awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

岡本監輔「祖志」にある高天原論

どうも。最近は忌部郷(穴吹、貞光、端山、一宇周辺)の説話や伝承に力を入れているawa-otokoです。今回はあの岡本監輔が明治二十三年に出版した「祖志」という書籍からの内容を紹介したいと思います。

f:id:awa-otoko:20171013222734j:image(☝︎こちらが岡本監輔。)

まず岡本監輔。こちらの御方についてはぐーたらさんの過去記事に詳しいのでご覧になってください。

goutara.blogspot.jp

えーと、件の「祖志」についてですが目次部分だけの掲載してみますと… 目次だけでもひじょーにソソられる内容です。が、しかし!!哀しいかな全部漢文ナノデス。

(΄◉◞౪◟◉`) エっ… 

まぁ、興味があれば目がチカチカしますが読んでみて下さい。笑笑笑

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「祖志」に於いて岡本監輔は神代史について熱く語っており、その中で高天原所在地について論じた内容をawa-otokoが訳して紹介します。が、、、先に書いた通りに祖志の原文は全て漢文なので誤字脱字があった。または訳が変だと思ってもクレーム無しでお願いしますw (・∀・)

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余謂ふ高天原の南海に在るものは、恐くは阿波國吉野川近傍之城に外ならず。高天は高海と音通ず、蓋此國磤馭廬島の傍に在り、太古の時海之潸斗入する事殆ど十里、其左右平原よう壊多く、人之を呼んで高海と言ふ域は高濱と言ふ、濱海の二音天と相近し。

高天原阿波国吉野川近傍に他ならない。高天原の「高天(たかまが)」と「高海(たかあま)」は韻が酷似している。淤能碁呂(おのころ)島の側にある阿波国は太古は今より海水(湾)が陸部に入って平野部に浸食していた。その海原を見て高海、または高浜と呼んだ。「浜(はま)」・「海(あま)」ともに「天(あま)」と韻が近いのである。

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阿波風土記に天神其山を二分し、之を降す、其大なるものは阿波に落つ、天之諄辞(のりと)山と言ふ、其砕方大和に落つ、天香山と言ふ、諄辞山は蓋し美馬郡祖山なり其山下忌部諸神多く常に大諄辞を宜するを以て、諄辞山と言ふ、香山の宗たり、故に祖山と言ふ、其實は諸神始めて此山中に出で、次に大和に到り香山に據り四方を鎮めしなり。

阿波風土記によれば天神(記紀にある神々)が山をニ分し、これが阿波国に降りた。これを天之祝詞山(アメノノリトヤマ)という。大和国に降りたのを天香山という。

阿波國ノ風土記ノゴトクハ、
ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、
ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。

祝詞山(アマノモトヤマ)とは美馬郡にある山を指している。その山(周辺)は忌部神を多く祭祀して、盛大に祝詞を奉上していたことから祝詞山と呼ばれた。また祝詞山は天香山の総本山であることから祖山とも呼ばれる。記紀に記された神々はこの阿波国 祖山(祝詞山)から起こり、その後大和国に渡って勢力を拡大していったのである。

f:id:awa-otoko:20171013230352j:plain一宇 白山神社

f:id:awa-otoko:20171013231149j:image一宇 天岩戸神社

祖山及び一宇山、重上巒累嶂究め盡すべからず、諸神の祠甚だ多し、一宇山は伊弉諾尊を主とし、而して大宮天一神祠影久に在り、天石門祠は法正に在り、白山祠は峯切に在り、其他吉良・宮内等の處、山靈祠、鎮守祠、八幡祠、松尾祠、杉尾祠、星祠、竈祠、龍祠、牛頭祠、聖午王祠、王子祠、三社祠、五社祠等挙て数ふべからず、祠旁墳塚相望む、八幡神を除く外其何神たるかを詳にせず、八幡亦他神を混ずるもの多し窃に意ふ天一神、星祠と天中御主神をまつる、山靈は大山祇神を祭る、竈祠火神を祭る、午王祠は素戔嗚神を祭るなり。

祖山から一宇村の山々は神々の祠が多い。一宇の山は伊奘諾尊が主に祭祀され、大宮天一祠(現在の下宮神社)がある。法正には手力男命を祭祀する天石門祠(現在の天岩戸神社)、峯切には白山祠(現在の白山神社)がある。

