awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波三國説から出てきた様々な推測

 f:id:awa-otoko:20161127225500j:image

以前に粟、長、麻植の起りを投稿をまとめた内容です。 もちろんソースの古文書は転載しましたが、とてもめんどくさいので訳してません。それでも良ければ読んでみて下さいね。(≧∇≦)

上古當国は大きく三國に分かれ有りしなるたし。即ち粟と云う縣、麻植と云う縣、長国なり。

f:id:awa-otoko:20161127223254j:image(粟國:上一宮大粟神社) 

その先ツ粟と云う縣は板野、阿波、名方(名東・名西)等の三郡なり。故にこの地の百姓を後に粟凡直と云ひしなるたし。

f:id:awa-otoko:20161127223330j:image(長國:勝占神社)

長国は那賀、勝浦、海部等の三郡より其端名方郡にかかりて有しなり。其れ那賀郡を長国の地なりし説論あり。海部郡は古くより那賀郡の内なりしを後に和射海部の二郷を割きて一郡を置れしなり。勝浦郡も長国の地にて有りし説に、勝浦郡の人民 長直(ながのあたい)姓なるを以て長国に由ある姓なり。今もこの郡の小松嶋浦中田村あり。この総称を千代と云へるは長国の長の名の残りにて千代と傳たれり。(千代の丸は長の丸の転訛なり)

f:id:awa-otoko:20161127223405j:image(麻植縣:高越神社)

残る処を麻植、美馬、三好等の三郡なり。上古麻植と云ふ縣なり。古語拾遺に”郡名爲麻植之縁”とあれとも神武天皇ノ朝の事を記したる條なり。考えるに郡制尢孝徳天皇朝になり。其以前に郡の称あらむされども實は郡に非るを郡を制定、後に郡字を當てて書きたるものなり。麻植と云ふ縣のありしを知るべし。

f:id:awa-otoko:20161127223615j:image(麻植縣:御所神社)

美馬三好を上古一郡の美馬郡なりしを割きて三好郡を置れしなり。古傳に忌部神社の祭禮に馬を美々敷して出せし由ゑ、郡名を美馬といふ由なり。

f:id:awa-otoko:20161127223724j:image(粟國:岡上神社)

長国や粟の縣の甚(いと)大きかりしを分ちて数郡置かれたるを思ひ合せてさとる如し。これ考て上古三國なるたしと云へるなり。但し大別を三國にして其中に小地名を多くありしなるにして三大社の大神等の神勲にてひらき給ひし外にも裔神、他の神等も由緒増して処々にてひらきせられしも多かる如し。
祖谷山も”ゑいらのみこ”のひらき給ひし地なりと云い、板野郡の名も葦稲葉神の御名より出たりと云ひ、生夷谷も蛭子大神のあられませし地なりと云フ傳への類、処々あるにて知るべし。 

 f:id:awa-otoko:20161127230440j:image

 

・粟國は大宜都比売命(とその裔)。
・長國は積羽事代主神(とその裔)。
・麻植縣こそ忌部國。天日鷲命(とその裔)が治めた國。 

awa-otokoは大宜都比売命天日鷲命大麻比古神が降臨し、国を運営した当初は粟國と麻植縣は元来一つの領域であったと考えています。時代を経て粟國から忌部國(麻植縣)が割れ出た謎をこれまで調査した内容と資料から推測してみたいと思います。 

本来、大宜都比売命天日鷲命大麻比古神は同系の神であり、粟國(板野、阿波、名方)と麻植縣(麻植、美馬、三好)は一つの領域だった。

大宜都比売命の治めた粟國の領域には板野郡が含まれます。その板野郡に拠点を構えたのは大麻比古神です。天日鷲命の御子であり、大宜都比売命降臨の際に伴ったと伝わる大麻比古神が板野郡を拠点としたのは、三神が共同運営した経緯があるが故だと考えるのです。この時系で本来の領域を考えるには粟凡直氏族の分布で考えなければなりません。後から付け足された忌部族というカテゴリーを大麻比古神にあてはめれば結論に詰まるのは必至なのです。

そして次に考えるのは本来粟國領域の中に含まれていた(と考える)麻植縣がなぜ独立したのか?ということです。粟國より割って出たのはもともと同族であった大宜都比売命一族(仮に粟族)と天日鷲命一族(仮に麻族)の中で争いが発生したのが理由ではないでしょうか。

 f:id:awa-otoko:20161127224419j:image(麻植縣:種穂神社)

