awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

国造家ノ将、鬼籠野ニテ死ス。其跡ニ庚申塚置キタル也。

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暦應四年十月非道ニモ長宗兵力ヲ以粟國造家ヲ攻メ神録ヲ横領シ祭官職ヲ強奪セシ也。其證如何ト云ニ今神領村ノ隣村ナル鬼籠野村鬼籠野名ト云地ニ辻堂アリ。其傍ラニ周囲二丈許ノ杉大木アリ(其小祠ハ神佛混偖禁止ノ際ニ排除シテ其跡ニ庚申塚置)

里老口傳云此杉ノ木ハ昔ノ一宮合戦ノ時一宮方流落ノ士 高橋某運命谷リ此処ニ於テ主従切腹シテ亡ヒタリ、即チ杉大木ハ其基印ニテ小祠ハ霊ヲ祭リ供養石ハ塔婆也。今高橋七蔵ナル者ノ先祖ト云ヘリ(此近辺ニ高橋丹後守ト云靈ヲ祭リタル祠モアリ、同時ニ討死ノ人ナル可シ是モ神佛混偖禁止ノ際ニ取廃ス)

偖其一宮合戦ハ年暦ノ傳へハ無ケレドモ彼ノ供養石ヲ調査スルニ其數十一枚アリテ何レモ文字暦滅不明瞭ナル中ニ一枚文字明瞭ニ読ミヘキガ有リテ梵字三箇ト 六十月日先方三十三回ト細ク彫刻アリ依テ應安六年(康安モ有ドモ六年ノ暦ナシ)ヨリ送ニ三十三年ヲ遡リ笄フルニ彼ノ一宮合戦ハ暦應四年十月ノ事ト知ラレタリ。

はい。久しぶりに粟国造家のお話です。
時は南北朝時代大宜都比売命の神録を奪おうとする小笠原長宗。そして流れ落ちてきた高橋某とは神録強奪に抗う粟国造家 一宮宗成に属する将でした。
国造家が祖神より相伝した所領と祭官職を他族である小笠原氏に譲り与えるべき道理は無しと断固抵抗した粟国造家。国造家の一員であろう高橋某が家来と共に潔く切腹して果てた場所が当地であります。

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もともとは杉の大木があり、その傍には高橋某達を祀る祠があったそうですが、神仏分離令の際に排除されて代わりに庚申塚が置かれたとのことです。

f:id:awa-otoko:20170701211032j:image(写真でわかるように庚申塚は比較的新しく、基礎石?は年代が古く見えます。)

鬼籠野名は社地大粟山に路程近き場所であり、両軍にとって熾烈を極めた場所だったのでしょう。大粟山まで押し進めたい小笠原軍、くい止めたい粟国造家軍。当地(鬼籠野)付近の範囲で粟国造家軍は総崩れとなってしまったものと思われます。

このような状況からか、鬼籠野にはその他に供養石が十一基存在していたと記録には残ります。

f:id:awa-otoko:20170701211642j:image(この板碑も… )

f:id:awa-otoko:20170701211735j:image(鬼籠野神社にある一宮神社遥拝祠も… )

awa-otokoの想像の中では、鬼籠野神社が中一宮とされた理由の中に小笠原軍、粟国造家軍戦没者の霊を弔う意味も一端に含まれていたのではないかと考えています。

さて、このように明治に記録された粟国造家の古跡所在地が少しずつですがわかってきました。まだ他にも色々と発見があったのですが、この続きはまたの機会にしたいと思います。

水軍 河野氏の里 「火山寺(樋山地)」と焼山寺

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麻植郡 鴨島町樋山地は標高二五〇〜四〇〇㍍の高所に飛島のように忽然と開かれていた集落であります。多い時は約三十戸〜二百戸もあって栄えていたようですが、現在は廃集落となっています。(地主は時々来ているようです。)

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さて、この樋山地、このような辺鄙(すいません。。。)な場所の集落として栄えた当初の起りはご存知でしょうか。どうやら伊予国 河野一族が開拓しながら拡げたようなのです。