その他に吉良や宮内にも数々の神を祭祀しているが、ひとつの特色として祠の傍には古墳や塚穴が必ず見受けられることである。しかし、残念なことに原初から祭祀されている神の形跡は詳細がわからなくなってきているものが多い。それは後から入ってきた八幡信仰のために祭神を上書きされたから他ならない。天一と星祠は天中御主神、山祠は大山祇神、竃祠は火の神、牛頭・午王祠は素戔嗚命を祭祀するのは神代からの継承のところが大きい。

f:id:awa-otoko:20171013233919j:plain(貞光 五所神社

f:id:awa-otoko:20171013233934j:plain一宇 五所神社

f:id:awa-otoko:20171014062253j:plain一宇 天日神社)

彼地は窮山僻遠、唯山用の秀麗清絶なるあり、淳尨なる太古の民と祠宇の多き此の如し、見るべし天神此處に跡を発す者甚だ多し。而して歴世の久しき、皆泯没して聞く事無きに帰るなり、然も法正之天石岩窟、吉良之神明祠、八百万神祠、宮内の神明山即ち其跡顛然、今日十目の視る處、掩可からざるあるもの、固り他處の及ぶ處に非ざるなり。

祖山は人踏未踏奥の奥深く、そして美しく清らかな場所に存在する。太古の民はその場所に多くの祠を造って神々を祭祀してきた。今こそこの伝承に注目すべきであろう。過去より当地を記紀にある神々の旧跡と伝える人は多かったが、神代の考証を明確に再現できることはなく、殆どの人が信じることはなかった。

しかし法正の天岩戸、吉良の神明祠、八百万祠、宮内の神明山をはじめ他所の考証から比較してみても、当地は他所の追従を許さない実に条件を得ている場所なのである。

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はい。という訳で今回珍しく(?!)丁寧に訳してみました。awa-otokoが考えるに、祖山(天之諄辞(のりと)山=アマノモトヤマ)とは… 剣山 をさしているのは明白。そこから記紀にある神々が起こったとされています。そして一宇山、友内山、東西端山域まで降りてさらに規模を拡大した。(このルートはのちに忌部信仰になる。)

さらにその勢力(の一部は袂を分かって)海を渡り、天香具山に到達した。原文にある分けたという内容は阿波国の勢力が近畿圏大和国に移動したということ。大和国を中心に基盤を固めて周りを平定していくのであり、これは大和朝廷の起こりを指していることがわかります。

そもそも「祖志」では忌部神、やれ天津神国津神、海人族、などのカテゴリー分けをしていない、シンプルでわかりやすい論であり、(漢文でなければ尚良し。)地域の伝説・伝承、古跡を合わして考察すれば、祖山(天之諄辞(のりと)山=アマノモトヤマ)は神々の発祥地であるヒントを秘めいる内容です。

まだまだ阿波国に関する論(ヒント)が埋もれている状況にあります。それは後年に上書きされた事象も記されていますが、それを控除しながら今後も提供できればと考えています。

三里四方の忌部聖地たる証拠

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f:id:awa-otoko:20171007212532j:image(家賀鎮座 児宮神社)

阿波国麻植郡忌部郷吉良御所平に鎮座する忌部大社は四国の一宮、天日鷲尊祭祀の本社で神代から鎮座していると伝承されていました。その口伝と伝承を物的証拠と文章で証明しようとしたのが吉良御所平忌部神社文書であります。

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阿波国麻植郡忌部郷内山吉良御所平忌部神社神寶

裏に二神の神名が記された御神鏡、元享元年 大檀那 北条相模守 平朝臣高時が記された棟札、そして古文書。これらの神宝は蜂須賀氏により取り上げられたとあります。また空海直筆による「忌部大社」の鳥居扁額も蜂須賀氏により焼き捨てられたと記されています。

この蜂須賀による破壊行為については、蜂須賀氏が阿波入国の際に長曾我部元親による四国平定の折、破壊の限りを尽くされた忌部大社の三里四方の聖地を認知せず、さらには忌部大社復興の破壊工作(証拠隠滅)を行なったのではないかと考えられています。

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上記では、由緒が残っていない山崎忌部神社は桁山忌部神社の棟札を持ってきて山崎忌部神社のものとして使用した悪巧みと書かれており、また自らが忌部郷家賀鎮座の児宮棟札に記載された大工から忌部郷の整合性を説いた内容です。

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忌部郷家賀ニ鎮座 児宮棟札ノ寫

延喜式忌部神社麻植郡鎮座ト有リ 又右ノ棟札ニ天日鷲尊四国一ノ宮ト有リ因テ聊カ疑フ可キ所ナキ吉良御所平忌部本社ノ棟ナリ因テ吉良御所平ハ往古麻植郡ニテ有リシ事棟札ニテモ判然タル確証也

