awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波国 懐かし写真館 ①

最近仕事が忙し過ぎてなかなか古文書の読み下しができていないawa-otokoです。ネタは沢山ストックしていますが、、、なにぶん忙しくネタが溜まるばかり。という訳でそんな余裕がない時は昔の面白い写真を貼っちゃいましょう!!

 f:id:awa-otoko:20161020221602j:image城山の貝塚

 

f:id:awa-otoko:20161020221651j:image二軒屋の金毘羅宮

 

f:id:awa-otoko:20161020222018j:image眉山山頂に皇陵の遥拝所があったって知ってた???

 

f:id:awa-otoko:20161020222135j:image田宮の天神社。この時は境内に七福神なんていませんよ。(笑)

 

f:id:awa-otoko:20161020222331j:image国司廳址。この写真で場所が判明するかも!!

 

f:id:awa-otoko:20161020222529j:image国分寺。ここは今と全然変わりません。

 

f:id:awa-otoko:20161020222618j:image長国造の祖神を祀る御間都比古神社。ちょっと社殿が小さい??

 

f:id:awa-otoko:20161020222806j:image十二神社側から撮影した焼山寺

 

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今は何かと話題が多い上一宮大粟神社

 

f:id:awa-otoko:20161020223019j:image鳴門の尼塚ですね。

 

f:id:awa-otoko:20161020223220j:image言わずと知れたお麻はん。

 

f:id:awa-otoko:20161020223329j:image羅漢さん。ここも変わらず。

 

f:id:awa-otoko:20161020223536j:image土成の御所神社ね。

 

f:id:awa-otoko:20161020223648j:image玉林寺。昔も今も静かでいい処です。

 

f:id:awa-otoko:20161020224059j:image康頼神社。今は周りをセメントで… 

 

f:id:awa-otoko:20161020224212j:image森藤の大楠。こんなに大きかったっけ??

 

f:id:awa-otoko:20161020224301j:image天日鷲社!!現在の山崎忌部神社です。

 

f:id:awa-otoko:20161020224405j:image今は跡形もありません。山崎忌部神社裏にあった織殿です。

 

f:id:awa-otoko:20161020224832j:image安房神社の元社。岩戸神社です。

 

はい。まだまだ写真はあるのでまた次の機会にご紹介します。

写真貼るだけのお仕事はやっぱり楽やわぁ〜。(笑)

吉田喜七郎の杉尾非八倉比賣神社弁!!ここに。

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明治初期には廃藩置県、廃物毀釈という変革期の中において地域で重要な位置を占めていた上一宮大粟神社を三代実録に神階授与の記事がある埴生女屋神社に比定する説に基づき、明治三年に埴生女屋神社と改称されるに至った。
この社名変更に反対した人物のひとりが吉田喜七郎である。

f:id:awa-otoko:20161008224942j:image(矢野 杉尾明神:現 天石門別八倉比賣神社)
阿波国で最高の社格を持つ天石門別八倉比賣神社が現在の矢野 杉尾明神であるとした国の判断に反対を唱え「杉尾非八倉比賣神社弁」を著して国に対して「天石門別八倉比賣神社」は「矢野杉尾明神」ではあり得ず、上一宮大粟神社であるという主張により反対運動を展開した。

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f:id:awa-otoko:20161008225202j:image(埴生女屋神社:現 上一宮大粟神社

はい。フェイスブックの方ではチラッと流した「杉尾明神非八倉比賣神社弁」でございます。
こちらの内容は今まで投稿していた粟飯原氏をテーマにした内容と同じく、大宜都比売命が阿波(粟)国の祖神であったこと、粟国造粟凡直氏族の祖神であったことなどが記されております。(今回は書き下すのはかなり面倒なので細かく訳しません。一応は訳しますがかなりはしょりが激しいので注意。)

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(社名改正で矢野杉尾明神が八倉比賣神社になったけどこれはどういうこと!?八倉比賣神社を冠すれのは大粟姫:阿波姫を祀るのは当社じゃないの???怒怒怒!?)

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(大粟姫:阿波姫は天津羽羽神・栲幡千々姫と同神。そして積羽事代主命の后にして天石門別神の娘のことな。だから天石門別八倉比賣の号は当社にあてはまるのではないんかぃ!!!

