awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

安徳天皇を追いかけた女たち

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コロナウイルス感染拡大による不要不急の外出自粛要請が全国的に発令されていましたが如何お過ごしでしょうか。今回は安徳帝と関わりがある女たちにスポットをあててみました。(というか書きかけデータをずっと残していたため今回消化するのが目的。)それでは進めます。

【❶.建礼門院徳子】

まずは建礼門院ととりまきの女達。(建礼門院徳子の詳しいことはwikiで見てくださいな。)平徳子 - Wikipedia 

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寿永四年、屋島の戦いで脆くも敗れた宗盛以下の平家一門は西国さして落ち延び、勢力を盛り返そうとしましたが、長門国壇ノ浦の戦いにとどめをさされ幼帝安徳天皇二位尼の懐中に抱かれて御剣と共に入水せられました。しかし入水した安徳天皇は替え玉であり、本物の安徳天皇は忌部大宮司家 麻植氏の手引きにより阿波国の忌部郷に落ち延びていたのであります。(諸説あり。)

awa-otoko.hatenablog.com

建礼門院徳子も二位尼安徳帝を追って入水した(かのようにみせた)けれども、源氏の兵に舟にあげられて命をとりとめました。そして京都で出家して余生を過ごしたとありますが、実は阿波の三野町大字太刀野 吉野川段丘沿いの竹藪に建礼門院の墓と伝わる二尺程の五輪塔が存在します。この場所は以前から確認していましたが国道から近いので行く気になったらいつでも行けると思って安定の行かずじまい。最近国道の側に駐車してDASHで確認してきたのでした。

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ちょっと見にくいけど建礼門院五輪塔の看板。国道沿いに大きな看板があるのでわかりやすいです。
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解説板より
■伝承「建礼門院五輪塔」の由緒 

建礼門院とは、平清盛の次女「平徳子」の称号。徳子は、承安2年(1172年)高倉天皇中宮になり、治承2年(1178年)、後の安徳天皇を生み、寿永2年(1183年)7月の平家都落ちには幼帝安徳天皇とともに同行、元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦(下関市)の海戦で入水、助けられて帰京の後は、吉田野津御所などを経て、大原寂光院左京区大原草生町)に移って仏に仕え、建保元年(1213年)、12月13日、享年60歳を以てその生涯を全うしたこととなっている。

しかしながら、壇ノ浦(下関市)の源氏と平氏の海戦で、御生母建礼門院徳子とともに入水したと伝承される安徳天皇は、替え玉であって、実の安徳天皇屋島の合戦に敗れて瀬戸内海を西走する一行から離れ、平国盛(教経)に伴われて海上を東に向かい、香川県の引田に上陸して讃岐山脈を西に向かい三野町琴南町の県境「大川山(1042m)」を経て、三野町の馬瓶集落に下り、河内谷川沿いの川又集落を経て吉野川の北岸、ここ三野町太刀野に至り、さらに吉野川を南岸に渡り、二手に分かれて三加茂町の鍛治屋敷から加茂谷をさかのぼったり、井川町の井内容を遡上したりして四国山脈に分け入り、寒峰の鞍部を通って、秘境祖谷地方の大枝名に落ち延びたといわれる。

建礼門院徳子とて、幼帝安徳天皇を案じ、京にはいたたまれず、替え玉を残し、女官とともに安徳天皇の後を追ってここ三野町太刀野に至ったが、吉野川の洪水に渡川を阻まれているうち不幸にもご逝去、この地に葬られる。一方、安徳天皇も秘境祖谷の地において無念にも崩御され、火葬に付されたのである。

平国盛(教経)らは、安徳天皇の御生母建礼門院徳子が眠っておられるお近くに帝の分霊を御祀りするべくここ三野町太刀野の地に到着、近くの松尾神社を仮の御奉安所とし、後に、背後の高台にささやかな陵(みささぎ)を築造安置して、ここに安徳天皇及び御生母の御安寧するところとなったと伝承され、村民心底から厚く御霊を崇拝し今日までの800余年間ひそやかに、しかし、我が子を思う慈母の証として守護信奉し至ったのである。

平成の今日、我が国の平家琵琶演奏第一人者上原まり氏も参拝されるなど平家落人伝説を思慕する大方の要望に応えるべく太刀野老人クラブのボランティアによって参道及び周辺を整備するとともに案内板及び「由緒」を建之し、以て安徳帝及び建礼門院の御平安を祈念し奉る次第である。

