awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

天手力男神の系譜: 異名同神・天石門別豊玉比賣は誰なのか?

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はじめに
今回の投稿は異名同神の内容が重複します。awa-otokoが一般通説と土地の口伝を併せ、都合よく解釈している内容です。文中に理解し難い箇所も多々出てくると思いますのでご注意下さいw 異名同神については調査・研究の中で複雑化、間違った方向に誘導するとても厄介な反面、手掛かりを掴めば全ての符号が当てはまるというハイリターンな側面も持ち合わせております。今回awa-otoko的にはこのカテゴリーにおいて符号が当てはまったという訳で、、、前置きはそこそこに話を進めたいと思います。

f:id:awa-otoko:20160919142457j:image(天石門別八倉比賣神社:矢野杉尾神社)

矢野村杉尾明神を八倉比賣神社と改正せられたるは如何なる考証ある欤知らされども決めて誤り也。矢野村杉尾明神は天石門別豊玉比賣神なるべし。

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上記の引用文を記録している文書には、佐那神社に坐す二座は天手力男命、栲幡千々姫命とされていたとあります。

注:引用している文書の中にある佐那神社については伊勢神宮境内社のことを指していますが、口伝から得た情報の記録である為、伊勢国を以西と解釈してawa-otokoは佐那縣の佐那神社、即ち佐那河内村天岩戸別神社を指した内容として話を進めます。 

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f:id:awa-otoko:20160919175330j:image(佐那神社: 天岩戸別神社)

ここで云う佐那神社:天岩戸神社は御創立年代不詳。
祭神は天手刀男神、天照皇大神、豊受皇大神とされ、別名を三社皇大神宮。俗に三社様、三所様と呼ばれています。

f:id:awa-otoko:20160919163132j:image(三社 第一の鳥居)
記録による佐那神社の伝承では祭神は二座。早速整合がとれないのではないか?と考える方もおられるでしょうが安心して下さい。遠い昔は二座だったという事です。

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f:id:awa-otoko:20160919163503j:image(天岩戸別神社本殿裏の奥の院は二座) 

しかし、天岩戸別神社の祭神三座の関係を語らずしてこれまでの謎は解けません。少し難解な部分が含まれますが説明したいと思います。

 一座目は簡単に済ませます。

 

天手力男神(タヂカラヲノカミ)

f:id:awa-otoko:20160919180729j:image天手力男神の塚)

f:id:awa-otoko:20160919180941j:image奥の院 祠)

天手力男神は岩戸開きの功績から御戸開之神という御称を授けられ、天手力男神は亦の名を天石門別神とされる同神。そして皇産靈大神の末裔であり高皇産靈尊の末裔とされている神です。そうです。「手力男神は佐那縣に坐す…」有名なフレーズですね。

 結論。一座目の神は手力男神

 

二座目です。二座・三座は少々解釈が難解になります。ついてきて下さいね。(笑)

天照皇大神(アマテラスコウタイシン)

f:id:awa-otoko:20160919181024j:image(天岩戸別神社 拝殿内部)

天照皇大神こちらは栲幡千々姫命を指します。さらに栲幡千々姫命は大宜都比売命(大粟姫命・大阿波女神)と比定でき、天手力男神の御女。即ち娘にあたります。

栲幡千々姫命は大宜都比売命、大粟姫命、大阿波女神と祭神神名が合致せず、深く考えるところがあると思います。ここが挫けるきっかけになるところなんです。下記に情報を引用したのでみてみましょう。

栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)は、日本神話に登場する女神である。『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)と表記される。
古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている。『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)、第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命というと記されている。天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命瓊瓊杵尊を産んだ。(Wikipediaより)

さて、伝説によれば栲幡千々姫命は高皇産靈の子とされ、また天忍穂耳尊の妃になり瓊瓊杵命を産んだとされて伝承されています。これは付会の説です。神代紀に栲幡千々姫命は高皇産靈の子と記されていることから、これ以降の解釈・認識がおかしくなっているのです。

誤記による記録が通説になっている一例

稚日女尊、栲幡千々姫命ノ亦名ナレバ神代紀正 神功皇后紀ニ稚日女尊ノ字ヲ用イラレタルハ不相當也。此ハ神代紀ノ正書ニ又見 天照大神方織神衣居斎服殿云云ト同様ナル御傳ヘノ有ルヨリ稚日女ト申ハ大御神ノ別御名ニモヤト思ハレル。

山城国葛野郡に鎮座する天津石門別稚姫神社は、天石門別八倉比賣神の別名であり、神代紀にある斎機殿にて神の御服を織る稚日女尊は栲幡千々姫命の別名とされています。

文書によっては遠祖の巨大な神を中心に記載する傾向があるため、末裔の神については父母子など続柄を間違えられる記録をされることあります。

特に女神については娘なのか后なのか曖昧な記載が多く、挙句の果てには母と子が同じ神として合体されて認識された例もございます。

従って、栲幡姫命也は高皇産靈の末裔であることを指し、天手力男命の御女(娘)であることを、后と間違えて記載されたために起きた伝承なのです。

結論二: 手力男神の娘、大宜都比売命が天照皇大神として祭祀されています。(ただし他の二座より後に勧請されたと予想)

はいはい。このまま駆け足で説明しますよ。それでは三座目の神である豊受皇大神とは誰のことをなのでしょうか???

