awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

千波足尼(ちはのすくね)。名前の由来

f:id:awa-otoko:20170103214040j:image(栗生野)

国造本紀に云う粟国造とは、軽島豊明の帝[応神天皇]の御世に高皇産霊尊の九世の孫の千波足尼を国造に定められたとあります。
粟国造である千波足尼(ちはのすくね)ですが、とある書にて名前の由来が明記されていましたのでここでご紹介致します。(о´∀`о)ヤッタネ‼︎

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祖系ニ此名ナシ。按ニ古へ人ニ別名有ヌ可シ。亦千波ハ地名ニテ其地ニ住ミシ故エ別ニ本名ハアレトモ千波足尼ト云ヒシニモアラン。
国造屋敷ノ傳へアル栗生名ノ近辺ニ「千野名」アリテ由アリシ也。尚考フ可シ。

千野ハ柚宮八幡宮大般若経第十七巻奥書云平時嘉慶ニ年𡻕次戊辰楼鏡廾九日於大粟山千野坊◻︎海書寫畢云云トアル地ニテ古キ地名也。今坊ハナシ。

f:id:awa-otoko:20170103214244j:image(栗生野の御墓)

粟国造本館があった栗生野の近くに「千野(ちの)」という地名が存在していたらしく、その「千野(ちの)」より「千波足尼:ち(は)のすくね」と引用されたと記されています。

なんかくるしい言い訳のような説明にもとれますが、まぁひとつの手がかりとして受けとめて貰えればありがたいですね。(^人^)

阿波と安房の由来は「粟」。

千波足尼と千葉は「千野(ちの)」から… かもしれないですね。

2017年 明けおめことよろ。

新年明けましておめでとうございます。

今年の初詣もawa-otokoは粟国魂神 大宜都比売命にご挨拶してきました。

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f:id:awa-otoko:20170101014913j:image上一宮大粟神社

 

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f:id:awa-otoko:20170101015039j:image(一宮神社)

 

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f:id:awa-otoko:20170101015154j:image(天石門別八倉比賣神社)

 

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今年もawa-otoko's blogをよろしくお願いいたします。(о´∀`о)

粟國造家が通った祭礼の道

久しぶりの更新です。ついつい更新を伸ばしていたら大晦日になってしまいましたwww

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さて、年末の休暇を利用して粟國造家が大粟山まで通った「粟國造家の祭礼の道(←勝手に名付けたw)」を歩いてきました。2016年の最後はこの大宜都比売命と粟國造家に関連する内容を挙げて締めたいと思います。

 

スタート地点の粟國造家の本館(跡)は下分上山村栗生野に存在しました。粟飯原氏の氏神である妙見宮東側の本家跡が粟國造家本館跡ですね。こちらは明治期に粟生野名 國造屋敷ノ跡の古傳として記録されています。

f:id:awa-otoko:20161231134504j:image(栗生野 粟國造本館跡)

f:id:awa-otoko:20161231134941j:image(栗生野 妙見宮・天神宮)

f:id:awa-otoko:20161231134902j:image(栗生野からみた高根山)

くどいようですが粟國造家が大宜都比売命の祭礼を執行う際には、粟國造本館から大粟山の天辺ヶ丸(上一宮大粟神社)まで通ったと伝承されています。

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地図で確認すれば近く感じるのですが、歩けば1時間くらい必要な距離です。栗生野から中継ポイントの腰ノ宮まで行くまでに大宜都比売命の伴神を祀る谷皇子権現、野間妙見社、若宮社の付近を通過することになります。

f:id:awa-otoko:20161231135100j:image(野間 妙見宮)
調査当初は伴神旧跡の配置位置は祭礼の際に移動する経路(中継地)と考えていました。が、実際に歩くと主要道との高低差が激しく、自分の感覚に置き換えれば正直面倒くさいと感じる道程でした。立ち寄りすることで主要道から外れ、地味に距離と時間が経過するので神祇の際に利用する経路通過点ではなく、砦や城として利用された可能性が高いと考えました。
これらのように伴神の宮の位置関係からいろいろ考えると、延長線上に大宜都比売命の活動範囲を二つのエリアに分けて考えることができます。