平成15年(2003年)錦秋 三野町三野町教育委員会

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この五輪塔吉野川の孤島であった「沖の森」から移したと云われており、古文書によれば屋島の戦いに敗れた平家の一部は「讃岐国白鳥を経て、阿讃国境を峰伝いに越え、大山に出で…」とあり、太刀野山から吉野川を渡り祖谷から剣山に至ったと考えられています。

また解説板にもありますが、元暦二年卯月に安徳帝を案じて建礼門院三野町太刀野の舟戸までたどり着きましたが、吉野川の大水で阻まれて渡ることができずに太刀野の通称 泉の佐古に庵を結んで一生を終えたと伝えられています。(朱記にある地名より当地が如何に吉野川に接近した場所であったのかが推測できます。そして大水はずっと大水のままではないのでそこが怪しい。)

余談ですが、昭和のはじめに吉野川南岸の三庄町で笄(こうがい:櫛(くし)みたいなもん。)と思われる純金製の金具に建礼門院と彫られたものを畑の中で拾った記録が残ります。拾った笄は土地の祠に祀っていましたが、いつの間にか盗まれてしまったそうです。

建礼門院吉野川を渡れずとのことでしたが、建礼門院の命を受けた阿波の局他四名の女官達に錦の着物を携えさせ安徳帝の後を追わせたそう。厳しい山越えを断念した建礼門院は自らの笄を追手に携えさせ我が子に安否の印を渡すことを委ねたのかもしれませんね。(当時の便宜上なのか建礼門院吉野川を渡っていないことをやたらと強調しているのが引っかかります。)

【❷.朧の御方】

さて、ここから大太子神社の伝承へ移行します。大太子神社は貞光町から剣山方面へ進み、一宇を経由して途中木屋平方面へ向かう山中に鎮座している神社です。ここにも大きな看板が掲示されているので気をつけていれば通り過ぎてしまうということはないでしょう。

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大田石の伝承では文治元年、建礼門院徳子と妹の朧の御方(注: 朧の御方では情報がありません。廊御方が同人の可能性がありますが、ここは伝承通りに朧の御方で進めます。)は長門ノ国の壇ノ浦で身を投げたが源氏の船に引き上げられ命を存え、先に逃れていた安徳天皇の安否を確認すべく、朧の御方はお付きの女官と共に祖谷を目指しました。しかし当地で精魂尽き果て、和歌を一首朗詠して石に錦を敷いてその上で自害したとされています。(三野町建礼門院の墓での由来と多少異なり、建礼門院の妹である朧の御方が安徳天皇の探索にあたったとされています。)

ja.wikipedia.org

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朧の御方とお付きの女官達は、「 風とどけ 想いを帝に逢田意思(おうたいし)果つる名残りは 都恋しそ 」の辞世の句を詠み、安徳天皇に逢うたと思い込み自害をして果てたとされているのですが、、、実は安徳天皇と再会したという伝承も同じく残されているのです。再会した石「逢うた石」が近世まで存在していて、これが当社「王太子(おうたいし)」の由来となっているのですから。

この内容からawa-otokoが推測するに三野町から大太子神社まではゆっくり歩いても三日から五日の間で到達する距離であり、馬を使えばさらに早く到達することが可能。時期が冬季でなければ積雪量に問題がない場所です。よって、木屋平(もしくは祖谷)に潜伏していた安徳天皇(の側近)と建礼門院(の側近)が事前に示し合せて当地で落ち合い、気持ちを句にして伝えたものではないかと考えるのです(確証はないですが建礼門院当人が当地に訪ねたことも可能性としてアリだと思います。そもそも建礼門院が京から阿波に降ったとして、その行程を考えれば三野町から貞光一宇までは容易な行程です。)

さて、里人は朧の御方のほか四名の女官を剣山末社 太田石五社大明神の祭人としておりおります。また、大田石神社本殿にては天照大神ほか、忌部祖神である天太玉命を祭祀しています。これを建礼門院徳子の繋がりから深く掘り下げて考えれば、あのお方の関与を想像するのは難しいことではございません。