豊受皇大神(トヨウケコウタイシン)

f:id:awa-otoko:20160919180839j:image奥の院 祠)

稚日女尊

神名の「稚日女」は若く瑞々しい日の女神という意味である。天照大神の別名が大日女(おおひるめ。大日孁とも)であり、稚日女は天照大神自身のこととも、幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)、妹神や御子神であるとも言われる。丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしている。 (Wikipediaより)

玉依姫
記紀風土記などに見える女性の名で、固有名詞ではない。従って、豊玉姫の妹(海神の娘)や、賀茂別雷神の母などとして数多く登場する。神霊を宿す女性・巫女。

日本書紀第七の一書に、「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子として玉依姫命が見える。ここでいう児萬幡姫は栲幡千千姫命の別名で、天火明命瓊瓊杵尊の母である。
日本神話で、海の神の娘。ウガヤフキアエズノミコト(鸕鷀草葺不合尊)の妃となり、四子を産んだ。末子は神武天皇(カンヤマトイワレビコノミコト、神日本磐余彦尊)。
賀茂伝説で、タケツヌミノミコト(建角身命)の娘。丹塗矢(本性は火雷神)と結婚し、ワケイカズチノカミ(別雷神)を産んだ。
綿津見大神(海神)の子で、豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)を産んだ。末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。

古事記』および『日本書紀』の第三の一書では、トヨタマビメは元の姿に戻って子を産んでいる所をホオリに見られたのを恥じて海の国に戻ったが、御子を育てるために、歌を添えて妹のタマヨリビメを遣わした、とある。『日本書紀』本文では、出産のために海辺に向かう姉に付き添い、後にウガヤフキアエズの妻となった、とだけある。

第一の一書では、トヨタマビメが海の国へ帰る時に、御子を育てるために妹を留め置いた、とある。第四の一書では、一旦トヨタマビメは御子とともに海に帰ったが、天孫の御子を海の中に置くことはできず、タマヨリビメとともに陸に送り出した、とある。

「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」を意味し、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女を指す。タマヨリビメ(タマヨリヒメ)という名の神(または人間の女性)は様々な神話・古典に登場し、それぞれ別の女神・女性を指している。例えば、『山城国風土記』(逸文)の賀茂神社縁起(賀茂伝説)には、賀茂建角身命の子で、川上から流れてきた丹塗矢によって神の子(賀茂別雷命)を懐妊した玉依比売(タマヨリヒメ)がいる。

他に、大物主の妻の活玉依毘売(イクタマヨリビメ)がいる。日本書紀崇神紀には、活玉依媛(イクタマヨリビメ)とあり、天皇(中略)而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。
天皇、大田々根子に問ひて曰はく「汝は其れ誰が子ぞ。」こたへて曰さく「父をば大物主大神と曰す、母をば活玉依媛と曰す。陶津耳(すゑつみみ)の女なり。」亦云はく「奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)の女なり。』と記されるとおり、活玉依媛の親を陶津耳またの名を奇日方天日方武茅渟祇としている。

全国にタマヨリビメという名の神を祀る神社が鎮座し、その多くはその地域の神の妻(神霊の依り代)となった巫女を神格化したと考えられる(一般には、神話に登場するウガヤフキアエズの妻のタマヨリビメとされることが多い)。賀茂御祖神社下鴨神社)に祀られる玉依姫は『山城国風土記』に登場する玉依姫である。(Wikipediaより)

 

天忍穂耳尊の后になったのは玉依姫命
その玉依姫命は栲幡姫命の御女。娘です。

栲幡姫命と玉依姫は同神ではないことは天照皇大神の項で語った通りです。

 と、いう事は…

玉依姫も手力男命の系譜を受け継ぐ資格を所有。またその立場を明確に知らしめる為に「天石門別」の御称を継承した姫 。それ故、「天石門別豊玉比賣神社」なのです。
祭神 天石門別豊玉比賣命。またの御名を玉依姫、壹与(トヨ)、稚日女尊。豊受皇大神とも。

豊受皇大神って大宜都比売命じゃないの?と思う方も居るかもしれませんが、awa-otoko的に色々と調査をしていると豊受皇大神、倉稲魂などは大宜都比売命とその御子や御女を集合体としたものが豊受皇大神と認識されている部分があることが分かってきました。上記の説明にある通り遥か昔の話なので娘が后になっていたり、母と子が同じ神として誤認されていた事例は多々あります。

 

豊玉比賣命とは手力男神の子である大宜都比売命の娘たる神。壹与(トヨ)を当て字にした「豊」、玉依姫命の「玉」、そして手力男神の系譜を受け継いだ姫としての御名「天石門別」。全てを併せた諱(いみな)が「天石門別豊玉比賣命」なのです。
因みに壹与を補佐した高皇産霊とは天手力男のこと。また海神(綿津見)の大神の側面も持ち合わせています。
大日孁神(卑弥呼)の後を継いだ稚日女神(壹与)は、天石門別八倉比賣(大宜都比売命)の後を継いだ天石門別豊玉比賣(玉依姫命)の母と子の間柄になるのです。

