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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

朧夜皇子が隠したもの

阿波の伝説 阿波の神社巡り 明神、大明神、権現、大権現 那賀郡 古墳、板碑

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阿南市日開野町に鎮座する皇子神社は全県下に霊験あらたかなる神々の社として多くの修験者から厚く信仰されています。

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創立年代は不詳。祭神は大己貴命。寛保神名帳には「日開野王子権現、別当石塚村正福寺」、阿波志に「王子祠日開野に在り」と見えます。資料が少ない日開野 皇子神社でありますが、古老の口伝や古文書により以下の伝承が残されております。

遠く八百五十年前の平安時代末期に崇徳院の第三皇子 朧夜の皇子がわずかな罪に問われ、その折遠流の憂き目にあわされた。近習一名、侍女一名、白馬一頭を従え、身のまわりの家具だけ持って阿波に向けてお発ちになり、途中紀伊渚の郡加田の浦にてしばらく休まれ後に阿波に入船した。

朧夜の皇子は日開野村の当山を皇子山と名付け、鳥居と社を建て「皇子大権現」と称してその在所を日開野・七見・中村とお呼びになった。
のちに皇子の舎人はニ宮権現と称し山下に社を設けられ、所持した船は七見村に納めて船戸神社と号した。主馬は馬頭大王と号して右ニ社祠に納め、馬具等は山上の三ヶ所に納められた。これより山上付近の塚は「諸人の踏み入れ申さぬ様注連をひき置き候」とあったそうである。

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はい。阿南市日開野に入ればその存在が嫌でも目に入る王子山。当時皇子山は浅瀬に浮かぶ島だったようです。(長国の沿岸部・小島は古代海人族の直轄地の可能性が高いのですが… 今回は崇徳院の皇子 朧夜皇子伝説で進めます。)

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「王子山古墳群」の標識に沿って王子山の山裾を南に回れば遊歩道が整備されており、山頂付近の古墳群まで行くことができます。おっとその前に、、、遊歩道の手前にはニ宮権現、または馬頭大王と考えられる祠たちがあります。こちらも見逃さず確認しましょう。

遊歩道まで急傾斜な階段を登れば6、7世紀に築造された古墳時代後期の古墳が3基を確認することができます。全て円墳だそうです。2号墳は上部が開き横穴式石室であることがわかります。(この山の規模ならまだまだ古墳は存在しそうに思いますが… )

f:id:awa-otoko:20170422205013j:image(掲示板、見にくくてすまぬ。)

f:id:awa-otoko:20170422205027j:image(二号墳)

f:id:awa-otoko:20170422205050j:image(一号墳)
さて、上記の引用から考えれば古墳三基は馬具等を納めたものとも考えられるのですが真偽の程はわかりません。現在確認されている三基の古墳のうち一号墳と三号墳は未盗掘で未調査と推測しますので、古墳を調査をすれば朧夜皇子所縁の古墳であるのかどうかはっきりするのでしょうが、状況を考えれば無理でしょう。そもそも確認されている古墳は円墳ですのでもっと古い年代に造成されたものかもしれません。(個人的にはそう考えてます。:現状の調査結果を否定するものではないですが。)

朧夜の皇子は王子山に何を隠したのでしょう?こちらは古い時代より修験者の出入りが激しかったことと、紀伊国渚の加田の浦がヒントなのでしょうか。海洋ルート的に「熊野」かもしれないですね〜。 

ともかく、なかなかこのような手の入っていない古墳群を間近で見ることはありませんので、興味がある方は見学してみることをお勧めします。もしかしたら朧夜皇子が隠蔽した「何か」を見つけることができるかもしれませんよ〜。今回はちょっとはっきりしない皇子伝説でした。(≧∇≦)

古代の女神達を鎮めた川除大明神と龍王

名西郡 古墳、板碑 明神、大明神、権現、大権現 神の坐す場所 阿波の伝説 阿波の神社巡り

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f:id:awa-otoko:20170417225026j:image(字が見えにくい〜。)

