awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

二つの笈の秘密

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今日はMが教えてくれた「二つの笈の秘密」の話を紹介したい。それはMに唐突に投げかけられた質問だった。このときからawa-otokoは剣山の謎にハマってしまったのである。

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M:「太郎笈と次郎笈。知ってますよね。ところで笈(ぎゅう)って何か知ってます?」

A:「知りませんよ。教えてくださいよ。」

M:「笈ってね、山伏が荷物をまとめて背中に担ぐ箱なんですよ。仏像とかマジナイ道具とか入れて移動していたものです。」

A:「へぇー、そうなんですね。もっと教えてくださいよ。」

こんなやりとりが続く。しかしMはいつも私を試すように別の話を振ってくる。

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M:「なぜ剣山が笈って呼ばれたのかな。山伏が何かを持ってきて隠したからなのかなぁ。何かを隠して保管してあるのかなぁ。」

A:「また!肝心なことは言わないのですか。」

M:「だって私もわかりませんもん。それより次郎笈のへそに鬼人の窟って穴があるを知ってます?」

A:「鬼人の窟って興味が湧きますね。それより笈の話早よ。」

M:「鬼人の窟からは太郎笈が大層きれいに見えるんですよ。山伏はそこから太郎笈を観ながら修行するんです。何がみえるのかなぁ。」

明らかに* 何か * を掴んでいるのに核心を話さないM。しかしMが何気ない会話の中に含める情報は、SNSでまわりから褒めて欲しい輩が発信する信憑性の薄い情報や、ネットから搾取してきた情報とは全く違う独特な情報だった。そしてその情報源についても固く口を閉ざして語らないMに多少イライラするときもあった。

結局彼からの質問と謎の回収はできていないままで現在に至っている。コロナ禍が落ち着いたら彼を含んだ気の合う同志達で集まり勉強会と称したフィールドワーク(遠足ともいう)を実施するつもりでいた。そんな中で数回企画を思いついたが遠慮している自分がいた。企画の話は回さずそのせいでもう二度と叶わないことになってしまった。

Mは真相を教えてくれずじまいで先月に逝ってしまったのだ。

しかし、いよいよ考えてみればMが発信した情報で動きはじめたものがたくさんあることに気がついた。

ひとつは *邪馬壹国* (やまとこく)論だろう。ここでは詳しくは語らないが、これはMがはじめて提唱した論であったと記憶している。(あとは大神宮のお話。王子ではない玉子(ぎょくし)のお話とか。霊部もあるかな。あと沖の聖徳太子など。女媧(ジョーカー)の話もあった。)

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そんなMは生きていれば今日が誕生日だった。去年の夏、ぐうぜん通りすがりに会って「また来年に暖かくなって落ち着いたら集まりましょう!」と交わした会話がMとの最後の会話になってしまった。いつになるかはわからないが、awa-otokoがそっちへ行ったら貴殿が投げかけた謎の回収をきっちり行いたいと思う。あと私の手土産も持参して。

ご逝去の報に接し心から哀悼の意を捧げます。「二つの笈の秘密」M追悼の意を表して記す。2021.03.07 awa-otoko

加茂島 二つの人丸大明神

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これまで柿本人麻呂島根県石見に流されと考えられている。島根県益田市(旧石見国)ではこれを既成事実としてとらえ高津柿本神社で人麻呂の偉業を称えているのだ。また兵庫県明石市柿本神社はどうか。島根県兵庫県共に阿波の古い地名が残され、そのまま使用されているためにこのような解釈も仕方ないことなのかもしれない。

そんな時、awa-otokoは偶然見つけてしまった。とある郷土誌で…

立割(那賀郡那賀町谷内立割)の氏神が人丸神社であり、辺川谷(那賀郡那賀町平野辺川)にも人丸神社が祭祀されていた。

不思議なことに柿本人麻呂を祀る神社が同地域に二社が存在した記録が残ります。

しかも立割地区では人神社が氏神として祭祀されていたとのことで、そこそこ規模は大きくて資料、フィールドワークから調査しやすいのでは?と期待に胸が膨らみます。

f:id:awa-otoko:20210103232159j:image(赤枠内が那賀町谷内立割)

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f:id:awa-otoko:20210103232115j:image(赤枠内が那賀町平野辺川)

