などにも信徒を持った鈴ヶ峰の観音さんとして知られているのです。毎年旧正月十八日が縁日ですが、旧七月九日の四万八千日には一晩のお参りで四万八千日参拝した御利益が得られるとされ、善男善女は夕方から十八丁の坂道を汗だくでお参りしたというのも昔の話。現在ではまたも円通寺は荒廃を尽くす限りであります。しかし、円通寺跡からさらに登ると鈴ヶ峰の頂上に到達し、そこから眺める太平洋と島々は格別なものがあります。

f:id:awa-otoko:20170513200610j:image

f:id:awa-otoko:20170513201116j:image

f:id:awa-otoko:20170513201250j:image
なんとも麓の日本三大祇園である宍喰 八坂神社もこの鈴ヶ峰にもともと鎮座していたということ。そして空海の足跡。伝承ではありますが聖観音像自身が「我、海神のみこなり。」とか五良兵衛に伝えているんですよね。限りなく怪しいです。

f:id:awa-otoko:20170513201832j:image

さぁ、当地では「スサノオ」と「海神のみこ」。岩屋内部では「不動明王」とかあったのに何故、実際に祀られていたのは聖観音なんですかねぇ。。。観音=神宮皇后? 不動明王=スサノオ=応神天皇???どういう関係性があるのかさらに書きたい部分はありますが、こちらの詳細はまたいずれの機会に。ではでは。ヽ(*´∀`)

木地師と修験者の聖地

f:id:awa-otoko:20170511231907j:image

一宇村の中心である古見から片川谷沿いに林道を進めば木地師の集落 木地屋に行き着く。海抜800から1000㍍の急斜面を耕す住民、その先祖は昔盆や椀の木器をつくる木地師であった。半田漆器の材料を製造していたが、大正時代の末に半田塗りがすがたを消すと和傘や轆轤つくり、農業に転向していった。それでも時代の移り変わりには逆らえず、出稼ぎや集落を出ていく者は少なくなかった。

木地師の祖先は約千年前の文徳天皇の第一皇子である惟喬親王と言い伝えられている。滋賀県愛知川の上流小椋谷で仏法修行の傍、人々に轆轤の使用法を教え、技術を習得した者は全国の関所の自由通行と、山の七合目以上の自由伐採の特権を与えられて各地に散らばりったという。阿波の木地屋に居住していた住民の殆どは小椋姓であったという。

さて、木地屋に行き着くとこんな山深い場所にこんなに手入れされた神社があるのかと驚きます。石堂神社です。

f:id:awa-otoko:20170511232054j:image

石堂神社は木地屋から白滝山の稜線を伝いながら一時間程歩けば到達する石堂山を神を祀ったもので、石堂山を崇める者達の入山口となっています。昔から休憩場所や避難場所などに利用されていたのではないでしょうか。

f:id:awa-otoko:20170511232306j:image(御塔石)

f:id:awa-otoko:20170511232705j:image

f:id:awa-otoko:20170511232759j:image
石堂山は修験者達が度々訪れて祭祀したと伝わる御塔石が有名。そして大工小屋石と呼ばれる内部が石室になった大岩(磐座)もあります。

f:id:awa-otoko:20170511232916j:image(大工小屋石)

f:id:awa-otoko:20170511233203j:image(内部)

 f:id:awa-otoko:20170511233303j:image

 

半田町 石堂神社

ところで半田町にも石堂神社があるのですが、半田町鎮座の石堂神社は木地屋に鎮座する石堂神社の祭祀(神)を、後世に平野に近い場所へと降ろしたものだと考えています。後世といっても半田町 石堂神社は天神七代・地神七代を祭神とし、由緒は千年を遡るもと伝承されているので、これ以上の深い歴史がある石堂山、木地屋の石堂神社はとても興味深い研究材料なのです。

f:id:awa-otoko:20170511233455j:image(半田町 石堂神社)

