阿波民部の大いなる計画
最近ぐーたら氏から貴重な資料をわけわけ(シェアね。)して頂きまして、資料転載の可否を伺いましたところ快く承諾してくれました。
今回はその一部を皆様にご紹介したいと思います。ちな、出典についてはぐーたら氏が今後の投稿に挙げられると思いますので非公開とします。(まぁいわゆる自主規制やつですわ。)
さて、全国各地で伝承されている安徳天皇伝説。こちらの真相が明かされる(かもしれない)証拠が含まれた内容となります。敢えて読み難い原文のままで転記です。興味のある方は読んでみてくださいね。
源平両家ノ争ヒニヨツテ諸国大乱ノ世トナルウチニモ此阿波国ハ平家ノ領地トシテ阿波民部守護スル処平家一門衰運ニアタツテ東国所々ノ合戦敗軍トナリ遂ニ安徳天皇ヲ守護シ平安城ヲ落テ西海ノ浪ニ漂ヒ九州ニモ安堵ナラス
長門ノ守護代 紀ノ民部大輔光季 阿波民部大輔 紀ノ成長ト心ヲ合セ讃州屋嶋ニ大城ヲ築キ智術ヲ以テ四国中国ヲ打従ヘルト雖所詮聖運ノ開カサルヲ知テ阿波民部成良忌部大祭主麻植邦光ヲ頼ミテ寿永ニ年ノ奉帝王ヲ麻植ノ奥山ニ隠シ門脇中納言教盛郷ノ御子越後守国盛ノ嫡男国若丸 安徳天皇ト御同年ノ故ニ是ヲ安徳天皇ト称シ平家一門守護スレ共運ノ極メニハ長門国壇ノ浦ニテ入水シ果玉ヘ共真ノ安徳帝ハ麻植正高ノ末子也ト世間ヲ欺キ此阿波ノ奥山ニ無恙在御生長ノ後正高ノ聟君トシ御子迄誕生有リシカト九州ヨリ御迎ノ使毎々ニ及フニヨツテ御病死ト偽リ御出家トナツテ義法坊一人御供ニテ彼国ニ赴キ玉フ此阿波ノ奥山ニ隠レ居玉フ人々ニハ越後守国盛郷小松少将真盛郷ノ御ニ方也
年月経テ真盛郷ノ御子真盛入道シテ真盛法師ト云 上京シテ北野ニ一宇ヲ建立シテ真盛寺ト云一門ノ亡魂ヲ弔ヒ玉フ阿波国ニモ願勝寺ニ阿弥陀堂ヲ立テテ平家一門ノ菩提トス
国盛郷ノ御子孫ハ地名ニヨツテ阿佐氏又ハ脇氏ト号シ直盛郷ノ御子孫ハ小松家ナルニヨツテ松本氏ト号シ後ハ松永氏ト改メ玉フ其末々ノ平家此国ニ跡ヲ隠スノ輩数々ナリ
皆々阿波民部ノ計議ニヨツテ忌部神領ノ内麻植奥山ニカクレテ時運ノ開クヲ待玉フ又ハ所縁ニヨツテ四国中其外他国ニ赴ク族モ多カリケリ就中阿波郡朽田庄青蓮院ハ直盛郷御出家ノ後御住居アリシ旧寺也
なんと壇ノ浦で入水したとされる安徳帝。実は平国盛の嫡子国若丸だったということ。
阿波民部成良は忌部大祭主の麻植国光を頼り、真の安徳帝を麻植正高の末子として世間を欺く姿として無事に生き延びさせます。のちに出家をして阿波の奥山(祖谷だろ)で隠遁生活を送らせました。さらに病死したとして別人に入れ替わらせる念の入れよう。そして出家をして俗人として国境を自由に行き来をさせたということです。
これら全て阿波民部成良の計画だそうです。
現在において全国各地に拡がり、混乱を極めた安徳天皇伝説譚を考えれば見事に時空を超えて阿波民部成良の機転にしてやられたということでしょうか。
冒頭でも書きましたが、この安徳天皇替え玉伝説もある大きな歴史の中の一部でしかありません。今は全貌をお伝えする時期ではなく、awa-otokoがお伝えする役目を担うものでもないと考えています。全ての謎はぐーたら氏が握っている… ニヤ(・∀・)ニヤ
今後の展開から大きな歴史とは何なのか、全てを覆す伝承と事実。乞うご期待。ですな。あぁ〜ぁ、コマーシャルが過ぎて怒られちゃうかも。ニヤ(・∀・)ニヤ
ちはやふる… 三韓征伐の御神歌
十月に入りましたね。十月といえば阿波の南方において赫舟の行事が催される時期。今回は浅川港に伝承されていた舟歌をご紹介したいと思います。