怒怒怒!?)

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天石門別神天手力男神。一緒に岩門を解放した稚日女(わかひるめ)神も栲幡千々姫。従って大粟姫:阿波姫な。勘違いしてるから説明しておくけど栲幡千々姫は天忍穂出耳命の后じゃねーからな!怒怒怒w)

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(天忍穂出耳命の后は栲幡千々姫の娘である玉依姫。旦那の積羽八重事代主命は別名味鉏高彦根神!!それと天石門別稚姫とは天石門別八倉比賣命と天石門別豊玉比賣命のこと!!!怒怒怒!!!)

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(積羽八重事代主命と天石門別八倉姫には五柱の御子がおる。まずは葦稲葉神。これ物忌奈乃神のことな!そしてもう一柱は玉依姫な!物忌奈神は板野郡に居るから!!!怒怒怒!!!(後の三柱については回答なし。))

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(要するに名西・名東・板野の地は粟国造粟凡直達以下全て総氏子なわけ。そして一宮大明神もこっちからの分祀な訳で、杉尾明神も天石門別豊玉比賣神社で分祀。天石門別八倉比賣神社と同じ神を祀っていたから間違えたままになっているんじゃー。怒怒怒怒怒!!)

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(そもそも杉尾明神の祭神、大日孁神(おおひるめ)も大阿波女神:大粟姫(おおあわめ)のから変化したもの。分祀の杉尾明神が八倉比賣神社の社号で、本社のこっちが埴生女屋神社という社号は納得いかん。百人に聞いても百人がそう言うわ!!!!誤りを後世に残すことがないように社号改正を考え直すべし!!!!怒怒怒怒怒!!!!!)

 

はい。埴生女屋神社に改正させられた上一宮大粟神社は、田口大明神の名称の後は明確な呼び名が無かったのでしょうか。大宜都比売命の神裔である粟国造粟凡直の一族も源氏と平家、南朝北朝の騒乱から系譜の記録に混乱をきたし、分祀による祭神大宜都比売命の変名で出所である大粟山郷にしか正規の伝承が存在していなかった結果によるものと思われます。

f:id:awa-otoko:20161009005355j:image(埴生女屋神社社殿跡地)

結局この内容も国が承認して改正し直しを行うはずもなく、現在も天石門別八倉比賣神社の比定社は、杉尾明神(現、天石門別八倉比賣神社)、一宮大明神(現、一宮神社)、田口大明神(現、上一宮大粟神社)とされたままになっています。形式上は杉尾明神が天石門別八倉比賣神社ですね。吉田喜七郎の呼びかけも虚しく、正規の社号に戻ってない訳です。

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f:id:awa-otoko:20161009005519j:image(大粟山山頂 天辺ヶ丸:大宜都比売命が降臨、粟を植え給うた場所)

f:id:awa-otoko:20161009012147j:image(若室神以下の系図)

粟国魂 大宜都比売命の御子である若室神(葦稲葉神)を含め以下、天磐門主神、健豊神、健忍方神、多久理比古神、八倉主神、宇賀主神、畠多神の系譜より八倉比賣神社宮主を継承している記録をみれば、、、やはり大粟山に鎮座している上一宮大粟神社こそが天石門別八倉比賣神社なのが正当なのかもしれません。

吉田喜七郎の「何モ両社由緒アリ祀ラセシニハ非ス開主ノ宮跡ヲ今ニ明カナルヲ以テ口代サラスヘニ、誤リ傳ヘシテ… 」の記録を、二百年の時を越えここに表したいと思います。

勝占神社は事代主神社 "祭神も事代主神 一柱だ!!"