 

大宜都比売命は粟で国を経営し、天日鷲命は麻による経営で範囲を拡大した。後に粟族と麻族で激しい衝突を繰り返し袂を分けるに到った。(大宜都比売命天照大神天日鷲命素戔嗚命に比定。) 

 

f:id:awa-otoko:20161127224457j:image(粟國:天石門別八倉比賣神社)

・初代 大宜都比売命と二代目 大宜都比売命は血の繋がりが薄く、別の部族(天石門別系(粟族)と伊豫 和多津美系(海人族)の違い)のために天日鷲命一族(麻族)と衝突した。(初代大宜都比売命卑弥呼、二代目大宜都比売命を壹与に比定。)

 f:id:awa-otoko:20161127224113j:image(粟國:大麻比古神社

忌部祭官家である早雲家の伝承では、大麻比古神は「猿田彦大神・岐の神」として神山神領、入田村、一宮村とも交流が深いことが記されている。この内容から 大麻比古神は二代目大宜都比売命とは比較的に友好的な立場をとり、板野郡を運営していた” のではないかと推測します。 大宜都比売命が忌部族と淡路島→→に渡っているのは大麻比古神が関与しているのではないかと考えてみたり。。。(淡路は阿波路。また「粟死の意」とかも… )

f:id:awa-otoko:20161127224853j:image大麻山:弥山神社)

という訳で、天日鷲命の御子という系譜、大麻比古という神名から麻の忌部族と決められてしまった大麻比古神。本当は粟で国を繁栄させた大宜都比売命と協力した功績や猿田彦・岐神として粟凡直一族が他国に渡る手引きをした等の功績から「阿波(粟)の一ノ宮」の称号が一時的に移されたのかもしれません。それがそのまま「阿波国一ノ宮」として定着した可能性が高いと考えました。

f:id:awa-otoko:20161127224158j:image一宮町:大麻比古神社) 

大宜都比売命のお膝下の一宮村に大麻比古神社の元宮が存在し、大麻比古神の領域である板野郡に大宜都比売命の御子である葦稲葉神が祭祀されているのをみても、大麻比古神と大宜都比売命には太いパイプがあったのではないかと推測します。

f:id:awa-otoko:20161127224246j:image(上板町:葦稲葉神社)

awa-otokoは大麻比古神を猿田彦大神とも比定しているのでそちらも調査継続していきたいと考えています。 

さて、結論的には昔から様々な意見があった阿波三國説。忌部国は存在したという考えです。総体的に考えれば粟國と長國も積羽八重事代主命大宜都比売命の婚姻関係を含めれば同系であり、様々な視点と解釈の相違によって見解が変わるので決めつけは難しいです。まぁどの時代で考えるかですね。

今回はここまで。興味ある方は各々で結論を考えてみてください〜。\( 'ω')/

一宮家のルーツ‼︎ 大通寺良蔵院とは⁈

f:id:awa-otoko:20161122001922j:image神領上角川)

何かと忙しくていつもより投稿の間が空いてしまいました。「年末にかけてこの忙しさは何なんだ!(*_*) 」ということで、投稿できるタイミングの今、まだ誰も知らないと思われる情報をリークしておこうと思いますw

 

f:id:awa-otoko:20161122001954j:image

一宮氏祖 小笠原宮内大輔は小笠原長清の従弟なり。上総八郎廣常と縁あり依而小笠原弾正少弼長利 千葉家懇意ヲナス弾正男子ナク弥太郎養子トス 鎌倉三代将軍 実朝卿ヨリ健保六寅年八月従四位下ニ任ス貞慶弐未年三月源頼経将軍 執権北条泰時ヨリ四国ノ守護職に居置ル弾正 神領江隠居シテ修験者大通寺正覺院ト縁ヲ結国造家相続スル。太粟姫尊国造勤メ玉フ云〃
各弐家古系図ニハ小笠原弾正長利国造家相続と志るしなれども是ハ傳への誤りにて国造家相続ハ宮内大輔長宗實なるべし。

 

弾正の代に神領に隠居して正覺院と縁を結び、当地にて宗家の代祭を執り行ったことを国造家相続として誤写されたとあり、弾正という名称も各代に継承されていることから、系図を作成した際に文飾して長利とされたと記されています。粟国造家相続、即ち「小笠原上一宮大明神」は、「小笠原宮内大輔長宗」からということらしいです。

 

f:id:awa-otoko:20161122002118j:image 

 