浅川の天神社の祭事は旧十月十七日(神嘗祭)の日に行われていました。(現在は祭日も変わり、山車は南海地震の津波により流失し、復旧されていない。)
(少し前の事ですが天神社 関船のニュースがありました。)
(浅川ではなく牟岐ですが関船関連です。)
(浅川 天神社)
祭日には神輿と関船、だんじりが出て町内を曳いて大変賑やかであったといいます。そして関船をだすと舟歌が歌われていました。今に伝わるこの歌、内容がとても興味深いのです。
出立前に社前で歌う御神歌
千早ふる神の御代より受け継ぎし、帝は多くその中に、とりわけ神功皇后三つの韓国治めんと、御船の数が筑紫がた、その名を高きたちばなの、おどの潮路にあらはれし、神は船午の大社札をみて、向かうかたきをしたがえし、めでたく帰朝ましまさば、四海波風静か、今に津の国住吉と、神とあがめしみは白の、引く注連縄に千代かけ、長きためしはつきせじな、御用はうれし。
社前を出るときの出船の歌
こぎいでて四海をやすき渡りしが、ひより思ひが叶うたかや、思う港につきの船、住吉の松の葉ごしに出る月は、月も目出宅床にさす。いつとてかわらぬものは笹の葉で、二葉の松でと君と我がなか。
祝儀をもらったとき取り舵に家にあるときの歌
ほのぼのと明石の浦の朝霧に、山隠れ行くお船なだよし、松風や厳の上に鶴と亀、千代萬代舞い遊ぶ。
祝儀をもらったとき面舵に家があるときの歌
宇治の白雪朝日にとける。とけて流れて沼島に落ちる。沼島女郎衆の化粧の水、月とても浪間に向かう竹生島、船に宝を積む心地、奥山のもみじ踏みわけなく鹿の声、妻こい友を呼ぶかな。
「取り舵」「面舵」の歌の終わりに歌う歌
天下泰平治まる御代こそ目出度いな。鶴は千歳、亀は萬歳。
さて、関船については当地において鎌倉時代に宋および高麗との貿易に使用された貿易船を模したとされています。しかし紹介した関船の「御神歌」の歌詞には「神功皇后の三韓征伐」の内容が含まれていること、「筑紫の、」「たちばなの、」「おどの潮路に、」など古事記に記される内容を転用した形跡がみられ、神功皇后の三韓征伐出立から凱旋帰国の際の模様を歌っています。
「御神歌」以外の歌については海人の心境を含め、縁起が良い内容で締めたもので、御神歌より後世に作られた歌と考えます。
昔、法華谷の奥の大宮山には海部郡内唯一の延喜式内社 和奈佐意富曽神社が浅川、多良、大里、高園、奥浦、鞆ほか二十一村の氏神として共祀されていました。このことから当地一帯の海人族達が古代より全国津々浦々はもとより、半島に行き来していたことは間違いありません。
阿波に神功皇后と武内宿禰の所縁の地が点在しているのは当時の勢力が航海中に基地として設けた場所であると想定できるのです。
最後に…
今回、写真の掲載が少ないのはエラー発生?のためか一部写真がアップロード出来なかったため。改めて関連写真を付け足しする予定です。ちょうど祭礼中の関船の写真も用意してなかったのでまた掲載したいと思ってます。(・∀・)
朝宮から大宮へ(名東の章)
えーと、、、前回の記事より続きとなります。前回は麻植の章として牛島八幡神社が「苧(麻:お)宮→大宮(おおみや)」へ転訛した伝承を紹介しました。
お気付きの方がいらっしゃるかも知れませんが、今回は微妙に題名を変えてます。これは麻植の章で書いた内容とは根本的に違うからです。今回は転訛という簡単な内容ではございませんので、そこんところお間違えなく読んでいただければと思います。
