祠は朽ちても魂朽ちず…(小笠原神社・重清城址)
重清村字城名にあり、小笠原豊後守長政此に據り剛勇にして屢次戦功あり、天正六年大西城主大西出雲守三好に背き長宗我部に降るに及び、其子白地城主大西角養、其弟七郎兵衛、久米刑馬亮をして誘殺せしむ、時偶正月に會す角養等饗を城中に受く、酒酣にして忽ち起て豊後守を刺し併せて其兒女を殺す、角養仍て自ら移て爰處に居る、同十年十河保大擧して来り攻るに及び、角養城を棄て豫州宇摩郡に逃れ後遂に害せらる、存保乃ち源重平をして之を守らしむと、今猶残壘遺礎等散点し牙域の所在また認むべし、盲井あり固頗る深かりしが落城の際重寶及び武器の類を投じて埋められたりと傳ふ、牙城の址より南二丁の處一小庵あり枯木庵と云ふ、是れ輙ち小笠原氏菩提寺の遺址なり、屢次回禄の災に罹りて傳記遺物等も傳はらず、近傍に五輪塔數基當時の記念として存するのみ、聞くならく重清村に小笠の姓を襲ふもの二十戸あり、何れも豊後守若くは一族の末葉と爲す、其祖正月に滅されたるより古来年頭に酒を用ゐざるを例としきと。
はい。小笠原氏の居城であった重清城址です。
鎌倉時代末期に小笠原長親が城を構えて以降、小笠原氏は代々当地を治めておりました。(もともと当地でいたという説もあり!)
上記引用文にあるように重清城は小笠原氏の重要な拠点であり、それを物語るように小笠原神社が城址に祭祀???されておりました。(近年、危なっかしいと噂されておりましたがとうとう朽ちて潰れてしまったようです。(泣))
さて、この重清城周辺には興味がそそられる場所がたくさんございます。さっそく紹介していきましょう。
(倭大國魂神社)
まず、小笠原神社より東三百㍍に鎮座する倭大國魂神社。小笠原氏が城主の時には十貫の神田を寄附、「式内社として境域大なりしなるべし」と伝えられています。こちらの社は色んな観点からみて有名ですよね。
その他では妙見町。往古重清の竹内より西南の地には妙見祠がある故に呼ばれた地名です。昔は吉野川が重清の南側に接していたそうで「妙見松下に舟を繋ぎし… 」と伝わります。
(最近、貞光九市が復活したみたい。)
また当地では妙見市・九市と称した行商物質を列し、盛んな市も催されたそうです。百年以上前にこの市の株を貞光に譲ったため、妙見市を外した九市を開いていたそうであります。
さて、古代においては麓のいたるところに古墳が存在する重清。往古から地域は小笠原氏が統括していたこと、また阿波国造家に養子に入った一族が存在することから神山神領からも様々なものが移動していたはず。
妙見祠…
神山 粟飯原氏の氏神は妙見宮にて祭祀されています。こちらは千葉氏が妙見菩薩を信仰したことから大宜都比売命が妙見宮に祭祀されたものでしょう。
また、小笠原氏の直轄地に倭大國魂神社の存在。こちらはもしかすると、原初に祀られた神は大宜都比売命ではなかったのか。などと考えてしまいます。(大国主命・少彦名命が讃岐金比羅経由で伊豫に行幸した際に置き換えられてたのではないか?)
ちなみに現在の倭大國魂神社には、御神体として祀られていたはずの神像はございません。
(倭大國魂神社拝殿)
(棟札)
(御神体は小刀)
その他にも引用文にもあるように当地では小笠原氏の末裔が小笠氏として生活を営んでいるようです。
一宮神社宮司家の小笠原氏は蜂須賀氏(家臣に同姓が存在したため)に遠慮して笠原に改名。こちらも後年に被らないように小笠に改名したのでしょうか。
ともあれ小笠原氏が頑なまでに保守した重清の地、隠された秘密がまだまだ存在してそうです。
存在を明らかにするには池田の白地に城を構えていた大西氏の存在も絡めなければならないのは必至。
近いうちに白地城、白地奥山の「神が通る道」なども紹介できればと思います。(現在未調査。誰か調べて。笑)
オマケ。
四百年以上前に作られた重清城の井戸。(注:貞子は出てきませんのであしからず。)
安房千葉氏と阿波粟飯原氏にまつわる天女伝説
昔、千葉(せんよう)の蓮の花の咲き誇る池田の池という美しい池があり、いつのころからか夜になるとそこに天女が舞い降りていた。松の枝に羽衣をかけ、蓮の花に見に来ていたのである。このことを時の城主であった平常将(たいらのつねまさ)が知るところとなり、彼はその天女を妻にしたいと思い、松の枝にかけられた羽衣を隠すよう家臣に命じた。
羽衣を隠された天女は天に帰ることができず、常将の妻となり、やがて立派な男の子を生んだ。この話は天皇に伝わり天皇はいたく感激した。さっそく常将を呼び出し、「これからは千葉の蓮にちなんで千葉(ちば)と名乗れ」と命じた。(千葉の天女伝説)
すいません。阿波こだわったawa-otokoが千葉の地名由来伝承を紹介してしまいましたw