神領大久保)

因云、大通寺正覺院ハ今上角名大通寺良蔵院といふ院内一派の修験あり。一宮城主小笠原氏と縁を組しこと今に此村に言い伝へあり。又小笠原氏隠居家なりと云ふ説もあり。良蔵院は古くより一宮の子孫と言傳へて近年長門守の位牌を造せり。按にこの一宮子孫といふ事に考ふべき事あり。小笠原氏と縁を組しにて言出したるにハあらず往古一宮といひしハ今の一宮村の社にはあらず。上一宮大明神を諸人一宮と申奉しその後にて近きにあたりハおのずある地名の如くを言しなるべし。大通寺ハ其地の大家にて小笠原氏と縁を組し程なればあたりに並ぶ家なく余りありて一宮と云えハ大通寺言い彼家のこととなりし也。一宮を姓の如く諸人唱へ来しを古くより一宮子孫と言傳へしなるべし。この家近年焼失して何も古き記録なし。

f:id:awa-otoko:20161122002248j:image神領上角谷)


はい。昔に大粟山の麓、上角川の流れる近くに大通寺という寺があり、その大通寺には良蔵院一派「正覺院」と名乗る修験者が存在していたそうです。この「正覺院」は粟国造家の裔であり、大宜都比売命を祭祀してきた家柄であったのはいうまでもありません。(のちに小笠原家と交わり小笠原家隠居家とも。)

f:id:awa-otoko:20161122002324j:image(大粟山 天辺ヶ丸祠)

f:id:awa-otoko:20161122002337j:image(天辺ヶ丸)


書き記された内容では、神領の地に「一宮」と呼ばれた地がもともと存在していたそうで、「上一宮小笠原大明神」はその地名から採用されたようです。(田口大明神とは別なんでしょうね。小笠原家が入ったから上一宮小笠原大明神。)

さらに書けば大通寺(国造家)があった場所が「一宮」と呼ばれた地名だったようです。(粟:阿波一宮を祭祀したから一宮の地名ができたのか、姓ができたのか前後関係は不明。)

ということで、上一宮小笠原大明神から分祀された一宮村 一宮大明神のルーツも神領村大通寺が存在していた一宮からという事になりますよね。小笠原家から一宮の姓を採用し、家が別れたのも同じ理由からなのではないでしょうか。上一宮大粟神社と下一宮神社が分かれた理由もここにあり!ということです。 

awa-otokoは大通寺が存在した位置はあらかた掴んでいます。所在地のヒントは文中に点在させてあるので気になった方は調査してみては如何でしょうか?ニヤ(・∀・)ニヤ

大宜都比売命、その裔である粟国造家や粟凡直一族。調べると次々と驚きの事実が出てきます。この他にもまだまだ書きたいことがありますがとても長くなりそうなので今回はこのへんで。。。

 

あ、最後に。。。

粟国造家であった小笠原系一宮氏は、現在の(一般的?な)阿波の一宮姓とは繋がりがほとんどないそうです。「混同せざること!」と書物にあったので書いておきまーす。

神山に存在した阿波民部の城(粟国造家の拠点)

f:id:awa-otoko:20161112184143j:image

今谷名ニテハ皇子権現ト申シ、其邊リヲ皇子原ト云ニテ知ル可シ。此社ハ阿波民部城跡ニ在リ、亦同郡上浦村ニモ皇子権現ト云社在テ、有持氏ノ先祖也ト云由也。按ニ有持氏ハ阿波民部ノ子孫也。谷名ナル皇子権現ハ先祖民部ガ信仰セン神故ニ彼村ニ移シテ先祖ノ神ト云欤。

以前に有持氏をピックアップした際に引用した内容です。とりあえず神山で阿波民部の城の存在を示すものは上記文しか確認したことはないので貴重(と思ってますw)。

さて、awa-otokoが今回改めて、阿波民部こと田口成良が造設した城跡推定地を確認してきました。

過去記事にもありますように阿波民部、田口一族は大宜都比売命を祭祀する祭官家としても知られております。古文書に記された地名、粟飯原家の拠点である栗生野との繋がり、現地の立地条件からここに間違いないなと感じましたので今回ご紹介いたします。

