awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

六根清浄(剣山例大祭)

 f:id:awa-otoko:20160717202516j:image

天照皇太神の宣く人は則天下の神物なり。須掌静謐心は則神明との本主たり。莫令心神是故に諸の不浄を見て心に諸の不浄を不見耳に諸の不浄を聞て心に諸の不浄不聞鼻に不浄を嗅て心に諸の不浄を不嗅口にて諸の不浄を言て心に諸の不浄を不言身に諸の不浄を触て心に諸の不浄を不触意に諸の不浄を思ひて心に諸の不浄を不想此時に清潔よき偈あり。

諸の法は影と像の如し 清く浄れば仮にも穢こと無し。説を取ば不可得皆花よりぞ木実とは生る我身は則六根清浄なり。六根清浄なるが故に五臓の神君安寧なり。五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり。 天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり。万物の霊と同体なるが故に為所無願而不成就矣無上霊宝宝道加持

(六根清浄大祓)

f:id:awa-otoko:20160717202647j:image

剣山は山岳信仰の対象とされ、古くから信者たちは厳しい行場修行を積んできた。毎年7月中旬に行われる剣山本宮例大祭では各地から信者たちが駆けつけ、クマザサに覆われた山頂を神輿を担いで勇壮に練り歩き、国土安穏を祈願している。

その神事に参加する者達が唱える「六根清浄」とは?

六根清浄(ろっこんしょうじょう)とは、人間に具わった六根を清らかにすること。

六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹である

眼根(視覚)
耳根(聴覚)
鼻根(嗅覚)
舌根(味覚)
身根(触覚)
意根(意識)
のことである。

六根は人間の認識の根幹である。それが我欲などの執着にまみれていては、正しい道(八正道)を往くことはかなわない。そのため執着を断ち、心を清らかな状態にすることを言う。そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じないために俗世との接触を絶つことが行なわれた(山ごもりなど)。「六根浄」ともいう。(Wikipediaより)

 f:id:awa-otoko:20160717204526j:image

f:id:awa-otoko:20160717204543j:image

f:id:awa-otoko:20160717204559j:image

f:id:awa-otoko:20160717204615j:image

f:id:awa-otoko:20160717204628j:image

神輿渡御当日は安徳天皇と素盞男命の御分霊を宝蔵石神社の社殿で神輿に遷す神事を行う。その後、神社を出発して山頂を目指す。クマザサが一面に生い茂るなだらかな「平家の馬場」を、神輿を担ぐ講の者、ホラ貝や神器を持つ者、平家一門のシンボルである赤旗を持つ人、さらに崇敬者が縄を引いて付き従い、「六根清浄」と、心身を清める詞を唱えながら進む。赤旗を捧げ、頂上まで共に六根清浄を唱えながら歩き神輿のお供をされると、心身を清める修行になり、運気向上の導きがあるとされている。

 f:id:awa-otoko:20160717210217j:image

この神輿渡御の行為については安徳天皇率いる平家一族が忌部氏に祭祀を委ね、素盞男命に平家再興の祈願を行ったさまを再現していると考えます。

そもそもひと昔は木屋平 森遠の平家末裔も神事に参加していたといいます。(現在は高齢化と住民の減少により参加していない。)

このように平家の一族は五感の清浄とシックスセンスを研ぎ澄ませ、荒ぶる神である素盞男命を祭祀することによって再興を図ろうとしたのであります。

因みにこの中世に起きた源平合戦からの敗北をきした平家が堕ち、平家再興の目論みによって剣山、木屋平忌部氏が進出してきたきっかけではなかったのかとも考えております。(剣山における素盞男命祭祀はもっと古いですが。)


今回は神事の参加で六根清浄して疲労困憊ですのでこのへんで締めたいと思います。オマケで円福寺の御護摩焚きの写真をご覧ください。

f:id:awa-otoko:20160717204950j:image

f:id:awa-otoko:20160717205005j:image

剣山本宮例大祭のあと、見ノ越にある円福寺にて行われる行事です。こちらも迫力があって見応え大いに有りです。こちらは寺ですから不動明王への祈願ですが、根元は素盞男命だと思います。(たぶん。)

粟国造家を継承した一宮氏の偽りの歴史

 f:id:awa-otoko:20160713232552j:image

 

社を己の住処にうつし世々斎き奉る事となりぬ。其の社は今、名東郡一宮村一宮大明神なり。(太粟姫尊考証より)

 

