awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

貞光墓は誰の墓⁈

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貞光の地名に就て即ち「貞光は異本阿波志曰太田貞光殿とあり又阿波志曰或曰藤原貞光嘗居此、因名ともに人の名になしたれどいかがあらむ嘉祥年間宣命の寪に定満とあり又慶長八年の記を寪したるには定光とあり全く人の名と思れぬ處あり」と、併し異本阿波志には太田文貞光殿とあり。太田文とは那賀郡和食村蛭子神社所蔵元亀四年の文書を指せるなり。而して貞光殿とある貞光は寧ろ地名をとりたるものと認めらる。然れども今貞光に貞光の墓と稱せらるるものあるを見れば阿波志の記する處適中せるものならん。

はい。貞光という地名の起りについて記されている一文を古書より抜粋しております。内容は今風?に訳せば、、、

貞光の地名って異本阿波志では太田文貞光殿って書いてるけど、文書のことじゃなく藤原貞光じゃね⁈ でもな〜、人名からは採用してない気がする。あ〜、貞光村に「貞光の墓」ってのが昔からあるじゃん。やっぱ地名の貞光って人名から採用してるんじゃね????

てな、感じですかね。

書籍からなのか人名なのかを明言してないところから昔から真相はわからないんでしょうね。

で、貞光の地名人名由来説についてはその他にも様々な貞光説がありますが、上記の引用文には記載されていない「◯◯貞光」なる人物が存在しました。

 

それは…

 

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碓井(臼井)貞光(うすいさだみつ)

碓井貞光 - Wikipedia

酒呑童子を退治した源頼光の四天王の一人。坂田金時をスカウトしたということでも有名ですね。

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その碓井貞光については、貞光町の臼井家は碓井貞光との繋がりが口伝として残っていたようで、その昔にわざわざ相模国まで調査に赴いたようです。

その昔、阿波臼井家が碓井貞光との関係を調べに相模国へ赴いた時、相模国碓井家は「当家先祖は遥かな昔、阿波国より来たと教えられている。」と答えた。その繋がりにいたく感激した臼井氏ら調査団は碓井貞光の分霊を阿波国に持ち戻り、それより毎年欠かさず祭祀を執り行っているとのことである。

このような臼井家の伝承をさらに掘り下げてみても面白いのですが、ちょっと個人的には 碓井貞光の説は … の部分がございまして。(じゃあなぜ例に挙げた?とツッコミが入りそうですが… 苦笑)

で、awa-otokoが調査している「◯◯貞光」の線上にはご存知の忌部大宮司家正統 麻植定光(おえのさだみつ)がございます。

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「麻植定光木綿麻山神社ト号ス天児屋根命児宮… 」の記録が残る麻植定光ですね。因みに忌部系図では四十三代目として記録されています。そこで下記の資料をご覧いただきたい。

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貞光墓:町の中部字辻十王堂にあり、石製の小祠を置き俗に臼井貞光を祀ると、然れども其實藤原貞光或は麻植貞光を祀れるものならん、美馬郡誌に貞光の墓は無銘の五輪塔なりと記せども今在らず。

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(麻植定光を祀るとされる端四国八十八 十王堂)

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(十王堂裏の貞光の墓とされる小祠)

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(個人的にはお堂の真後ろにあるこの祠と推定)

このように麻植定光の墓は端四国八十八の九番 十王堂の裏の祠に祀らていると伝わります。やはりこちらも臼井、藤原、麻植の貞光達の古跡が混同して伝承されており、確かな答えについては明言はされていません。

やっぱりいろいろ調べてみても、地名の貞光とは人名からの由来なのか、また十王堂裏の墓はどの貞光の墓なのか。謎のままなんですね。

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という訳で、なぜわからなくなったかの理由を推測してみます。

