安閑天皇を祀る飛蔵宮
土成町宮川内の奥に飛蔵山(ひそやま)という山がある。飛蔵山は御祭神として第二十七代 安閑天皇を奉斎する吉野神社が古くから鎮座していたと伝わる。吉野神社は神仏習合の時代に飛蔵宮(ひそみや)または蔵王権現と改称され、山伏をはじめとする修験道の一大霊場として栄えた。近くに大別当、教連寺という字名が残されており、教連寺は蔵王権現の宮司であり大権別当は大宮司が居住していた場所であると考えられている。
はい。飛蔵山の蔵王権現参拝してきました。もう身体がぼろぼろです。飛蔵山の位置をきちんと調べずに思いつきで突入したので、鵜ノ田尾峠の旧道に入って山一つ間違えて登ってしまいました。
(黄:間違えた場所 赤:目的地の飛蔵山頂上 白:目安の鵜ノ田尾トンネル入口)
運良くイノシシ狩りに山に入っていたハンターさんに会って間違いを教えていただきました。ハンターさん曰く、「今は猟期やから危ないよ。猟犬放してるし。それでも行く?笑w」と半分冗談まじりで脅されましたが「ありがとうございます。もちろん行きますわ〜。引き返します。」
(引き返した時に撮影した飛蔵山(中央奥))
再度鵜ノ田尾トンネル左側旧道からアタック。
集落跡を抜け、淵を渡って道沿いに進めば…
(登山口)
(どんどん登ります。)
さて、ここで飛蔵山蔵王権現にまつわるお話を。。
足利時代に七条兼忠という剛の者がいた。時の七条城主である。或る年に旱魃が続き、百姓達が飛蔵宮にて雨乞いの祈祷をしたが、七日間の必死の祈祷にも拘らず雨は降ることがなかった。そこで兼忠は大いに憤り、「万民の苦しみを顧みないのは神霊の在さね社なり。」とし、矢をもって神殿の扉を打ち破った。すると突然暗雲がたちこめ一大豪雨となり雷鳴轟きだした。兼忠は焦って七条城に逃げ帰ったが飛竜があとを追い、宮川内川は大洪水が起こったという。
(参考資料にあった祠建設当時の写真)
飛蔵山の蔵王権現は雨乞い成就の霊験譚を今に伝えています。が、、、安閑天皇譚はどうなったのか?
【安閑天皇】
『日本書紀』では、諱を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)としている(「まがりのおいねのみこ」とも読む)。 和風諡号は、『古事記』に広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、『日本書紀』に広国押武金日天皇とある。
継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。 安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。(Wikipediaより)
はっきり申しまして、なぜ土成の飛蔵山に安閑天皇が祭祀されていたのかはわかりません。。。(//∇//)
ただ、引用にある犬飼部に関連する隣山の城王山麓の犬墓地域の存在、また城王山にも雨乞いの神と蔵王権現(役行者)が祭祀されており、繋がりが薄っすらと感じられるくらいですか。(理由が苦しい。。。)
個人的には安閑(あんかん)天皇は安徳(あんとく)天皇と間違えられているのではないかということも並行して考えたりしてます。
飛蔵山を囲むように流れる宮川内川には御所の地名、そして安徳帝の他にも土御門天皇の伝説も存在します。
あと、南に位置する神武天皇もね。
という訳で、明確にはお伝えできなかった安閑天皇伝説…
とりあえず現地に行っても解決しないことは百も承知でしたが、こんなパワスポも見つけて癒されてきました。土成町と様々な天皇伝説。何らかの繋がりは在りそうですね。これからの調査結果が楽しみです。 ( ^ω^ )