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勝占神社の祭神は事代主命也。
何と云うに神名式の文例にて明らかに知らるる也。

神名式ハ諸国奉たる其文例国々にて異なり、我阿波国の文例に三箇の例あり。

其郡々にて地理の順序を論せず大社より記したる例
板野郡大麻比古神社麻植郡忌部神社、名方郡天石門別八倉比賣神社と何れも其郡にて大社を第一に學びたり。

二座なるは必ず二座と記したる例
天村雲神伊自波夜比賣神社二座、倭大国魂神大国敷神社二座と記す也。

同郡に同神の鎮り坐すを並べ記したる例
名方郡天石門別八倉比賣神社、天石門別豊玉比賣神社を並べ記したる也。

阿波国三箇の例ある事を知る可し。

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此の例を以って考えるに勝占神社は小社なれど郡名と同しき社号は其地に深き由緒坐て郡中何れも小社の中の大社にて第一に記したる事と知られ且亦勝占という社号、事代主神 亦名 味鉏高彦根神に由緒あるは云も更なり。此社に並びて事代主神社を記しあるにて勝占神社は同神を祭れる㕝知られたり。

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冒頭から答えを書いてしまいましたw

昔の記録によると勝占神社の祭神は事代主命一柱のみなのだそうです。

現在伝わるのは主祭神大己貴命、配祀:事代主命、須勢理比賣命、少彦名命、玉櫛姫、大山祇命の五柱とされています。実をいうとawa-otokoも阿波古代史をかじりはじめた初期にはその六柱の祭神を鵜呑みにしておりました。

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蜂須賀氏が阿波入国の折、この勝占神社を二軒屋 金比羅宮として移遷した後にも勝占神社境内摂社 金比羅神として祭祀は続けられており、それが大己貴命とされて主祭神とされてしまったようです。後々に大己貴命大国主命)と少彦名命がセットで組み合わせられたのではないかと考えております。

残る須勢理比賣命と玉櫛姫、大山祇命ですが、当社は主祭神の后神、事代主神の娘を配しているということから事代主命から繋がる一統を指しており、即ち鎮座地である中山全体が長国造氏族の陵墓であることを暗示しているのではないのと考えた訳です。 (玉櫛姫は大宜都比売命大山祇命天手力男に比定:前回投稿に含む)

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勝占神社が鎮座している「中山(ナカヤマ):杉尾山」は聖なる山として取り扱いされていました。

杉尾山八丁之円
一、竹木伐採事
一、殺生し事
杉尾山 蓬庵(蜂須賀家正)を以て御禁制の事とのこと。

蜂須賀氏は徳島城建設にあたり長国造氏族の陵墓群があった山と、事代主命を祭祀した社を分けて移遷しました。しかし長国造氏族の祖 事代主命金比羅神として移遷したものの陵墓から分祭したのを憚ったのか境内社として残して祭祀しています。これが勝占神社の主祭神大己貴命に変わってしまった要因の一つなのかもしれません。

f:id:awa-otoko:20161003232518j:image(讃岐金比羅宮の扁額)

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さて、この勝占神社が鎮座する「中山」は、本来「長山(ナガヤマ)」であったと考えられます。上記に示したように長国造の山、長国造氏族の鎮まる地の意味が含められていたのでしょう。由緒書きにもあるように古くは田口氏、細川氏など阿波を守護した武将からも崇敬されていた社なのです。

 

さて、推測の域でのお話をいたしましょう。(笑)

唐突ですがawa-otokoは、、、

勝占神社こそ佐那河内村長峰鎮座「御間都比古神社」より分祠された長国造氏族の社であると考えています。

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粟国造 都佐国造は同祖 粟凡直 長直も基本一系なりしを属地に依て粟凡直長直に分して異姓を称するなる可し。

粟凡直と長直は同族であり、属地により姓を分けて称したとあります。

その分れ目の地こそ佐那河内村長峯。その地に鎮座するのは御間都比古神社だからです。

【長国造(阿波)】
長国造は長国(現・徳島県那賀川流域中心、徳島市佐那河内村小松島市勝浦郡・那賀郡・阿南市・海部郡)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)の9世孫である韓背足尼(からせのすくね、韓背宿禰)を国造に定めたことに始まるとされる。韓背足尼の後裔は長姓を称して国造を世襲し、支流の大海路命の後裔は長宗宿禰の姓を名乗り、後の長宗我部氏と続く。長公系譜では建日別命(たけひわけのみこと)は長国造・長我孫・都佐国造の遠祖であり、長氏は三輪氏と同族で事代主命(ことしろぬしのみこと)の神裔に位置付けられている。諸説を統合すると観松彦命が神武天皇の東征に抵抗した長髄彦(ながすねひこ、那賀須泥毘古)であり、韓背足尼はその子孫との説もある。
長国の本拠地は定かではないが、大化の改新後に粟国と合併して阿波国となり、国府は現・徳島市国府町になったという。また古墳等の史跡も見つかっていないが、名東郡佐那河内村にある御間都比古神社は初代国造・韓背足尼が祖神である御間都比古色止命(観松彦色止命)を祀ったと伝えられる。     