今回のフィールドワークで確認したのは那賀郡那賀町谷内字に鎮座する八幡神社

これは以前に投稿した蔭ノ宮神社と境内を共有する谷内の八幡神社です。神社誌では祭神が品陀別命、息長帯比賣命、大雀命(相殿)人丸大神とあります。(大神ぞ‼︎ 別格って感じ‼︎)

awa-otoko.hatenablog.com

やはりこの谷内の八幡さんが神社が柿本人麻呂を祭祀する神社であることは間違いないみたい。(※ 以降、谷内の八幡神社を谷内の人丸神社と記載)

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他にも文献を調べてみますと、どうやら元々鎮座していた人丸大神(祠)に八幡祠を後から合祀したとのこと。(これ大事‼︎)

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これに伴う内容として阿波志では「人麻呂祠 谷内村に在り 貞治元年に置く 又柏木祠八幡牛王祠あり」と記載があり、貞治元年は1362年ですからその前後で(深い山の中にあった)立割地区の人丸神社を当地谷内に移遷したのではないかと考えてみたり。。。

理由として谷内村の中心に人丸神社を鎮座させることにより立割地区の他、北側の辺川からでもアクセスしやすい立地条件となっていると感じたから。(勝手に。)貞治元年より立割から規模を広げて谷内村全体の氏神として祭祀されたのではないでしょうか。(これ、あくまでawa-otokoの推測。)

f:id:awa-otoko:20210103233114j:image(赤枠内が谷内村)

 

ところでもう一つの辺川谷鎮座の人丸神社は???

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辺川地区もフィールドワークしてみました。

見つけたのは邊川神社…

谷内の人丸神社の真西に位置し目と鼻ほどの近距離で余裕で歩いて行ける距離です。邊川神社を社名としていることから辺川の氏神でしょうか。。。(いや氏神だろ。。。)

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邊川神社を参拝して気になったのは社殿の向き。

邊川神社は正面西向き東拝で鎮座し、邊川神社で手を合わせると自ずと谷内の人丸神社を拝している

という条件下で意図的に配置されているように思われます。

あとは農村舞台。邊川神社にも立派な農村舞台が設置されています。谷内人丸神社にも立派な農村舞台があるのになぜ二つも必要なんでしょう???柿本人麻呂を祀る神社では文化人が集い、和歌の上達などに霊験がある存在として歌会に人麻呂の絵姿と歌を掲げ、歌の上達を祈願する人麿影供(えいぐ)、さまざまな文化の催しが行われるようになったそうで… それが農村舞台に繋がったとか、繋がらなかったとか… 謎だ。)

ともかく言いたいのは、邊川神社も本来は辺川谷の人丸神社だったのではないかということ。

その他にも、柿本人麻呂の詠んだ歌から背景が阿波国であること、当地の古地名が島根郷岩見だったという情報、勝浦町出身の海人族柿本家… いろいろパラレルに調査し柿本人麻呂は阿波で一生を終えたというパズルのピースを繋げたかったのですが…

ギブアップ‼︎ぴえん。(@_@)

正月休みが終わるということでモチベが上がらない!!!まぁ去年末からブログ投稿を再スタートさせたことでだけでも自己満かな。今年もマイペースでやっていこうと思います。ではでは。

阿波井大明神 隠された廟

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阿波井大明神

天正中自古影谷移旧作粟井或曰西粟凡直之廟成

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awa-otokoです。今回は長々と書きませんよ。上記に示した通りです。もともと阿波井神社があった影谷には粟凡直の廟があったそうです。

ソースは小杉椙邨が残した資料から。当社の祭神が大宜都比売命天太玉命であるヒントと捉えて良いと思います。

阿波氏族を示す文字資料として902(延喜2)年、律令に基づいて書かれた平安期の「田上郷戸籍断簡」がある。氏族の多い順に凡直、粟凡直、家部、物部、服部、矢田部、海部、秦、宗我部、綿部、建部、葛部、忌部、飛鳥部、上主寸、伴、許世部で、当時板野郡で位階を持っていたのは郡領の粟凡直と凡直、忌部である。古代から平安期においても板野郡域に粟凡直・忌部が多く居住したのは海が近く、岐(港)になる場所の条件が良かったこと。都を大倭に移した後も交流が盛んであった。阿波井神社からの粟凡直・忌部氏族の動向は、兵庫県南あわじ市に当社分霊社の阿波井神社が鎮座する。そこから大宜都比売命天太玉命天日鷲命)を追えば何らかの手掛かりは出てくるでしょう。興味がある方は調べてみてはいかがですか?