河野氏 - Wikipedia

南北朝時代に阿波細川氏の侵攻と同族の内紛のために戦乱を回避して阿波に入国した伊予国守護職河野氏の一族の一人が当地に落ちて来たと伝承されている。を血で洗う武力闘争に幻滅を感じた河野某は妻子と共に僅かな信用がおける従者を連れ密かに城を出た。どこへ行くともなく城を出たものの、名を知らない者はないほどの家柄である伊予 河野一族。いくら人数が少なくても平地部を無事に通れる筈もなく、必然的に深い山を伝いながは歩けば自然と阿波に入った。辿ってきた道程は山伏に姿を変えた南朝の密者が往来した路であった。
歩き疲れて峠道の祠の前で休んでいると、北方斜面の下方に谷を挟んで馬の鞍のような斜面が目に入った。此時代は兵農分離をしておらず、幸いに従者達はみな農業の経験を持っていたことにより、一行は当地で帰農することになった。
まず取り掛かったのは、山を焼いてその後に野菜や蕎麦の種を蒔く焼畑農業である。(殆ど毎日山を焼いて先住者と揉めたとの伝承もある。)畑ができ、住居も完成すると、まず最初に寺を建立した。それが火山寺(樋山地)と呼ばれたのかはわからないが、飯尾報恩寺の前身であるとことは確かなようである。即成山報恩寺と言われるのは、急いで建立した寺だったのかもしれない。
なんとか一家が生き延びられ、従者共に安住の地を手に入れた河野某は、これは全て従者の努力であったと恩に感じ、従者を「御被用(おひよう)ん」として、河野本家の裏山最高部に神社を建てて祀ったという。

はい。ところどころに「ん?」と考えるポイントはありますが、とりあえず伝承されているうちの一説を紹介しました。awa-otoko的には南北朝時代の入国であれば、遡って田口氏との過去の確執も残っていて難しいと考えました。が、、、冒頭に掲載した樋山地の八幡神社は中世に山岳武士、山伏の安全祈願のために建立とあります。これに依るならば、早い時期に河野一族の入国があったのかもしれません。

f:id:awa-otoko:20170624180431j:image(樋山地 八幡神社

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f:id:awa-otoko:20170624180748j:image(社殿横の石祠)

河野家の阿波入国に関してはもう一説あります。こちらについては樋山地に建つ立派な河野家先祖の碑とともに伝承されている内容でございます。

f:id:awa-otoko:20170624175055j:image(河野家先祖の碑)

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人皇第七代孝霊天皇末葉元伊豫國城主
從五位上越智 河野伊豆守萬五郎通吉 
大通院殿前豆大守天叟長運大禅定門
天正十八年寅三月二十九日逝去

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碑文にある河野萬五郎通吉の子孫が江戸時代に稲田氏を頼って移り住んだという説がそうです。

という訳で中世の名残りを引き継ぐ建造物もあるし、天正からの流れをくむものもあり、はっきり言ってわかりません。(断言できるだけの情報がないです。)

ただ、引用にもある樋山地の地名由来は火山寺(ひやまじ)との伝承もあり、こちらは神山町焼山寺を連想させるものです。

衛門三郎 - Wikipedia

そして焼山寺といえば杖杉庵の衛門三郎伝説。こちらは衛門三郎は伊予河野家の生まれであり、死後も河野家のせがれとして転生するのです。(空海のはからいでね。)たぶん樋山地と焼山寺、そして伊予 河野家はとても関係が深い(と思います!!)。

またその流れをくむ即成山 報恩寺も北麓の鴨島町にあり、南麓の神山町同様に河野姓の方が多く住んでいらっしゃいます。

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f:id:awa-otoko:20170624185712j:image(西麻植八幡神社 境内に鎮座する河野大明神)

神山と鴨島河野氏。そして伊予。ひょっとしてひょっとする◯◯が繋がる?!とりあえず現状は資料不足で出せません。。。まだまだ他にも気になるところが幾つかありますので、もう少し力を入れて河野氏の調査を着手していこうと思っています。

それでは今回はここまで。(・∀・)

 

安徳帝は八岐大蛇の化身 矛立神社の蛇神とは?!

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八百年もの昔、源平の合戦に敗れた平家の武将と安徳天皇平家物語では最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼平時子)と共に壇ノ浦の急流に身を投じたとされています。そして安徳天皇崩御したとされてから、以下のようなことが世間では噂されたのであります。

昔出雲國肥の河上にて素戔烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首(かしら)八の尾を表事(へうじ)として人王八十代の後、八歳の帝(みかど)と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。

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平家物語」では、八頭八尾の八岐大蛇は、人王八十代の安徳天皇となり、八歳の時に天叢雲剣を取り返して海底に帰っていったとし、「愚管抄」では安徳天皇平清盛の請願により厳島明神(厳島神社)が化生した存在であるから龍王の娘であり、海の底へ宝剣と共に帰っていったのだろう」としています。

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こちらについては安徳天皇を大蛇や龍の化身としていることから平家一門(安徳帝も含めて)は、蛇をトーテムとする古代海人族の何かを強く継承していたなどと考えられないでしょうか。(ちょっと考えが飛躍し過ぎだな。笑)