まず中世での長曾我部元親による侵攻での破壊。そして復興後の蜂須賀家の裏工作。そしていちばん感じられるのが明治〜昭和にかけて限られた範囲内で住宅が密集した結果、周囲の景観が全く確認できなくなってしまったことですね。東西ミサキや神子塚(朝日は現存、夕日は不明)などの位置関係は貞光町内を歩いているだけでは全くわかりません。

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過去記事やフェイスブックでも書きましたが、本来貞光村は東西にわけて同じような古跡が存在していました。これから考えれば麻植定光、碓井貞光の墓も各々存在していた可能性も…(これは勝手な私感。)

 

最後に。

awa-otoko的には麻植定光の名が貞光町の由来であり、十王堂の祠付近に五輪塔も存在したと考えています。今回いろいろ古文書から古跡の位置、伝承を下調べしてから貞光町で実地調査しましたが、(上記の理由から)なかなか掴めませんでした。また新たな対策を考えてから再度リベンジしてみようと思っています。(>_<)

端山は母山の義なり(その弐)

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はい〜。前回から端山付近について綴っております。続きでございます。

その前にトップの地図写真、アバウトな作りではありますが、なかなかよく見ると面白いのです。陵の位置が描いてあるだけではございません。まぁこの件は後ほど。

それでは本題を進めてまいりましょう!

f:id:awa-otoko:20171020084531j:image(絹織窟付近)

f:id:awa-otoko:20171020084727j:image(吉良山 御魂處:天日鷲命の后の御陵と伝わる)

絹織岩屋 此處に廣き岩屋あり尊機を織始め賜ふ所なり。當村三里四方を外曲輪として夫より三重に内曲輪の蹟あり。其後忌部大神宮と奉崇稱四國當社の神領也日本神楽の初は當社なり。東端山西端山一宇山穴吹山貞光に今以て社家神主楽人之子孫數十家あり。

吉良山上の絹織窟の中で天日鷲命は機織りをしたと伝わります。その吉良山を中心に三重の内曲輪、外曲輪の形跡がみられる忌部大神宮は四国の一宮として祭祀されていました。そもそも忌部氏は神の祭祀に特化した一族である伝承の通り、東西端山(忌部郷)に居住した忌部大神宮の氏人は神主、神楽を奉じていた人々でありました。

f:id:awa-otoko:20171020083848j:image(忌部三木氏発祥の地と考えられる三木栃からの眺望)

f:id:awa-otoko:20171019231206j:image(三木栃堂)

尊當村にて麻を植初賜ふ、夫より國々に麻を植布初む、右五カ村は社内にて今以て右村に末社數多あり、右麻を植させ賜ふ故祭體には麻を奉る。其節は今の三好郡は美馬郡と云ふ、其後美馬郡を三好郡と云ふ。麻植郡半分を美馬郡と改、三好郡なる麻を捧け奉るにより麻を植と書麻植と唱ふ。馬を美々しく飾り神馬を上に依り美馬と書て美馬郡と唱ふ。

天日鷲命は当地より麻を植え賜り、他の地域にも麻を植えることを勧めてきました。三好郡の領域は本来は美馬郡、さらに美馬郡麻植郡を半分に分けたものでした。この美馬郡という地名は天日鷲命が御馬に乗って当地に降臨したことを由来とする美称と考えられていました。しかし、天日鷲命伝承からは切り離しできない麻に関係がある美称だったのです。

f:id:awa-otoko:20171019234025j:image(宮平の額(楽)堂 :天日鷲命が楽を奉じし故の地)

豫州荢麻と書馬郡と唱ふ、四國中惣体郡村に右の古言多し。其節里分は大形惣海なり。今以て右五カ村惣名宇荢名地利と謂は此謂れなり。然處昔時數度の兵亂に神領を滅して三好長治には漸く二三カ村神領ある處、長治漸く横領して夫より神領なしとなり、自然と忌部破崩に及び候故社家神主楽人も百姓と成る。右吉良の御處を吉野と唱へかへし故川つらを吉野川と其後書替。

その昔、伊豫の郡名として存在していた宇摩(うま)郡は荢麻郡と書かれていたそうです。荢麻(うま:からむし)とは麻荢の意味で、これは麻の繊維を原料とした糸のことをいいます。