 

天石門別神社 三座の話に戻しましょう。


結論総括。

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佐那縣に鎮座まします天岩戸別神社は本来、天手力男神(亦の名: 天石門別神、高皇産霊)と豊玉比賣(亦の名: 玉依姫稚日女尊、壹与、豊受皇大神)の二座で祭祀された神社である。のちに大宜都比売命(亦の名: 大粟姫、大阿波女神、栲幡千々姫命、卑弥呼)が天照皇大神として追加された。

 

往時、天手力男命玉依姫命を補佐した勢力(末裔)は韓背足尼、長国造氏族となり、栲幡姫命こと天照大御神こと卑弥呼こと大宜都比売命崩御したあとに粟国を繁栄に導いたと考えられます。


佐那河内村より西が天石門別八倉比賣神社の領域、東が天石門別豊玉比賣神社の領域と考えられ、名西郡名東郡に分けた本意はそこにあると考えています。

従って天岩戸別神社は北上し、鬼籠野 椙尾明神に移り、さらには国府が置かれた矢野 杉尾神社へと移動していったと考えます。

だから、元矢野 杉尾神社である現在の天石門別八倉比賣神社は、「天石門別豊玉比賣神社」なのです。

 

f:id:awa-otoko:20160919175940j:image(長国造の裔が神官を務める佐那河内 大宮神社の碑)

これで阿波に伝わる天岩戸別神社が「天石門別豊玉比賣神社の元社」であるという隠されたものが多少は理解できたのではないでしょうか。

因みに今回の説から考えたら天照大御神の弟、須佐之男命は忌部神 天日鷲命になります。天村雲神社が麻植郡に鎮座しているのは…
語りだすとまだまだ広がり過ぎるので今回はこの辺りで締めさせていただきます。機会あればまた語りたいと思います。

阿部氏が大宜都比売命に仕えた理由(わけ)

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名西郡神領氏神由来傳羕之覚
當社上一宮巻大明神御神号大粟姫命亦大宜都比売命トモ申奉リ其ムカシ伊勢国丹生ト云フ処ヨリ當村丹生ノ内山へ御出アラセラレケル其則私古ノ先祖木挽職ニテ右山へ罷出候折不斗御月ニトマリ給ケルニヤ
大粟姫命曰ケルハ其方給物処持㪈サスヤト被仰幸ヒ米持参仕候ニ付清浄ニ御飯炊キ杣事ニテ奉献候折御感付俴思ワサレニヨリ右山ヲ枌ノ尾曰ト今ニ地名申来候大粟姫命曰ケルハ我當村ノ氏神ト相成候間向後我飯焚ト相成候様先祖へ被仰付御直筆頂戴仕ル 其節御馬ニ召レ候币折節天火ニテ頻ニ御馬近クノ山焼ケ来リ候ニ付御召馬ヲ石トナシ給ヒケル今ニ其石馬ノ姿ニ相顕レ此処ヲ御馬石ト申テ只今舊跡ニ御座候
アル時雨降来るリ候ニ付岩洞ニテ暫ク御腰ヲ懸ケ御雨凌キ被遊ケル此処ヲ降腰ト申テ今ニ小社御座候
コレヨリ大野地名川縁ニ御腰ヲ懸ケ給ヒケル此処ヲ越ノ宮ト申テ今ニ小社御座候
上角名ニテ御装束ヲ被遊御改貳丁許山上ニ御鎮座在ス此処ヲ大粟山ト相号シ則數地ノ水流ヲ装束谷ト申傳ヘケル
然ル処其刻御社ノ前通行ノ人々馬竹駕或ハ雨天之砌笠杯着シテ土俗行通ヒ㪈事決而不相成大ニ迷惑仕候ニ付貳丁許右御社ヲ下ケ御座候折何ノ障モ無之相成申候尚又寶暦年中ニ相至リ只今ノ社地へ奉移候云云
私先祖之傳記アラカシメ書顕御達申上候以上
天保十亥年九月
神領神職 阿部但馬


上記は大宜都比売命に仕えた先祖の経緯を阿部但馬が書きあらわしたもの。今回はちょっとふざけてawa-otokoがawa-otoko訳に変えてご紹介致します。(イヤな予感…笑)

 

f:id:awa-otoko:20160918001507j:image(御月と考えられる場所)


以西(いせ)からやって来た大宜都比売命は御月という場所で木挽をしていた阿部氏先祖と遭遇しました。大宜都比売命は挨拶もそこそこに、「何か食べるものとか持ってない?」と尋ねてみました。そうすると以外なことに阿部氏先祖は、持参していた米を使用し、丁寧な調理をして大宜都比売命に食べさせてくれたのです。
阿部氏祖先は本来、木挽職の他に農業(米作)に長けた者であったいう暗示が含まれているように感じます。大宜都比売命の臣下に入ってからは祭官の能力を遺憾なく発揮しているように記録からは見て取れます。