それではさっそく本題に移りましょう。今回は名東郡鎮座の朝宮神社、大宮神社をメインに紹介していきます。
(朝宮神社)
佐那河内村には、天照大御神こと卑弥呼を連想させる朝宮神社が鎮座しております。祭神は全国でも珍しい瀬織津姫なんです。
瀬織津姫(せおりつひめ)は、神道の大祓詞に登場する神である。瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。古事記・日本書紀には記されていない神名である。
水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性である。『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。(ウィキペディアより)
はい。朝宮神社の社名は「麻」からではなく、祭神の瀬織津姫という水の流れに特化した御神威から川の神ということが判断できます。昔は園瀬川の流れを利用して「八萬津」に様々な物資を園瀬川や支流の嵯峨川の流れを利用して移動させていたのでしょう。
佐那河内村から太古阿波の総合港のひとつである「八萬津」へ流れる… その終着点の形跡が八万町鎮座の朝宮神社と考えて間違いないでしょう。そうです。八万町にも朝宮神社が存在するのであります。
(八万町の朝宮な。)
ここでは朝宮(佐那河内村)→朝宮(八万町)と同じ朝宮神社として移遷されていて社名の変化はありません。
(倉庫の神紋からは麻宮から朝宮に転訛した可能性も… )
またawa-otokoの想定なのですが、物流を統治する場所として佐那河内村の朝宮には大宮神社を、八万町の朝宮には宅宮神社が充てられていたのではないかと考えています。
佐那河内村 大宮神社の社名については東隣りの朝宮神社からの社名転訛ではなく、大宮賣神(オオミヤノメ)こと天宇受女命(アメノウズメ)を祭祀していたことから起ったものではないかと考えています。
(大宮神社)
大宮賣神
オオミヤノメは、神道の神。『延喜式神名帳』と『古語拾遺』では大宮売神(おおみやのめのかみ)、伏見稲荷大社では大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)と表記する。宮殿の平安を守る女神である。
『古事記』や『日本書紀』には記されないが、『古語拾遺』に太玉命の子として登場する。天岩戸から新殿に移った天照大神に侍女として仕えたとされ、内侍(女官)が善言美詞(麗しい言葉)を駆使して君臣の間を和らげるような働きをしたと記されている。『延喜式』の大殿祭(おおとのほがい)の祝詞においては、皇居に鎮座して親王や諸臣たちが過ちを犯すことなく心安らかに仕えられるよう見守る神であるとされている。
神祇官で祀られた天皇守護の八神のうちの一柱として、朝廷で重視された女神である。宮殿の人格化とも女官の神格化ともいわれ、上述したように君臣の間を取り持ち調和を図る神とされる。こうした性格から、旅館や百貨店など接客業の守護神として信仰されるほか、家内安全・家族和合の神ともされている。伏見稲荷大社で祀られる稲荷三神(上社・中社・下社の神の総称)の一柱でもあり、主祭神のウカノミタマの配神として上社に祀られている。穀物神であるウカノミタマに仕える巫女を神格化したものともされる。こうした属性から平安京の官営市場の守護神として祀られた結果、商売繁盛の神としても信仰されるようになった。