児宮明應五年造営棟札ノ寫

忌部郷ニ鎮座ノ舊神社ニ往古ヨリ有ル児宮並白人宮両社ノ棟札ニ書戴有ル大工鍛治ハ渾テ皆其神社ニ有ル村里ノ者ニシテ悉ク忌部郷内ナリ因テ他郡又ハ外山ハ素ヨリ忌部内ノ村里ノ外他村他國ノ大工鍛治ノ姓名ヲ書戴シ棟札ハ一枚モナシ

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麻植又ハ宇恵トモ児宮弘治ニ年造営棟札ノ寫

此明應五年再興児宮棟札ニ事者宇恵ト書戴有リ是即家賀城主忌部大宮司麻植氏直筆麻植郡ハ此麻植氏ノ姓ヨリ起リシ郡ナリ

児宮慶長六年造営棟札ノ寫

忌部郷穴吹山ニ鎮座天文ニ年再興棟札ノ寫此棟札ニ領家ト有リ是則忌部ノ領ナリ千野ハ穴吹山ノ地名ナリ鍛治ノ姓忌部ト有リ是ヲ見テモ穴吹村ノ忌部郷タル事判然タリ

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讃岐国象頭山金毘羅神社天正十一年造営長曾我部宮内少輔秦元親寄附棟札之寫

吉良御所平忌部神社の棟札に国所を記載していないので証明にならないとあるが、讃岐国の大社である金毘羅神社にも書き記されていない。どういうことか?とあります。(出典原文まま書くのが面倒になってきたので訳しました。笑)

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この文書を提出して請願し、一度は御所平忌部神社が忌部大社と認められたようです。しかし皆さんもご存知のように後年、忌部神社社地騒動が勃発します。結果は政府が喧嘩両成敗とし、二軒屋に忌部神社を造営して現在に至るのです。

改めてこの文書が必要とすることが近々あるかもしれませんのでちょっと先取りで掲載してみました。

端山、家賀 、御所平の友内山周辺エリア。この先要チェックになりそうです。

讃州白峯廟から持って来た崇徳院を祀る白人宮⁈

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七十七代後白川院ノ朝保元ノ乱ニ新院ノ軍破レテ讃州ニ還サレ玉ヒ藤原頼長家司藤内左衛門範景入道シテ蓮心法師ト号讃州ニ来リ白峯ノ御墓ヲ拝シ草庵ヲ結御菩提ヲ弔フ処河野大領高遠ヨリ障ルノ義アツテ 阿波ヘ移リ当寺ニ寄宿シ三ヶ峯ノ神社ニ新院ノ御霊ヲ神ト仰キ祭ルノ所是亦讃州ニ近キノ故ニ禍ノ来タレル事ヲ恐レ麻植ノ宮内ニ至リ麻植為光ヲ頼ンテ此社地ニ新院ノ御霊ヲ白人宮ト称シ祭ルノ所鎮西八郎為朝モ伊豆ノ大嶋ヨリ遁レ来リ此白人宮ヲ拝シ永代ノ祭リヲ為光ニ頼ミ置予州へ立越エ三ツガ浜ヨリ九州ニ渡リ後ハ琉球国ニ至ルト云

はい。今回は冒頭から引用ぶっ込みました。
これまで穴吹の白人神社について、なぜ崇徳院、鎮西八郎為朝が祭神に含まれているのか、なぜ神宝も為朝所縁の武具であるのかなど謎が解明できないでいました。

 

本来、白人神社に祀られていたのは日本国の大魔縁となった崇徳上皇だったということ。

鎮西八郎為朝は崇徳院(白人宮)の永年祭祀を麻植為光に託すために身を隠しながら当地に赴いた。


大魔縁になる前の崇徳院は心優しい人物で知られていました。流された讃州では、自らが招いた保元の乱での戦過により亡くなった人々を憂い、仏教に昏倒したそうです。そのような人柄を慕ってか鎮西八郎為朝が伊豆大島より隠れながら白人宮に参拝に来たことが当宮の祭神に含まれたとされる理由なのでしょう。

崇徳天皇 - Wikipedia

源為朝 - Wikipedia

 

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f:id:awa-otoko:20171003231355j:image(穴吹 白人神社)

崇徳院崩御より京に還ることが許されなかった七百年という長い年月。崇徳院が放った「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん。」「この経を魔道に回向(えこう)す。」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になった崇徳院を死して日本の三大怨霊のひとつとして数えたほどであります。

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このことから公に崇徳院を祀る宮ということは、白人宮開基当時から隠蔽されていた秘密であった可能性が高く(崇徳院の障りがあるとされた)、そのため鎮西八郎為朝は崇徳院を永代祭祀することを麻植為光に頼む代わりに、表向きには自らが源氏の英雄譚を利用して白人宮の祭神とされることをかって出たのではないでしょうか。