川除けとは堤防のことである。川除大神宮は龍蔵堤の守り神として祀られたものである。西から流れ来た吉野川とその支流、新宮川(現在の神宮入江川)はこの付近ではほぼ直角に流路を転じ、北流していた。このため徳島城下を洪水から守るため早くから堤防が築かれたが、吉野川の洪水を正面から受け止める堤防であったため、しばし決壊し、修理を繰り返した。川除大神宮は元文五年(千七百四十年)に芝原村西沢地区の人達が堤防の安全を願い建立したものである。県内で確認されている堤防の守護神としては一番古いものである。一般に川贄(かわにえ)さんと尊称されており、庄屋の身代わりとなった龍蔵の悲しい人柱伝説を伝えている。(川除大明神 石碑より)

国府竜王団地の外れにぽつんと鎮座する川除大明神でございます。別名、川除大神宮や川贄さんとも呼ばれており、以前から大神宮の名が気になっていたので調べてみた訳ですが…

f:id:awa-otoko:20170417225047j:image(見えにくい〜。)

【龍蔵人柱伝説】

当時、幾度築いても洪水のたびに流失を繰り返す堤防の復旧について庄屋を始めとする村の世話役達が集まって相談した。相談の結果、明朝芝原から第十に通じる街道を一番に通行する者を人柱にして新宮川の神に捧げることになった。庄屋は村人のために我が身を捨てて自らが人柱になることを決意していた。庄屋は自分が人柱に立つことを家人にのみ伝えて白装束を用意させてから床についた。その話し常々庄屋から世話になっていた龍蔵が聞いてしまった。龍蔵は日頃からのご恩を返すために庄屋の代わりに自分が人柱になろうと考え、庄屋より早く街道を通行して見事人柱の役目を受けたそうである。龍蔵が人柱となって造られた堤防は洪水になってもびくともせず、村人は龍蔵にとても感謝した。村人達は堤防の上に祠を建てて龍蔵をねんごろに祀り、完成した堤防を龍蔵堤と名付けて龍蔵の義挙を深く讃えたのである。

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f:id:awa-otoko:20170417225131j:image(龍王の板碑群)

龍蔵堤こと川除大明神の祠の横には「竜王の板碑群」。板碑は七基が現存し、南無阿弥陀仏のほか建武四年(1337)の銘が刻まれています。この背景を考慮すれば、龍蔵堤を造成する遙か昔から当地に古墳群(もしくは墓地群)が存在していたのではないでしょうか。
当地一帯は「竜王」の名がつく場所であり、豊玉龍王を祭祀する八大龍王神社により付けられたとされています。その他に別宮川(吉野川)へ流れ込む神宮入江川の氾濫伝説が数多く伝えられていることから、神宮入江川を暴れ狂う水龍に例えて付けられた地名であったのではないかとも考えられるのです。

f:id:awa-otoko:20170417225239j:image(地図に昔の水流を書き足してみました。)
神宮入江川は、沼河比賣を祭祀する関の大神宮と豊玉比賣を祭祀する大神宮の二つの大神宮を中心にして流れる川でした。この大いなる二柱の女神達の神威(神宮入江川の氾濫のことね。)を鎮めるために川除大明神の他にも様々な結界や神を配置しているのがみてとれます。地図で確認すると神宮入江川(跡)の流れが急角度で曲がっていた場所にはそれぞれ神社を配置しているのが確認できるのです。

江戸時代に川除大明神として「龍蔵人柱伝説」が出来上がる以前に川除大明神と大神宮の原型は存在していたのではないでしょうか。というかその原型を利用して龍蔵堤が造成されたのではないかということです。