そのお方とは、、、

阿波内侍(あわのないし)。

【❸.阿波内侍】

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阿波内侍は冒頭で紹介した建礼門院徳子に仕えた女官であり、のちに崇徳院の妃となるこの女性は大きな秘密を抱えて出生したのでした。

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阿波ノ内侍は藤原信西の女なれども母は阿波忌部大祭主麻植正光の娘たるに阿波内侍と云天皇讃州白峯にて崩御の後よつて天皇の志を汲んてだいに憤り法体して天円法師の弟子となり内心には天皇の恨有悪人を蹴殺し玉へと、天竜八部を始め日本国中の霊神に祈りけれども表は天皇菩提の為と被露しければ当今の帝□之一宇ノ堂を創立して内侍尼を置奉る其後崇徳院の神霊内裏に現れ御身に仇をなせし人々皆恐怖し遂に悪死しければ天皇の罪なき事は顕はれ宇治禅閣忠実公の所為なりと世には云触らしけるを内侍尼聞賜ひ大に喜ひ我祷る所の願望被に勝ちたりと其堂を願勝寺と号す

阿波内侍は母方が麻植氏の血筋であったことを含めて数奇な運命に翻弄された女性でありました。崇徳院の無念を晴らすべく表向きは祈りとし、内心は崇徳院の恨みある人達への呪詛を送ることを生きがいとしていたことがみて取れます。阿波内侍が名付けた願勝寺の名の由来もご覧の通りですから。(上記引用 緑文字を参照)

と、いうことで源平合戦に敗れた平家一門と最後の頼みであった安徳天皇は阿波忌部大宮司家麻植氏の手引きで阿波国忌部郷に匿われ、その安徳天皇を追った平家の女たちもまた忌部大宮司家との不思議な縁の繋がりから導かれた因縁であったと言わざるをえません。もしかすると、この一世一代の大博打 安徳天皇替え玉事件はこの女たちが裏で暗躍したのではないか...

 

行き過ぎた予想はこれぐらいしておきましょうか。やっと放置していた書きかけデータも文にし終わったので今回はここでキーボードを打つのを止めます。また気が向いたら投稿します。ではまた。(о´∀`о)

リベンジ!・ 笑子岩を間近に見てきたぞ!?

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笑子岩(えびすいわ)

一名人面嶽とも言ふ。字谷に在り其の状人の笑ふが如し傳へ言ふ。上古阿婆神が其の神裔たる國造及び土人の爲に高根津の神像を造り給ひし物故に其の画は下分上山村栗生野なる國造本館の正面と相對し實に希なる皇國無比の大神像なり。其の山に斯の神跡あるを以て昔は高彦根山と言ひしを後世畧して高根山と言ふに至れり。

こんにちは。awa-otokoです。久しぶりに高根山にフィールドワークにでかけておりましたのでご報告したいと思います。(題名で内容はばればれだが!!)

過去にも高根山の笑子岩こと高彦根神の像を確認しようとチャレンジしたのですが叶わずリベンジを誓い撤退しました。(詳しくは下の過去記事を読んでネ!)

awa-otoko.hatenablog.com

今回は正確に神像の位置をアタマに入れて別の場所からアタックしました。(あ〜、入口の写真を掲載したいけど、また暇で暇で仕方ないおっさん連中が調子にのって行きそうだからやめとこう。。。)

ということで山に入ってawa-otokoはある事に気づきました。それは… 数々の岩戸(磐座)。

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(これ、祠に見えますが自然石。)

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(何か埋まってるぞ〜。)

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(これもまん中が割れてる。: 女陰を象ってる?)

他にも見つけましたが、割れ目の延長線上に… 神像がある。のです。(あ、件の場所に行きつくまでのヒントを出しちゃった。(ノ≧ڡ≦)てへぺろ

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こんな傾斜や…
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こんな立石も横目にして…

やっとたどり着いた場所は神像の真下。

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残念ながら木々と手前の岩が邪魔して見えにくく、角度も自分で調整して決まった位置で見ないと神像は見えないです。

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見えにくいよねー。

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もっと見にくいよねー。遠いわ。(実際は近いんだぜ。)では角度を変えてアップで。
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これならどうだ。まるで心◯写真じゃないか…

