awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

忘却の山幸海幸伝説(長国ヒコホホ峠編)

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神代の古い物語は長国 阿南市新野の廿枝(はたえだ)にひっそりと伝えられていました。当地には彦火火出見(ひこほほでみ)尊がお留まりあそばされた御在所が存在したという伝説が残されています。

彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)】

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彦火火出見尊・日子穂穂手見命、虚空津日高(そらつひこ)。正しくは、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ(たか)ひこほほでみのみこと)と言う。さらに火遠理命(ほおりのみこと)、山幸とも呼ばれる。神武天皇の祖父に当たる人物である。兄は海幸の火照命(ほでりのみこと)。この二神は海幸山幸神話を展開する。海幸彦としは海で漁を、弟は山幸彦として山で狩りをしていた。ある日兄弟は道具を交換し、海幸は山へ、山幸は海にでかけた。山幸は海幸の大切な釣り針をなくしてしまう。山幸は代わりのものを作って返すが、兄が受け取らなかったので海辺で泣いていると塩土老翁が現れて無間勝間の小船で海宮に行かせる。そこで豊玉毘売と結婚する。3年のあいだ楽しく暮らすが、釣り針のことを思い出して憂鬱になった山幸は海神に相談する。すると海神は鯛の喉からなくした釣り針を見つけ出し、「この針はオボチ、ススチ、マジチ、ウルチと唱え、手を後ろにまわして兄に返しなさい。」と伝え、塩満珠と塩乾珠を持たせてワニ(鮫)の背に乗せて地上に送り返した。いわれた通りに呪文を唱えて返すと兄の海幸は貧しくなって弟を攻めたが弟は塩満珠で兄を溺れさせ、兄が許しを請うと塩乾珠を使って助ける。そこで兄は降伏し、溺れたときの動作を演じて弟に仕えたという。

はい。伝説によれば彦火火出見尊は廿枝(西地)西山麓付近の地所を御開墾あそばされて食糧をお造りになったと伝えられています。

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開墾西必要な水源は水溜池をお掘りになり、時代が進むのに従って当地の住民が順次大きくしていったそうです。彦火火出見尊所縁の溜池は「神武(かみたけ)溜池」と呼ばれ、さらに「神武池」の谷合いにある峠は彦火火出見尊の御在所があられた場所と伝わります。いつの時代からかこの峠を彦火火出見尊の御名にあやかった「ヒコホホ峠」と呼んで伝えているそうです。

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山幸海幸の兄弟喧嘩神話は兄の海幸が隼人の祖先、大和朝廷側の山幸が隼人族を支配することの起源神話とされ、このような兄弟争いの神話は異民族、異文化が接触して生じる闘争を軸に作成されたと考えられています。(兄弟喧嘩神話はインドネシア方面に多くみられ南方系神話が起源とされている)

 

さて、今回は阿南市新野町廿枝の彦火火出見尊こと山幸彦伝説をテーマ。なにぶん神代の時代のお話なので考証材料の決定打に欠けます。とりあえず口伝の内容から地名と地理情報を抽出して実地調査をしてまいりました。

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阿南市新野町廿枝に鎮座する皇子二所神社。もちろん祭神は彦火火出見尊。そして地名は宮前… 神社自体の創建は元禄11年(1698)と比較的に遅いです。

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皇子二所神社の周囲に鎮座する神社で考えてみましょう。峠越えで山を東に抜ければ大宮神社と椙尾神社が鎮座しています。(こちらの大宮の姫は綿津見豊玉比賣⁈ )

さらに沿岸部を添うように北上すれば塩竈神社、突出した岬状の場所に竜宮神社が鎮座しております。このように山幸が海神宮に行きつくまでの舞台は、徒歩による移動が可能な範囲の中で整ってしまうのです。(強引な結び付けかもしれませんが。)