一つは高根山〜栗生野エリア。もう一つは大粟山の上角・神領エリアです。

読む気にさせて申し訳ないですが、この内容は話せば長くなるのでまたの機会に語るとします。

元の話を戻します。

栗生野から大粟山までは距離としては一里余り。途中の大埜地 腰ノ宮で休憩を入れてから大粟山に向かうことが通例となっていたようです。

 f:id:awa-otoko:20161231135355j:image(腰ノ宮からみた大粟山)

f:id:awa-otoko:20161231135413j:image(腰ノ宮横の鮎喰川)

腰ノ宮とは休憩所より名付けられたものでしょう。腰を下ろす、または川を越す(腰:こし)の「こし」も兼ねているのかもしれません。

当地は見てわかるように簡易な渡し(船?)が設けられていた場所の可能性もあります。川を何らかの方法で渡る前に、とりあえず休憩しようと思うのは必然的なように思います。

f:id:awa-otoko:20161231145152j:image(腰ノ宮神社)

f:id:awa-otoko:20161231145313j:image(腰ノ宮神社 本殿)

腰ノ宮は葛倉宮を合祀し、「えびす(事代主神者粟國造粟凡直等之祖)」伝承も残していることは過去にも記載した通りです。

当地には大宜都比売命の腰掛け石も存在するとか、しないとかで真偽は定かではありません。(腰掛け石はどの石なのかわかりませんでした。) もしかすれば大宜都比売命が降臨した場所なのかもしれないですね。

f:id:awa-otoko:20161231135639j:image(腰掛け石?)

f:id:awa-otoko:20161231135738j:image(謎の立岩)

f:id:awa-otoko:20161231135820j:image(腰ノ宮境内)

腰ノ宮より鮎喰川南岸沿いを行き、鮎喰川と南北につながる上角名の御装束谷より大宜都比売命が御鎮座する大粟山へ向かいます。

装束谷とは現在の上角谷のこと。大粟山の東に位置し、國造家が神祗の際に装束を身につけて國造家へ通行した唯一の通行路が設けられた小さな谷です。

この國造家が立ち寄り装束を身につけた場所がのちに大通寺良蔵院とされ、さらには神宮寺になったと考えています。

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阿波国(後)風土記」にも上角名國造館伝承が記されているようですが、たぶんこの装束谷に存在した粟國造家所縁の館のことを指しているのでしょう。

 

装束を身につけた國造は大粟山の頂上 天辺ヶ丸へ向かいます。こちらも予想ですが往古は現在の参道は使用しなかったと考えています。

f:id:awa-otoko:20161231173049j:image(弐の鳥居)

f:id:awa-otoko:20161231173026j:image(参道)

f:id:awa-otoko:20161231172656j:image(参道)

なぜなら大粟神社は現在の社地に鎮座しておらず、頂上に存在していたからです。そして頂上 天辺ヶ丸の祠は東向きに設置してあることから、大粟山の東側に参道が存在したはずなのです。

f:id:awa-otoko:20161231172953j:image(頂上の祠)

f:id:awa-otoko:20161231173503j:image(天辺ヶ丸)

天辺ヶ丸に参拝した人はご存知かもしれませんが、神山温泉側にくだる広い道があります。道に従って降れば装束谷と古祓場に行き着く道です。こちらが古代の参道だったのではないかとawa-otokoは推理しているのでございます。

f:id:awa-otoko:20161231173535j:image(古祓場)

 

やはり実際の場所を実際に調査すれば古文書の読み下しからの推理や推測だけでは出てこないものが出てきます。

 f:id:awa-otoko:20161231175058j:image(天辺ヶ丸より栗生野集落を望む)

天辺ヶ丸から見える栗生野集落を眺めるだけでも古代粟國造家の気持ちが流れ込んでくるようです。

 

と、言う訳で粟國造家が通った祭礼の道を以って2016年最後の投稿としたいと思います。

来年は、「もっと簡単。さらにディープに。」をモットーに阿波の情報を提供できればと考えています。それではあと数時間ですが、よい年末をお過ごしください。(*´ω`*)