大宜都比売命、夫神である積羽八重事代主神(味鉏高日子根命)、粟国造家(粟飯原家)の伝承が重なり合いそれが立証できる場所。


それは、、、

阿波古代史を追う方はよく耳にする場所、長満寺とその背後にある出雲神社(城山神社)がある「城山」であります。

 

f:id:awa-otoko:20161112184432j:image

f:id:awa-otoko:20161112184446j:image(長満寺)

f:id:awa-otoko:20161112184600j:image(出雲神社:城山神社)

堅固な石垣、狭い通路、急勾配な坂、要所に置かれた石門。

f:id:awa-otoko:20161112184418j:image(城山にある立派な石積み)

f:id:awa-otoko:20161112184524j:image(長満寺・出雲神社に向かう石垣に挟まれた狭い通路)

そしてawa-otokoが間違いないと確信したのは、粟飯原本家からしか見えないと云われる「味鉏高日子根命の神像」即ち「笑子岩(えびすいわ)」が刻まれた高根山の真正面に位置するから。

f:id:awa-otoko:20161112190735j:image(笑子岩、めっちゃ近し!!w)

f:id:awa-otoko:20161112203009j:image(上の写真はカメラマンの腕が悪いので見えませんが、この絵のような顔がはっきりわかります。)

また、大粟山 天辺ヶ丸から見える西側の眺望は長満寺と出雲神社付近(城山)を確認を中心に、粟飯原家(粟国造家)の居住地である栗生野を確認するためにあるとしか考えられません。(その他、東宮山と焼山寺山など狼煙台があったはず。)

f:id:awa-otoko:20161112185629j:image(大粟山 天辺ヶ丸からの眺望)

f:id:awa-otoko:20161112185713j:image

f:id:awa-otoko:20161112190932j:image(ズームインw)

もちろん長満寺からも大粟山 天辺ヶ丸はよく確認できます。(栗生野集落はもちろん、焼山寺山もはっきり確認できます。)栗生野集落は城山の麓、鮎喰川を挟んだ直ぐ前に位置します。

 f:id:awa-otoko:20161112191348j:image

という感じで、落としどころがわからなくなってしまいましたがwww、この城山の地にあった王子権現が有持氏の手によって麻植郡上浦の有持神社として鎮座しているということですね。

 

個人的には栗生野集落のほかに神代からの粟国造家の拠点であった当地の施設を阿波民部(田口成良)が軍事拠点として使用したのではないかと考えています。(または悲願寺周辺が古代の砦と考えるならば、後年に降ろした山城ではないかとも考えたり… )

いろいろ考えてますが、阿波民部自体の行動範囲が広すぎていまいち動向が追えていません。ここが追えれば大宜都比売命伊予国と関係も出てくるかもしれないのですが。。。

この他にも粟国造家に直結する施設跡を神山で調査中です。まとまったら紹介したいと思います。

 

オマケ。

大宜都比売命・粟国造家には関係ないかもしれませんが、神領には笑子岩のほかに「人面岩」が存在するらしいですよ。

f:id:awa-otoko:20161112203149j:image

これ、何なんでしょうね。

千葉家系図 全:粟飯原氏の系譜

f:id:awa-otoko:20161108211506j:image

国造ニシテ子孫ハ千葉家ノ裔ノ如ク家系引誤タルヲ、其後揚奉リ国造甚□シ 千葉名全タカリシヲ以失実ニテ思ヘシヤト極依テ粟飯原ハ粟宿祢嫡流モ末流其後大名ニ成シモ其祖ヲ千葉トシテ系ヲ残キシハ誤リナルベシ。

f:id:awa-otoko:20161108220309j:image

阿波国粟飯原家は千葉家末裔と伝承されています。(表向きは。www)たぶん千葉氏末裔という説のソースは今回紹介する「千葉家系図 全(粟飯原氏)」にあると思うのです。粟飯原家住宅で当主に閲覧させて頂いた粟飯原家の系図も同じ内容だったと記憶してます。

桓武天皇から始まり、平、千葉、天羽、横田、そして粟飯原と脈々と繋がっている内容が記載されているのですが、知りたいのはそれより遡った系譜。その内容は書かれていませんが、冒頭のように途中で千葉氏の末裔じゃないぜ!とか、補足説明が書かれた折紙が入っていたりとても興味深い内容です。それでは読んでみましょう‼︎