久しぶりの大宜都比売命関連の投稿です。今回は粟国造家から一宮氏が神録を奪った裏伝承と大宜都比売命の神宝にまつわる秘密を挙げていきます。

今回はわたくしの妄想ではなくて上一宮大粟神社の氏子大粟氏に伝わる「太粟姫尊考証」から抜粋します。(原文は読み辛いので現代訳に変えて説明します。親切やろ。ふふふ。)

 

f:id:awa-otoko:20160713230530j:image

(粟国造本館跡地奥にある墓)

諸伝説と阿波女神社宮祖系の趣にて国造は太粟姫尊の神裔に相違なく宗成の世迄世斎き奉り来しを小笠原氏に奪はれ神録を失ひ国造家の絶えるとあり、宮内大輔長宗宗成より神録付属の趣には記してあれども眞寶譲るべき筈なし。北条時代未足利の代の如く社寺本所領表向押領能わず、国造相続を名として實は武威に任して奪ひし事をしてとするべし。小笠原氏国造家相続して太粟姫尊に斎き奉し事武家古系圖に曰。

伝説と阿波女神社宮主祖系の伝承では国造家が小笠原氏に神録を奪われ国造家が滅んだとあるが、本当は粟国造家の神宝は小笠原氏に渡っていなかった。北条、足利時代にかけては小笠原氏が神宝を奪取することは叶わず、国造の相続を武威に任せて奪ったこととして記録したのである。

 

f:id:awa-otoko:20160713230718j:image

上一宮大粟神社 古社跡地)

一宮氏祖小笠原宮内大輔は小笠原長清の従弟なり。上総八郎広常と縁あり、小笠原弾正少弼長利 千葉家懇意をなす。弾正男子弥太郎を養子とす。鎌倉三代将軍実朝卿より健保六寅年八月従四位下に任す。負應弐未年三月源頼経将軍執権北条泰時より四国の守護職に居置る。弾正神領へ隠居して修験者大通寺正覚院と縁を結、国造家相続する。太粟姫尊国造勤め玉ふ云々。

一宮氏は千葉氏を頼り、千葉広常の子である弥太郎を養子とした。源実朝より従四位下、後に鎌倉幕府執権北条泰時より四国守護職を賜わる。当時大通寺正覚院は上角大通寺良蔵院の一派であり、国造家の血に連なる上一宮大粟神社近辺の大家であった。一宮氏はその国造家の裔とも縁を結ぶことで国造家を相続することとしたようである。

 

 

f:id:awa-otoko:20160713231003j:image

(一宮神社本殿) 

天正十年大宮司長門守成祐滅亡の後成祐の弟讃州水主住兵庫頭光考の光信大宮司を相続し信濃守に受領にて其子孫笠原氏にて代々国造家なりといひ、一宮大明神に仕へ奉るは何なる故と考えるに神領の云伝に昔、太粟姫尊の社遠山にて国司より奉幣便理悪しきにつき社を太粟山の口にうつす。今の一宮のやしろなりといふ旧説あり。是實説にて此時より神領村へ仕へ奉さいを渡し今の如く一宮村の社に仕へ奉しなるべし。

天正十年一宮成祐は長宗我部元親に謀殺され一宮氏は滅亡。しかし弟の讃州水主住兵庫光考が大宮司を相続する。その子孫が現在の宮司家である。
国司奉幣の際の利便性から大粟山より入口に社を移したとあるが、小笠原氏の利便性を優先して移動したのがのが本当のところであったようだ。

 

f:id:awa-otoko:20160713225951j:image

大宜都比売命神像)

 

f:id:awa-otoko:20160713231935j:image

(大粟大明神 本躰裏書写し)

国司と云伝へしも實は小笠原姓祭事の便理に任せし事なるべし。さもなくば神録を奪ひ奉し社をたとへ祭神は同じくとも他の社へ大宮司となりて仕へ奉る根據なし。是うつし奉りたる事明なり。今笠原氏に阿波女神社宮主祖系を傳へて国造家なりといふはこの由なり。いつ以うつし奉しといふ事詳しく知ざれとも神領村の神體裏書にある小笠原成久など古き神體を一宮村にうつし奉り其時新に像を造りて神領村へ納めし筈。この尚両社の神體新古を見極色きみなるは成久時代未考。

国造家と阿波女神社宮主祖系を伝承したと明言しているからには大粟姫尊の御神体を継承しているからこそ明言できることであり、上一宮大粟神社御神体を一宮神社に移動して掌握していないと明言できないことである。移動した時期は不明であるが上一宮大粟神社御神体裏書には小笠原成久とあり、本来の御神体を一宮神社へ、新しい御神体を造りそれを上一宮大粟神社に納めた可能性が考えられる。上一宮大粟神社、一宮神社の御神体の新古を見極めは現状も行われていない。