ということで真下に到達しても見にくいです。現地に行っても初見の人はわからないでしょう。

でも当地に到達して神像をはっきり見れる場所を確認できました。向かって左側の大岩を登り、顔部分の真下に行くのです。ピンクテープもあったので登って神の顔をまじまじと確認した人もいるはず。(落ちたら無事では済まされない場所なので自己責任で。)

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(こんな傾斜だかんな。転げ落ちたら ちに ますよ。)

 

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はい。せっかく笑子岩の真下に到達したのに、望遠で撮影している笑子岩の写真(しかもネットから拝借したもの)がいちばん見やすいというオチでした。。+.゚ヽ(o´∀`)ノ゚.+。イェーイ

 

さて、ぐだぐだ面白おかしく周辺の説明してきましたがそろそろ締めましょうかね。

彦根神の神裔である岩肩彦が刻んだという笑子岩。さすがに真下で見るとでけぇ!しかもこんな高さのある場所かよ!という印象。人的に岩を刻んでいるのかどうかは間近に見てみないと判断できず、今回はそれを確認できなかったのが心残り。しかし確信したこともあります。それは、この笑子岩を導く数々の磐座が規則性をもって存在していること。遥拝所でもある粟国造本館からみていちばん美しく見えるようにつくられていること。(本当は長満寺南側の高台からがよく見えるのは秘密… )

 

さらにawa-otokoが気づきかけていること…

笑子岩は国造本館を通り越して伊豫の大三島を見ているのではないかということ…

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ではまた。(^ ^)

下浦山王大権現に大宜都比売命の影

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どうも。awa-otokoです。ちょっと久しぶりにリークしちゃおうかなと思って投稿です。

さて、題名にある大宜都比売命の御神名を確認してすぐに閲覧した方も多いのではないでしょうか。昨年から上一宮大粟神社宮司の精力的な活動と阿部但馬の残した正統記、宮司家口伝による神山町に於ける大宜都比売命神話に心を躍らせる方は少なくないはず。

awa-otoko.hatenablog.com

awa-otoko.hatenablog.com

awa-otokoもその一人で神山町以外の大宜都比売命を密かに探求していたのでした。その甲斐あってか埋もれていた大宜都比売命の一端を見つけましたので報告したいと思います。

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場所は名西郡石井町下浦。

山路を通過すると必ず目に入ってくる木製の山王鳥居が建つ日吉神社。ちょっと鳥居の向きに違和感があるので当地に赴けばすぐにわかるはずです。(写真の鳥居さんではないです。木製鳥居は撮影し忘れたのだ。)

それでは本題へ。

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大字下浦に在り 祭神大山咋命にして大宜都比売命を合祀す 或は曰ふ 永禄元亀乱後一宮成助が一族此の村に住居し合祀なせしが主神山王大権現は最古の社にして棟札の古き者(物)は文字磨滅して更に辨ずべからず 少しく字形の存するものを水に浸せは文禄五壬申年十一月二十五の文字幽かに見えたり

以上の文から一宮成助一族が当地に移住した際に一宮大明神を移遷したのでしょうか。しかも記録では最古の山王大権現とのこと。棟札札には文禄年間(1593年〜1596年)の銘が記されているらしいです。(棟札の記録が中世やないかーぃ。というツッコミはナシw たぶん山王大権現はもっとルーツが古いのちゃう?)

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さて、気になるのは大宜都比売命の御神名のほか、上に記した通りに最古の山王大権現ということ。

祭神の大山咋命については、名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、農耕(治水)を司る神なのだそう。(引用:wikipedia

したがって古に当地を統べた有力者を祭祀したものと推測できます。(もう一つの推測として大山祇神大山咋命に変化してしまったこともアタマの片隅に入れておかねばなるまい。)

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f:id:awa-otoko:20200123225016j:image(下浦八坂神社)
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また、当地は神山町とを隔てる山麓の古墳地帯で下浦山王大権現(日吉神社)の真東には八坂神社が鎮座し、素戔雄尊、奇稲田姫命大己貴命を祭祀します。昔は一里余り離れた若宮の地にあったとのこと。(ますます大山祇くさくなってきた?!)