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f:id:awa-otoko:20170417232744j:image竜王地区の八大龍王神社)

awa-otokoは竜王地区に鎮座する八大龍王神社は古の女神達の神威を鎮めようとした女神達とはまた別の神の所縁の場所ではないかと考えています。

そして先にも記したように人柱になった龍蔵が神格化されて川除大明神とになったのではなく、川除大明神はそれ以前に存在していた可能性が高いです。(龍蔵の名前の中に龍王の「龍」が含まれているのも何か意味があるのではないかと考えています。)

豊玉比賣の神宮から流れる水流と、沼河比賣の神宮から流れる水流が合流する地点に八大龍王神社が鎮座し、鬼門封じに「龍蔵」を祭祀したされる川除大神宮が鎮座している配置。その他に付近で祭祀されている天神も調べればさらに興味深い事柄が出てくる可能性が高いです。豊玉比賣とは違う別の龍王の存在が…

ではでは、長くなりそうなので今回はここまで。また何わかったら続編書きたいと思います。(≧∇≦)

灰燼に帰した童学寺(本尊以外の伝承物はどうなった!?)

名西郡 古墳、板碑 空海の足跡 阿波の伝説

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2017年3月25日午後5時30分頃、庫裏(住居兼台所)が火元とみられる火災が発生した。本堂及び庫裏などの建物が全焼したが御本尊の木造薬師如来像は運び出されて無事だった。

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f:id:awa-otoko:20170415181650j:image(3/25 火災の様子)

はい。火災の記憶が新しい童学寺でございます。あの火災からどうなっているのか気になって状況を確認してまいりました。その前に過去記事をどうぞ。

童学寺の寺伝によれば、弘法大師ゆかりの寺として有名ですが、そもそも弘法大師が生きた時代よりさらに前に存在した寺なのだそうです。中国から仏教が伝来した時代、"律の寺"として唐招提寺と同じころ建設されたと伝わります。

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その伝承について裏書きするかの如く、寺に隣接する「石井廃寺跡」は奈良白鳳時代の様式であり、そこから出土した古瓦などの考古資料はその時代のものと判断されています。

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また、童学寺に遺存された文化財は本堂に藤原時代に製作された薬師如来像、その脇侍とされる日光菩薩像、持国天多聞天の像などが存在していたそうです。さらにはこれらの仏像よりさらに時代が遡るとされる阿弥陀如来も存在していたそうです。

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このように阿波における藤原時代の仏像の宝庫だったのが童学寺なのです。そしてこれら現存していた文化財から考えられるのは、石井廃寺が藤原時代まで続いた後、童学寺がそれらを引き継いだということなんです。 

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さて、、、皆さまがご存知の通り童学寺は火災で全焼したということなのですが、上記に記載した文化財の全てが救済されたとは報道されておりません。(本尊のみ持ち出しで救済されたそうですが… )また、火災の原因も詳しくは報道されてなくて、awa-otokoは釈然としないというか、なぜか胸中にモヤモヤが残っているのですね。(釈然としない部分は心中に隠しておきますけど。。。)

この部分を確認したくて現地に確認しに行ったのですが、本堂周辺は立ち入り禁止でロープを張られて確認することが出来ませんでした。(立ち入り禁止区域に進入して撮影するとか不謹慎なことはしてませんよ。)しかし、こんな状況でも寺の催事は行っているようでしたし、寄付の瓦なんかもあったり、大型観光バスなんか来て参拝客を運んでいるのですね。まずは復興することが先決なのでしょうが、先にすることがあるのではないのか?とか考えてしまうのは私だけなのでしょうか。

ともあれ、文化財や引き継がれたものが無事であることを祈るのみです。なんせ阿波国 白鳳時代からの宝庫なのですからね。ん〜、何だかなぁ。書いてて後味悪いわぁ。。。まだまだ書きたいけど、ここらで止めておきます。 (-_-) …。

神が去った阿波を統治した氏族

阿波の伝説 古文書 平家 武将

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はい。Facebookのブログ投稿にてちょっとだけ告知したモザイク半分の謎の書。それは阿波国古城諸将記」でございました。こちら元亀四年に記されたもので題名の通りに阿波の古城とそれを治めた城主を説明している書なんですね。

