awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

剣山で見つけた穴(アーク編)

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今日は番外編。
実は… 剣山調査中に穴を見つけてしまいました。
いろいろな人が、いろいろな説から指し示しめした場所に穴が存在しますが、それとはぜんぜん違う場所にありました。

f:id:awa-otoko:20170717230523j:image(これが件の穴な。)
言っておきますが普通に見つけられる場所ではありません。近くて遠く、見えているが見えない場所。そう、まるで「かごめかごめ」の歌の内容のように掴みきれない場所なのです。

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かごめかごめ
籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ?

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意味深に書いてしまいましたが、今回はアークが隠された場所を指し示すものではありません。あったらいいな。の感覚。ただawa-otoko的に狙い定めた場所に存在した穴ですので、今後もゆっくりと丁寧に調査を継続していきたいと考えています。

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カゴ・メー カゴ・メー
カグ・ノェ・ナカノ・トリー
イツィ・イツィ・ディ・ユゥー
ヤー・アカ・バユティー
ツル・カメ・スーベシダ
ウシラツ・ショーメン・ダラー

誰が護るのか?誰が護るのか?
堅く封じ安置されているものを取り出すのだ
契約の箱に封じ納められた神器を取り出し
代わりにお守りの形をしたものを造った
未開の地に水をたくさん引いてきて
そこに水を貯めその地を統治せよ

天気が絶好のコンディションの時、剣山頂上に登って空を見上げてみて下さい。何か見えるかも… ね。

神領 粟国造の館考

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大通寺正覚院ハ今上角名大通寺良藏院といふ院内一派の修験なり。一宮城主小笠原氏と縁を組し事今に此村に言伝あり。又小笠原氏隠居家なりといふ説もあり。

小笠原長宗が粟国造家の神録を強奪して一宮大宮司と称したことはこれまで拙ブログ記事でも紹介済み。一宮(小笠原)長宗の子孫、弾正成直は神山町神領に隠居したことが記録されています。これは修験者の大通寺正覚院と縁を結んで国造家を相続したとされる内容とリンクするのであります。 

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一宮(小笠原)弾正成直の代から兄弟で城主と祭官と分かれたと記録されています。成直は隠居することで武家から離れ、城主の座には興味を示さない体面を取ったと考えてよいでしょう。その代わりに粟国造家が祭祀していた大宜都比売命の祭官を継承するという大きなミッションを遂行したのです。

f:id:awa-otoko:20170709230127j:image(大粟山より善覚寺を望む)

さて、大粟山の背後から巻くよう東に流れる上角川。大粟山の東の谷に祭官が着替える館が存在しました。それ故に装束谷の名称も残ります。その装束谷にあった祭官専用の館こそ「神領 粟国造の館」であり、のちの「大通寺」であったのです。小笠原長宗は武力により粟国造家の神録を奪い抑え込みましたが、神事の奥義までは奪うことは出来なかったのでしょう。粟国造家の流れをくむ大通寺正覚院という修験者に小笠原氏の娘を嫁がせて、ここで完全に神事と祭官の実権を掌握したのでした。

f:id:awa-otoko:20170709230809j:image(善覚寺)

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f:id:awa-otoko:20170709231140j:image(天保年間の銘)
この大通寺は大粟山東南の麓に在院していたとされ、(今も大通寺という地名が残っているとかいないとか… )小笠原家と粟国造家の縁組が整ってからは「一宮殿ノ跡屋敷(即チ神領ノ国造館ナリ)」とあり、一宮氏代々の位牌を祭祀していたそうです。しかし残念ながら天保年間に火災に遭い、屋敷は無くなったようです。

 