美馬(みま)」は、実のところ「美荢麻(みうま)」だったのではないかということなのです。

意訳すれば麻糸をつくる美しい郡というところでしょうか。(そのまんまww)まさに天日鷲命が降臨し、麻を植え、麻荢で機織りをした忌部郷にぴったりの地名ですよね。

宇摩郡 - Wikipedia

カラムシ - Wikipedia

f:id:awa-otoko:20171020083256j:image(友内神社)

f:id:awa-otoko:20171020083605j:image(友内山登山口にある天日鷲命像?)

このように神の祭祀と麻で繁栄した忌部大神宮(天日鷲命)の領域は、残念なことに中世の度重なる戦乱によって破壊されていきました。残っていた忌部氏人の村も三好長治によって神領を取りあげられ、遂に忌部大神宮の社地は無くってしまったそうです。その時、奉じるものが無くなった氏人達は仕方なく百姓となり、端山の忌部氏伝承は衰退していったのです。

 f:id:awa-otoko:20171020103403j:image(友内山道にある樹木)

両端山往古は貞光村也文禄中より貞光村東端山西端山三カ村に相分れ神代よりの名所なり、然所昔時忌部沽却し中古己来の名所記に見えず云々。又貞光川は木綿麻川と称す。忌部神社正蹟補考には最初友内山上にありたるならんと言へり、蓋し友内山上西森東森、日名祇の岩屋等忌部に關する遺跡伝説多きを以てなり。

神領を強奪された忌部大神宮は衰退の一途を辿り、さらに阿波に入国した蜂須賀家が忌部大神宮の復興を認めず、神宝の略取、焼捨てを指示して隠蔽を謀ったのでした。しかし時の権力者による横暴な対応に憤りを感じていた忌部の氏人達は、神代からの古跡の記録、また忌部の神宝の在処を口伝で残していたのであります。

そこで今回は古くより忌部郷に伝えられている名所(古跡)を資料により提示してみようと思います。(実は入力が面倒なだけなんですが… )

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上記資料の内容を冒頭の地図と照らし合わせれば、忌部郷の古跡位置を大体ですが掴むことができます。ご覧の通り古跡の数は多く、後々ピックアップするかもしれないので全ての説明は避けます。

その代わりといっては何ですが、awa-otokoの見解を述べます。これまで紹介したように貞光、東西端山の忌部郷と呼ばれた地域は主に天日鷲命の伝承が主体となって伝承されています。しかし、少し隠れた部分からは天日鷲命の后や御子の古跡が忌部氏人により伝承されていることに着目したのです。

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三サキ社(二社)

神子塚(二塚:朝日ノ子塚、夕日神子塚)

三サキ社(ミサキ=キサキ:后)については天日鷲命の后の御陵を示すもの。(遥拝所か?)神子塚についてはそのまま御子の塚(または血縁者)なのでしょう。

そのほか、忌部大神宮の境内に植えられていたという「実ナラズノ藤」と「鈴ナリノ梅」は古跡の何かと対応しているような気がするのです。忌部の神宝の在処とかな‼︎(こちらは直感なので悪しからず。)

天日鷲命一族を祭祀した聖域を忌部大神宮とし、その神領である3里四方を忌部内山とした。そしてその神領に含まれる貞光、東西端山の忌部郷と呼ばれた地域には実のところ后と御子も祭祀されている。

まさに阿波忌部族発祥の聖地」であるということから「端山は母山の義なり」と伝えられたのではないのでしょうか。

二回に渡って投稿した端山は母山説、珍しく題名の通りに締めれたのでそそくさと終了にしたいと思います。

 

オマケ

四国八十八ヶ所巡りを知っていますか?