食事を準備して貰った大宜都比売命は、阿部氏祖先のことを「コイツは使える!!」と思い、阿部氏祖先も「転職先ゲット!!」と双方の思惑が交錯し(たかどうかはわかりませんが)、大宜都比売命は阿部氏の居住地範囲の氏神になることを約束します。また、阿部氏の先祖は大宜都比売命の専属調理師に従事することになったのでした。その時の約束や辞令は直筆で書いて契約したそうです。
大宜都比売命は阿部氏祖先から異文化の伝授と情報交換を、阿部氏祖先は大宜都比売命の巫女能力による集落、また氏族に対して精神的支えになることを要求したのではないでしょうか?

f:id:awa-otoko:20160918001746j:image(御馬石と祠)

 


さて、晴れて村の氏神になった大宜都比売命は張り切って御月の山を馬に乗って巡回していました。しかし、その時に近くの山で山焼きしていたことを知らされていなかった大宜都比売命と馬は運悪く火に囲まれてしまいます。狼狽えた大宜都比売命は馬に乗って逃げず、何を思ったのか愛馬を石に変えてしまいます。それが後に幸いし、石に変えられた馬は「御馬石」と呼ばれてパワースポットとして認定されました。
御馬石周辺の山々では山上農法として山焼き:焼畑農業を運用していたこと暗示しています。御馬石周辺は山肌の急斜面であり、小規模な窪が各所に存在するのみ。丹生ヶ山という名称があるにあたり、山焼きの実行は農業の他に目的があったのかもしれません。


f:id:awa-otoko:20160918001934j:image(天王社)

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火の手から避難した大宜都比売命は、馬を見捨た後ろめたい記憶を早く忘れたかったので御馬石より場所を離れて散策していました。
散策の途中に雨が降ってきました。雨をしのぐために窟を見つけて腰を下ろしましたが、その場所が後に降腰(ふるこーし)と呼ばれるようになりました。今の天王神社がある場所です。

 

f:id:awa-otoko:20160918002056j:image(腰ノ宮)

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雨が止んだので降腰から川縁に沿って降りてきました。川べりを歩いて疲れたので、また腰を下ろしました。その場所が現在の腰ノ宮神社の場所です。
"腰を下ろした"と伝わる場所は、大宜都比売命大宜都比売命臣下が"拠点: "を置いた場所と考えられます。大宜都比売命にまつわる地名が付けられている場所には随神を祭祀した社が存在していました。

f:id:awa-otoko:20160918002219j:image(装束谷)

 

巡回が終わった大宜都比売命は衣装を着替え、山の上で神事を執り行なおうと考えました。着替えた場所には装束谷という名前が付き、神事と大宜都比売命自身が生活する山は大粟山という名前になりました。


f:id:awa-otoko:20160918002259j:image(大粟山)
f:id:awa-otoko:20160918002333j:image(天辺ヶ丸)

 

大宜都比売命の趣味であるガーデニングで粟を試したら上手く繁殖したので民にもおすすめして育て方も教えてあげました。粟を繁殖させる方法の伝授と神事が素晴らしかったことから、大宜都比売命は大粟姫命とも呼ばれ、さらに崇められるようになりました。
神事は大粟山山頂の天辺ヶ丸で執り行ない、終われば装束谷にわざわざ移動していました。大宜都比売命の巫女能力はずば抜けており、様々な神託を降ろしてクニを繁栄に導いたと思われます。また、集落の人口が増加する過程において粟の育成を推奨、民の食料事情に貢献したと想定します。

f:id:awa-otoko:20160918002410j:image(古祀場)

 

時代は大きく流れ、大宜都比売命はさらに威厳が高い神となっていました。何故か大粟山の前では馬に乗ったり、雨の日に笠を被ったら失礼にあたるということが勝手に決められました。当然付近の住民からクレームが出始めます。
昔は高い場所ほど神の威厳が高く拡散すると考えられていたので、神の威厳を少し低くするために大粟山の山頂から麓に社を下ろしました。それが明治期の大宜都比売命の社の場所です。
中世以降は大宜都比売命の神威を表向きにして一宮祭官家が統率を図り、民衆が迷惑を被ったと考えられます。一宮祭官家は神領村の神宮寺に隠居し、一宮家が滅びると再び阿部氏が祭官家を継承することになって現在に至るのであります。

と、いうところで阿部氏祖先が大宜都姫命に仕えた理由は…
阿部(阿閇)氏が大宜都比売命の臣下に属すにあたり、阿波国内はもとより日本列島津々浦々、また朝鮮半島にまで行動の範囲を拡げております。
個人的な調査結果から推測するに、大宜都比売神の巫女能力を阿部氏は継承したと考えられ、様々な神の名をもとに信仰を拡げております。 
そうです。阿波女社祖系です。即ち阿部氏は阿波女氏。(だと思っている。個人的には。)
海人族と融合して阿波国より瀬戸内海、近畿圏、北陸日本海まで活動を拡げられたメリット。
当時、大宜都比売命という神は神々の中でも別格の勢力であったと推測できます。異文化を有し、絶対の存在感を持っていたはずなのです。そのようなバックボーンは氏族からは喉から手が出る程に有していたはず。
そして何より阿部氏は武力より神の能力を選択して氏族の能力を高めていった。それを得ることができた阿部氏はとても運に恵まれた氏族であり、先見の明があると言えますよね。