ここからはawa-otokoの推測。
現在の神領 八幡神社の境内、善覚寺の範囲は大通寺、または一宮殿ノ跡屋敷、即ち粟国造家の館の跡地ではないでしょうか。

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古文書に記録された位置にも合致しますし、何より八幡神社から上一宮大粟神社へ行う夜這いの神事は、粟国造家や一宮家が居住していた粟国造館から大宜都比売命の霊廟に通って祭祀する姿が夜這いとして表現されて現在に至ると考えます。その他、白桃名にあった大宜都比売命の伴神の社が八幡神社に合祀されているのも強い繋がりがあった理由からでしょうね。

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従って神官の居住跡に社を建てたのが、今の八幡神社なのではということです。大通寺、一宮殿跡屋敷などさまざまな名称が残りますが、総じて「粟国造家(大宜都比売命霊廟の神官)の館」が存在していた場所が当地です。

こちらの伝承は別に詳しく記された書物が存在するとのこと。(明治期には所在が明確であった。)現在は神山町内の蔵あたりに眠っているのではないでしょうか。さぁ、神領のIさん、Tさん、その他の粟国造家の末裔さん。家の蔵の中の古書を探してみましょう。すごいお宝が発見されるかも⁉︎ ですよ。(^ ^)

国造家ノ将、鬼籠野ニテ死ス。其跡ニ庚申塚置キタル也。

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暦應四年十月非道ニモ長宗兵力ヲ以粟國造家ヲ攻メ神録ヲ横領シ祭官職ヲ強奪セシ也。其證如何ト云ニ今神領村ノ隣村ナル鬼籠野村鬼籠野名ト云地ニ辻堂アリ。其傍ラニ周囲二丈許ノ杉大木アリ(其小祠ハ神佛混偖禁止ノ際ニ排除シテ其跡ニ庚申塚置)

里老口傳云此杉ノ木ハ昔ノ一宮合戦ノ時一宮方流落ノ士 高橋某運命谷リ此処ニ於テ主従切腹シテ亡ヒタリ、即チ杉大木ハ其基印ニテ小祠ハ霊ヲ祭リ供養石ハ塔婆也。今高橋七蔵ナル者ノ先祖ト云ヘリ(此近辺ニ高橋丹後守ト云靈ヲ祭リタル祠モアリ、同時ニ討死ノ人ナル可シ是モ神佛混偖禁止ノ際ニ取廃ス)

偖其一宮合戦ハ年暦ノ傳へハ無ケレドモ彼ノ供養石ヲ調査スルニ其數十一枚アリテ何レモ文字暦滅不明瞭ナル中ニ一枚文字明瞭ニ読ミヘキガ有リテ梵字三箇ト 六十月日先方三十三回ト細ク彫刻アリ依テ應安六年(康安モ有ドモ六年ノ暦ナシ)ヨリ送ニ三十三年ヲ遡リ笄フルニ彼ノ一宮合戦ハ暦應四年十月ノ事ト知ラレタリ。

はい。久しぶりに粟国造家のお話です。
時は南北朝時代大宜都比売命の神録を奪おうとする小笠原長宗。そして流れ落ちてきた高橋某とは神録強奪に抗う粟国造家 一宮宗成に属する将でした。
国造家が祖神より相伝した所領と祭官職を他族である小笠原氏に譲り与えるべき道理は無しと断固抵抗した粟国造家。国造家の一員であろう高橋某が家来と共に潔く切腹して果てた場所が当地であります。

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もともとは杉の大木があり、その傍には高橋某達を祀る祠があったそうですが、神仏分離令の際に排除されて代わりに庚申塚が置かれたとのことです。

f:id:awa-otoko:20170701211032j:image(写真でわかるように庚申塚は比較的新しく、基礎石?は年代が古く見えます。)

鬼籠野名は社地大粟山に路程近き場所であり、両軍にとって熾烈を極めた場所だったのでしょう。大粟山まで押し進めたい小笠原軍、くい止めたい粟国造家軍。当地(鬼籠野)付近の範囲で粟国造家軍は総崩れとなってしまったものと思われます。