意外と知られていないのですが忌部大神宮の古跡に関連して重要な部分なのです。忌部定光の墓が十三堂(これは十王堂のこと?)だったり、神子塚(たぶん朝日ノ子塚)が姫子塚として残っています。夕日ノ子塚の場所は現在不詳ですが名前を変えてお堂として端四国八十八ヶ所に含まれている可能性は高いです。

その他にもいろいろと…

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あー、これ載せたらSどん氏が悦びそうなので、ホントにこれで締めたいと思います。それではさよなら〜。(´・∀・`)

端山は母山の義なり(その壱)

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実に太古の話、四国の統名を伊豫というものと相通ず。伊豫は即ち祖の義なる母きか。祖谷山は親山の義。端山は母山の義なりと。蓋し祖志の説、進化せるものたり。

f:id:awa-otoko:20171015232534j:image(吉良 御所神社)

はい。今回は端山周辺のお話。冒頭に記した伝承に基づいて考察を進めて参りましょう。

美馬郡端山村に忌部神社と称する神社あり、而して其附近忌部氏に関する伝説頗るに多し、國鏡、阿波郡荘鑑其他諸種の舊記に、此地の遺跡傳説等詳記せり。即ち曰く、「美馬郡拜原村昔忌部大神宮四国神領之節出家沙門吉野川を隔て北地川向ひ此原にて拜し奉る、依て拜原村と云ふ。西端山神代に天日鷲命御馬に召れ此處の内吉良と云ふ處に御止り其古跡吉良の御處なり、此處に鈴なり紅梅とて名華あり、花千重なり。藤の森、御所平、駒が岡、蜂須五社大明神、御魂處。山上に二ヶ所あり、一所は御后一丈四方程なる大石にて圍ひ今は人往難し。

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友内山の北東向かい、吉野川を挟んだ脇町拝原はその昔、御所平 忌部大神宮を遥拝した場所であったが故の地名です。(そうそう、倭大國敷神社が鎮座してる場所ね。友内山を拝む拝原に鎮座している大國敷って誰を祭祀しているのかよーく考えてみて下さい。☜ ココ、必ずテストに出ますよ。(嘘)www )

ここは友内山を拝んでいたという、謂わば前フリ部分ですね。

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f:id:awa-otoko:20171015232400j:image(蜂須神社)

そして、神代に天日鷲命が馬に乗って降臨した吉良には古跡が数々存在していたとあります。それは藤の森、御所平、駒ヶ岡、蜂須神社、御魂處だそうです。

その吉良(吉良は西端山に含む)の山上には御魂處が二ヶ所存在し、その内の一つは天日鷲命の后の御陵であるとされています。一応、その部分は過去に紹介済みであるところ。

f:id:awa-otoko:20171015233615j:image(そう。まさにこれ。后の陵と推定。)

御所神社の裏山にある清頭岡遺跡(御魂處)ですね。御所神社がなぜ当地に鎮座しているのかは、この御陵の存在があるからでしょう。因みにこの側にも天日鷲命の后が機織したという伝説の窟が存在します。

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f:id:awa-otoko:20171015235436j:image(こちらは蜂須神社ね。)

さて、もう一つの御陵は…

今は秘密。。。

なぜ蜂須神社の写真を掲載したのかを推理してみて下さいネ。(awa-otoko的にはもう一つの御陵も后のものと推測しております。)

忌部古社大蔵後家舊記曰清頭谷日名祇谷落合處に日鷲命津咋見尊二神奉両森大神宮と號、奉稱處清頭岡と唱へ来る、面に神孫第一之御魂金銀御平足を立賜所神平と號、元祖白川御處と唱へ賜ふ、此二神 川を見し賜ふ處佐久良谷花都より吉野迄流来る、花珍數御川と御勇賜ふ故此原惣名川見と唱来る、當山日鷲命御坐す、岩屋日名祇大神宮と奉號、本社友内宮本社頭也、東森月出大神宮西森京大神宮都奉彰云々。

さて次。清頭谷と日名祇谷が落ち合う場所に天日鷲命と津咋見命の二柱を祭祀した両森大神宮が存在したとありますね。あと御幣を立てた神平など。まぁそこら辺は置いといて、次が大事な部分。