f:id:awa-otoko:20161108223341j:image

f:id:awa-otoko:20161108223356j:image

f:id:awa-otoko:20161108223412j:image

 天女と契を結んだ平常将の名前がありますよ。↑↑↑ ここから安房の千葉氏でしょうね。

f:id:awa-otoko:20161108223432j:image

f:id:awa-otoko:20161108223605j:image

f:id:awa-otoko:20161108223624j:image

f:id:awa-otoko:20161108223645j:image

f:id:awa-otoko:20161108223713j:image

f:id:awa-otoko:20161108223745j:image

f:id:awa-otoko:20161108223839j:image

f:id:awa-otoko:20161108223906j:image

f:id:awa-otoko:20161108223926j:image

f:id:awa-otoko:20161108223946j:image

「那西郡西須見へ移ル。」ここらで一部の氏族が阿波国に帰ってきたみたいですね。あと、、、名西郡・板野郡の範囲内で集中している天羽氏も調べたらいろいろ出てきそうに思います。

f:id:awa-otoko:20161108224403j:image

f:id:awa-otoko:20161108224425j:image

f:id:awa-otoko:20161108224448j:image

f:id:awa-otoko:20161108224506j:image

f:id:awa-otoko:20161108224525j:image

阿波国式内社の横田神社が記載されています。貞和年間なので南北朝時代ですね。祠自体は延喜式に記録があるのでもっと遡りますが。。。

千葉より分派した胤元から横田を名乗り三好郡三加茂へ移動しております。

そして常昭から入田村に移動。この名残りが府中殿遺蹟ですね。(この石碑の後ろにある低い山に城が築かれ横田氏が地域を統括していたと伝わります。)

f:id:awa-otoko:20161108225839j:image

f:id:awa-otoko:20161108230722j:image

f:id:awa-otoko:20161108230838j:image

f:id:awa-otoko:20161108230900j:image

 f:id:awa-otoko:20161108230940j:image

f:id:awa-otoko:20161108231151j:image

f:id:awa-otoko:20161108231455j:image

初代 清常の頁:一宮氏(三好氏)は千葉氏の他、神領村大通寺正覚院(粟国造家の裔)と縁を結び粟国造家を存続させた。粟国造家の祖である大宜都比売命の記載もあり、「上古太粟姫命 国造を勤給う」と記されています。あと、粟飯原の名前の由来もね。(もっとこういう内容が欲しいところですが。)

f:id:awa-otoko:20161108231629j:image

粟飯原家には系譜の記録が残されてなかったのでしょうが、本来なら大通寺正覚院系の系図(粟宿祢)で表すべきだと思います。阿波女社祖系図は一宮氏に伝承されていたので上角大通寺 正覚院系の系図は一宮氏に流れたのかもしれませんね。

f:id:awa-otoko:20161108231651j:image

f:id:awa-otoko:20161108231714j:image 

f:id:awa-otoko:20161108231739j:image

f:id:awa-otoko:20161108231837j:image

f:id:awa-otoko:20161108231932j:image

f:id:awa-otoko:20161108231948j:image

f:id:awa-otoko:20161108232012j:image

f:id:awa-otoko:20161108232035j:image

f:id:awa-otoko:20161108232052j:image

f:id:awa-otoko:20161108232108j:image

f:id:awa-otoko:20161108232127j:image

一通り目を通して頂けたでしょうか。ご覧の通り、内容はとても面白です。教科書で読んだ有名な名前も出てきて、その部分はアタマに入りやすいと思います。でも系譜の時系列がひじょうに掴みにくく、綴じた形態での系図は確認し辛いことこの上なしwwwですね。

やはり系譜を辿っていると阿波国に所縁があったのだろうと感じる部分が所々にあります。この千葉家系図の他、小笠原家(三好、一宮含む)系図、阿波女社祖系図、粟国造粟飯原氏系図が上手く繋がれば、、、さらに見えてくるものがあるでしょう。

そして最後に、この系図は管理人awa-otoko自身も内容を把握できていない箇所がまだまだ残っています。くずし文字が読める方がくまなく探せば大きな発見があるかもしれませんよ。興味ある方はさらに細かく目を通してみてくださいね。それではこのへんで。( ̄^ ̄)ゞ

六人の天日鷲命

久しぶりの投稿です。やっぱり文字入力するのが面倒で面倒で。。。(笑笑笑 )

さて前回の続き?(でもないけれど)忌部神について書いていきます。阿波国の他にも伊勢国安房国・関東一円に分布し御鎮座された神 天日鷲命。なかなか実体が掴めない神だと思いませんか。その謎が解けない理由の一つに天日鷲命という御神名にトラップが隠されていたようなのです。

f:id:awa-otoko:20161105174216j:image阿波国早雲家 忌部系図)