阿波国開主太玉命也 忌部主祖也 櫛明玉命也 天村雲命也(伊勢神主上神ナリ)此二神阿波麻植ニ鎮座ス 後東国ニ移住(安房国忌部社是也)其後武内宿禰領阿波云云

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前書きの前書き。これを見て後の記録を確認してくださいという重要な説明です。当書では阿波国の祖神を天太玉命とし、天村雲命・櫛明玉命の忌部神が他国へ移動してからは武内宿禰が阿波を治めたと記録しています。Facebookではここまで出しましたがモザイクを外したものを用意したので続きを解読してみましょう。

神武天皇から八代目にあたる孝元天皇の後胤、武内宿禰仁徳天皇の御代まで生き(三百十六歳)、高良大明神となられた。

もちろん人間がそんな長生きする訳はなく、武内宿禰の名を同族が世襲していったという解釈でよろしいとかと思います。

さらに武内宿禰の後胤、阿波真人広純は天智天皇の御宇の人。その十二代孫 阿波助国風は朱雀天皇の人。そして阿波助国風の子が桜間文治行直。さらに行直の十代孫には桜間外記太夫良連。良連は跡取りに恵まれなかったために甥の良遠を養子に迎える。その人が桜間助良遠。

ややこしいけどついてきて下さいね… 

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良遠の兄には阿波民部太夫成良。成良の子、成直(一説には教能)。そこからの系譜も脈々と続いて桜間助良遠の後胤が宗家となり後醍醐天皇の御宇までを記録されている。

成良の記録からは田口姓を名乗ったのは誤伝で本来は粟田姓であったと云われています。桜間の名は地名を採用したものでしょう。この成良から千波足尼との関わりを見いだしたかったのですが残念ながらこの書では関連付けすることができませんでした。

書には小笠原氏、細川氏の説明が続きますが、明らかに前書きの主軸は武内宿禰の後胤であるように感じます。当書の前書きからは武士が力をつけてくる平安時代末期までは阿波は武内宿禰の系譜を中心に統治されたようです。そして鎌倉、南北朝時代源平藤橘の系譜が入り混じって本格的に氏族同士で混迷を極めていったのではないでしょうか。

以下の頁から阿波の古城と城主の説明に移ります。前書きほどのインパクトはないですが、時折「おっ!」っと唸る内容が記載されてい箇所も含まれています。

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この頁からは各城と城主の知行、出身氏族の説明が記載されています。全体的に源氏(小笠原・三好・甲斐源氏含む)が多いのは平氏の落人狩り、監視を目的で阿波に入ってきた武将の系譜が多かったのだと考えます。やはり何かと有利だったのは源氏の血筋であり、勢力拡大に向けて系譜仮冒した武将が多かったのではなかったかと考えます。

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一宮氏は三千貫の知行。かなり飛び出してます!

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佐那河内城主は古代氏族 蘇我氏の系譜!

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終わりに。

当書には古代阿波で活躍した氏族が間違いなく含まれています。一つは一宮氏。この氏族は一般的に小笠原氏源氏の支流で説明されていますが、本来は大粟山で大宜都比売命を祭祀を継承してきた古代氏族でしょう。(粟国造粟凡直氏族に養子に入ったのが一宮氏。)

そして武内宿禰の系譜は田口氏。武内宿禰の後胤は桂浦(勝浦郡)に居城を構えていたことが有名ですが、実は大粟山 上一宮大明神は田口大明神として一時的に祭祀されていた時期もあります。また神山神領 長満寺付近は田口成良の居城でもありました。

今回テーマとして挙げた武内宿禰の系譜としての田口氏、そして以前から提唱している粟国造粟凡直・千波足尼から田口氏との繋がりを解明することで新しい見解が得られると確信しています。見通しの悪い案件ですがこれからも継続調査してみたいと思います。