このような状況からか、鬼籠野にはその他に供養石が十一基存在していたと記録には残ります。

f:id:awa-otoko:20170701211642j:image(この板碑も… )

f:id:awa-otoko:20170701211735j:image(鬼籠野神社にある一宮神社遥拝祠も… )

awa-otokoの想像の中では、鬼籠野神社が中一宮とされた理由の中に小笠原軍、粟国造家軍戦没者の霊を弔う意味も一端に含まれていたのではないかと考えています。

さて、このように明治に記録された粟国造家の古跡所在地が少しずつですがわかってきました。まだ他にも色々と発見があったのですが、この続きはまたの機会にしたいと思います。

水軍 河野氏の里 「火山寺(樋山地)」と焼山寺

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麻植郡 鴨島町樋山地は標高二五〇〜四〇〇㍍の高所に飛島のように忽然と開かれていた集落であります。多い時は約三十戸〜二百戸もあって栄えていたようですが、現在は廃集落となっています。(地主は時々来ているようです。)

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さて、この樋山地、このような辺鄙(すいません。。。)な場所の集落として栄えた当初の起りはご存知でしょうか。どうやら伊予国 河野一族が開拓しながら拡げたようなのです。

河野氏 - Wikipedia

南北朝時代に阿波細川氏の侵攻と同族の内紛のために戦乱を回避して阿波に入国した伊予国守護職河野氏の一族の一人が当地に落ちて来たと伝承されている。を血で洗う武力闘争に幻滅を感じた河野某は妻子と共に僅かな信用がおける従者を連れ密かに城を出た。どこへ行くともなく城を出たものの、名を知らない者はないほどの家柄である伊予 河野一族。いくら人数が少なくても平地部を無事に通れる筈もなく、必然的に深い山を伝いながは歩けば自然と阿波に入った。辿ってきた道程は山伏に姿を変えた南朝の密者が往来した路であった。
歩き疲れて峠道の祠の前で休んでいると、北方斜面の下方に谷を挟んで馬の鞍のような斜面が目に入った。此時代は兵農分離をしておらず、幸いに従者達はみな農業の経験を持っていたことにより、一行は当地で帰農することになった。
まず取り掛かったのは、山を焼いてその後に野菜や蕎麦の種を蒔く焼畑農業である。(殆ど毎日山を焼いて先住者と揉めたとの伝承もある。)畑ができ、住居も完成すると、まず最初に寺を建立した。それが火山寺(樋山地)と呼ばれたのかはわからないが、飯尾報恩寺の前身であるとことは確かなようである。即成山報恩寺と言われるのは、急いで建立した寺だったのかもしれない。
なんとか一家が生き延びられ、従者共に安住の地を手に入れた河野某は、これは全て従者の努力であったと恩に感じ、従者を「御被用(おひよう)ん」として、河野本家の裏山最高部に神社を建てて祀ったという。

はい。ところどころに「ん?」と考えるポイントはありますが、とりあえず伝承されているうちの一説を紹介しました。awa-otoko的には南北朝時代の入国であれば、遡って田口氏との過去の確執も残っていて難しいと考えました。が、、、冒頭に掲載した樋山地の八幡神社は中世に山岳武士、山伏の安全祈願のために建立とあります。これに依るならば、早い時期に河野一族の入国があったのかもしれません。

f:id:awa-otoko:20170624180431j:image(樋山地 八幡神社

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f:id:awa-otoko:20170624180748j:image(社殿横の石祠)

河野家の阿波入国に関してはもう一説あります。こちらについては樋山地に建つ立派な河野家先祖の碑とともに伝承されている内容でございます。

f:id:awa-otoko:20170624175055j:image(河野家先祖の碑)

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人皇第七代孝霊天皇末葉元伊豫國城主
從五位上越智 河野伊豆守萬五郎通吉 
大通院殿前豆大守天叟長運大禅定門
天正十八年寅三月二十九日逝去

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碑文にある河野萬五郎通吉の子孫が江戸時代に稲田氏を頼って移り住んだという説がそうです。