f:id:awa-otoko:20170511233527j:image

木地師の里に鎮座する石堂神社は木地屋という地名から木地師所縁の場であり、そして修験道の信仰の地でもあることは前に記しました。普通に考えても木地師と修験者という歩き筋に共通する場所ということが分かります。

f:id:awa-otoko:20170511233702j:image

技術や特権を持ち一定の場所で居住せず、各地の山々を転々としていた人達は、忍者・隠密のような諜報活動を担っていたのではないでしょうか。

吉野朝時代には南朝・吉野との連絡を密使が修験者の姿に変え、髻(もとどり)に密書を隠し運んだ「髻の綸旨」は有名ですが当地も南朝方山岳武士の密使が行き来した場所であるのはまず間違いありません。

f:id:awa-otoko:20170511233833j:image高千穂神社

f:id:awa-otoko:20170511233906j:image

当地のこうした文化や祭祀形態が半田町の石堂神社まで降り、高千穂神社や参道入口の日光神社という天照大御神を連想させるものに変化していったと考えれば、本家 石堂山 石堂神社はとんでもない面白いルーツがあったのではないかと考えられるのです。

当地は木地師、修験者、吉野朝時代に活躍した阿波山岳武士の伝承しか残されていませんが、周囲の峰々は劔山に繋がり、古代の人々が何らの影響を与えた場所であることは間違いありません。また登っていろいろ調べてみたい思わせられる石堂山と石堂神社でした。

阿波三好氏は住吉神社の祭官家

 f:id:awa-otoko:20170506012221j:image

阿波三好家は清和天皇からの出自で本姓は源氏である。阿波国との関わりは、小笠原長清承久の乱源頼朝に従い阿波の守護に補せられたことから始まる。三好家は名門小笠原氏(信濃源氏)の庶流とされ、鎌倉時代に阿波守護であった阿波小笠原氏の末裔であり、阿波三好郡を本拠にしたことより三好氏を称した。

f:id:awa-otoko:20170506012255j:image(勝瑞城趾 勝瑞義家の碑)

f:id:awa-otoko:20170506012326j:image(勝瑞義家っていう人の碑じゃねぇっすよ!細川氏と三好氏のことが記された碑です。)

阿波の守護に任命された小笠原長清。其の子 長経は土御門上皇を土佐より阿波へ迎えた。長経の子 長房は郡領平盛隆を滅ぼし、長房より長久、長義を経て義盛に至り王事に勤めて功名があり軍忠状を賜わり、暫くは南朝に仕え忠勤に励みますが南朝が不利になり、細川氏が室町幕府内でも勢力を拡大し強大化するとそれに服した。阿波では細川氏の庶流の一つである阿波細川家が代々守護を務めたが、三好氏はこの阿波細川家の被官として勢力を伸ばしたのである。

 f:id:awa-otoko:20170506012546j:image

f:id:awa-otoko:20170506012613j:image(勝瑞城趾 見性寺)

この三好家について興味深いのは住吉村 住吉神社の神官を務めていたこと。住吉神社は過去にも記載したように表筒男命中筒男命底筒男命神功皇后の四柱を祀り、正安二年七月摂津住吉の津守國房の奉祀する處として由来頗り、古し社寳に住吉幽考秘記があり、右大将 源頼朝の置く處と傳られたと傳わります。住吉神社は三好氏旺盛のとき、領主と神官を兼ねたる大社にして三好義賢に祠職たりき、現時の社司は其末流なりと記録されているのであります。 

f:id:awa-otoko:20170506014608j:image住吉神社

これまでの調査から解ってきたのは信濃から阿波に(戻って)きた小笠原一族は領地領域を拡大するのは勿論のこと、古代から祭祀されていた阿波の古代神の祭祀権を掌握することに注力したようです。(小笠原一族末流である一宮氏も同じ動きです。)勝瑞城から程近い神社は数々あれど、なぜ住吉神社の祭祀権を三好家が掌握したのかということです。源平合戦の折に義経が住吉神に武運を祈り、結果的に御利益があったので頼朝の指図なのかもしれません。詳しい経緯は住吉神社の社宝である「住吉幽考秘記」記載されているのかもしれないですね。

 f:id:awa-otoko:20170506014925j:image

さて、久しぶりに投稿してこれだけの内容では物足らないと思いますので、阿波で有名?な三好長治にクローズアップしてみたいと思います。上記にある三好義賢(実休)の長子でもあります。それでは資料を転記しましたのでどうぞ。