麻植郡川田村早雲系図、即ち阿波国忌部家の系図の初発は天日鷲命と記されています。そしてその後に天日鷲命の御名が初代を含めて六代続けて記入されているのです。

即ち天日鷲命とは初発より継承された御神名なのです。

神代からの伝承は時代の移り変わりを経て、六人の天日鷲命は一人の神として認識されつつあります。当然、二代目天日鷲命からは別の神名も持ち併せておりまして、別の神として様々な記録が残されています。これを調査することによって、より詳細な歴史の推移が浮き出てくるのは明らか。今回確認した資料には「天日鷲命次下其裔孫代の人命は三河国 青木氏に伝わる系図にあり」と記され、その御名も記入されています。早速確認して頂きましょう。

三河国 青木氏系図
天日鷲命】-【大麻彦命(天日鷲命)】-【阿波之宇志彦命(天日鷲翔矢命)】-【天日鷲翔矢命(?)】-【建男命(天日鷲建男命)】-【由布彦命(天日鷲毘古命)】- 由布奴佐別命 -小麻別命-…

f:id:awa-otoko:20161105190307j:image(一応ソースは掲載しておきまふ。ふふふ。)

阿波国早雲系図の天日鷲命六代に符合させているようです。大麻彦命の傍には天日鷲命と補足が記され、以下の阿波之宇志彦命の傍には天日鷲翔矢命、建男命の傍には天日鷲建男命、由布毘古命の傍は天日鷲毘古命とあるそうです。(上記系図の()部分)

安房国に伝わる忌部系図
天日鷲命】-【大麻彦命】-【由布津主命】-【討多々主命】…

安房国に住んだ由布津主命は、別の御名を【阿和気彦命】といい、これは【阿波(あわ)気彦命】、または【阿 別(わけ)彦命】とも考えられます。阿波国から安房国へ移動したのがこの神であったことが推測できるのではないでしょうか。
よって関東一円に分布した天日鷲命については初代天日鷲命以下の神裔が一括りに天日鷲命とされている可能性が高いと考えます。もちろん初代天日鷲命を祭祀していた場所もあるでしょう。もう六人の天日鷲命が入り乱れて全貌は解明できない規模で拡散されているようです。。。(こちらは別の研究者に任せてawa-otokoは阿波国を追求したいと思いますw)

話を三河国 青木氏系図に戻します。

安房国忌部系図や伊勢国国造伝承等を含めて考えるとますます罠に嵌りそうなので敢えて阿波忌部系図と関連性が多い三河国忌部系図で考えていきます。

f:id:awa-otoko:20161105190648j:image

f:id:awa-otoko:20161105190721j:image(宇志比古神社)

お気づきの方もいるのでしょうが系図の中に【阿波之宇志彦命】とあります。こちらの神は紛れもなく阿波の延喜式内社である板野郡鎮座「宇志比古神社」の御祭神でしょう。大麻彦命の後継者にあたる神です。現在の阿波国一宮である大麻比古神社の近くに鎮座する宇志比古神社の位置も考慮すれば、系図との関連性も掴めやすいのではないでしょうか。

 f:id:awa-otoko:20161105191145j:image(宇志比古神社)

そして阿波の宇志(大人:うし)ですから、もちろん阿波(粟)国造家とも関連は大アリです。阿波之宇志彦命が岐神であると云う内容も… (こちらはまたいずれ書きます。)

また今回使用した資料には阿波之宇志彦命と由布津主命は兄弟」とあります。由布津主命は先に記したように阿和気彦命の別名があり、また【天富命】という御神名である。」ともあります。これで概要は理解できたのではないでしょうか。

 

まとめ。

天日鷲命天太玉命と同神。

天日鷲命大麻彦命、阿波之宇志比古命は阿波国を拠点としていた。(天日鷲命三代まで阿波国・四代からは安房国

天日鷲命麻植郡大麻彦命は板野郡を治めた。阿波之宇志比古命は粟国造家の系譜と関係が深く、粟国(神山町神領一宮町)を往き来していた可能性が高い。(岐神:猿田彦… ふふふ。)

・由布津主命は兄の阿波之宇志彦命に阿波を譲り、安房国に渡って天富命となった。阿波忌部を別けて安房国に移動したことから阿和気彦命と呼ばれた。

 

今回はここまで。天日鷲命の系譜 阿波忌部はまだまだ隠された秘密がありそうですよ。お楽しみに。