Legend of TAMETOMO‼︎

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源為朝所縁の地は穴吹町宮内の白人神社ではなく、二戸谷流域の一帯が為朝の歩んだ所である。

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こんな話が旧木屋平村には昔から伝わっている。

為朝を祀る白人神社は二戸と南二戸の二ヶ所にあり、宮内の白人神社は、もともと木屋平村市初にあった。

昔の大洪水の時に流され、宮内の地に引っかかったのでその地に祭ることになったと言われている。

鎮西八郎為朝の矢立石と称する立て石は、野々脇の奥の山神神社の裏山にある。高さ一・三米。幅四十糎。厚さ二十糎の板状の石である。もう一つは、南二戸の通称「空屋敷下はな」にあって、大きさは野々脇のものとほぼ同じである。
これは平安時代の終わり頃に源為朝が穴吹の友内山の南、二本杉峠から放った二本の大鏑矢が大空三里を飛び、当地に突き立ったことから村人はその神技に大いに驚き、それぞれ矢の立った場所に石碑を立て「源為朝の矢立て石」と今も呼んでいるのである。

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皆もご存知の通り穴吹 口山に鎮座する白人神社は伊弉冉神、瓊瓊杵尊天照大神、豊秋津姫命、崇徳天皇源為朝侯を祀る神社です。中世には徳島藩家老の稲田氏が崇敬した社であります。また、隣の神明社では五社三門が築かれ、これはアレで、ソレはあれで、、○・×・※・*など、いろいろと想像を掻き立てるところ場所なのです。

さて、白人神社と源為朝の繋がりは以前にも当ブログやFBでも軽く触れたことがありますが、この貴重な地域伝承を風化させないためにも、もう一度ここで記録しておこうと考えました。

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伝承にある源鎮西八郎為朝本人が白人大明神であるかは今となっては調べる術はありません。ここで特化したいのは、社の旧所在地と移動経路が詳細に伝承されていること。これはとても珍しいです。

伝承地の旧木屋平村 市初、二戸、南二戸という場所は阿波忌部直系と云われる三木氏の本拠地、貢(みつぎ)のすぐ目の前。高越山に連なる奥野々山の真裏に位置する場所です。立石を用いた祭祀や境界、目印として使用されているのは、間違いなく忌部祭祀と考えます。

このような特異な社が流されて行き着いたのが穴吹 口山の白人社こと白人大明神。こちらも当地にてさまざまな記録が残されているのであります。

【白人大明神由緒書】

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一部抜粋しておきます。

白人大明神とは鎮西為朝の御璽とあり、神宝は御弓、御矢であるそうです。また、白人三社(白人大明神、中白人社、外白人社)以外に同地に祭祀されている御崎大明神は白人大明神より先に祭祀されていた氏神なのだそうです(御崎は后に繋がる: 誰の后かな???)

考えるところ、忌部神や源為朝のほかにもさまざまな神が繋ぎ合わされた神であるようです。現在の白人神社の祭神がそれを物語っています。源為朝崇徳院は讃岐から穴吹までの南北ラインで伝承が残っているため、平家の落人がもたらした伝承だと考えています。その他の伝承は過去記事にも掲載したので割愛しますが、穴吹口山は忌部祭祀、天孫降臨、天照皇大神の伝承が交差するエリアであるために各伝承と各祭祀が混在し融合され原初の内容がもうわからなくなってしまっているようです。

源為朝が何故に木屋平で祭祀されていたのか?それを閉鎖的に祭祀継承していた忌部の75人の宮人とは?ここでの源為朝とは何者だったのか???