三好長治は阿波の屋形彦次郎と称す。父の三好義賢は主君である細川持隆の寵妾 小少将局と通じ、相謀て持隆を殺し細川氏に代わり軍国の政を専にするにあたり局を納れて室となし、名を大形殿殿改む。大形殿は三好義賢の子を産む。長治と存保と云う。長治、性暗愚にして酒色に溺れ政道に心を用いざるを以って大いに民望を失い一族郎等叛く者多く、三好家の衰頺基極に達するに至る。長治の臣 篠原自遁は寵を恃んで威力を弄び、密かに長治の生母大形殿と通じて聲色を恣にす、其姻戚篠原紫雲之れを坐視するに忽びす事に托して諷諫(ふうかん)し、自遁の毒舌に振れて上櫻城に退き自殺せる。茲に於いてか三好家の一族之を憤らざる者無く、大形殿の持隆に侍して生めりし掃部頭眞之を奉じ、細川家の遺臣と謀り功名心燃ゆるが如き一宮城主長門守成助を謀主とし総勢二千余騎先つ長治の近習篠原玄蕃亮を今切城に攻めて之を屑る。長治之を聞きて驚愕爲す處を知らず急使を土佐泊なる森志摩守に馳せ淡路へ渉る船を艤(ふなよそおい)せしめ、自からは暗夜に乗じて城を出で、約束の場所なる助任川に来りしに船誤りて佐古川に入りしため之を求めて得ず遂に天明に至り、止むなく別宮浦に出で土人を召して急ぎ淡路に渉るべき船を命ず、土人中叛いて敵に通ずるものあり、須曳にして大軍殺到す、長治漸く逃れて長原浦に走り漁家に潜みしも、追兵のもとむる處となり従臣と共に自殺す。年僅かに二十五歳天正五年三月二十八日なりき、村民之を憐れみ祠を建てて之を祀り若宮神社と号す。

f:id:awa-otoko:20170506015133j:image(三好家当主の墓)

阿波三好家は長治の自殺より後裔に至っては遂に知るところなしと伝えられているものの実際は存続しております。小笠原長清より長経、長房、長久、長義、頼清、頼長、頼慶、慶信、慶長、長輝、之長、元長、長慶、義賢、長治、義明、長清、義房、友時、光盛、十兵衛、義右衛門、源右衛門、四郎右衛門、彌三郎(四郎右衛門と改称)、増蔵、五藤太、友五郎…

やっぱり三好家を語るのであれば長慶あたりを阿波の伝説と絡ませれば面白いでしょうね。残念ながら長慶のネタの持ち合わせは滝寺くらいしか無いですね。また機会があれば武将ネタを書きたいと思います。

んー、阿波古代史ネタも貯まってきていることで、そろそろ古代史ネタに戻らないとね。

朧夜皇子が隠したもの

f:id:awa-otoko:20170422202554j:image

阿南市日開野町に鎮座する皇子神社は全県下に霊験あらたかなる神々の社として多くの修験者から厚く信仰されています。

f:id:awa-otoko:20170422202612j:image

f:id:awa-otoko:20170422202626j:image
創立年代は不詳。祭神は大己貴命。寛保神名帳には「日開野王子権現、別当石塚村正福寺」、阿波志に「王子祠日開野に在り」と見えます。資料が少ない日開野 皇子神社でありますが、古老の口伝や古文書により以下の伝承が残されております。

遠く八百五十年前の平安時代末期に崇徳院の第三皇子 朧夜の皇子がわずかな罪に問われ、その折遠流の憂き目にあわされた。近習一名、侍女一名、白馬一頭を従え、身のまわりの家具だけ持って阿波に向けてお発ちになり、途中紀伊渚の郡加田の浦にてしばらく休まれ後に阿波に入船した。