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當山日鷲命御坐す、… 本社友内宮本社頭也。

はい。本社は友内山って記録されているんですねー。因みに天日鷲命がお住まいになった日名祇(ひなぎ:日鷲(ひわし))の窟は友内山の… にありますので出典の内容には間違いはありません。

そして大事な部分、なぜ友内山(友内神社)が本社なのか… これは皆様のご想像にお任せして今回は中途半端に終わりたいと思います。wwww(といっても次回にまとめようとも思っていませんが。)

という訳で東森月出大神宮、西森京大神宮もちょっと心当たりがあるので書きたいのですが、そろそろ夜も更けて参りました。これもまたの機会に。。。(≧∇≦)

岡本監輔「祖志」にある高天原論

どうも。最近は忌部郷(穴吹、貞光、端山、一宇周辺)の説話や伝承に力を入れているawa-otokoです。今回はあの岡本監輔が明治二十三年に出版した「祖志」という書籍からの内容を紹介したいと思います。

f:id:awa-otoko:20171013222734j:image(☝︎こちらが岡本監輔。)

まず岡本監輔。こちらの御方についてはぐーたらさんの過去記事に詳しいのでご覧になってください。

goutara.blogspot.jp

えーと、件の「祖志」についてですが目次部分だけの掲載してみますと… 目次だけでもひじょーにソソられる内容です。が、しかし!!哀しいかな全部漢文ナノデス。

(΄◉◞౪◟◉`) エっ… 

まぁ、興味があれば目がチカチカしますが読んでみて下さい。笑笑笑

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「祖志」に於いて岡本監輔は神代史について熱く語っており、その中で高天原所在地について論じた内容をawa-otokoが訳して紹介します。が、、、先に書いた通りに祖志の原文は全て漢文なので誤字脱字があった。または訳が変だと思ってもクレーム無しでお願いしますw (・∀・)

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余謂ふ高天原の南海に在るものは、恐くは阿波國吉野川近傍之城に外ならず。高天は高海と音通ず、蓋此國磤馭廬島の傍に在り、太古の時海之潸斗入する事殆ど十里、其左右平原よう壊多く、人之を呼んで高海と言ふ域は高濱と言ふ、濱海の二音天と相近し。

高天原阿波国吉野川近傍に他ならない。高天原の「高天(たかまが)」と「高海(たかあま)」は韻が酷似している。淤能碁呂(おのころ)島の側にある阿波国は太古は今より海水(湾)が陸部に入って平野部に浸食していた。その海原を見て高海、または高浜と呼んだ。「浜(はま)」・「海(あま)」ともに「天(あま)」と韻が近いのである。

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阿波風土記に天神其山を二分し、之を降す、其大なるものは阿波に落つ、天之諄辞(のりと)山と言ふ、其砕方大和に落つ、天香山と言ふ、諄辞山は蓋し美馬郡祖山なり其山下忌部諸神多く常に大諄辞を宜するを以て、諄辞山と言ふ、香山の宗たり、故に祖山と言ふ、其實は諸神始めて此山中に出で、次に大和に到り香山に據り四方を鎮めしなり。

阿波風土記によれば天神(記紀にある神々)が山をニ分し、これが阿波国に降りた。これを天之祝詞山(アメノノリトヤマ)という。大和国に降りたのを天香山という。

阿波國ノ風土記ノゴトクハ、
ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、
ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。