バルナの宮殿(住吉神社・水天宮・磯部神社・大塚神社)

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どうも。awa-otokoです。

阿南市中林町 北の脇海水浴場の北側にひっそりと鎮座する神社群をご存知でしょうか。(地元の人しか知らなんわな。。。わかりにくいし。)で、北側から住吉神社、水天宮、(あいだに南無大慈大悲観世音菩薩の建物)、磯部神社、大塚神社が寄り添うような配置で鎮座しておりまして、当地には拙ブログを閲覧しにくるようなマニアックな人達が大いに興味をそそる由緒書きをみることができるんですよ。

それでは二つの看板が設置されているうちの一つめ。住吉神社と水天宮(二社)から。

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二社神社の歴史

日本の神話がはじまるはるか昔・・・自然界の秩序を守る神、天神の海原に住み、のちに水の神となったバルナという神がいた。インドからこの地にきて水天宮とよばれるようになった。バルナの宮殿は海の底の山、プシュパギリにあり、マラカというウミガメにのってこの地を見守っている。

日本神話の時代・・・

イザナギの神が黄泉の国から戻ってきて禊をした時に住吉の神がうまれた。

その後産土の神として、この地に住吉神社が建てられる。住吉神は荒御魂(人間の生活をよくするために果敢に活動する御魂)和御魂(平和をもたらす御魂)を持った神であり、この地の海上の守り神として今なお君臨する。

バルナ=ヴァルナ (神) - Wikipedia ですね。インドの最高神であるヴァルナは看板の記録の通りに海上の神、また蛇と関連があり、ナーガの王と呼ばれる側面もあるようです。各地の水天宮は「水天 =ヴァルナ」を祀ったものでしたが、現在に至っては水天宮の祭神は天之御中主神とされているところが多いようです。これはヴァルナ神の元々の神格が最高神、始源神であったことによるものとされています。

そんなヴァルナが当地でウミガメに乗ったまま見守っているらしいですわ。(普通はここで浦島太郎か珍彦の話をするのですが違うのですよ。ふふふ。)

で、もう一つ住吉の神のお話。住吉三神 - Wikipedia 当地はイザナギが禊を行なった「竺紫(チクシ)の日向の橘の小門の阿波岐原」なる伝承もあり、こちらの説明もそれに連なるヒントとして捉えることもできると考えています。

awa-otoko.hatenablog.com

f:id:awa-otoko:20201222231125j:image(扁額)
f:id:awa-otoko:20201222231122j:image(お社)

そして二つめ。磯部神社と大塚神社。(こちらも二社です。)

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二社神社の歴史

西暦200年、神功皇后が住吉の神のお告げにより、この地を通ってしらぎ攻略(朝鮮)して凱旋し、くまそ(九州南部)征服に向かい筑紫(九州)で応神天皇を無事に産んだ事にあやかり大塚神社が建てられる。

安産と平和の神である。

西暦500年頃、九州と交流のあったこの地に磯部神社が建てられる。住吉の第五、第六王子は磯部神社に合祀され、海の幸をもたらす神への祭祀が中心の神社である。此花咲くや姫ともゆかりが深く、桜、相撲、神馬(白馬)などで祭り、奉納する。

神功皇后が住吉の神のお告げにより… ということから水の神であるヴァルナの宮殿が存在した当地に立ち寄ったのでしょうか。さらに県南の海部でも凱旋パレードの様子が御神歌として残されていますから。たぶん寄ったのでしょう。(いや寄ったんだぞ。汗)

awa-otoko.hatenablog.com

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大塚神社と磯部神社はなんとなく後付け感が否めないのは気のせいかな?住吉神の第五、第六王子を祭祀している部分は着目かもしれませんね。もう情報がごった返して収集がつかなくなるのは必至。そそくさとawa-otokoが今回伝えたい内容に進みます。

で、ご鎮座の早い順から時系列で並べてルーツを想定すれば、水天宮(バルナの宮殿)→ 住吉社→ 大塚社→磯部社ってところでしょうか。

やはり伝承の発端としてバルナの存在が挙げられます。「バルナの宮殿は海の底の山、プシュパギリにあり、マラカというウミガメにのってこの地を見守っている。」この内容から気になったのが、当地に隣接した亀崎(かめさき)の地。亀だけに‼︎