まぁ、阿波も安房も"Awa(粟)"ということでご愛嬌www いやいや、、、とても関係が深いんです。
上の引用は千葉の地名、千葉氏の起こりが伝説として伝わったものです。過去に投稿した粟飯原氏関係のテーマの内容を確認してみてください。通説に沿えば名西郡神山町栗生野に居を置く粟飯原氏は千葉氏の末裔とされております。
(粟生野 妙見宮参道)
しかし、ぐーたら気延日記(重箱の隅)のぐーたら氏や私、awa-otokoが掘り下げた古書からは、粟飯原氏は千葉平家の血統ではなく、千波足尼(ちはのすくね)の末葉であり、阿波国造家として大宜都比売命の神威をもとに古来より粟の国を収束していた氏族であったと記録されたものを基に紹介しております。
という訳で、何が言いたいかというと「阿波の粟飯原氏と安房の千葉氏には深い血の繋がりがある」のではないか、ということなのです。
天女は、天部に住むとされる女性のことで、天帝などに仕えているとされる女官の総称である。人間界においては容姿端麗であることを除けば人と大きく変わるところはなく、羽衣と呼ばれる衣服で空を飛ぶとされるが、この羽衣を奪われたばかりに空に帰れなくなり、地上の男性と婚姻する話(羽衣伝説)などが伝えられている。(Wikipediaより)
ここからは私の推測に入ります。
そもそも天女とは一般的に天上人(神)のこととされておりますが、考えるところ、神として祀られた人物の血族(末裔にあたる氏族)の女性を主として、それに仕える女官も含まれたのではないかと考えます。
全国津々浦々において現在まで伝承されている「天女伝説」でありますが、この例に違わず阿波国の起こりである神山町神領にも「天女伝説」は伝承されています。
(弁財天女祠:塩水大明神)
昔、天女がこの地に現れて、「この地の守り神として祀れ。そうすれば人の家運長久と子孫繁栄を守ってやる。」と言い、天女は岩下から霊水を湧き出させた。この霊水は温湯として入浴すれば世の難症者を救うのに役立つと教えたのちに姿を消した。郷人達は、早速天女が発現させた霊水の岩上に石囲いの祠を造り、「塩水大明神」として祭祀した。この頃より当地は塩水と呼び、後に弁財天女神と改称し、今もなお塩井、塩本、大塩等の塩に因む姓の氏子が祭祀している。
はい。こちら現在の神山温泉のことでございます。
「天女」こと「塩水大明神」の宣託から得られた温泉だったのですね。
また、上に記した「塩水大明神」と「大宜都比売命」が同じ女性の神であることから習合されたのか、上一宮大粟神社(祭神:大宜都比売命)と上角谷 八幡神社には、男神が大宜都比売命のもとに通い、一夜を共にする夜這い祭りとも呼べる例祭が存在しているのでございます。
(上角八幡神社)
10月10日の秋の大祭(旧暦8月8日)には、上一宮大粟神社 大宜都比売命のもとに一晩だけ上角谷 八幡神社の男神が泊まり、翌日に大宜都比売命が男神を八幡神社まで送り届ける神事が続けられている。
こちらは大宜都比売命(天女)と男神を別ち、年に一度の再会を許されることから七夕祭りの起こりではないかとも言われております。これに関連してからなのか、神山町では毎年七夕祭りを盛大に開催しております。
そして、今回の最たるテーマである阿波の粟飯原氏と安房の千葉氏の交わりの部分ですが、千葉氏は古くから妙見信仰を深く信仰しており、同じく粟飯原氏は太祖である大宜都比売命をはじめ、祖先を妙見神社で氏神として祭祀している。のでございます。
「千葉氏が妻にした天女は妙見様であった。」ということから、神山 栗生野住人 粟飯原氏(妙見様とされる大宜都比売命の末裔:千波足尼一族)の女性が安房に渡り、平姓を継承せずに「千波(ちは)」から「千葉(ちば)」になったのではないかという推測です。
あくまで私の推測の域なのですが、「千波(ちは)」から「千葉(ちば)」になったのであれば通説に何の手を加えることもありませんし、粟飯原氏にとっては両方とも名誉なことであると思います。
と、いう訳で粟の国魂 大宜都比売命。天女になって他国へ渡ったと考えられます。天女伝説は全国的に伝承されていますので、それを絡めて考えればとても面白い内容を発見できるのではないでしょうか。
オマケ。
今回と同じような状況下から丹後の天女伝説も発祥している可能性も否めません。なぜなら息長田別皇子が大宜都比売命の祭祀を国府(天石門別八倉比賣神社)に移し、皇子の末裔である海部氏が南に移動した場所が海部。海部には、、、、、
勘のいい方はお気付きでしょうが、今回のテーマはあくまで千葉氏と粟飯原氏でございます。こちらについてはまたの機会にご紹介したいと思います。