また、安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があります。拙ブログ記事でも過去に紹介したように、壇ノ浦にて海戦を繰り広げられる前に讃岐屋島の合戦の戦況不利から今後を見越し、讃岐山脈を超えて阿波の三好、木屋平、祖谷に落ちのびた伝承が残されているのであります。

 f:id:awa-otoko:20170620213709j:image(落合峠)

 f:id:awa-otoko:20170620213630j:image(落合集落)

名より名に出づるには山又山、谿(たに)又谿を超えざる可からず、谿川の大なる者二ツ蔓橋を架すること八ヶ所、其他見る目も危き柴橋、獨木橋を架して、僅かに小徑を通すのみ、地既に斯くの如きを以て保元、平治の騒亂より養和、寿永の役に至るまで、敗将残卒の生を偷むものは逃れ来りて隠捿し、山幽に水清き所に於て終焉せるもの多かりき、故に其民は源平藤橘何れかの武士の裔ならざるは無く、門地ある者を名主に仰き、其の命聴きて団結一致し、堅く小天地に割據する事恰も支那春秋列国のそれにも似たり、故に俗勇強を貴びて絶へて他郷と交らず、自尊自大頑として己を抂ぐることを爲さず、されば細川、三好の盛を以てして能く是れを服するは能はず、長曾我部の強を以てして猶ほ是れを従ふる能はざりき、又土豪の多くは正平中の綸旨執達狀を傳ふ、其王事に勤めて細川氏(足利尊氏に黨せる)に抗敵せること想ふべし、蜂家の封を此國に受くるに及び一大果断の下に壓抑を加へて再び起つ能はざらしめ、爾後良民と化して明治の聖世に至れり…(明治期の東西祖谷村の紹介より抜粋)

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隠遁場所として行き着いたのは山深き秘境である阿波国の祖谷。まずは平国盛が祖谷を平定し、別に移動した安徳天皇木屋平で匿われてより祖谷に迎えられたそうです。(この他にも諸説あり)

f:id:awa-otoko:20170620233358j:image(御塔石)

安徳天皇は自ら剣山に赴き、もはや運命共同体であった平家一門のために武運長久を祈り御剣を御塔石の下へ納めたと伝わります。

剣山に宝剣の奉納を終えた安徳帝の一行は、落合集落の傍らに清水が湧く清らかな場所を見つけて休息されました。その時に従者は安徳帝をお護りする尊い御矛を丁寧な敷物を敷いてから岩に立てかけたそうです。この矛は帝をお護りする尊いものであったので土地の人達はこの岩を「矛立石」と呼び、この岩の根元に祠を建てて神酒をまつり、くさぐさのお供えをし、神官を招いて「矛立神社」として祭祀するようになりました。

f:id:awa-otoko:20170619232327j:image(矛立岩 全景)

f:id:awa-otoko:20170619232519j:image(矛立岩 部分撮影)

f:id:awa-otoko:20170619232736j:image(住宅の居住地範囲なので奥まで進入して祠を撮影するのは控えました。)

この矛立石がある場所は、昔から久保名と落合名を結ぶ重要な交通路。とてもきれいな清水が湧いていた場所であったそうです。残念ながら落合小学校から坂道を登った公営住宅の敷地内(旧落合小学校のグラウンド跡)になってしまっており、現在は見る影もございません。(埋め立てられた模様… )

そんな矛立岩(矛立神社)には、いつの頃からか蛇神に守られているという伝説も付け加えられました。それは安徳天皇が八岐大蛇の化身、もしくは龍王の娘という伝承から蛇神祭祀となっているのかはわかりません。ただ蛇は矛立神社が祀られた昔から住み着いていたとだけ伝承されているのであります。

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さて、その他に気に掛かるのは、八岐大蛇として取り返した宝剣(天叢雲剣)をなぜ素戔嗚命(剣山大権現)に戻(奉納)したのかということです。そして剣山大権現に宝剣を奉納したのち、厳島神社から取り寄せたと云われる宝矛を後生大事に扱ったということです。

f:id:awa-otoko:20170621195515j:image鉾神社

f:id:awa-otoko:20170621195651j:image(鉾杉)

(平国盛が夢のお告げに従い、佐伯織之を厳島神社(宮島)に遣わし、御鉾を拝領して国盛へ渡している。国盛はこの鉾を御神体として鉾大明神を建立。織之の次男・清高を鉾神社の神主として代々受け継がれている。)

これら安徳天皇と平家一門の動きが古代からの神々の因縁、もしくは関係性に沿って導かれたものであるとすれば、とても面白い内容であると思います。

f:id:awa-otoko:20170621193158j:image(栗枝渡八幡神社

f:id:awa-otoko:20170621193310j:image安徳天皇火葬場)