 

今回は古文書の書き下しだけで深くは突っ込みません。真偽は不明だから。でも新しい発見だと思いませんか?「神録を武威に任せて奪った。」この内容が偽りであるならばある意味面白いのですが。。。

また、「御神体」の争奪戦(穏便に交換した???)も本当であればミステリーです。こちらは現状無理な話でしょうが上一宮大粟神社と一宮神社の御神体を然るべきところで調査しないとわかりません。御神体の新古の判断がつかなければと大粟氏古文書の内容の真偽が判断できません。

今回は然るべき時に明確に答えがでることを期待しつつ終わりにしたいと思います。勿論、調査の延長線上に新たな発見、真相が見えてきたら改めてご紹介したいと思いますのでおたのしみに。

古社をつなげる上山の卯辰市

 まずは冒頭にてご紹介。

f:id:awa-otoko:20160709222633j:image
awa-otoko's blog facebookページを作成しました。よかったらページに「いいね」をお願い致しま〜す。ブログとはちょっと違う投稿なんぞを載せたりしておりますので興味のある方はどうぞよろしく。♪( ´▽`)

 

さて、今回は神山町の黒松八幡神社と宇佐八幡神社の繋がりについてご紹介したいと思います。
両社ともに神山町を代表する歴史の古い神社であります。

 f:id:awa-otoko:20160709215018j:image

(黒松八幡神社)

 

 

f:id:awa-otoko:20160709215051j:image

(宇佐八幡神社

また、この二社は粟飯原家と縁の深い神社なんですね。黒松八幡神社の文書の記名では粟凡直の姓を使用して粟飯原氏が記名していますし、宇佐八幡神社には粟飯原氏の氏神(妙見宮以外の社)を合祀しているとのことです。

さて、それではこの二社と粟飯原氏をつなぐ、卯辰市をご紹介したいと思います。

辰市は下分上山村粟飯原儀右衛門 仁志長左衛門の両名の創始にかかり、正徳元年十一月五日に始めて之を開き左右内磧に國中屈指の相撲を催ふと共に、御甌石には農具市を開市し遠近来り見る者堵の如く非常の盛況を極む、爾後毎年十一月初辰の日に催し、享保十五年寺久保宇佐八幡神社境内に移せり、上山村上分字川又黒松神社また卯市を開き、世にこれを上山卯辰の市と呼ぶ。

上山村(神山)の庄屋であった粟飯原氏を筆頭に始められた市。驚くかな他国からも力士を誘致し、100人以上集まった盛大な相撲であったとのことです。

 f:id:awa-otoko:20160709215748j:image

f:id:awa-otoko:20160709215607j:image

また卯辰市に際して三頭流という祭礼を催したとのことが伝えられています。三頭流はもとは祭頭流と云われ、鹿島神宮に伝わる特殊神事である祭頭祭と同じものであったらしいのです。

祭頭祭
祭頭祭は、元々は66郷の氏子が南北に分れ、左方・右方それぞれが五歳位の新発意を中心に行われます。色鮮やかな祭衣をまとった囃人が手に持った樫の棒を組んではほぐしながら神前へと囃しを奉納します。棒を激しく束ねるように打ち合わせて進む勇壮な様は、その中に力を凝縮させ五穀の豊穣と弥栄を願うまさに春の始めの鹿島立ち神事と言えます。祭頭祭は時代によってそれぞれの付会がなされており、神仏習合の江戸時代には新発意(出立)から常楽(彼岸)に至る「常楽会」とされ、明治になってからは五穀豊穣を祈る「祈年祭」とされ、昭和初期には当時の富国強兵の流れを受けて「防人の祭」とされました。いずれも「新たな出立」を意味しており、この祭りが日出づる東に位置し「出立・始まり」を司る鹿島の大神への古代信仰「鹿島立ち」を淵源としていることが伺えます。(鹿島神宮HPより)

f:id:awa-otoko:20160709215500j:image

(ネットより祭頭祭の写真を拝借させて頂きました。)

 ちょっと、、、ここ最近神山町で盛大に催されている七夕祭に似てませんか???

 f:id:awa-otoko:20160709221741j:image

こちらもネットより七夕祭の写真を拝借させて頂きました。)

粟飯原氏に繋がりのある黒松八幡神社(卯)、宇佐八幡神社(辰)の卯辰市に、今鹿島神宮に伝わる神事があったとは非常に驚きです。

こちらに関してはちょっと不明な部分が多いので、鹿島神宮との繋がりも見つけたら改めて投稿したいと思います。

阿波廃城考を参考にせよ。

きまぐれでの投稿です。(笑)

