豊玉比賣命の祟り(清玄坊神社)
(徳島公園内 城山山頂 清玄坊神社)
蜂須賀が阿波に入国した当時の以乃津(現在の徳島公園一帯)は平地ではなく小さい島々がより集まった海辺でした。
(以乃山:(眉山)から見た城山)
蜂須賀はその中心にあった美しい天然の古木が生え茂った小島に目をつけて海城を造ろうと計画。しかし、その小島の山頂には邦国一社を誇る「天石門別豊玉龍王宮」と摂社「住吉神社」が鎮座しており、その社を清玄坊がお守りしていたのです。(天石門別豊玉龍王宮の祭神は豊玉比賣命、住吉神社の祭神は神功皇后)
蜂須賀は清玄坊に立ち退きを要求しましたが、絶対にこれを守ろうした清玄坊は首を縦に振る訳もなく、頑に拒否するばかりでありました。
業を煮やした蜂須賀は清玄坊を現在の紙屋町三角公園付近に呼び出し、背後から矢を射て清玄坊を射殺したのでした。
(清玄坊が忙殺された現場)
蜂須賀は速やかに小島の山頂に城を築城しましたが、その後に清玄坊の首が城下を飛び回り、挙げ句の果てに藩主が取り憑かれたのか病になってしまいます。(いちおう清玄坊の怒りを鎮めるために鬼門の方角の石垣に五輪塔を埋め込みんで築城していますが効果はなかった。笑)
(五輪塔が埋め込まれた石垣)
やがて清玄坊の祟りを鎮めるのには「天石門別豊玉龍王宮」を再建し、「豊玉比賣命」を祀ることを進言した者が居たようで、「豊玉比賣命」に誓約をしたのです。
(豊玉龍王宮絵図)
蜂須賀藩が続く限り、代々の藩主自らが神主となり、「天石門別豊玉龍王宮」の祭事を行い祀祭を行う。
という誓約です。
蜂須賀は明治の初めまで必ずこの「豊玉比賣命」の神事を藩主自ら神官となって行い、「天石門別豊玉龍王宮」の御前では藩主自らも下乗(馬から降り慎む)を守ってきました。
ところが、明治時代に入ると阿波で暮らすことも遠のき、結果、居住地を自治体に寄付し、東京暮らしになってしまった為に「天石門別豊玉龍王宮」の神事が止まってしまいました。
(この藩主の時に内紛が勃発(庚午の変)し、日本最後の切腹が行われた)
(天石門別豊玉龍王宮跡地)
不思議なことに「豊玉比賣命」の神事が途絶えると蜂須賀家も完全に崩壊し、市政発足時には十大都市の一つに数えられた徳島市は衰退の一途を辿り、代々の徳島市長(以乃津の長)になった家も同様に栄えた試しがありません。
このように阿波神との約束を破った蜂須賀の所為の結果、阿波が衰退してしまったという伝承が残されているのですが、、、
(豊玉比賣神社)
(龍王池の手水鉢)
今後の阿波の盛り返しに期待しております。