余談ですが皇子二所神社から向かいの西地名の山を越えれば土御門上皇の行宮跡の御所神社も存在しています。

(阿波に存在する古代天皇所縁の場所には土御門上皇の足跡が残っている。どうも情報が置換されているような感じがする… )

あとは海幸彦は誰なのか?というところです。が、こちらはまたの機会にご紹介したいと思います。

という訳で長ノ国に伝わる山幸海幸伝説。山幸彦こと彦火火出見尊の御在所であった「ヒコホホ峠」編はこのへんでおしまい。まぁエピローグなのでこれくらいの内容の浅ささで大丈夫⁈ でしょうw(笑)このシリーズ、間隔を挟んで長いスパンで考えてます。シリーズ連続投稿しないので悪しからず。

安閑天皇を祀る飛蔵宮

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土成町宮川内の奥に飛蔵山(ひそやま)という山がある。飛蔵山は御祭神として第二十七代 安閑天皇を奉斎する吉野神社が古くから鎮座していたと伝わる。吉野神社は神仏習合の時代に飛蔵宮(ひそみや)または蔵王権現と改称され、山伏をはじめとする修験道の一大霊場として栄えた。近くに大別当、教連寺という字名が残されており、教連寺は蔵王権現宮司であり大権別当は大宮司が居住していた場所であると考えられている。

はい。飛蔵山の蔵王権現参拝してきました。もう身体がぼろぼろです。飛蔵山の位置をきちんと調べずに思いつきで突入したので、鵜ノ田尾峠の旧道に入って山一つ間違えて登ってしまいました。

f:id:awa-otoko:20170204150610j:image(黄:間違えた場所 赤:目的地の飛蔵山頂上 白:目安の鵜ノ田尾トンネル入口)

運良くイノシシ狩りに山に入っていたハンターさんに会って間違いを教えていただきました。ハンターさん曰く、「今は猟期やから危ないよ。猟犬放してるし。それでも行く?笑w」と半分冗談まじりで脅されましたが「ありがとうございます。もちろん行きますわ〜。引き返します。」

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(引き返した時に撮影した飛蔵山(中央奥))

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再度鵜ノ田尾トンネル左側旧道からアタック。

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集落跡を抜け、淵を渡って道沿いに進めば…

f:id:awa-otoko:20170204152427j:image(登山口)

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f:id:awa-otoko:20170204152816j:image(どんどん登ります。)

さて、ここで飛蔵山蔵王権現にまつわるお話を。。

足利時代に七条兼忠という剛の者がいた。時の七条城主である。或る年に旱魃が続き、百姓達が飛蔵宮にて雨乞いの祈祷をしたが、七日間の必死の祈祷にも拘らず雨は降ることがなかった。そこで兼忠は大いに憤り、「万民の苦しみを顧みないのは神霊の在さね社なり。」とし、矢をもって神殿の扉を打ち破った。すると突然暗雲がたちこめ一大豪雨となり雷鳴轟きだした。兼忠は焦って七条城に逃げ帰ったが飛竜があとを追い、宮川内川は大洪水が起こったという。

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f:id:awa-otoko:20170204171449j:image(参考資料にあった祠建設当時の写真)

飛蔵山の蔵王権現は雨乞い成就の霊験譚を今に伝えています。が、、、安閑天皇譚はどうなったのか?

安閑天皇

日本書紀』では、諱を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)としている(「まがりのおいねのみこ」とも読む)。 和風諡号は、『古事記』に広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、『日本書紀』に広国押武金日天皇とある。

継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。 安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。(Wikipediaより)

はっきり申しまして、なぜ土成の飛蔵山に安閑天皇が祭祀されていたのかはわかりません。。。(//∇//)

ただ、引用にある犬飼部に関連する隣山の城王山麓の犬墓地域の存在、また城王山にも雨乞いの神と蔵王権現役行者)が祭祀されており、繋がりが薄っすらと感じられるくらいですか。(理由が苦しい。。。)