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上の写真に示した黄色点線は古代、長国造氏族が統括した範囲を示しています。山の峯続きから勝占神社へ、生夷神社からは勝浦川を下り勝占神社へと行き来していたことが推測できるのです。

地形的に考えてみても御間都比古神社の長峯が中心になって、山上の尾根伝いで東へ、山から下って南下し、本拠地である長国へ戻る際は勝浦川を利用していたと推測できます。

また、勝浦川も本来は勝占川であったのかもしれず、川の辺りに鎮座する現在の生夷神社こそが本来勝占神社と呼ばれた社なのかもしれません。現在の勝占神社:杉尾明神こそ、延喜式に記された勝浦郡 事代主神社の可能性も否めません。それはどちらの社も事代主命を祭祀していたからです。

ある文書には延喜式登録以前は勝占神社・事代主神社は同神、本社分祭の社であると記されているのです。

同郡西須賀村杉尾明神の社を勝占神社なる由亦沼江村蛭子社を事代主神社なる由申傳へたりと䖝若しくは蛭子社が勝占神社にて杉尾明神が事代主神社ならんも知る可からず。勝占神社と事代主神社は決めて同神、延喜以前に係る本社分祭の間なり

さて、今回の結論。

佐那河内村 長峯から起った長国造氏族は、積羽八重事代主命の生誕地である上勝 八重地方面に南下するグループと日が昇る東側に向かうグループに分かれて移動していったと考えます。

生夷神社は南下した集団が上勝八重地より勝占川を遡り、事代主命を崇敬して創設した社である。

東に向かった集団は農耕の傍らで海洋漁業の技術も発達させながら繁栄した。中心となった地域が勝占神社が鎮座した中山。

そして現在の勝占神社こそが事代主命 亦名 味鉏高彦根を祀った社であり、後に杉尾明神(杉尾のすぎは味鉏のすきを指す)と呼ばれた。

勝占神社は長国造氏族の祖神 御間都比古をさらに遡った「始祖 事代主命」を祭祀した勝浦郡事代主神社」だったのである。

 

南下したグループと東に向かった長直一族が、ちょうど集合したエリアがまさしく勝占神社が鎮座するエリアでしょう。勝占神社が鎮座する中山は古代では岬の先端にあたります。当地から沿岸部に進出し、居住区並びに勢力を拡大していったのではないでしょうか。

オマケとして粟国・土佐国同祖論を引用しておきます。(以前にも掲載済ですがw)

国造本記に都佐国造 志賀高穴穂朝御代 長阿比古 同祖三嶋溝杭命九世孫 小立足尼定賜国造とあるも同系也。伹国造長阿比古同祖と云へりは事代主命之後と云へきに溝杭命孫とあるは御妻の系を以て云うときは如此も云へけれども道理は違へる。而己ならず其溝杭命と云へるも甚だ信じ難し。如何と云うに御妻の系を祖に引く程ならば都佐国造も粟国造の如く女祖神に仕え奉る欤亦は都佐坐神社に並びて溝杭姫命之御社も在る可きに未だ聞かず。同郡朝倉神社に后神 天津羽羽神鎮まり坐すを見れば都佐国造は味鉏高彦根后神 天津羽羽神夫妻に神より出でたる系也。
国造本記の説は信じ難し。想うに天津羽羽神 三嶋溝杭命共に味鉏高彦根神之后神也。都佐国造の女祖神は羽羽神に坐すを溝杭姫命も同后神故混し誤りて国造本記に溝杭命孫と決めて出たる事也。
粟国造 都佐国造は同祖 粟凡直 長直も基本一系なりしを属地に依て粟凡直長直に分して異姓を称するなる可し。
天津羽羽神、阿波女神(大宜都比売命)同神當阿波国郡中、麻植、美馬、三好等を除き残る七郡より土佐国をかけて皆本来人種は此の神の氏人なり。八倉比賣大神の當国第一尊く坐す事を知る可し。土佐国一宮、阿波国一宮は夫妻之御神也。

以上、今回は勝占神社の例祭に合わせて投稿してみました。see you!!

矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫(うつし)から…

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「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」でございます。

天石門別八倉比賣神社は天石門別豊玉比賣神社とか書いて投稿していましたが、たまには趣向を変えて別の伝承をご紹介しようかなと思いまして。

 

念のために先に書いておきますが、「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」は「天石門別八倉比賣大神御本記」と同じ内容ですので悪しからず。

あと、ウィークデーということで翻訳して直ちに入力する気力は全くありませんでしたが、そんなタイミングであら不思議。ぐーたらさんが御本記を翻訳していました。こんな良い翻訳を借りない手はありません。ちゃっかり拝借させて頂きました。それでは参りましょうw

 

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古(いにしえ)天地(あめつち)の初めの時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申す。
次に国ができてから間もなく、浮き脂のようにただよえる時に生まれた神を、その形が抽葦(あしかい)の牙(もえいずる)ごとき(様の)神で、國常立尊(くにのとこたちのみこと)という。

その後にも、神が生まれられた。伊邪那岐神(いざなぎのかみ)次に妹(いも)伊邪那美神(いざなみのかみ)。この二柱(ふたはしら)の神は国、海原と山川、諸々の神を産まれた後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日孁大神(ひるめのおおかみ)という。

 

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これが八倉乃日孁大神(やくらのひめおおかみ)である。
最初(いやはじめ)高天原で戦に備えた後、天石門別の神に勅(みことのり)を発して今より後、汝ら我に代わって戦に備えよ。また、これは羽々矢(ははや)である、この御弓を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持ち降りて、よき地に奉り蔵(おさ)めよと言われた。
永く爾莫用(なつかいそね)と賜りき。(高天原に還ってこの国に長く留まってはならない)われ(八倉乃日孁大神)もまた天より降りてきて、天の羽々矢(あめのははや)と天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)を納めるのによき所だと言われた。そのため二柱の神、高天原よりこの弓矢を持ち降りたまわれた。その時、二柱の神は天の中空に立って、この矢が落ちたところに蔵(おさ)めなさいと言って矢を放ち、落ちたところを矢達の丘という。(今は矢陀羅尾という)そのため、二柱の神、この地に矢が落ちた事を覚えておくために、広く知らしめたので、その地を矢乃野(やのの)という。
その矢を持ち帰って永く奉って、納めた所を矢乃御倉(やのみくら)という。その弓を奉りて納めた地を弓乃御倉(ゆみのみくら)という(今は「ゆの丸」という)。
そしてその後、二柱の神この地に留って(松熊二前の神はこれである)御矢倉と御弓を守られた。

 

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その後、比賣大神(ひめおおかみ)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天より降りられた。最初は杉の小川の清き流れを覧になって、この川の水は深いが大変早いと申された。その所を早渕の村という。ときに、大地主神(土宮のこと)と木股神(御井神のこと)が参り、この河の魚を漁って献上した。大神の言われるには鰭(はた)の狭物と言うべき食物であるので、その河を鮎喰川という。
時に大地主(おおつちぬし)と木股神に言われた。わたしはどこに住むべきであろうか。あなたがたよい所に案内しなさい。大地主神が答えて、ここより西の方、朝日がまっすぐに刺す山、夕日の日が照る気延の嶺があります。先導しますので、その地に行っていただけるようお願いいたします。

時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦(多くの小竹をいう)、八十玉籖(玉串のこと)などいろいろ御幣る(たてまつる)。

 

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これより西の方の杉の小山の麓にたどりついたとき、石門別神が迎えられて礼を尽くされた。大神の言うには、あなたたちは私が言ったようにして、私を待っていましたか。
(その問いには)ここは前の神宣(みことのり)のように、御矢を納めたところであると答えた。そのため(自分の申し付けていたようにしていたため)大神は非常にほめたたえてこの地に一晩泊まってから(このため矢倉の郷という、また屋度利の社という)山坂を登って、杉の小山を通り気延の山に到る。
時に広浜の神が現れて時節(ときふし)の御衣を献上した。その地を御衣足(みぞたり、または御衣谷)という。
すぐに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と太敷を立て、高天原にいた様子を装い、天上のように祀り鎮座する。(天石門押し開くため、天石門別という。八倉の郷に居る姫御神であるために八倉比売という)
この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(うたげ)を行う。その神々の集った所を喜多志嶺(きたしみね)という。その宴(うたげ)に使ったいろいろな物を納めた所を加久志の谷(かくしのたに)という。