昨日、田口氏の祖先は武内宿禰であるとの投稿をアップしました。田口氏の他にも別の氏族を調査しておりましたところ、おぼろげではありますが氏族間の繋がりがみえてきました。阿波に築かれていた古城を治めたそれぞれの氏族を遡れば一つの氏族(宗家)に収まりそうなのです。それを謂わゆる粟凡直(一族)と呼んでいるのではなかろうかと。

大宜都比売命のテーマで明記した「粟国郡部の民は大宜都比売命と積羽八重事代主神の裔であり氏子である」という伝承の通り、その郡部に築かれていた古城を治めた氏族は阿波の国魂神の血を受け継いでいる氏族が占めていたことであろうと考えます。

f:id:awa-otoko:20160707224706j:image

今回は阿波の古城を治めた氏族の資料である「阿波廃城考」の画像を添付します。添付だけで具体的な考察や妄想は以下は一切入れませんので余計な背景がない状態で確認してみましょう。何か気付きがあるかもしれませんね。

 

 f:id:awa-otoko:20160707224731j:image

f:id:awa-otoko:20160707224748j:image

f:id:awa-otoko:20160707224845j:image

f:id:awa-otoko:20160707224908j:image

f:id:awa-otoko:20160707224925j:image

f:id:awa-otoko:20160707224949j:image

f:id:awa-otoko:20160707225115j:image

f:id:awa-otoko:20160707225227j:image

f:id:awa-otoko:20160707225750j:image

f:id:awa-otoko:20160707225815j:image

f:id:awa-otoko:20160707225923j:image

f:id:awa-otoko:20160707225943j:image

f:id:awa-otoko:20160707230000j:image

f:id:awa-otoko:20160707230022j:image

f:id:awa-otoko:20160707230043j:image

f:id:awa-otoko:20160707230056j:image

f:id:awa-otoko:20160707230114j:image

f:id:awa-otoko:20160707230129j:image

f:id:awa-otoko:20160707230143j:image

f:id:awa-otoko:20160707230205j:image

f:id:awa-otoko:20160707230249j:image

f:id:awa-otoko:20160707230308j:image

 

どうでしたか? 氏族間の繋がりなど見出せることができたでしょうか?色んな観点からみても歴史好き、阿波の郷土史に興味のある方はとても面白いと思います。何かしらヒントが見出せたらイイですね。(私は数点見つけました。)

それでは考察はもちろんのこと妄想もなくそのまま締めます。ネタはたくさんあるけど入力するのが面倒くさいのです。次回は入力頑張ろうかな。。。

 

普通に閲覧可能な古書なので問題ないと思いますが、今回管理区分が不明で古書掲載の許可を頂いてないままの投稿となりました。著作権、管理、その他何かしら問題に触れることがこざいましたら直ちに画像を撤去致します。その際はご連絡ください。

田口氏の祖先は武内宿禰!?

f:id:awa-otoko:20160706201819j:image

f:id:awa-otoko:20160707093540j:image

或記に云、武内宿禰之後胤阿波真人広記(天智天皇御宇の人)十二代之後孫阿波助国風(朱雀天皇御宇之人)其の子桜間文治行直其後十代桜間外記太夫良連子無為以甥良遠子桜間助是也而良遠之兄成良阿波民部号勝浦郡之城主也 成良之子伝内左衛門成直(一名教良)号 源平八島合戦之時成良真随従義経云々。(勝浦郡城者今田林寺境内也云)

最近追っております田口民部成良こと粟田口成良の祖先を遡れば武内宿禰にあたるとされた古文書が存在するみたいです。或記とは何なんでしょうか。とても興味が湧きます。

さて、上記内容を現代文にしたものが阿波学会研究紀要にございましてこちらより引用させて頂きます。(ひじょーにありがたいですな。私は漢文とか古文書を訳すとすぐ眠くなりますから。。。)

武内宿禰の末裔の阿波真人広純斉明天皇の白雉四年(658)に阿波国司として着任した。真人の末裔の田口(たのくち)氏が阿波に住みつくようになったのはいつの頃かわからないが田口息継は大同3年(808)5月に阿波国司に任ぜられている。田口氏は桜間に居て田口または桜間(さくらま)を名乗り、息継の何代か後の阿波介国風は桜間にいて、阿波国統治につとめ、その子文治直行は桜間の防備を整え、承平天慶(931~947)の頃、西海を乱した藤原純友が讃岐・阿波に侵入したのを迎え撃ったといわれる。直行は桜間を名乗って阿波を統治し、その子孫も代々その職を継ぎ、それより十代の桜間外記大夫良連まで桜間を名乗ったが、良連の跡を継いだ良連の甥成良(しげよし)は田口を名乗り武威を誇った。成良は安徳天皇の寿永元年(1182)正月阿波守となり、ついで民部大輔に補せられて阿波大輔と称し、吉野川下流の肥沃な沖積平野を占有して、「財甲充ち、兵馬も頗る充実し、その勢力は板野郡から勝浦郡地方にも伸び」と徳島県史にもあり、その弟桜間ノ介良遠は勝浦本庄に城を築いて蟠居していたので、当時の阿波における最大の勢力として知られていた。(阿波学会研究紀要より)