と、いう訳で次回テーマは!?
矢野村杉尾明神を八倉比賣神社と改正せられたるは如何なる考証ある欤知らされども決めて誤り也。杉尾明神は天石門別豊玉比賣神なるべし。です。乞うご期待。(変更するかもしれませんが。笑)

弓折の椙尾明神

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阿波・土佐・淡路の守護職として白鳥村鳥坂に居城した佐々木経高は承久三年(1232)後鳥羽天皇の詔を奉じて兵を起こしたが敗れて自殺した。

鎌倉幕府は佐々木氏に代わり小笠原長清を阿波守に任じ、長清は阿波へ入ると、まず佐々木氏の居城であった名西郡の鳥坂城を攻めた。ほとんど兵のいない鳥坂城は簡単に墜ちて炎上した。留守を守っていた経高の二男 佐々木高兼は家臣 平岡六郎利清が長男 佐々木高重の子、秀経を抱きながら一族郎等山中へ敗走することになる。
小笠原氏は高兼の生存を許さなかったために追走は厳さを極め、ついに鬼籠野村の山中で高兼は身柄を確保されるに至った。高兼は一族と家臣達が百姓となり、この地に住む事を条件に自ら弓を折ってから腹を切って自害したという。佐々木高兼が自刃した地が神山町鬼籠野の弓折である。

鬼籠野 弓折の地名の由来でした。
弓折は後に蜂須賀氏が阿波入国した際に、武家が治める地において弓折の名を忌み名とし、阿波国(一宮城からみて)初めての坂ということで「一ノ坂」と改名させ、現在の地名も「一ノ坂」です。また佐々木高兼の功により生きながらえた一族は佐々木姓を継承し、武家の血を絶やすことなく現在も尚この地で生活を営んでいます。

以前に鬼籠野神社のテーマの中で鬼籠野村 椙尾神社について一部触れました。土地感がなかったawa-otokoは鬼籠野神社周辺に椙尾神社が鎮座するものとばかり考いたのですが…

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調べてみれば弓折の地は西竜王山の真裏、深い山中の谷あいにある集落でありました。ちょうど神山と佐那河内と境に位置する場所にあたり、昔は山越えで鮎喰川方面に抜け移動していたと推測します。また、山越えして弓折に降りれば船戸川が流れており、古来物資の輸送は船で行っていたとも考えます。 

さてさて、件の弓折鎮座の椙尾神社ですが…
たぶん、現地の方に場所を聞かないと行き着くことは叶わないでしょう。弓折の中の弓折、中心部(一ノ坂)に車を駐車し、椙尾大明神の参拝に向かいます。


椙尾神社はスダチの木々に囲まれ、二秀峰の山麓に鎮座することから社殿が道路から見えません。参道もスダチの木々に隠されていることで、細い路地を辿って行かなけれなりません。

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神社本殿を確認してかなり驚きました。社殿は山を背にして石積みで高い位置に造られた要塞に見えます。

椙尾大明神と彫られた手水鉢、当社筆頭氏子であろう佐々木氏が連名で刻まれ、常夜灯には一ノ坂名講中とあります。

f:id:awa-otoko:20160910235719j:image(手水鉢)

f:id:awa-otoko:20160910235735j:image篤志寄付者)

f:id:awa-otoko:20160910235751j:image(常夜灯)

この椙尾神社が矢野村 椙尾神社(現 天石門別八倉比賣神社)の分祀であると考えられる理由は二つ。


鳥坂に居を構えていた佐々木氏は息長田別皇子が神領より勧請した大宜都比売命の社の存在が身近に存在したことから氏神として祭祀していた。当主が討死、次期当主も自刃、農民となっても佐々木家の再興を祈願するため矢野 椙尾大明神を弓折に勧請した。

 

古代から佐那河内村で祭祀されていた天石門別豊玉比賣神社を勧請した社(祠)が元々、鬼籠野 弓折に存在しており、同じ流れを汲む(と思われる)矢野 椙尾明神と同じ祭神として祭祀した。

 

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あくまで個人の想定範囲内での内容でございますので参考程度で考えて頂ければと思います。(佐々木一族の中から弓折の椙尾大明神の由緒が記載された古文書が発見れれば面白なると思います。)

 

何故、それほどまでに「弓折の椙尾明神」をピックアップするのか…

当社、弓折 椙尾明神は大宜都比売命こと大日孁命である天石門別八倉比賣命と、その次期後継者である豊玉比賣命(壹与)こと、壹与孁神である天石門別豊玉比賣命とを判別する大きな鍵を握っていると思われるからです。(今後の調査に期待ですネ。)