 

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大神が(歌を)詠むには、
「雲の居る八倉の郷の喜延山 下津岩根に宮井そめとも…」
この後、大泉神が申し上げて、天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。また小泉の神、田口の御田を献上して、御饌乃御田(みけのみた)とする。
しかし後、二千百五年を経て小治田の御世、元年龝(あき)八月に、大神は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して言うには、わたしの宮のある場所は、はるかに高く急峻である。このために神主や祝部、巫(みこ)など、多くの若い人でも参詣するのに疲れてしまうだろう。杉の小山は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない正によい所である。かの嶺に遷(うつ)りましょう。

大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は諸々の邪鬼、妖怪および諸々の病を厭(まじのう)に奇(くしひ)に妙なる験(しるし)と教え諭し賜ひき。赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。

 

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その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という(また御石ノ峯とも言う)。
時に神主、祝部らは、大神のおっしゃるように(宮を)遷したてまつる。されとも霊験が無ければ諸々の人々は(大神の事を)信じないでしょう、どういたしましょうかと申し上げた。その時大神はそうであろうとおっしゃられた。そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)
神主、祝部や多くの若者がその神宣の明らかである事を敬って杉の小山に宮柱太を知り立て高天原の千木(ちぎ)高知りて、天の御蔭、日の御蔭と永く隠しまして國家の大基(おおもと)を守護なされるという。
宮を移されたのが九月十三日、このためにこの日を以って御霊の現れし日として奉るのである。

 

はい。ただぐーたらさんが苦労して翻訳した内容をコピペしただけではただのパクリ野郎になってしまいます。よって少し情報を付け足してみました。

 

矢野村は神代の昔に天照大御神須佐之男命の暴悪を防ごうと背に千の箭(や)入れた靭(うつぼ)と五百の箭を入れた靭を用意し、自らも武装して須佐之男命を待ち構えた場所である。

須佐之男命は天照大御神の意思に驚き、争いの意思が無いこと示した。天照大御神はそれを受け入れたが須佐之男命の暴悪な行動は治まることは無く、さらに激しさを増した。これを嘆いた天照大御神は天窟に入ったために常闇の昼夜がない世界となってしまった。

八百万の神はこれに憂いて天八湍河原に集まり思慮した。思兼神の思慮により神楽を奏上し、天鈿女神の歌と舞に大御神が磐戸の扉を少し開いた。その際に天手力男神が大御神の手を引き出し奉わり、世界は元に戻ったという。その騒動から須佐之男命は改心した。

その後、大御神は五百箭の矢を天鈿女神、天手力男神の二神に授け葦原中国に降り、その矢を美地に蔵せと命令する。天鈿女神と天手力男は共にその地の里に矢を納めて居住した。それ故に矢倉郷、矢野という地名となった。

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天石門別八倉比賣神社は延喜式名帳に名神大社大月次新嘗とあり、太神二神に矢を納めし処なれば宮居を造り、天石門を押開け天降りった場所故に天石門別と云う。

また、矢倉郷に坐す姫神故に八倉比賣と云う。矢野神山とは喜納邊山に太神が始めて鎮座したので神山と呼ぶ。そのことから矢野神山は多くの歌人に歌われている。

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小治田の御宇には太神の神託があって杉尾山に遷座した。それ故に杉尾大明神と呼ばれる。矢を持って降った天鈿女神と天手力男神の二神は松熊二座の神として鎮座しているが、これ古くは社名を「先来待(まつくま)」と云う。

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太神は天降り、山の麓に留まり坐す。それ故に「屋止利宮(やとりみや)」、今は箭執社と云う。

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このような天照大御神を始めとする神々が降臨した地、矢野村において正月初めて當村の地に入る者、特に馬に乗ることを叶わずとあり、馬の立髪を斬竹に挟んで立て置いて遥拝してから通ることが通例とされた。遥拝をすませば馬に乗り通ることが許され、このしきたりを守らない者は落馬、馬が卒倒すると伝えられていた。