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今回は各伝承を寄せ集めて考えた内容ですので、カテゴリーとしては番外編としております。ただ剣山の例祭には忌部信仰と平家が大きく関わっております。

f:id:awa-otoko:20170621194237j:image(剣山例祭中は平家の赤旗に埋め尽くされます。)

その他、歴史が古い厳島神社の祭事も併せて考えれば、特異点が見いだせるような気がします。(あくまで気がするだけな。笑)

それにしても安徳天皇が八岐大蛇、龍王の娘の化身とは。めちゃめちゃ気にかかる内容やなぁ。。。誰か関連性を調査してみてください。(´-`).。oO

俺の屍を越えて行け(もうひとつの庚午事変)

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今回は番外編。明治三年に阿波国で勃発した内紛騒動 庚午事変にまつわるお話でございます。庚午事変については、日本法制史上で最後の切腹刑の処分が発せられたとして有名ですね。

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f:id:awa-otoko:20170610150640j:image眉山 大滝山峯薬師横にある庚午事変の石碑)

日本全国が勤皇と佐幕の二派に別れ、力と力の対決で揉めに揉めたあとに明治維新という新政府の変革が行われた。王政復古については矢継ぎ早に西洋の文化を取り入れるきっかけとなったが、江戸幕府下の武士・百姓・町人(士農工商)の別を廃止し、「四民平等」を謳ったことにより、権力の世界に安住していた武士たちは、これまでになく行き場のない不安と憤りを隠せないでいた。そのような状況から阿波国徳島藩)で勃発した内紛が庚午事変である。(庚午事変概要は下記に引用)

庚午事変

庚午事変(こうごじへん)は、明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。

徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が以前よりあった。幕末期、徳島側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣(蜂須賀家の家臣の家臣)である稲田家家臣が卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。

明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。また、その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町(現在の美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟であった。

政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調査した。少なくとも洲本では意図的に緊急の措置を怠った疑いがある。そのような事実が少しでもあれば、徳島藩知事であった蜂須賀茂韶を容赦なく知藩事職から罷免するつもりであった。

当時の日本は版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だった。政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で是非とも克服してゆかねばならなかった。だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。

結局、政府からの処分は、徳島側の主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首(後に蜂須賀茂韶の嘆願陳情により切腹になった)。これは日本法制史上、最後の切腹刑となった。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。知藩事の茂韶や参事らも謹慎処分を受け、藩自体の取り潰しはなかったものの、洲本を含む津名郡は翌明治4年(1871年)5月に兵庫県に編入されている。

稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれている。(wikipediaより)

さて、洲本ではすでに焼き討ちの火の手があがり、徳島でも一番討伐隊は脇町を攻撃。二番討伐隊も大挙進発しようとしていた。藩の重臣たちはこれを止めるべく説得したが、血気にはやる連中はこれを聞かずに押し出た結果となり、これを知った監察 下条勘兵衛重孟、弁事 牛田九郎尚徳は、蜂須賀茂韶 藩知事の留守中に大事を引起しては申し訳ないと馬を飛ばして後を追ったのである。

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f:id:awa-otoko:20170610153507j:image(石井町浦庄 願成寺)

ようやく名西郡石井町浦庄 願成寺近くで討伐隊に追い着くことができた。直ちに引き返すように諭したが興奮しきった藩士達は耳を貸さず、またもや押し進めようとした。

 

“どうやってもここで食い止めるべき… ”

 

意を決した勘兵衛と九郎は、「それほど行きたければ、われわれ両名の屍を越えて行け。」と願成寺の縁先で見事に立腹を切った。

これにはさすがに血気に盛っていた藩士たちも両名の心意気に圧倒されて引き揚げることとなり、事無きを得たのである。

f:id:awa-otoko:20170610153441j:image(願成寺横の五輪塔墓)

事件が落ち着き、関係者の処分がそれぞれ決まり、下条と牛田の両名は暴挙を阻止した功績により賞賜された。下条勘兵衛は徳島市瑞巌寺、牛田九郎は同本福寺に葬られ、そして両名が切腹した願成寺には両名の武士道を讃えた庚午記念碑が建てられたのである。

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f:id:awa-otoko:20170610154232j:image(願成寺 境内にある庚午記念碑)

当時の実見者による口傳によれば、一人の切腹は見事なものであったが、一人は難渋したとされる。牛田九郎が先に切腹し、「俺の屍を越えて行け。」といったのも、見事な切腹をしたのも九郎だったという話が遺族の記録にも残されており、当時の一般的な認識もそうだったようである。

 

はい。このようなドラマのような展開が、繰り広げられた場所が、時代を経て忘れ去られてしまうのはとても惜しいと思い、今回番外編として取り上げてみました。また気になった近世ものがあれば番外編やります。(・Д・)ヤルゼ!!