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f:id:awa-otoko:20171003233143j:image(讃岐白峯 崇徳院廟)

awa-otokoが白人神社参拝時に境内に漂う独特の緊張感を感じていた理由が今やっとしっくりきました。讃岐の白峯の崇徳院廟も参拝した折、感じた独特の緊張感は今思い出せばリンクするものがあります。

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ちなみにかの有名な神明神社の五社三門の遺跡は白人宮創設以前から存在していたものでしょう。だって全然、讃岐の白峯と方向が違っているのですもの。鳥居の向きはね。(剣山を奥の院としている配置)

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ただ、五つの祠の向きは讃岐白峯に向いているような… 最後にもうひとつの謎が残ります。それは白人宮は本来は木屋平に鎮座していたものが穴吹川の氾濫で移動したという伝承が残ることです。

だいぶ穴吹 白人神社開基の内容が明らかになってきましたがまだまだ突き詰められておらず、追加調査することになりそうです。続きは… 待たないでネ。(。-∀-)

阿波民部の大いなる計画

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最近ぐーたら氏から貴重な資料をわけわけ(シェアね。)して頂きまして、資料転載の可否を伺いましたところ快く承諾してくれました。

今回はその一部を皆様にご紹介したいと思います。ちな、出典についてはぐーたら氏が今後の投稿に挙げられると思いますので非公開とします。(まぁいわゆる自主規制やつですわ。)

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さて、全国各地で伝承されている安徳天皇伝説。こちらの真相が明かされる(かもしれない)証拠が含まれた内容となります。敢えて読み難い原文のままで転記です。興味のある方は読んでみてくださいね。

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源平両家ノ争ヒニヨツテ諸国大乱ノ世トナルウチニモ此阿波国ハ平家ノ領地トシテ阿波民部守護スル処平家一門衰運ニアタツテ東国所々ノ合戦敗軍トナリ遂ニ安徳天皇ヲ守護シ平安城ヲ落テ西海ノ浪ニ漂ヒ九州ニモ安堵ナラス
長門守護代 紀ノ民部大輔光季 阿波民部大輔 紀ノ成長ト心ヲ合セ讃州屋嶋ニ大城ヲ築キ術ヲ以テ四国中国ヲ打従ヘルト雖所詮聖運ノ開カサルヲ知テ阿波民部成良忌部大祭主麻植邦光ヲ頼ミテ寿永ニ年ノ奉帝王ヲ麻植ノ奥山ニ隠シ門脇中納言教盛郷ノ御子越後守国盛ノ嫡男国若丸 安徳天皇ト御同年ノ故ニ是ヲ安徳天皇ト称シ平家一門守護スレ共運ノ極メニハ長門国壇ノ浦ニテ入水シ果玉ヘ共真ノ安徳帝ハ麻植正高ノ末子也ト世間ヲ欺キ此阿波ノ奥山ニ無恙在御生長ノ後正高ノ聟君トシ御子迄誕生有リシカト九州ヨリ御迎ノ使毎々ニ及フニヨツテ御病死ト偽リ御出家トナツテ義法坊一人御供ニテ彼国ニ赴キ玉フ此阿波ノ奥山ニ隠レ居玉フ人々ニハ越後守国盛郷小松少将真盛郷ノ御ニ方也
年月経テ真盛郷ノ御子真盛入道シテ真盛法師ト云 上京シテ北野ニ一宇ヲ建立シテ真盛寺ト云一門ノ亡魂ヲ弔ヒ玉フ阿波国ニモ願勝寺ニ阿弥陀堂ヲ立テテ平家一門ノ菩提トス
国盛郷ノ御子孫ハ地名ニヨツテ阿佐氏又ハ脇氏ト号シ直盛郷ノ御子孫ハ小松家ナルニヨツテ松本氏ト号シ後ハ松永氏ト改メ玉フ其末々ノ平家此国ニ跡ヲ隠スノ輩数々ナリ
皆々阿波民部ノ計議ニヨツテ忌部神領ノ内麻植奥山ニカクレテ時運ノ開クヲ待玉フ又ハ所縁ニヨツテ四国中其外他国ニ赴ク族モ多カリケリ就中阿波郡朽田庄青蓮院ハ直盛郷御出家ノ後御住居アリシ旧寺也

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なんと壇ノ浦で入水したとされる安徳帝。実は平国盛の嫡子国若丸だったということ。