また、八百万の神達が憂いて集まった天八湍河原とは鮎喰川原と推測でき、天石門別八倉比賣神社一の鳥居は鮎喰川の堤下に存在していたが今は原となっている。

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その他には上古、神供の地には必ず五十串塚(いくしづか)があった。五十の祓串を立てて神を祀り神供の調献を行なっていた。これは「時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦、八十玉籖などいろいろ御幣る。」とあるように伊魔離神社当地が五十串塚として挙げることができる。 

 

はい。ここからが今回の真骨頂。「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」の内容を私が考える神に置き変えて考えてみました。ここからはawa-otokoの想像となります。閲覧にご注意ください。(笑)

矢野村は神代の昔に大宜都比売命卑弥呼)が天日鷲命(男王)の暴悪を防ごうと背に千の箭(や)入れた靭(うつぼ)と五百の箭を入れた靭を用意し、自らも武装して天日鷲命(男王)を待ち構えた場所である。
天日鷲命(男王)は大宜都比売命卑弥呼)の意思に驚き、争いの意思が無いこと示した。大宜都比売命卑弥呼)はそれを受け入れたが天日鷲命(男王)の暴悪な行動は治まることは無く、さらに激しさを増した。これを嘆いた大宜都比売命卑弥呼)は気を病んでそのまま喪に服してしまった。国々の秩序が崩壊し、全ての者が安心して生活を営むことができない世界となってしまった。
大宜都比売命の八伴神達はこれに憂いて天八湍河原に集まり思慮した。八伴神の思慮により神楽を奏上し、巫女として能力が高い天石門別豊玉比賣命(壹与)の歌と舞で大宜都比売命卑弥呼)の葬儀を執り行なった。葬儀を無事に執り行なった後、天手力男神高皇産霊神)が大宜都比売命卑弥呼)の代わりに天石門別豊玉比賣命(壹与)を女王として擁立することを宣言、大宜都比売命卑弥呼)の神威を兼ね備えた天石門別豊玉比賣命(壹与)が国を治めると国々の秩序の乱れは改善された。

その騒動から天日鷲命(男王)は粟国(あわ邪馬壹国)に関東に移動を余儀なくされ、関東の地に第二の粟国(安房国)を造りあげた。
その後、五百箭の矢を持った天石門別豊玉比賣命(壹与)、天手力男神高皇産霊神)の二神が葦原中国に降り、その矢を美地に蔵した。天石門別豊玉比賣命(壹与)と天手力男高皇産霊神)は共にその地の里に矢を納めて居住した。それ故に矢倉郷、矢野という地名となった。
天石門別八倉比賣神社は延喜式名帳に名神大社大月次新嘗とある。太神二神に矢を納めし処なれば宮居を造り、天石門を押開け天降りった場所故に天石門別と云う。
また、矢倉郷に坐した姫神であった大宜都比売命卑弥呼)を偲び八倉比賣と云う。矢野神山とは喜納邊山に太神(大宜都比売命:卑弥呼)が始めて鎮座したので神山と呼ぶ。そのことから矢野神山は多くの歌人に歌われている。
小治田の御宇には太神(大宜都比売命:卑弥呼)の神託があって杉尾山に遷座した。それ故に杉尾大明神と呼ばれる。矢を持って降った豊玉比賣命(壹与)と天手力男神高皇産霊神)の二神は松熊二座の神として鎮座しているが、これ古くは社名を「先来待(まつくま)」と云う。
二神は天降り、山の麓に留まり坐す。それ故に「屋止利宮(やとりみや)」、今は箭執社と云う。

 

総括

矢野神山は喜納邊山に太神(大宜都比売命:卑弥呼)が始めて鎮座したので神山と呼ぶ。

天降った天石門別豊玉比賣命(壹与)と天手力男高皇産霊神)が鎮座した地故に矢野杉尾大明神は「天石門別豊玉比賣神社」である。

粟国から追放された天日鷲命は関東に拠点を求め、第二の粟国を開拓した。それが安房国である。

 

あくまで妄想を伝承に落とし込んだお話です。

この内容に積羽事代主神大麻比古神(猿田彦大神)などを盛り込めばさらに辻褄が合わない話になってしまうのです… いつもより強引に落とし込んでみましたが如何でしょうか。ちょっと斜めから考えて考察の幅を広げてみようかと試みましたが無理があるかもしれないですね。