という訳で中世の名残りを引き継ぐ建造物もあるし、天正からの流れをくむものもあり、はっきり言ってわかりません。(断言できるだけの情報がないです。)

ただ、引用にもある樋山地の地名由来は火山寺(ひやまじ)との伝承もあり、こちらは神山町焼山寺を連想させるものです。

衛門三郎 - Wikipedia

そして焼山寺といえば杖杉庵の衛門三郎伝説。こちらは衛門三郎は伊予河野家の生まれであり、死後も河野家のせがれとして転生するのです。(空海のはからいでね。)たぶん樋山地と焼山寺、そして伊予 河野家はとても関係が深い(と思います!!)。

またその流れをくむ即成山 報恩寺も北麓の鴨島町にあり、南麓の神山町同様に河野姓の方が多く住んでいらっしゃいます。

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f:id:awa-otoko:20170624185712j:image(西麻植八幡神社 境内に鎮座する河野大明神)

神山と鴨島河野氏。そして伊予。ひょっとしてひょっとする◯◯が繋がる?!とりあえず現状は資料不足で出せません。。。まだまだ他にも気になるところが幾つかありますので、もう少し力を入れて河野氏の調査を着手していこうと思っています。

それでは今回はここまで。(・∀・)

 

安徳帝は八岐大蛇の化身 矛立神社の蛇神とは?!

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八百年もの昔、源平の合戦に敗れた平家の武将と安徳天皇平家物語では最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼平時子)と共に壇ノ浦の急流に身を投じたとされています。そして安徳天皇崩御したとされてから、以下のようなことが世間では噂されたのであります。

昔出雲國肥の河上にて素戔烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首(かしら)八の尾を表事(へうじ)として人王八十代の後、八歳の帝(みかど)と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。

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平家物語」では、八頭八尾の八岐大蛇は、人王八十代の安徳天皇となり、八歳の時に天叢雲剣を取り返して海底に帰っていったとし、「愚管抄」では安徳天皇平清盛の請願により厳島明神(厳島神社)が化生した存在であるから龍王の娘であり、海の底へ宝剣と共に帰っていったのだろう」としています。

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こちらについては安徳天皇を大蛇や龍の化身としていることから平家一門(安徳帝も含めて)は、蛇をトーテムとする古代海人族の何かを強く継承していたなどと考えられないでしょうか。(ちょっと考えが飛躍し過ぎだな。笑)

また、安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があります。拙ブログ記事でも過去に紹介したように、壇ノ浦にて海戦を繰り広げられる前に讃岐屋島の合戦の戦況不利から今後を見越し、讃岐山脈を超えて阿波の三好、木屋平、祖谷に落ちのびた伝承が残されているのであります。

 f:id:awa-otoko:20170620213709j:image(落合峠)

 f:id:awa-otoko:20170620213630j:image(落合集落)

名より名に出づるには山又山、谿(たに)又谿を超えざる可からず、谿川の大なる者二ツ蔓橋を架すること八ヶ所、其他見る目も危き柴橋、獨木橋を架して、僅かに小徑を通すのみ、地既に斯くの如きを以て保元、平治の騒亂より養和、寿永の役に至るまで、敗将残卒の生を偷むものは逃れ来りて隠捿し、山幽に水清き所に於て終焉せるもの多かりき、故に其民は源平藤橘何れかの武士の裔ならざるは無く、門地ある者を名主に仰き、其の命聴きて団結一致し、堅く小天地に割據する事恰も支那春秋列国のそれにも似たり、故に俗勇強を貴びて絶へて他郷と交らず、自尊自大頑として己を抂ぐることを爲さず、されば細川、三好の盛を以てして能く是れを服するは能はず、長曾我部の強を以てして猶ほ是れを従ふる能はざりき、又土豪の多くは正平中の綸旨執達狀を傳ふ、其王事に勤めて細川氏(足利尊氏に黨せる)に抗敵せること想ふべし、蜂家の封を此國に受くるに及び一大果断の下に壓抑を加へて再び起つ能はざらしめ、爾後良民と化して明治の聖世に至れり…(明治期の東西祖谷村の紹介より抜粋)