個人的には安閑(あんかん)天皇は安徳(あんとく)天皇と間違えられているのではないかということも並行して考えたりしてます。

飛蔵山を囲むように流れる宮川内川には御所の地名、そして安徳帝の他にも土御門天皇の伝説も存在します。

あと、南に位置する神武天皇もね。

という訳で、明確にはお伝えできなかった安閑天皇伝説… 

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とりあえず現地に行っても解決しないことは百も承知でしたが、こんなパワスポも見つけて癒されてきました。土成町と様々な天皇伝説。何らかの繋がりは在りそうですね。これからの調査結果が楽しみです。 ( ^ω^ )

勝浦日向山の大日孁神

f:id:awa-otoko:20170201222230j:image(気延山 山頂 古墳跡) 

永正年間弥生月のある日、平家の一族である阿佐家の権三郎という人が長奥(那賀の奥)の親族宅へ向かうために祖谷から木屋平を通り、おばこ峠を越えて高鉾の西谷薬師谷を通過していた。日向山(日浦山)の太平に来た時には日が暮れて辺りは薄暗くなっていた。権三郎は特に急ぐ理由もなかったので山の一本松の根元に腰をかけて休んだ。

旅の疲れでいつの間にか眠り込んでしまった権三郎は不思議な夢をみた。夢の中に神が現れ、「私は神の大日孁(おおひるめ)である。阿波国名方郡神山に矢野という所がある。我はそこで待っている。汝がよく我を信じて、日向山の太平の地を開けば栄えること疑いなし。」と申され夢から覚めた。突然の神からのお告げに驚いた権三郎は、急いでおばこ峠を越え阿波国名方郡神山矢野の山の頂上へ向かった。頂上へいってみれば盛土や石で大きく造った大日孁神社の古墳があった。その中からよい石を探して持ち帰り、日向山の田崩の古森に御神体として安置した。これは永正年間から元禄五年九月まで祭祀されていたらしい。元禄五年九月に大荒れや山崩れで平間のワラビセ山南向きの中央に祀り変えをした。その後、明治二十二年頃に願成寺へ祀り変えをしたという。現在は縁結びの神として信仰されており何事でも節分にお願いをすればよく開運すると云われている。

はい。今回は阿波勝浦町の伝承を紹介してみました。話の内容から永正(えいしょう)年間(1504〜1520)にはすでに祖谷から那賀郡、名方郡のほか各郡へと通じる峠道が確立されていたということです。

f:id:awa-otoko:20170201222346j:image(気延山・日浦山を望む)
この伝承で面白いのは、名方郡神山の矢野に大日孁神の古墳が存在したことが語られていること。そして矢野神山の大日孁神を勝浦郡分祀したこと。これより天石門別八倉比賣神社と日浦山には交流は多少なりともあったはずですよね。

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f:id:awa-otoko:20170201223009j:image勝浦町本八幡神社)


伝承の内容からawa-otokoが推測するに、勝浦町坂本の日浦山が舞台になっていると考えています。日浦山、一本松、大平の地名からです。そして当地には七社七鳥居 中風除けで有名な坂本八幡神社が鎮座していますが、この伝承より坂本八幡神社と天石門別八倉比賣神社の大日孁神には何か繋がりがあるのではないかとも考えています。
勝浦町ではエビス(事代主神)の伝承に隠れて大日孁神(大宜都比賣神)の足跡が残っています。(大宮神社もあるしね。)ちょっと調べてみる価値はあるかも。。。ですね。

あと勝浦町坂本の地名がすごく面白いのです。夷名田とか月ノ久保とか日開谷、黒岩、稲原とか。。。(誰か調査してみませんか???)