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余談ですが、椙尾神社は椙尾明神。祟り神の一面も持ち合わせているように感じます。佐々木一族を壊滅させた小笠原一族(が祭祀した一宮大明神)を牽制するかの如く、椙尾明神として祭祀し、佐々木一族は興隆の機会を伺っていたのかもしれません。だって場所的に考えると一宮大明神として祭祀しても問題はなかったのですから…

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神殿扁額には「椙尾大明神」が記載されていますが、境内には「椙尾明神」と刻まれた石物が目に付きます。境内に並ぶ五つの祠が佐々木一族の祠… とすれば、明神(祟り神)こそ、この五つの祠で祭祀されている方々なのかもしれませんね。

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考え過ぎ、、、ですかねぇ。。。

吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり。

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石井町諏訪には式内社阿波國名方郡 多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社が鎮座しております。

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御祭神は「建御名方命」です。こちらは過去に紹介させて頂きました。  

 改めて読んでみますと、建御名方神の説明より高志の沼河姫についての説明が主であって建御名方神の祭祀については内容が薄いように感じました。
最近、名方郡派生の阿部氏を阿波女氏(阿波女社祖系)として調査した後、ぐーたら氏より【高志国造氏族の阿閇氏を追え!!】との助言を頂きまして、調べてみればなるほど。とても重要な内容が浮かびあがったのでした。 

「阿府志」によれば高志国造の阿閇氏が名方郡諏訪に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った。
社殿には信濃諏訪郡南方刀美神社(現 諏訪大社)は、奈良時代宝亀10年(779年)、当社から移遷されたものだと伝承されている。つまり元諏訪なのである。

大宜都比売命(大粟姫尊)を祭祀していた阿部氏は阿閇氏に繋がり、阿閇氏は建御名方神も祭祀していた伝承が残されているのです。

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うっかり見落としていましたが大粟神社が鎮座するのは名西郡。本来は阿波国 名東郡名西郡の二郡は、一つの名方郡(なかたのこおり)であり、名方とは「建御 “名方” 命」という神名から取られたとてもありがたい地名であります。

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勿論、地名に神の名を採用するに至って全く所縁のない神を採用するはずはありませんので、ここでいう高志国造の阿閇氏は名方郡の阿部氏と太い繋がりがあると考えても良いのではないでしょうか。

 個人的には上山村(神山町)に居住している阿部氏、名西郡石井町に分布している阿部(阿閇)氏について別系統と捉えていましたが、

阿府志に曰く…

名西郡上浦村(浦方ト云)家有 当家元祖成務天皇朝 高志国造 阿閇臣祖屋主思命三世孫 市命 高志国造定賜 此地ノ郷名也。家始リ二千年ニ及フ「阿閇」ハ「阿部」也。今ハ「阿部」「阿倍」「安部」等同姓也。 

を見れば、同族として考えてまず問題はないでしょうね。
それでは前置き説明はこれぐらいにして話を進めてまいりましょう。 f:id:awa-otoko:20160910104957j:image

阿波国名方郡鎮座の「多祁御奈刀弥神社」社伝によれば、信濃諏訪郡の南方刀美神社は阿波の多祁御奈刀弥神社から、宝亀10年(779年)に移遷されたものとなっています。
諏訪大社は本来、信濃諏訪郡 南方刀美(みなかたとみ)神社という社名であったということ。

f:id:awa-otoko:20160909231355p:image諏訪大社神紋)


また、諏訪大社の神紋「穀(かじ)の木」については、阿波剣山地に自生し、その皮は「大嘗祭」に際し「阿波」から貢進される「木綿(ゆう)」の原料になっていること、長野県では穀の木は育ちにくい木であるということで、こちらも阿波国より移遷された伝承を後押しする事例でございます。
云々...

 

あれ?www 諏訪大社阿波国の繋がりについて既に詳しく調べられてる方がおられました。やはり阿波古代史研究のエース、野良根公さんでした。諏訪大社の元宮は徳島にあった!? ( 徳島県 ) - 空と風 - Yahoo!ブログ

かなり早い時期でこの内容に着目し、考察を交えながら提唱していた野良根公さんはやはり只者ではありません。。。
わたくし如きが考察を語るまでもなく、上記リンクより野良根公さんの説明を一読頂ければ今回テーマの背景が良く理解できることこのうえなしです。ぜひ読んでみてください。

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さて、建御名方神建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)に痛めつけられて名方郡諏訪に移動しました。このような伝説を残し、建御名方神を祭祀した阿閇氏達はどのような過程を経て信濃国諏訪まで辿りついたのでしょうか。。。
それを追うにあたり、建御名方神の伝承と酷似した伝承を持つ神、「伊勢津彦」なる神の存在も見逃せなくなってきたのであります。

伊勢の國の風土記云はく、伊勢と云ふは伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢都彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、昔、石もて城を造りて此に坐しき。ここに、阿倍志彦の神、來奪ひけれど、勝たずして還り却りき。因りて名と爲す。

 伊勢津彦(いせつひこ)