箸蔵寺に隠された「箸:はし」とは何なのか⁉︎

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はい。今回は三好の箸蔵寺。讃岐金毘羅さんとは深い深い関係にあって古より奥之院とされております。(結構距離が離れているのにね。)

ちなみにawa-otokoは大國主命少彦名命が伊豫国の道後温泉への行幸途中に立ち寄った場所の一つが箸蔵寺だと考えていましたが、調べて行くうちにどうもそれだけではないと感じるようになりました。

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以つて金毘羅奥の院と稱ふる所以を知るべし

登箸山後嶺四讃諸勝集于目下宛然可數也 新居水竹
只訝遊仙夢有蹤。雲山何首幾重々。渇來愛一升水。憩去偏宜七本松。縹緲江城睛日麗。依稀嶽廣瑞烟漂。分明縮地登臨宗。輕擧呤笻欲化龍。(一升水七本松皆嶺上地名)舟中望箸蔵寺 美馬太玄
山腹燈臺望初分。舟中指点挿天雲。高僧盡日清齋處。定是香烟一烓薫。 箸蔵谷 三宅舞村
邃寂晝猾冥。深渓杉檜靑。傅言藏箸處。山鬼鎖岩扃。

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當寺傳ふる處の古記録中空海の筆成りしと云ふものあり。其文を抄録す。
夫具明目者。善視隣至繊。有數術者。亦量蘇迷太洪。獨絶䅐離量者。其椎本地法身也歟。发有山。在阿之北境。起伏自不凡。似有含光者。躋則遇一神人。曰法之行也。地靈爲之羽翼。此山之靈。亦足以闘利生。須其顧悲願以賛我志。是我本地醫王佛之本誓也。余於是始知。神人之爲金毘羅神將云。

天長五年    空 海

箸蔵寺は天長五年に弘法大師が四国巡礼の際に箸蔵山で金毘羅神の御神託をお受けになり、御本尊を刻まれて奉安し当寺を開創されたと伝わります。

いつものことですが、空海が巡礼の際に立ち寄った箸蔵山で金毘羅神の御神託を受けたのではなく、意図的に当地を訪ねたのが本当のところでしょう。当山の何かを隠すため、または保護することを目的として寺を開基したのは明白です。

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此の箸蔵山の樹を伐ること山神殊に惜み給ふ、霊窟のあたりへさ人々行く事あたはず、この寺の住僧すらむかし行て未帰らず、神林の外なる此の寺の林樹を買てさへ伐取し人はもとより其の木を亦買せし先々まで神罰あり、故にそれを知りては薪炭にてもあれ人畏てかふ事を忌む。

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この箸蔵寺箸蔵山)、やたらとバチがあたる等の伝承を耳にします。その神罰を与える者の正体は神であったり、天狗であったり、また仏法僧と鳴く怪鳥だったり。よほど箸蔵山周辺に人が入ったらまずい物があったのでしょう。(神は金毘羅大権現。天狗は山伏、修験者の出入りがあったことを暗喩し、仏法僧の鳴き声は法螺貝の音か?)

ここ箸蔵寺金毘羅大権現 奥之院。やはり讃州 金毘羅神を中心として「何か」を蔵していたことはまず間違いないと思います。

讃州金毘羅神、例年十月御祭礼行啓終て陪従の人々へ御山接待所にて饗饌あり、喰ひ終ると椀も箸も其の儘さし置て下山するなり、十日十一日共に申刻過より上なる山門に竹垣を結て登山を禁す、さて如何なる故にや彼の喰捨て置きし箸を残りなく三好郡箸蔵山の岩倉へ其の夜中に山神の持運び納め給ふと云、或は除災の護衛にせんとて宿所へ持帰り、又は試に御山の石垣の間などへ蔵し置ても後日悉くこれなし、奇異なる事なり。

讃州金毘羅神の奥之院ということで、地理的に瀬戸内海から遠ざけているように考えられます。

その他にも箸蔵寺の南東方向には天椅立(あまのはしだて)神社が鎮座し、こちらの神社の椅立(はしだて)も箸蔵寺の箸と関連があると考えます。

金毘羅神と空海がここまで隠した「箸(椅): はし」とはいったい何だったのでしょう。これを突き詰めるには、讃州金毘羅大権現の神事も調べる必要がありそうですね。