それより只今、別の面白い大ネタを見つけてしまってそちらの調査に重点を置いてしまってます。今回の投稿は軽めになってしまいました。

まぁ、二月の第一回目投稿としてはこんなもんでしょう。とりあえずは急がずにボチボチいきます。( ^ω^ )

仮説:猿田彦神が韓背宿禰の祖であったなら?(佐那河内 猿田彦大神宮)

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えーっと、Facebookの方でさわりだけ投稿していた佐那河内村猿田彦神社(大神宮)の所在地。まだぜーんぜん調査は進んでないんですが、とりあえず一次報告として私の妄想を掲載しますのでお付き合い願いたいと思います。

ヒントで掲載すた古文書の写真は、ハテナブログだけに「?」をたくさん挿入しました。邪魔なので消しましょうかね。

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わかります?注目すべき部分。

わたくしawa-otokoが注目したのはココ。

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猿田彦神社の下に記入された「在 長岡」です。

その「長岡」ですが佐那河内村の地名をいろいろ調べてみたのですが該当する地名は見あたりませんでした。。。しかしこの「長岡」。当ブログでも投稿していた地名とリンクしないでしょうか?( ^ω^ )

 

その地名とは佐那河内村の「長峯」。 

 

そうです。御間都比古神社が鎮座し、また「長ノ国」の地名の元となった「長峯」です。 

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佐那河内村に「長岡」という別の場所が存在する可能性もまだ残されているので「長岡=長峯」とは断言できませんが、個人的にはこれを採用しました。何よりこの仮説で進めれば面白い展開になるのです。

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何が面白いって、猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだとあります。猿田彦神は後年、海に近い場所に居住していたと考えられるのですよ。以西(いせ)の阿坂(あざか)付近にね。

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結局何が言いたいたかと言えば、もし観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)、九世孫の韓背宿禰猿田彦神の後裔だったなら… 

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観松彦色止命が祭祀される以前に、猿田彦大神大麻比古神)が当地に祭祀されていたのではないかということです。(しつこいですがあくまで推測です!!)

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当地佐那河内村の位置より東進経路で進めば園瀬川からハチマアマコの浦(八万〜津田浦)へ。

また西進経路で進めば鮎喰川・船戸川(鬼籠野〜一宮町)の水路を経て気延山付近から海へ。東西どちらの経路を利用しても、大きな三角州を形成している板野郡大麻に行き着く可能性は大。(一宮町国府町に大麻比古、猿田彦が点在しているのはこのルート。大麻彦(おおまひこ)はここから分岐)

そして韓背足尼の子孫であるとも考えられている長髄彦(ながすねひこ)が率いた長族が、板野郡に拠点を置いていたという説もこの妄想から繋がるのではないかと淡い期待をしてます。。。

さて今回のお話、文中に記載されていた「在 長岡」からawa-otokoの妄想爆発で勝手に展開してしまっているのですが、古文書のその他の記載内容は藍染を伝承して長者となった藍神様のことが記載されています。(気になった方は過去記事にある内容と同じなので興味がある方はどうぞ。)

もうね、神名とか時代を超えて重ねまくって伝承されてますし、古文書の内容も真偽が不明なので何をベースにして考察していいかわからないのが現状なんですよ。よって通説の内容と自らの知識の中から繋ぎ合せて新しい展開を見いだせれば面白いかなと。。。

久しぶりに妄想を爆発させてみた訳ですが、ちょっとテーマが大き過ぎたので投稿するかしないかを(刹那の一瞬w)考えたけどアップしちゃいましたw

この説を今までの自説と通説と統合すれば猿田彦大麻比古神=事代主神になってしまう。。。あぁ、アタマが痛い。awa-otokoの謎解きはまだまだ続きそうです。。゚(゚´Д`゚)゚。

バンザイ板西城 栖養の里には何がある?!