くだんの神社群がある北の脇海岸:中林漁港から北上すると中林海岸、さらに淡島海岸:亀崎漁港があります。そこでこの地図写真をご覧くださいな。

f:id:awa-otoko:20201223113051j:image北の脇、中林、淡島の海岸写真

同じようにフルードMAPの写真をみると、、、

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淡島海岸 亀崎漁港の南のこんもりした岬。昔は亀の姿に見えたのかもしれない亀崎。いや、亀崎(かめさき)は、神の岬(かみさき)が訛化したものだったかもしれない。また語呂合わせか‼︎ で、紀元前元前の水位であれば亀崎の先端は海の底。どうやら亀崎の地が伝説のプシュパギリであり、マカラという海亀なのではないだろうか。この亀崎の地にバルナの宮殿が存在した…(かもしれない。)古代神の旧蹟が発見されるかもね。

バルナとは、アメノミナカヌシか、イザナギか、住吉神か、はたまた別の神かは誰も知ることがないことですがそこを突き詰める材料が出てくれればゴールは近いですがね。

はい。久しぶりにawa-otokoの妄想を爆発させてしまいました。看板の伝承だけで。ははは。ご愛嬌。このつづきはあるかもしれないし、ないかもしれない。久しぶりに書いてみたかっただけなのかも。

 

おまけ

当地は伊弉冊神が禊をした地という伝承を前述しましたが、北の脇海岸の南にはあこめ海岸が隣接します。(まぁ、 "あこめ" については言及を避けますわ。)

f:id:awa-otoko:20201222233315j:imageあこめ海岸に鎮座する竜宮神社
f:id:awa-otoko:20201222233311j:image神社に行くまでの道がめっちゃ狭いぞ‼︎

ここもねぇ、とっても気になる場所なんですよ。なんかすんごい雰囲気なんですよ。やばいわ。見ためはごろた石の普通の海岸なんですけどね。竜宮神社の由来、誰か調べてよ。

阿波志妙という郷土史

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【抄録】しょうろく
原文から要点を書きぬき。ぬきがき。特に学術文献などの内容の要点をぬき出して短くまとめた文章のこと。

 

どうも。awa-otokoです。

今回紹介する「阿波志抄」は、阿波志に記載されている内容から要点を書き抜きした文献です。でもね。これがまた面白いんですよ。特に上巻!!(阿波志抄は上中下巻あり。)ということで上巻目録から面白い項目だけピックアップしてみました。ごくごく簡単にね。(面倒だから詳しい中身には触れませんけどね。ふふふ。)

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一、伊豫二名島一身四面毎有り。粟国(阿波国大宜都比売命の事。一、天日鷲命の御事。みんな大好き大宜都比売命天日鷲命のことが記載されていますよ。


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一、菅原朝臣清公兼阿波守の事。一、安徳帝阿波の祖谷へ御安座の事。菅原云々名西郡… とか、安徳帝が何故阿波に… 拙ブログ記事にあげてますので興味がある方は読んでみてください。


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一、平判官康頼麻植郡森藤村に居城の事。一、土御門院阿波にて崩御の事。個人的には康頼が安堵した地が森藤。木屋平の小屋の内裏の地名も森遠… んー、偶然の一致なのかしら??土御門院の足取りもねぇ…調べてみたらねぇ…

 

さて以上の項目、一つ一つが踏み込んで書いてけば、どえらい(すまん。阿波弁使って。どえらい=とてもびっくりするの意)内容と容量になります。これから阿波のことを綴るブログを開設したい人はこの文献を使えばいい内容のスタートがきれますよ。たぶん。

あとね。とある人達に、とあるお願いをされたので以下の資料も出します。(あまり気が乗らないけど。)「和名類聚抄巻第七 源順撰 阿波国九郡内の説明書き」です。もちろんこれも阿波志に含まれている資料です。

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この内容を、この文献を、どうしても自分で説明したい人がいるみたいなので、この中の解釈はその人の口から語られることでしょう。(ただ、当人がこの記事をみたらの話ですけどね。)ちなみにこの阿波志抄、図書館でもネットでも閲覧可能ですので興味がある方は目を通しておいて損はないのではないでしょうか。