また、江戸時代の国学者・平田篤胤は『宮比神御伝記』で、伊勢神宮内宮に祀られる宮比神(みやびのかみ)は、オオミヤノメまたはアメノウズメ(芸能の女神)の別名であると説いている。祐徳稲荷神社や志和稲荷神社でもオオミヤノメをアメノウズメに当てており、技芸上達の神としている。
ちなみに式内社 麻能等比古神社から天石門別八倉比賣神社の摂社である松熊社は船戸神として移遷されています。
(松熊神社)
上の写真にあるように麻能等比古神社から船戸神として手力男命と天宇受女命が移動しているのです。
麻能等比古神社は「名方津」に流れ込む鮎喰川経由を司った社であり、「八萬津」を司る佐那河内村の大宮神社とも関わりが大にあったと考えて差し支えないでしょう。
(宅宮神社)
なので、、、、「八萬津」を司った宅宮神社の祭神は、、、
船戸神として、また稲荷神として変化していった「天鈿女命 」ではなかったのかと考えたりしている訳で…
あ、妄想はこれくらいにして大宮についてそろそろまとめましょうか。
•麻宮から転訛して大宮となった。
•大きな規模の神社の名称を大宮とした。
•祭神の御神名(大宮賣命)を採用して大宮とした。
(以上の他にも「大宮神社」の由来がありましたら情報をお寄せくださいませ。)
awa-otokoも、もう少しだけ阿波 大宮神社の調査続けてみようと思います。
あ、そうそう。面白い場所に立派な大宮神社が鎮座しているのですよ。一応目をつけているのでもし続きを書くならソコかな。それではまた。
麻宮から大宮へ(麻植の章)
吉野川市鴨島町牛島には天日鷲命を主祭神とする「牛島八幡神社」が祀られています。
当社は古い時代の創建で、神山町阿川の二宮八幡神社の大般若経 嘉慶二年(1388年)の奥書に牛島八幡と記されており、室町時代には既に存在していたと考えられます。また牛島八幡は「大宮八幡宮」とも称され忌部神社の候補社の一つにも挙げられていた社なのであります。
郷社八幡神社 往古麻宮と称し、後大宮と公称す。麻植神を祭りし大社なりと云ふ。同村小字神の壇に小祠あり、忌部神を祀る。(麻植郡郷土誌より)
牛島(うしのしま)は「苧師ノ島(おしのしま)」。
神代に麻をはじめとした種々の物を作り始めた神(天日鷲命)の裔が住んでいる村と伝承されていました。(神裔が居住する村として「大人(うし)の島」という美称で起こった地名という説もあり。)
本来は「苧(麻)宮(おみや)」でありましたが、
「苧(麻):おみや」が転訛して「おおみや(大宮)」と称するようになったとされているのです。
はい。麻植郡牛島八幡神社の伝承を挙げました。この内容は結構ポピュラーで知ってる人は多いと思います。
実は転訛による神社名称の変化に関して、この牛島八幡神社の事例に限定することなく、他の地域にも同じような事例があると考えているawa-otokoでございます。
他の地域の事例をイッキに紹介しようと考えましたが、収まりきらないことは明白。長文入力に疲れるのも理由(それが一番の理由な。)でやめました。
ということで、今回はプロローグ的なもの。(ちょっと内容的に物足りないかもしれませんが。。。)
気が向いたら他の地域の事例も挙げて関連記事を投稿しよと考えています。(気が向かなかったら書きませんので悪しからず。題名から(麻植の章)が消えていたら「あ、書くのやめたな。」と察して下さいな。笑笑笑)
それではまた。( ´∀`)
神殺しの舞台は焼山寺なのか?