伊勢津彦は、『伊勢国風土記逸文内に記述される国津神で風の神である。風土記逸文によれば、伊勢津彦命は大和の天津神に国土を渡すよう要求され、頑な断っていたものの、最終的に追われ、のちに天皇の詔りによって国津神の神名を取って伊勢国としたと記述される。逸文の一説では別の地名由来が記述されている。

逸文内一説の記述によれば、出雲の神(大国主命)の子である出雲建子命の別名が「伊勢津彦」であり、またの名を「櫛玉命」というと記しており、「伊勢」の由来についても、国号由来とは異なる記述が成されている。
それによれば、命は伊賀国穴石神社(現三重県阿山郡)に石をもって城(キ)を造っていたが、
阿倍志彦(アヘシヒコ)の神(『延喜式神名帳』内の伊賀国阿倍郡の敢国神=アヘノクニツカミと見られる)が城を奪いに来るも、勝てずして帰ったため、それに(石城=イシキ、またはイワキの音が訛って)由来して「伊勢」という名が生まれたと記す。(一部Wikipediaより引用)


伊勢の地名の由来・語源と建御名方神(タケミナカタ)の謎

以前からわたくしが興味深く読ませて頂いていたBlogさんでございます。(最近更新が滞っていてとても残念です… )こちらのBlogさんについても伊勢津彦建御名方神として考察されております。

しかも考察の締めには、"伊勢国 風土記逸文の伊勢の国号にあるストーリーは、建御名方神(=伊勢津彦)の拠点のあった"阿波の伊勢"で起きた出来事だと類推されます。現在の三重の伊勢は、後世に、「伊勢」が他から移された結果だと考えた方が良いと思います。" 

なんて書かれております。こちらも一読頂ければと思います。

という訳で、伊勢国風土記逸文の記すところについて、ここは阿波国に存在する伊勢として考えてみましょう。

それ伊勢の国は天御中主尊の十二世の孫、天日別命の平けしところなり。
神武天皇、天日別命に勅して「天つ方に国ありその国を平けよ。」との勅を奉けて東に入ること数百里、その里の神あり。名を伊勢津彦という。
天日別命は「汝の国を天孫に献上するや」といえば、伊勢津彦も答えて言う。「吾はこの国を治めて居住こと久し、命をば聞かじ」と。
天日別命は怒り、兵を発して、伊勢津彦を戮さんとす。
伊勢津彦は伏して畏み「わが国はことごとく天孫に奉りて吾はこの国におらじ」と申した。
天日別命は重ねて問うに「汝が去るときなにをもって験となさん」と。
それに答えて「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」と申した。
天日別命、兵を整えて窺いおりしに夜中に至るころ、大風四方に起こりて波を打ち揚げ日のごとく光り耀きて陸も海もともに明らかになり遂に波に乗りて東に去りき。
古語に「神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国なりというは蓋しこのいわれなり。天日別命、大和に還り天皇に、この由復命すれば大く歓びて「国は国神の名を取りて伊勢と号くべし」と詔り給う。

「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」そう告げて去った伊勢津彦はその後、信濃国水内郡へ遷ったとも伝わります。また、立ち退かせた天日鷲命は宇治山田付近の長であった大国玉命の娘 弥豆佐々良(みつささら)姫を妻としたと伊勢国 風土記逸文にあります。これが度会(わたらい)氏の祖先であり、度会氏はご存知、豊受神宮(外宮)の禰宜神官家であることは皆の知る通りでございます。

うぅぅ… 建御名方神伊勢津彦は同神と考えられるのですが、双方の伝承の時系列の違い、また取り巻く神々が今ひとつ頭の中でリンクしません。 

考えるに、、、阿波国伊勢で起こった 建御名方神伝承が、のちに伊勢地方に進出した阿閇氏において語られることによって時系列や神名を無視した伝承となって現在に至っているように思います。。。

 

建御名方神建御雷之男神の争い。
伊勢津彦と天日別命・神武天皇との争い。


この二つの争いを同じものとして考えてはいけないのかもしれません。


建御名方神伝承は諏訪大社ルーツ。

伊勢津彦伝承は伊勢神宮 外宮ルーツ。

 

このように阿閇氏と忌部氏、高志国造と阿波国造、建御名方神伊勢津彦)と天日鷲命(天日別命)。これを個々で洗いなおせば阿波国から諏訪大社伊勢神宮 外宮が遷座した秘密が必ず解けるはず。

今回は大社と神宮の秘密を一括りでまとめようと欲張り過ぎました。その結果、結論を突き詰めることができなかったのです。

とりあえず私も、「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」(遠くへ行きたい)心境です。。。

また改めて当テーマはリベンジします。

鬼籠野神社は中一宮大粟神社だったのか?