今回も謎の真相を解き明かすことはできませんでしたが少しずつ記録が発見されてきています。引き続き調査は継続したいと思っています。

今回はawa-otoko's blog 記念すべきトータル300UP目。今後もどうぞよろしくお願いいたします。(´-ω-`)

滝ノ宮砦は剣山大権現の関所

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徳島の剣山北麓にある旧木屋平村は平安初期に阿波忌部氏の一族が開いたと伝わり、平家の落人や阿波山岳武士の伝承が各地に残されていることは以前に投稿した通り。

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中世では国衙領であった麻植郡山分の種野山に属し、三木名、河井名、大浦名などの名で構成されていました。往時は在地領主が勢力を張っており、南北朝時代には北朝方の守護細川氏に従わず、南朝方として抵抗していていましたが、後年帰順を余儀なくされたのでした。

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言わずもがな木屋平村において活躍したのが地名にもなっている木屋平氏であります。

鎌倉時代に衰退した大浦氏より当地を入手し、当地を本拠地として勢力を拡大していったといいます。その過程で木屋平氏は血縁と領域を広げ、各々要所に同族を配備して一族の領域を堅固なものとしていきました。その中で太合に居住した木屋平一族の古見氏。その古見氏に伝わる古文書によれば滝ノ宮神社は森遠 木屋平氏の一族(太合木屋平氏)の砦であったと記録されているそうです。

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滝ノ宮は太合川木屋平川(穴吹川)に合流する左岸にある西、南、東の三方が崖であり、北は深い急坂の藪を背負った要害の地。このように堅固な要塞が予想できる滝ノ宮砦は以外にも森遠城のような居住地と要塞を兼ねた城ではなく、平常は自らの屋敷で農事にたずさわり生活し、有事の際だけ立て籠もる砦だったそうです。

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古見氏は太合の原窪に居館を構えた名家で、江戸時代には代々庄屋を務めた村の政を任せられていました。当時の邸宅は総欅造り、豪壮雄美な村で一番の広壮な屋敷構えであったということです。

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そんな古見氏がこの砦を策いたのは神社建立より以前の事。通説では阿波忌部氏直系である三木氏の次男が五人の従者を引き連れて森遠に入り、下名、弓道、森遠、谷口、川上の五ヶ所に住し、三木氏の次男は谷口に居を構えて大浦氏と名乗り開発を行ったと伝わります。これらを「大浦忌部の五軒の百姓」と呼び、この五軒の家は屋号を「おもや」、「おも」と呼ばれていたそうです。

さて、ここから本題。

鎌倉時代から南北朝時代にかけての木屋平氏が山岳武士として強固な軍団を組織して活躍し、衰退した大浦氏(忌部氏)に代わり大浦名を支配したとありますが本当にそれだけなのでしょうか。

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剣山大権現の存在からの行基空海の動向、また歴史に名を残した重要人物が剣山を訪ねて祈祷・祈願をした記録が残されています。(真偽は不明)

気になって剣山から森遠までの地理的伝承を調査してみると遠い昔、滝ノ宮から西の川上地区は往古は湖だったそうです。川上地区の上にそびえる中尾山は東に向かって高原が続き、弓道の陣の丸まで地面の高さが同じだった。そして大きな川のような縦長の湖の末から流れ出る水で大小の滝が作られたことから付近を「大滝」と呼ぶようになり、剣山聖域に入る境界となった場所に祠が立てられ、これが滝ノ宮神社になったそうです。

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これから推測すれば…

今尚、剣山大権現(素戔嗚命)が祭祀されていること、鎌倉時代以降も砦として使用されたこと。祠、砦は太古の昔からあった聖域への出入口の名残りではなかろうかと。

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また、境内には「牛」にまつわるものが多く残されていることから剣山大権現を守る一族、即ち「大人:おうし」が統治していたのでは。。。(ダジャレじゃないぜ☆)

さらに推測すれば、古見氏の開祖がその一族であった可能性が高く、古見氏については歴史の流れから木屋平氏(平家)や忌部氏と融合していった経緯から最終的には木屋平氏とされたが本来は素戔嗚命に連なる一族…

いや、、全部ひっくるめて考えると木屋平氏(松家)、忌部氏(三木)なども含めて、血脈の大元は素戔嗚命の裔だったのかもしれません。

ちなみにawa-otokoは木屋平の開祖は、阿波忌部の直系と云われる「三木氏ではない」と考えています。まぁどの時系列から判断するかという問題はあるのですが。。。この続きの話はまたいずれ書きたいと思っています。