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隠遁場所として行き着いたのは山深き秘境である阿波国の祖谷。まずは平国盛が祖谷を平定し、別に移動した安徳天皇木屋平で匿われてより祖谷に迎えられたそうです。(この他にも諸説あり)

f:id:awa-otoko:20170620233358j:image(御塔石)

安徳天皇は自ら剣山に赴き、もはや運命共同体であった平家一門のために武運長久を祈り御剣を御塔石の下へ納めたと伝わります。

剣山に宝剣の奉納を終えた安徳帝の一行は、落合集落の傍らに清水が湧く清らかな場所を見つけて休息されました。その時に従者は安徳帝をお護りする尊い御矛を丁寧な敷物を敷いてから岩に立てかけたそうです。この矛は帝をお護りする尊いものであったので土地の人達はこの岩を「矛立石」と呼び、この岩の根元に祠を建てて神酒をまつり、くさぐさのお供えをし、神官を招いて「矛立神社」として祭祀するようになりました。

f:id:awa-otoko:20170619232327j:image(矛立岩 全景)

f:id:awa-otoko:20170619232519j:image(矛立岩 部分撮影)

f:id:awa-otoko:20170619232736j:image(住宅の居住地範囲なので奥まで進入して祠を撮影するのは控えました。)

この矛立石がある場所は、昔から久保名と落合名を結ぶ重要な交通路。とてもきれいな清水が湧いていた場所であったそうです。残念ながら落合小学校から坂道を登った公営住宅の敷地内(旧落合小学校のグラウンド跡)になってしまっており、現在は見る影もございません。(埋め立てられた模様… )

そんな矛立岩(矛立神社)には、いつの頃からか蛇神に守られているという伝説も付け加えられました。それは安徳天皇が八岐大蛇の化身、もしくは龍王の娘という伝承から蛇神祭祀となっているのかはわかりません。ただ蛇は矛立神社が祀られた昔から住み着いていたとだけ伝承されているのであります。

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さて、その他に気に掛かるのは、八岐大蛇として取り返した宝剣(天叢雲剣)をなぜ素戔嗚命(剣山大権現)に戻(奉納)したのかということです。そして剣山大権現に宝剣を奉納したのち、厳島神社から取り寄せたと云われる宝矛を後生大事に扱ったということです。

f:id:awa-otoko:20170621195515j:image鉾神社

f:id:awa-otoko:20170621195651j:image(鉾杉)

(平国盛が夢のお告げに従い、佐伯織之を厳島神社(宮島)に遣わし、御鉾を拝領して国盛へ渡している。国盛はこの鉾を御神体として鉾大明神を建立。織之の次男・清高を鉾神社の神主として代々受け継がれている。)

これら安徳天皇と平家一門の動きが古代からの神々の因縁、もしくは関係性に沿って導かれたものであるとすれば、とても面白い内容であると思います。

f:id:awa-otoko:20170621193158j:image(栗枝渡八幡神社

f:id:awa-otoko:20170621193310j:image安徳天皇火葬場)

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今回は各伝承を寄せ集めて考えた内容ですので、カテゴリーとしては番外編としております。ただ剣山の例祭には忌部信仰と平家が大きく関わっております。

f:id:awa-otoko:20170621194237j:image(剣山例祭中は平家の赤旗に埋め尽くされます。)

その他、歴史が古い厳島神社の祭事も併せて考えれば、特異点が見いだせるような気がします。(あくまで気がするだけな。笑)

それにしても安徳天皇が八岐大蛇、龍王の娘の化身とは。めちゃめちゃ気にかかる内容やなぁ。。。誰か関連性を調査してみてください。(´-`).。oO