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中一宮大粟神社とは現在の神山町鬼籠野に鎮座している「鬼籠野神社」のことを指している。と、されております。

 

鬼籠野神社の祭神は大日霊尊・金山彦命・埴安姫命・カグツチ命・ククヌチ命・ミズハノメ命・国常立命の六柱。宝治二年(1248)八月八日神領村大粟神社の分霊を奉祀すると伝えられ、中一宮大明神と称し、神領村に在るを上一宮、名東郡に在るを下一宮と称する故、此の社を中一宮と称したのであろうと推測されています。

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これまで上一宮(大粟神社)、下一宮(一宮神社)については大宜都比売命のカテゴリーで多々ご紹介していますが、この鬼籠野神社についてはほぼ写真の掲載のみで詳しくは紹介しておりません。理由は…

「中一宮」という存在に疑問を感じていたからです。

【個人的に疑問を感じていた部分】


・中一宮と伝わる鬼籠野神社の社位置は上一宮大粟神社の鎮座地からに近過ぎる。


佐那河内村と神山村の境界付近に鎮座している。(当初は両村の塞の神の役割?)


大宜都比売命が祭祀されていないっぽい。(鬼籠野神社には大宜都比売命の気配が感じられない。現に主祭神は大日孁神。※注:あくまで個人的な感覚です。


・一宮神社の遥拝所(祠)は存在するが上一宮大粟神社の遥拝所はない。(一宮神社の遥拝所は後から造った可能性も…)


・鬼籠野村の伝承は様々な伝承が複合され、宗教・祭祀に関して絞り込みにくい。

 

その他にも気になるところは色々ありますが、大まかには上記の内容が気になっておりました。という訳で、古文書の記述から謎解きをしてみようと思います。

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上一宮大粟神社は一宮大明神の本社であり、昔一宮村は以西にて今の神領村を上一宮、鬼籠野村を中一宮、今の一宮村を下一宮として伝えている。阿川村二宮八幡宮にて大般若経の奥書に上一宮長法寺とあり、即ち長法寺廃寺の跡は今の神領村のことを指していた。神領村には長法寺といい小庵があり、廃寺に大なる本尊を安置していたと伝わる。
この上一宮、中一宮両村を合わして神領村といい、慶長御検地帳の記録には「鬼籠野は神領村の小名にて小路野と書せり」とある。其の後神領村と一宮村の境目が明確になり、一宮村赤坂名の上大人という地は鬼籠野村と一宮村両村の境にあたる。また弓折名(鬼籠野 一ノ坂)黒川名に椙尾大明神の社があった。これは「矢野村の椙尾大明神の氏地にて… 」、とあり、現在の天石門別八倉比賣神社の社領が及んでいたと推測される。
よって大粟姫尊の御神領は、神領・鬼籠野・上山左右内の範囲であったと考えられる。

 

はい。こちら大粟姫尊考証を現代訳した内容の一部です。管理人の私が疑問に感じる部分に関係する箇所を抜粋してみました。

 

・もともとは鬼籠野は小路野。神領村の一部だった。


・一宮村と神領村の境に位置する。(佐那河内村は記載なし)


・矢野村 椙尾大明神の社領(椙尾神社)が鬼籠野に鎮座。

 

そもそも同じ神領村だった鬼籠野神社の位置に中一宮を設定した意味を見出せません。祠は存在したのかもしれませんが、本来は遥拝所の役割だったのではないかと推測します。
また、神山神領村の古文書には麻植郡の記載はあっても真横に位置する佐那河内村についての記載はほとんど見られず、宗教・文化において何らかの隔たりがあったのではないかとも推測しています。

 

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気にかかるのは椙尾大明神の存在…

何故に矢野村 椙尾大明神の社域が鬼籠野に存在するのか。。。

鬼籠野神社の祭神が大宜都比売命(大粟姫尊)ではなく、大日孁神という部分でこちらが大きな意味を持っているのかもしれません。
一宮大明神が一宮氏によって下一宮に設定される以前に矢野村 椙尾大明神(現 天石門別八倉比賣神社)として存在しており、その前身は天石門別豊玉比賣神社であると以前に書きました。

 


さらにその元社は…
佐那河内村に鎮座する天岩戸別神社。

現在も阿波古代史を追う方の一部は天岩戸別神社が天石門別豊玉比賣神社の元社であるということに確信を持っている方は少なくなく、そしてそれを伝える佐那河内村の大宮神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)。間違いなく大宮賣、または大日孁神より祭神を変えられております。

 

 

それを継承した(または分祀した)のも矢野村 椙尾大明神こと天石門別八倉比賣神社。いや、鬼籠野村にある椙尾大明神は佐那河内村から直に分祀された社の可能性さえも考えられます。

 

椙尾大明神と鬼籠野神社の祭神が混同されている可能性があり、鬼籠野神社は佐那河内村分祀の天石門別豊玉比賣命ではなかったのか。。。


と、いう訳で長々と個人的見解を述べてしまいましたが、時代が下るに従って祭神の混同や伝承の受け間違いなどを経て、神山村の大宜都比売命祭祀と佐那河内村国府矢野村含む)の豊玉比賣祭祀が混同された状態のまま中一宮大粟神社として祭祀されたのではないでしょうか。

 

f:id:awa-otoko:20160904212552j:image(鬼籠野神社境内に残る一宮大明神の遥拝祠)

 

こればかりは昔の文献から証拠がでるまで確定することはできません。これからの岩戸開きに期待しながらawa-otokoの調査はさらに続くのであります。(笑)