朧夜の皇子は日開野村の当山を皇子山と名付け、鳥居と社を建て「皇子大権現」と称してその在所を日開野・七見・中村とお呼びになった。
のちに皇子の舎人はニ宮権現と称し山下に社を設けられ、所持した船は七見村に納めて船戸神社と号した。主馬は馬頭大王と号して右ニ社祠に納め、馬具等は山上の三ヶ所に納められた。これより山上付近の塚は「諸人の踏み入れ申さぬ様注連をひき置き候」とあったそうである。

f:id:awa-otoko:20170422202904j:image

はい。阿南市日開野に入ればその存在が嫌でも目に入る王子山。当時皇子山は浅瀬に浮かぶ島だったようです。(長国の沿岸部・小島は古代海人族の直轄地の可能性が高いのですが… 今回は崇徳院の皇子 朧夜皇子伝説で進めます。)

 f:id:awa-otoko:20170422204259j:image

「王子山古墳群」の標識に沿って王子山の山裾を南に回れば遊歩道が整備されており、山頂付近の古墳群まで行くことができます。おっとその前に、、、遊歩道の手前にはニ宮権現、または馬頭大王と考えられる祠たちがあります。こちらも見逃さず確認しましょう。

遊歩道まで急傾斜な階段を登れば6、7世紀に築造された古墳時代後期の古墳が3基を確認することができます。全て円墳だそうです。2号墳は上部が開き横穴式石室であることがわかります。(この山の規模ならまだまだ古墳は存在しそうに思いますが… )

f:id:awa-otoko:20170422205013j:image(掲示板、見にくくてすまぬ。)

f:id:awa-otoko:20170422205027j:image(二号墳)

f:id:awa-otoko:20170422205050j:image(一号墳)
さて、上記の引用から考えれば古墳三基は馬具等を納めたものとも考えられるのですが真偽の程はわかりません。現在確認されている三基の古墳のうち一号墳と三号墳は未盗掘で未調査と推測しますので、古墳を調査をすれば朧夜皇子所縁の古墳であるのかどうかはっきりするのでしょうが、状況を考えれば無理でしょう。そもそも確認されている古墳は円墳ですのでもっと古い年代に造成されたものかもしれません。(個人的にはそう考えてます。:現状の調査結果を否定するものではないですが。)

朧夜の皇子は王子山に何を隠したのでしょう?こちらは古い時代より修験者の出入りが激しかったことと、紀伊国渚の加田の浦がヒントなのでしょうか。海洋ルート的に「熊野」かもしれないですね〜。 

ともかく、なかなかこのような手の入っていない古墳群を間近で見ることはありませんので、興味がある方は見学してみることをお勧めします。もしかしたら朧夜皇子が隠蔽した「何か」を見つけることができるかもしれませんよ〜。今回はちょっとはっきりしない皇子伝説でした。(≧∇≦)

古代の女神達を鎮めた川除大明神と龍王

f:id:awa-otoko:20170417225009j:image

]

f:id:awa-otoko:20170417225026j:image(字が見えにくい〜。)

川除けとは堤防のことである。川除大神宮は龍蔵堤の守り神として祀られたものである。西から流れ来た吉野川とその支流、新宮川(現在の神宮入江川)はこの付近ではほぼ直角に流路を転じ、北流していた。このため徳島城下を洪水から守るため早くから堤防が築かれたが、吉野川の洪水を正面から受け止める堤防であったため、しばし決壊し、修理を繰り返した。川除大神宮は元文五年(千七百四十年)に芝原村西沢地区の人達が堤防の安全を願い建立したものである。県内で確認されている堤防の守護神としては一番古いものである。一般に川贄(かわにえ)さんと尊称されており、庄屋の身代わりとなった龍蔵の悲しい人柱伝説を伝えている。(川除大明神 石碑より)