祝詞山(アマノモトヤマ)とは美馬郡にある山を指している。その山(周辺)は忌部神を多く祭祀して、盛大に祝詞を奉上していたことから祝詞山と呼ばれた。また祝詞山は天香山の総本山であることから祖山とも呼ばれる。記紀に記された神々はこの阿波国 祖山(祝詞山)から起こり、その後大和国に渡って勢力を拡大していったのである。

f:id:awa-otoko:20171013230352j:plain一宇 白山神社

f:id:awa-otoko:20171013231149j:image一宇 天岩戸神社

祖山及び一宇山、重上巒累嶂究め盡すべからず、諸神の祠甚だ多し、一宇山は伊弉諾尊を主とし、而して大宮天一神祠影久に在り、天石門祠は法正に在り、白山祠は峯切に在り、其他吉良・宮内等の處、山靈祠、鎮守祠、八幡祠、松尾祠、杉尾祠、星祠、竈祠、龍祠、牛頭祠、聖午王祠、王子祠、三社祠、五社祠等挙て数ふべからず、祠旁墳塚相望む、八幡神を除く外其何神たるかを詳にせず、八幡亦他神を混ずるもの多し窃に意ふ天一神、星祠と天中御主神をまつる、山靈は大山祇神を祭る、竈祠火神を祭る、午王祠は素戔嗚神を祭るなり。

祖山から一宇村の山々は神々の祠が多い。一宇の山は伊奘諾尊が主に祭祀され、大宮天一祠(現在の下宮神社)がある。法正には手力男命を祭祀する天石門祠(現在の天岩戸神社)、峯切には白山祠(現在の白山神社)がある。

その他に吉良や宮内にも数々の神を祭祀しているが、ひとつの特色として祠の傍には古墳や塚穴が必ず見受けられることである。しかし、残念なことに原初から祭祀されている神の形跡は詳細がわからなくなってきているものが多い。それは後から入ってきた八幡信仰のために祭神を上書きされたから他ならない。天一と星祠は天中御主神、山祠は大山祇神、竃祠は火の神、牛頭・午王祠は素戔嗚命を祭祀するのは神代からの継承のところが大きい。

f:id:awa-otoko:20171013233919j:plain(貞光 五所神社

f:id:awa-otoko:20171013233934j:plain一宇 五所神社

f:id:awa-otoko:20171014062253j:plain一宇 天日神社)

彼地は窮山僻遠、唯山用の秀麗清絶なるあり、淳尨なる太古の民と祠宇の多き此の如し、見るべし天神此處に跡を発す者甚だ多し。而して歴世の久しき、皆泯没して聞く事無きに帰るなり、然も法正之天石岩窟、吉良之神明祠、八百万神祠、宮内の神明山即ち其跡顛然、今日十目の視る處、掩可からざるあるもの、固り他處の及ぶ處に非ざるなり。

祖山は人踏未踏奥の奥深く、そして美しく清らかな場所に存在する。太古の民はその場所に多くの祠を造って神々を祭祀してきた。今こそこの伝承に注目すべきであろう。過去より当地を記紀にある神々の旧跡と伝える人は多かったが、神代の考証を明確に再現できることはなく、殆どの人が信じることはなかった。

しかし法正の天岩戸、吉良の神明祠、八百万祠、宮内の神明山をはじめ他所の考証から比較してみても、当地は他所の追従を許さない実に条件を得ている場所なのである。

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はい。という訳で今回珍しく(?!)丁寧に訳してみました。awa-otokoが考えるに、祖山(天之諄辞(のりと)山=アマノモトヤマ)とは… 剣山 をさしているのは明白。そこから記紀にある神々が起こったとされています。そして一宇山、友内山、東西端山域まで降りてさらに規模を拡大した。(このルートはのちに忌部信仰になる。)

さらにその勢力(の一部は袂を分かって)海を渡り、天香具山に到達した。原文にある分けたという内容は阿波国の勢力が近畿圏大和国に移動したということ。大和国を中心に基盤を固めて周りを平定していくのであり、これは大和朝廷の起こりを指していることがわかります。

そもそも「祖志」では忌部神、やれ天津神国津神、海人族、などのカテゴリー分けをしていない、シンプルでわかりやすい論であり、(漢文でなければ尚良し。)地域の伝説・伝承、古跡を合わして考察すれば、祖山(天之諄辞(のりと)山=アマノモトヤマ)は神々の発祥地であるヒントを秘めいる内容です。