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実は以前から着目していたのが石井町下浦から鴨島町上浦エリアに居住している古代氏族の末裔達。

awa-otoko.hatenablog.com

下浦から上浦の東西。北側の諏訪(多祁御奈刀弥神社が鎮座)の範囲では天羽・有持、もちろん阿部氏も多く居住しており、当地よりはさまざまな出土物が発見されています。これより古は板野郡田上郷に匹敵するくらい規模が大きい、しかも古代氏族の裔達の集落が存在したことが予測できるのではないでしょうか。

f:id:awa-otoko:20200123232225j:image(山王大権現鳥居横にある謎の石柱。何て刻んでいるのか読めないんだわ。)

また地名の下浦・上浦から推測すれば、山麓を流れる飯尾川の水位も古代では高く、現在の天石門別八倉比賣神社の山麓まで流れていたのではないかということ。これが何を意味するかというと、鮎喰川に合流して入田町・一宮町へ。さらには大宜都比売命のお膝元である神山神領へは船を利用すれば移動可能なので、当地には出入りが頻繁にあったことが推測できます。

awa-otoko.hatenablog.com

このように大宜都比売命の裔達である粟国造粟凡直の居住地域に、一宮大宮司家(一宮成助一族)が地母神 大宜都比売命(一宮大明神)を勧請しても大きなと衝突が発生するとは考えられません。

ということで今回の結論。

神山町から大宜都比売命祭祀の移動経路については神山から阿波町吉野川北岸を東進して鳴門大毛島までのルートしか見出せていませんでしたが、神山町から一宮町鮎喰川から国府町、気延山の山裾を移動して拡大していったルートも考えられるということです。(石井町中王子神社御神体阿波国造墓碑ですからね。やはり粟国造粟凡直一族レベルでの活動が顕著。)

awa-otoko.hatenablog.com

そして今回の下浦山王大権現 日吉神社付近は古から大宜都比売命・粟国造粟凡直一族の郷が存在し、この縁から一宮成助一族が居住したのではないかということです。

あ、、リークっていうほど大した内容ではなかったですね。ま、何かの参考になればいいかなとあげさせ貰いました。あとあといろんな記録から繋がることもあるので。

ということで今回はこれにてお終い。ではでは。

2020年あけおめ・ことよろ☆

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

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晦日から新年明けについてはSNSからいろいろとリアルタイムで上げようとか考えていたのですが、メインブログで殆ど活動をしていない状態を思い出してこちらから報告。(・∀・)

さて、awa-otokoは毎年恒例になった上一宮大粟神社のご祈祷で新年を明けました。

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いやぁホント動画で魅(観)せてあげたいくらい素晴らしいご祈祷だったのですよ。 ま・ぢ・で 。

awa-otokoは専門家ではないのでうまく説明できないですが、祝詞の奏上途中に宮司の声色が三回は変化して

「え‼︎ Σ(゚д゚lll)まぢで神降ろししてるんじゃね ⁈ ∑(゚Д゚) 」

と祈祷を受けているこちらが心配になるくらい集中した祈祷を行なっていただきました。(そのほかにも今年は今までになかった祝詞も含まれていた気がします。: こんど直接宮司に聞いてみよ。

そして興奮覚めやらずの中で写真撮影したらこれ。↓↓↓

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別に慌てて撮影したわけではないのですけどね。。新しく上一宮大粟神社で言挙げされた天石門別豊玉比賣の祠を撮影したら…

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ちょうど大晦日に天石門別豊玉比賣神社の御朱印を記帳いただいたので挨拶代わりに帰りに撮影したら、「こんなんでましたけど。」(← わかる人にはわかる古さ… )みたいな。新年早々に豊玉姫のご神気に触れたということでawa-otokoは都合よく受け止めています。

あ、そうそう。上一宮大粟神社参拝をあとにして、ご縁が深い天石門別八倉比賣神社にも参拝したのですよ。(・∀・)

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おみくじをひくのを忘れていたので、おみくじは天石門別八倉比賣神社で。何と大吉。(新年明けのおみくじで大吉引いたのは10年ぶりくらい? ここのおみくじは結構な回数で凶がでるのだ。笑笑笑)

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「清く 明く 直く 正しく」「運勢益々発展し末永く繁栄する うぬぼれや悪行をかたく戒めて正直のまごころを汚さぬよう心掛けることである」

やって。幸先いいわぁ〜。(о´∀`о)

ということで、今年こそブログを頑張ってみようかな。などと心変わりするのにちょっとだけ考えてみるawa-otokoであります。

それでは新年早々何も得られない報告にお付き合いいただきました皆様に幸がございますように。今年もどうぞよろしくお願いいたします。(ノ≧ڡ≦)