これによれば武内宿禰の末裔である田口一族は阿波国の名方郡(名東・名西)と板野郡、勝浦郡を拠点としていたことが分かります。

f:id:awa-otoko:20160706200805j:image

国府町と石井町の境にある田口息継の祠)

f:id:awa-otoko:20160706205323j:image

上一宮大粟神社

まず名方郡では国府町桜間池周辺から神山町神領の範囲になります。こちらは以前から説明しているように上一宮大粟神社を中心とした中社、下社による大宜都比売命の祭祀であり、田口氏の血も分けていると思われる粟飯原氏が継承していたのではないかというところです。(田口氏も含めて粟凡直一族という見解からのお話)

 

f:id:awa-otoko:20160706200903j:image

f:id:awa-otoko:20160706201421j:image

f:id:awa-otoko:20160706201439j:image

板野町 岡上神社)

そして板野郡では粟凡直一族によって岡上神社にて倉稲魂(うかのみたま:大宜都比売命の分霊)を祭祀しているのもまた周知されている内容。今回のメインでもある武内宿禰も含めれば矢武八幡神社で祭祀が継続されているのもご存知の方は多いのではないでしょうか。

 

f:id:awa-otoko:20160706201049j:image

勝浦町大宮八幡神社

f:id:awa-otoko:20160706201155j:image

(大宮八幡神社祭殿)

f:id:awa-otoko:20160706201250j:image

(本殿はもちろん朱の色ですな。)

f:id:awa-otoko:20160706201008j:image

境内社 武内神社)

勝浦郡では田林寺(丈六寺近辺)熊山に拠点があったとのことで、勝浦川の北岸にかけて大粟氏が氏子で大宮八幡神社が鎮座しております。また驚くことに境内社には武内宿禰を祀る「武内神社」が存在します。たしか高良神社もありましたよね。勝浦川沿いに。

 

以前にぐーたら氏から聞いた内容がございます。

「大粟神社 大宮司家であった田口氏は武内宿禰に繋がる。」と…

話を聞いた時は私自身、あまりぴんとこなかったのですが以下の内容からなるほどと思いました。

「千」波足泥(畠多神=秦氏)と考えるのは当然の帰結と思えますが、畠多神、あるいは波多氏の系統として武内宿禰を想定することも可能かと思っております。
ご存知のように「波多矢代宿禰」は孝元天皇の孫「建内宿禰」の長子であり「波多朝臣」の祖でありますが、この系はあくまで蘇我氏、葛城氏の系統であり、秦氏とは別物であると考えております。
石井町に曽我氏神社があり蘇我氏を祀り、石川神社に石川麻呂を祀り、鳴門市に葛城神社、そして徳島市眉山、以の山(眉山)の西の耳原、亀の甲羅の形をした小峰にあるのが「以の山 甲羅峯」であり、あるいは武内宿禰の墓陵との説もあります。
阿波には結構、武内宿禰の痕跡じみたものが多く、これも一説には上板町で死去したとの伝承も残っているようです。(ぐーたら氏facebook記載文からの引用)

 ※ぐーたら氏、勝手に掲載したけど怒らないで… (・_・;

 

阿波での武内宿禰を祭祀する古跡より粟凡直一族の関わり、また中世氏族との繋がりを見いだして氏族の伝播を調査することで新しい事柄が浮上してくるように思います。

以前は粟凡直一族をはじめとする古代氏族の調査ばかりしていましたがその流れをくむ中世氏族の動向も見逃せません。少しずつですが田口氏から大宜都比売命武内宿禰の痕跡が出てきました。現在調査中なのは◯◯の◯◯氏族と田口氏の関わり。(すぐネタをパクる奴がおるから言わんぞ=3)


ちょっとこちらは時間がかかりそうですが、お宝の内容が出てくる可能性が高いです。期待せずに暫しのお待ちを。
出せる内容が見つかるまではあっちこっち色んなカテゴリーから掻い摘んで阿波の埋もれた秘密を紹介していきまーす。それでは今回はこのへんで お・わ・り 。