あ、あくまで妄想ですのでクレームとかは無しでお願いしまーすw(笑)それでは。

有持氏ガ移遷シタ皇子権現トハ大宜都比売命ノ裔神ノコト也。

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f:id:awa-otoko:20160923193941j:image上一宮大粟神社

大宜都比売命が八随神と伊勢丹生から御馬石に降臨したことは以前にご紹介致しました。

神代に御馬に乗り給いて、八前の伴神を引率して本国に移らせ玉ひ、大麻比古、天日鷲命と共に一国経営の始めに粟を蒔き玉ひし神勲を以て御名を大阿波女神、八倉比賣命、田口大明神と申し、亦大宜都比売命と尊称奉る。
大麻比古大明神、種穂大権現 粟耕作なされ、田口大明神へ捧げ給い、国家安全を祈らせ給う。日本粟最初の山なる故、大粟と号す。是、阿波国の始まり承り伝う。
八前の伴神とは、大久保の牛頭天王、大埜地の腰ノ宮、上角の都々姫の神、中津の天王ノ宮、野間の妙見宮、白桃の妙見宮、谷の天平および北名の某社という。

 その八随神は大粟山に鎮座する大宜都比売命を護るように上山村神領の地に祠や宮を造営して往古より祭祀されてきたのでありますが…

さて、その八伴神の社において天皇ノ宮・牛頭天王と呼ばれている社が含まれております。この天皇ノ宮と牛頭天王の名所は誤りであると云い、本来は「モト皇子」だったと記録されています。もともと「皇子」と呼ばれていたものが、時代の流れとともに伝承が風化して天皇さんや牛頭天王に変わってしまったのです。
同じように「モト皇子」と呼ばれていた宮が□名(←わざとに伏字にしてあります。)に存在したしそうです。その「モト皇子」とは「皇子権現」。鎮座地付近は「皇子原」という地名まで付けらていたそうです。

しかも!!(ここからが特ダネだよ。)

この「皇子原」には阿波民部城址が存在したという記録があります。

阿波民部とはご存知、田口成良。またの名を粟田成良、重能・成能。田口一族は宮主・国造家と称して南北朝時代の初期まで大粟山庄で大宜都比売命を祭祀していた祭官家、即ち粟飯原家と源流を同じとする武家祭官家なのでございます。

今□名ニテハ皇子権現ト申シ其邊リヲ皇子原ト云ニテ知ル可シ。此社ハ阿波民部城跡ニ在リ亦同郡上浦村ニモ皇子権現ト云社在テ有持氏ノ先祖也ト云由也。按ニ有持氏ハ阿波民部ノ子孫也。谷名ナル皇子権現ハ先祖民部ガ信仰セン神故ニ彼村ニ移シテ先祖ノ神ト云欤。

この大粟山庄に存在した□名鎮座「皇子権現」は、田口氏の末裔である有持氏が鴨島町上浦に移遷しているのであります。

ふふ、勿論行ってきましたよ。

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f:id:awa-otoko:20160923192624j:image(有持神社)

付近に上浦町には王子神社、皇子神社が鎮座していないことから、たぶんこの社でしょう。
有持神社の撮影は個人敷地内に鎮座していましたので遠慮して遠巻きから。枚数も少ないです。(迷惑になりますから。)という訳で、詳しくは引用にあるように有持氏も粟飯原家と同じように粟国造一族ということですね。やっと有持氏と大宜都比売命との繋がりを引っ張ることができました。

そして… 上に記した内容から、(勘のいい方は気付いたかもしれませんが、)

大宜都比売命の神域に存在する皇子権現は大宜都比売命の後裔が神として祭祀されている。と考えられることができるのです。

 

ちょっと今回は特ダネを出し過ぎたかもしれないですが、頻繁にアクセスしてアップを楽しみにしてくれている(珍しい奇特な)方が増えているようですのでネタ三割増でサービスしておきます。(笑)

因みに伏字の「モト皇子」の宮地 即ち阿波民部の城跡は特定できていますが、ズカズカと踏み入れる場所ではないので然るべき時、然るべき人に限定公開する予定です。どうぞよろしくお願い致します。