“1575年の5月18日のことである。宵にホウキ星(彗星)が見えた。それは日や月の光と同じような明るさだった。その夜は月は無く、北東の隅に見える大麻山から二艘の船が空を渡ってきて焼山寺山に到達して消えた。”
これは三好家成立記に記された三好長治の不吉を暗示した文でありますが、なぜかawa-otokoはこの文に引っかかりを感じるのです。以前から焼山寺に関して違和感を感じていた内容はこれ。(下記引用)
保食神と月夜見尊
日本書紀においては、同様の説話が神産みの第十一の一書に月夜見尊(月読命・つくよみ)と保食神(うけもち)の話として出てくる。天照大神はツクヨミに、葦原中国にいるウケモチという神を見てくるよう命じた。ツクヨミがウケモチの所へ行くと、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは汚らわしいと怒り、ウケモチを斬ってしまった。それを聞いたアマテラスは怒り、もうツクヨミとは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
アマテラスがウケモチの所に天熊人(あめのくまひと)を遣すと、ウケモチは死んでいた。保食神の亡骸の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ると、アマテラスは喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。(Wikipediaより)
はい。有名な日本書紀に記された月夜見尊の神殺しですね。(古事記では須佐之男命)大宜都比売命を殺した内容です。焼山寺はこの説話に関係している場所ではないのかとawa-otokoは密かに調査をしていた次第であります。そこで冒頭の文言。記録された時代は中世ですが、ソースは遡って存在したのではないかと考えたのです。
でも、馬鹿正直に焼山寺で大宜都比売命は殺されたとは考えてないです。ちょうどこの付近は天日鷲命の領域である旧麻植郡と大宜都比売命の領域である神山の境界にあたることから、農業における進め方(考え方)で揉めたエリアであると考えるのです。
本来、焼山とあるように焼畑農業を主に採用していた(と思われる)大宜都比売命。
(蛇封じの岩)
空海が来山した折、大蛇が火を吹き山を焼いて山中の人々を困惑させていたので虚空蔵求聞持法で大蛇を岩に閉じ込めたというのは焼畑農業をしていた説話なのではないでしょうか。
焼畑農業(やきはたのうぎょう)/ 焼畑農法(やきはたのうほう)は、主として熱帯から温帯にかけての多雨地域で伝統的に行われている農業形態である。通常耕耘・施肥を行わず、1年から数年間耕作した後、数年以上の休閑期間をもうけ植生遷移を促す点が特徴である。英語では移動農耕 (shifting culitivation) という語が使われ、火入れをすることは必ずしも強調されない(実際、湿潤熱帯の各地では火入れを伴わない焼畑農耕も見られる)。英語圏の研究においては、短期の耕作と長期の休閑が繰り返され循環することをもって焼畑が定義されることが多い。(Wikipediaより)
そして月読命(月夜見尊: 天日鷲命)による天体運行による季節の移り変わりを測ることが必要だった農耕。
(龍王窟:またの名を求聞持窟)
空海が虚空蔵求聞持法を会得し、虚空蔵菩薩の真言を唱えているときに空から明星(金星)が近づいて口の中に飛び込むという体験は、天体運行の把握と気候の変化を体得した逸話なのではないでしょうか。
農耕(のうこう)
農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。そして政治と経済、ついには国家の誕生へと至る事となる。
さらに作物の管理や分配のための計算、気候の変化と農作業の日程を知るための暦法(天文学)、農地管理のための測量などが必要となり、これらが数学の基礎となった。(Wikipediaより)
大きな違いがあると思いませんか?どちらの農法を選択するか苦悩と葛藤の連続だったでしょう。
高越山(高越大権現)と大粟山(一宮大明神)の氏子が仲が悪かったのはこれを引きづっているからではないのか…
そのような太古の伝承が月夜見尊による大宜都比売命の神殺しの逸話としされているとしたら… そして空海もそれに一役かっているとしたら… 面白いですよね。
今回はちょっとしたawa-otokoの妄想でした。こんなこじつけのお話はまだまだいっぱいあるのでまた書きたいと思います。あ、冒頭の引用はあまり関係なかったのは指摘してはいけない… それでは。(≧∇≦)