阿波民部成良は忌部大祭主の麻植国光を頼り、真の安徳帝を麻植正高の末子として世間を欺く姿として無事に生き延びさせます。のちに出家をして阿波の奥山(祖谷だろ)で隠遁生活を送らせました。さらに病死したとして別人に入れ替わらせる念の入れよう。そして出家をして俗人として国境を自由に行き来をさせたということです。


これら全て阿波民部成良の計画だそうです。

 

現在において全国各地に拡がり、混乱を極めた安徳天皇伝説譚を考えれば見事に時空を超えて阿波民部成良の機転にしてやられたということでしょうか。

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冒頭でも書きましたが、この安徳天皇替え玉伝説もある大きな歴史の中の一部でしかありません。今は全貌をお伝えする時期ではなく、awa-otokoがお伝えする役目を担うものでもないと考えています。全ての謎はぐーたら氏が握っている…  ニヤ(・∀・)ニヤ

今後の展開から大きな歴史とは何なのか、全てを覆す伝承と事実。乞うご期待。ですな。あぁ〜ぁ、コマーシャルが過ぎて怒られちゃうかも。ニヤ(・∀・)ニヤ

ちはやふる… 三韓征伐の御神歌

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十月に入りましたね。十月といえば阿波の南方において赫舟の行事が催される時期。今回は浅川港に伝承されていた舟歌をご紹介したいと思います。

浅川の天神社の祭事は旧十月十七日(神嘗祭)の日に行われていました。(現在は祭日も変わり、山車は南海地震津波により流失し、復旧されていない。)

(少し前の事ですが天神社 関船のニュースがありました。)

 (浅川ではなく牟岐ですが関船関連です。)

f:id:awa-otoko:20171001085542j:image(浅川 天神社)

祭日には神輿と関船、だんじりが出て町内を曳いて大変賑やかであったといいます。そして関船をだすと舟歌が歌われていました。今に伝わるこの歌、内容がとても興味深いのです。

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出立前に社前で歌う御神歌
千早ふる神の御代より受け継ぎし帝は多くその中に、とりわけ神功皇后三つの韓国治めんと御船の数が筑紫がたその名を高きたちばなの、おどの潮路にあらはれし、神は船午の大社札をみて、向かうかたきをしたがえし、めでたく帰朝ましまさば四海波風静か、今に津の国住吉と、神とあがめしみは白の、引く注連縄に千代かけ、長きためしはつきせじな、御用はうれし。

社前を出るときの出船の歌
こぎいでて四海をやすき渡りしが、ひより思ひが叶うたかや、思う港につきの船、住吉の松の葉ごしに出る月は、月も目出宅床にさす。いつとてかわらぬものは笹の葉で、二葉の松でと君と我がなか。

祝儀をもらったとき取り舵に家にあるときの歌
ほのぼのと明石の浦の朝霧に、山隠れ行くお船なだよし、松風や厳の上に鶴と亀、千代萬代舞い遊ぶ。

祝儀をもらったとき面舵に家があるときの歌
宇治の白雪朝日にとける。とけて流れて沼島に落ちる。沼島女郎衆の化粧の水、月とても浪間に向かう竹生島船に宝を積む心地、奥山のもみじ踏みわけなく鹿の声、妻こい友を呼ぶかな。

「取り舵」「面舵」の歌の終わりに歌う歌
天下泰平治まる御代こそ目出度いな。鶴は千歳、亀は萬歳。

さて、関船については当地において鎌倉時代に宋および高麗との貿易に使用された貿易船を模したとされています。しかし紹介した関船の「御神歌」の歌詞には「神功皇后三韓征伐」の内容が含まれていること、「筑紫の、」「たちばなの、」「おどの潮路に、」など古事記に記される内容を転用した形跡がみられ、神功皇后三韓征伐出立から凱旋帰国の際の模様を歌っています。

「御神歌」以外の歌については海人の心境を含め、縁起が良い内容で締めたもので、御神歌より後世に作られた歌と考えます。

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昔、法華谷の奥の大宮山には海部郡内唯一の延喜式内社 和奈佐意富曽神社が浅川、多良、大里、高園、奥浦、鞆ほか二十一村の氏神として共祀されていました。このことから当地一帯の海人族達が古代より全国津々浦々はもとより、半島に行き来していたことは間違いありません。

阿波に神功皇后武内宿禰の所縁の地が点在しているのは当時の勢力が航海中に基地として設けた場所であると想定できるのです。

最後に…

今回、写真の掲載が少ないのはエラー発生?のためか一部写真がアップロード出来なかったため。改めて関連写真を付け足しする予定です。ちょうど祭礼中の関船の写真も用意してなかったのでまた掲載したいと思ってます。(・∀・)