まだまだ阿波国に関する論(ヒント)が埋もれている状況にあります。それは後年に上書きされた事象も記されていますが、それを控除しながら今後も提供できればと考えています。

三里四方の忌部聖地たる証拠

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f:id:awa-otoko:20171007212532j:image(家賀鎮座 児宮神社)

阿波国麻植郡忌部郷吉良御所平に鎮座する忌部大社は四国の一宮、天日鷲尊祭祀の本社で神代から鎮座していると伝承されていました。その口伝と伝承を物的証拠と文章で証明しようとしたのが吉良御所平忌部神社文書であります。

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阿波国麻植郡忌部郷内山吉良御所平忌部神社神寶

裏に二神の神名が記された御神鏡、元享元年 大檀那 北条相模守 平朝臣高時が記された棟札、そして古文書。これらの神宝は蜂須賀氏により取り上げられたとあります。また空海直筆による「忌部大社」の鳥居扁額も蜂須賀氏により焼き捨てられたと記されています。

この蜂須賀による破壊行為については、蜂須賀氏が阿波入国の際に長曾我部元親による四国平定の折、破壊の限りを尽くされた忌部大社の三里四方の聖地を認知せず、さらには忌部大社復興の破壊工作(証拠隠滅)を行なったのではないかと考えられています。

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上記では、由緒が残っていない山崎忌部神社は桁山忌部神社の棟札を持ってきて山崎忌部神社のものとして使用した悪巧みと書かれており、また自らが忌部郷家賀鎮座の児宮棟札に記載された大工から忌部郷の整合性を説いた内容です。

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忌部郷家賀ニ鎮座 児宮棟札ノ寫

延喜式忌部神社麻植郡鎮座ト有リ 又右ノ棟札ニ天日鷲尊四国一ノ宮ト有リ因テ聊カ疑フ可キ所ナキ吉良御所平忌部本社ノ棟ナリ因テ吉良御所平ハ往古麻植郡ニテ有リシ事棟札ニテモ判然タル確証也

児宮明應五年造営棟札ノ寫

忌部郷ニ鎮座ノ舊神社ニ往古ヨリ有ル児宮並白人宮両社ノ棟札ニ書戴有ル大工鍛治ハ渾テ皆其神社ニ有ル村里ノ者ニシテ悉ク忌部郷内ナリ因テ他郡又ハ外山ハ素ヨリ忌部内ノ村里ノ外他村他國ノ大工鍛治ノ姓名ヲ書戴シ棟札ハ一枚モナシ

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麻植又ハ宇恵トモ児宮弘治ニ年造営棟札ノ寫

此明應五年再興児宮棟札ニ事者宇恵ト書戴有リ是即家賀城主忌部大宮司麻植氏直筆麻植郡ハ此麻植氏ノ姓ヨリ起リシ郡ナリ

児宮慶長六年造営棟札ノ寫

忌部郷穴吹山ニ鎮座天文ニ年再興棟札ノ寫此棟札ニ領家ト有リ是則忌部ノ領ナリ千野ハ穴吹山ノ地名ナリ鍛治ノ姓忌部ト有リ是ヲ見テモ穴吹村ノ忌部郷タル事判然タリ

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讃岐国象頭山金毘羅神社天正十一年造営長曾我部宮内少輔秦元親寄附棟札之寫

吉良御所平忌部神社の棟札に国所を記載していないので証明にならないとあるが、讃岐国の大社である金毘羅神社にも書き記されていない。どういうことか?とあります。(出典原文まま書くのが面倒になってきたので訳しました。笑)

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この文書を提出して請願し、一度は御所平忌部神社が忌部大社と認められたようです。しかし皆さんもご存知のように後年、忌部神社社地騒動が勃発します。結果は政府が喧嘩両成敗とし、二軒屋に忌部神社を造営して現在に至るのです。

改めてこの文書が必要とすることが近々あるかもしれませんのでちょっと先取りで掲載してみました。

端山、家賀 、御所平の友内山周辺エリア。この先要チェックになりそうです。