阿波で相伝される宇豆売の舞

明神、大明神、権現、大権現 板野郡 神の坐す場所 阿波の伝説 阿波の神社巡り 武将

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鳴門の撫養(岡崎城)跡に鎮座する妙見神社に参拝した折、太々神楽を間近で見学することができました。今回は伝承を絡めながら紹介したいと思います。

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まずは鳴門妙見神社のご紹介から。

撫養に没した室町幕府10代将軍 足利義植が妙見尊星を勧請し社殿を造営したのが鳴門 妙見神社の起源とされています。

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その後には四宮加賀守が城を構えましたが天正十年に長曾我部元親に攻められ兵火にかかり敢えなく落城します。天正十三年には蜂須賀家政が阿波に入国し、当地に阿波九城とされる岡崎城を築きます。

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f:id:awa-otoko:20170406232727j:image(実は神社裏の石垣は築城時の石垣なのです。)

城番に益田内膳を置き守らせていましたが、寛永十五年、一国一城令により廃城となりました。後に城址に神社を鎮座させたのが現在の妙見神社なのです。

 

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さて、たまたま参拝した日が偶然にも太々神楽開催日でして、巫女さんにも「是非お入りください。」と誘われましたので間近で太々神楽を見学させていただいたのでございます。

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さて神楽、太々神楽とは何なんでしょう?
太々神楽は阿波の代表的な神楽であり、二月から四月にかけて徳島県東部を中心として多くの神社の春祭りに奉納されているそうです。

神楽
一般に、「かぐら」の語源は「神座」(かむくら・かみくら)が転じたとされる。神座は「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったとされる。古事記日本書紀の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。(Wikipediaより)

太々神楽は本来、伊勢神宮で行われた神楽をいい、神社の御師(おんし)たちが参拝者に代わって神楽を奏した「代神楽」の意味であると言われています。近世には御師たちが地方をまわって伊勢神宮のお祓いとし、御幣や御剣を振り悪魔退散・家内安全を祈願した祓の舞を「太神楽」と呼ばれました。徳島県下に伝承される太々神楽はこれらが起源になっているとされています。

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まず神前に大きな榊山を立てて、多くの金、銀の紙を榊の枝に結び、木綿(ゆう)、紙垂(しで)を懸けて、前に五色の御幣を立てます。神社総代や当屋が参列し、宮司大祓詞を奉上したあとに巫女が奏楽に合わせて榊山のまわりを舞ながら、銅(かね)拍子をすり合わせます。

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最初の舞は「宇豆売(うずめ)の舞」で、オカメの仮面をつけて宇豆売命に扮した巫女が大麻(おおぬさ)や鈴を鳴らして榊山を巡ります。この舞で神霊の発動を導きだすとされ、宮司祝詞をあげて祈念するのであります。

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次に「久米(くめ)舞」という御剣を曲芸風に振り回し、斬りはらう所作を繰り返し榊山を回る悪魔祓いの意味が強い舞が奉じられます。この「久米舞」では、実際に剣の刃を握って舞う「つかふり」という所作が存在するそうです。

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驚くことにこの所作を含めた神楽を奉仕できる巫女は徳島市内の宮崎、藤川の二家のみとされ、代々母娘伝承により貴重な神事芸能を守っています。太々神楽を奉納する神社が徳島県東部に集中しているのは限定された奉仕者との関係があるようです。

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残念ながら今回、久米舞は確認することができませでしたが、まだ春祭りが開催され太々神楽が奉納される神社があるかもしれません。そこで運が良ければ「久米舞」、「つかふり」が見学できるかもしれませんね。

という訳で、本来は伊勢神宮発祥とされている太々神楽ですが、阿波にこのような限定された神楽相伝家があることをみれば一概には伊勢神宮発祥とは言えなくなるのではないでしょうか。そもそも伊勢神宮の外宮は阿波から行ってますし… ね。(〃ω〃)