国府竜王団地の外れにぽつんと鎮座する川除大明神でございます。別名、川除大神宮や川贄さんとも呼ばれており、以前から大神宮の名が気になっていたので調べてみた訳ですが…

f:id:awa-otoko:20170417225047j:image(見えにくい〜。)

【龍蔵人柱伝説】

当時、幾度築いても洪水のたびに流失を繰り返す堤防の復旧について庄屋を始めとする村の世話役達が集まって相談した。相談の結果、明朝芝原から第十に通じる街道を一番に通行する者を人柱にして新宮川の神に捧げることになった。庄屋は村人のために我が身を捨てて自らが人柱になることを決意していた。庄屋は自分が人柱に立つことを家人にのみ伝えて白装束を用意させてから床についた。その話し常々庄屋から世話になっていた龍蔵が聞いてしまった。龍蔵は日頃からのご恩を返すために庄屋の代わりに自分が人柱になろうと考え、庄屋より早く街道を通行して見事人柱の役目を受けたそうである。龍蔵が人柱となって造られた堤防は洪水になってもびくともせず、村人は龍蔵にとても感謝した。村人達は堤防の上に祠を建てて龍蔵をねんごろに祀り、完成した堤防を龍蔵堤と名付けて龍蔵の義挙を深く讃えたのである。

f:id:awa-otoko:20170417225106j:image

f:id:awa-otoko:20170417225131j:image(龍王の板碑群)

龍蔵堤こと川除大明神の祠の横には「竜王の板碑群」。板碑は七基が現存し、南無阿弥陀仏のほか建武四年(1337)の銘が刻まれています。この背景を考慮すれば、龍蔵堤を造成する遙か昔から当地に古墳群(もしくは墓地群)が存在していたのではないでしょうか。
当地一帯は「竜王」の名がつく場所であり、豊玉龍王を祭祀する八大龍王神社により付けられたとされています。その他に別宮川(吉野川)へ流れ込む神宮入江川の氾濫伝説が数多く伝えられていることから、神宮入江川を暴れ狂う水龍に例えて付けられた地名であったのではないかとも考えられるのです。

f:id:awa-otoko:20170417225239j:image(地図に昔の水流を書き足してみました。)
神宮入江川は、沼河比賣を祭祀する関の大神宮と豊玉比賣を祭祀する大神宮の二つの大神宮を中心にして流れる川でした。この大いなる二柱の女神達の神威(神宮入江川の氾濫のことね。)を鎮めるために川除大明神の他にも様々な結界や神を配置しているのがみてとれます。地図で確認すると神宮入江川(跡)の流れが急角度で曲がっていた場所にはそれぞれ神社を配置しているのが確認できるのです。

江戸時代に川除大明神として「龍蔵人柱伝説」が出来上がる以前に川除大明神と大神宮の原型は存在していたのではないでしょうか。というかその原型を利用して龍蔵堤が造成されたのではないかということです。

f:id:awa-otoko:20170417232629j:image

f:id:awa-otoko:20170417232708j:image

f:id:awa-otoko:20170417232744j:image竜王地区の八大龍王神社)

awa-otokoは竜王地区に鎮座する八大龍王神社は古の女神達の神威を鎮めようとした女神達とはまた別の神の所縁の場所ではないかと考えています。

そして先にも記したように人柱になった龍蔵が神格化されて川除大明神とになったのではなく、川除大明神はそれ以前に存在していた可能性が高いです。(龍蔵の名前の中に龍王の「龍」が含まれているのも何か意味があるのではないかと考えています。)

豊玉比賣の神宮から流れる水流と、沼河比賣の神宮から流れる水流が合流する地点に八大龍王神社が鎮座し、鬼門封じに「龍蔵」を祭祀したされる川除大神宮が鎮座している配置。その他に付近で祭祀されている天神も調べればさらに興味深い事柄が出てくる可能性が高いです。豊玉比賣とは違う別の龍王の存在が…

ではでは、長くなりそうなので今回はここまで。また何わかったら続編書きたいと思います。(≧∇≦)