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榮村古城にあり、藤原師光の六男、近藤六親家の築く處たり、源義經勝浦尼子浦に上陸するや親家東道となりて功あり、親家子なし乃ち赤澤兵庫守を養うて嗣と爲し、城を讓りて自らは勝浦郡新居見の山上に隠棲す、世に之を板西殿と稱す。宗定また子無く城廢す、後三好義賢の姪婿小笠原宗傳其統を承け、赤澤信濃守宗傳入道と稱し、天正十年八月二十八日にし負へれ中富川合戦の時戦死せしが、其子孫各處に散在し今に其裔を傅ふる者少からず、孰れも赤澤近藤等の姓を襲ふ。

徳島県板野郡板野町にあった板西城(ばんざいじょう)板野町指定史跡となってます。この近辺は散策すれば結構面白い場所なんです。なんとなく昔の雰囲気が残っていて当地の歴史を知っていればさらにシンクロすることができるでしょう。

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板西城は藤原師光(西光)の六男 近藤六親家が平安時代末期に築城し、後に赤沢氏の居城とした城。ちなみに板西城趾の看板にあるように築城した近藤六親家は源義経の道案内をしたのは有名。父、西光の屋敷にほど近い土成町 案内神社も近藤六親家に関係しており、祭神は猿田彦神または近藤六親家とされております。

話を板西城に戻します。勝瑞城の西の守りを固める重要な城であった板西城は天正10年(1582年)の中富川の戦い長宗我部元親の侵攻を受け、勝瑞城とともに落城。城主・赤沢信濃守宗伝も討死してしまうに至ります。

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板西城趾北側に鎮座する天満神社。当地ももちろん板西城内だった場所であり、詳細は天満神社の由緒に記載されてますので読んでみてください。(見にくいけど。)

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そして天満神社からさらに北上すれば犬伏城趾(犬伏諏訪神社)があります。撫養街道にそって南向きに地蔵堂が建っており、そこは「振袖地蔵」と呼ばれる地蔵がおさめられています。

天正10年(1583)四国制覇をめざした土佐の長曽我部元親が2万2千の兵を率いて、中富川をはさんで勝瑞城の十川氏と対戦した。板西城主の赤沢信濃守も一族、郎党を従えて元親の大軍と戦ったが、戦い利あらず討死。留守を守っていた奥方は逃げることの不能を悟り、姫をにがして自分は「松の木」という所で自害した。姫は犬伏の諏訪神社近くで捕えられ殺害された。土地の人は姫をかわいそうに思い、地蔵を建ててその霊を弔った。姫の名を「カヨ」といったので「カヨ地蔵」、その時に振袖を着ていたので「振袖地蔵」ともいう。

はい。姫を逃した奥方は「松の木」という場所で自害したとあります。こちらは板西城趾を南下した栖養(すがい)八幡神社が鎮座する場所になります。

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f:id:awa-otoko:20170126212356j:image(栖養八幡神社

八幡神社は榮村下庄にあり、闔村及び古城、西中富、唐園、犬伏、那東、大寺、中窪の八村共にこれを祀る、此地昔時栖養の里と稱し土御門天皇の行在所を置かれし所と傳ふ。社地より乾位へ半町程隔てて一林あり中に松の木宮と云へる小祠あり、土俗これを松の樹殿と唱ふ。

栖養八幡神社は赤澤氏が應永十年六月廿八日に石清水八幡から勧請したと記録が残るそうです。が、awa-otokoはちょいと違和感を感じています。奥方が自害した「松の木」とは松の樹殿。こちらは摂関家として創設された公家のひとつ藤原氏北家嫡流藤原忠通次男松殿基房が祖。家名の由来は京都に松殿と呼ばれる屋敷を構えたことによる「松殿家(まつどのけ)」に関係があるのではと考えています。

 f:id:awa-otoko:20170126212414j:image(松ノ樹殿)

そして当地、板野郡一帯は那珂登美(中臣)の地。近藤六親家も西光(藤原師光)が養子であるものの藤原氏の系譜を嗣ぎ、踏襲していたと考えるのです。(西光は麻植氏忌部大宮司の血を継承)

近藤六親家と土御門上皇の動向のリンク、そして藤原氏。まだまだ板野郡には深い謎が隠されているようです。