大宜都比売命とその伴神にまつわる柄杓の秘密

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お久しゅうございます。awa-otokoです。ブログの更新は滞っておりましたがいろいろ調べてはおりました。

あ、そうそう。ブログ投稿をしていない期間にInstagramを始めたんです。最近はInstagramの投稿に注力している感じですね。(よかったら見てやって下さい。)

と、そんな近況はどうでもいいと思うので早速テーマについて進めましょう。さて、わたくしawa-otokoは発見してしまいました。(発見というより無理矢理落とし込んだという方が納得いく方が多かったりして。。。)

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前回投稿した上一宮大粟神社のA宮司さまが発信する目新しい情報から、個人的にいろいろ整合性が合わなくなった部分も出てきたので再度フィールドワークを再開していました。

f:id:awa-otoko:20191109220723j:image(野間妙見宮)
f:id:awa-otoko:20191109220714j:image(滝宮:天石門別豊玉比賣命祭祀)
f:id:awa-otoko:20191109220726j:image(粟神社: 大物主神、葦稲葉神祭祀)
f:id:awa-otoko:20191109220709j:image(葛倉宮:元えびす・大宜都比売命伴神の長 葛倉の神祭祀)
f:id:awa-otoko:20191109220717j:image(滝宮の奥)

まぁいろいろ周りましたわ。そして発見したのがこれ。↓↓↓

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わからんでしょ。(笑)

マップ上に不要な表示も含まれていますがそれは勘弁。(消し方がわからんかった。)とりあえず水色の勾玉みたいなやつを縦にしたようなマークに注目して下さい。因みに写真右側のコットンフィールド表示下のマークの位置はawa-otokoが調べている白桃妙見宮推定地です。意味なくマーキングしている訳ではないので悪しからず。(でも結構位置は重要なんですわ。)

 

ではでは進めまーす。

 

さっきの写真ではわからんのが当たり前。ということで判り易くしたのがこれ。↓↓↓

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何に見えます?

awa-otokoは北斗七星に見えるのです。いや絶対に北斗七星だろ⁈ ということで北斗七星こと柄杓を象る位置は大宜都比売命が降臨した際に付き従っていた伴神の宮が鎮座している位置となります。

さて、北斗七星から思い当たるのは妙見信仰ですがawa-otokoは妙見信仰については詳しくないのでネットから判り易い説明を引用させて頂きました。(ま、参考程度に見て。)

妙見信仰とは北極星または北斗七星を神格化した尊星王、北辰菩薩、北辰尊星妙見菩薩に対する信仰を指す。古代中国において北辰信仰は紀元前二千数百年前の「史記」にはすでに記録されており、七夕祭りのルーツである牽牛織女けんぎゅうしょくじょ伝説は、牧畜に携わる漢人たちの星辰信仰から渡来したといわれている。わが国の妙見信仰は複雑多岐にわたり、さまざまな信仰形態を持っているが特に密教の流れをくむ仏教や、山岳信仰との繋がりが深いといわれている。妙見信仰が日本に初めて伝わったのは六世紀ごろといわれ、インドで発祥した菩薩信仰と中国由来の北辰信仰が習合し、朝鮮半島を経由して伝播されたといわれている。

昔に大宜都比売命関連でも書きましたが阿波の国魂神 大宜都比売命の裔とされる粟飯原氏。中世では千葉(千波)氏として活躍をしていました。その千葉氏が信仰していたのも妙見信仰なのは有名ですよね。その名残りで神山町域で妙見神社が多い理由と(勝手に)考えていました。

偶然か必然か、古代からの粟神社・上一宮大粟神社を柄杓の中に入れて象った大宜都比売命の伴神の宮。そしてこのタイミングで上一宮大粟神社 A宮司さまの始祖であらせられます、阿閉御祖神の御神宝である柄杓も発見されたという奇跡?! 大宜都比売命にまつわる柄杓の秘密とは?!

ということでこれにてお終い。

大宜都比売命にまつわる北斗七星・柄杓の秘密については続報を待て!そして以降は大宜都比売命も祭祀したとされる原初の粟神 大物主神、その他上角八幡神社の浦島信仰もさらに追ってみたいと思います。

ではまた!o(・x・)/ ジュワッ